お嬢と呼べ
孫二娘でございま〜す。
人の呼び方ってのは、軽く見えて重いんだよォ。
二娘ちゃん。
二娘。
お嬢。
呼び方が変わると、立つ場所まで変わっちまう。
張青はまだ客でも身内でもない。
けど父ちゃんは、もう店の中の男として見ていた。
嫌なのは、婿だの何だの言われたことじゃない。
アタイが自分で、看板娘の値打ちを口にしちまったことなのさ。
張青が、初めて奥の部屋から出てきたのは、五日目の朝だった。
出てきたと言っても、歩いているとは言えなかった。
壁に手をつき、片足をかばい、息を詰めるようにして戸口まで来る。
たったそれだけで、顔色が悪くなる。
それでも張青は、奥へ戻ろうとはしなかった。
アタイは水桶を持ったまま、足を止める。
「何してんだい?」
張青は戸枠に肩を預けていた。
額には薄く汗が浮いている。
脇腹もまだ痛むはずだった。
「寝てるのに飽きた」
「寝てなァ」
「寝ても聞こえる」
その返しが、少し腹立たしかった。
もう何度も聞いた言葉だったからだ。
張青は店の方を見ようとした。
けれど、客席までは見えない。
奥の戸口から見えるのは、厨房の端と、水場と、父ちゃんの背中くらいだった。
それでも、張青は立っていた。
邪魔な場所ではなかった。
それが嫌だった。
戸口の真ん中に出れば、アタイが水を運ぶ時にぶつかる。
厨房へ入りすぎれば、父ちゃんの手元を邪魔する。
客席に近づけば、客に見える。
張青が立っているのは、そのどれでもない場所だった。
父ちゃんからは見える。
アタイの動きは塞がない。
客席からは、ほとんど見えない。
偶然にしては、位置が良すぎた。
「そこ、邪魔だよォ」
わざとらしく言ってみた。
張青は少しだけ周りを見る。
それから、半歩だけ身を引いた。
「これでいいか」
よくない、と言いたかった。
でも、よくなっていた。
アタイは返事をしない。
水桶を持って通る。
張青は手を出さなかった。
通り道も塞がなかった。
ただ、横目で店を見ている。
父ちゃんが振り返った。
「出てくんなと言ったろ」
「歩けるか試しただけだ」
「歩けてねぇ」
「戸口までは来た」
父ちゃんは鼻を鳴らした。
怒っている顔ではなかった。
それも嫌だった。
張青が勝手に出てきたのに、父ちゃんは本気で追い返さない。
見る。
少し測る。
それだけだった。
店には、朝の客が三人いた。
飯を食う旅人が一人。
酒を頼んだ常連が二人。
旅人は椀だけを見ている。
常連は父ちゃんと軽口を交わしている。
いつもの朝だった。
でも、戸口に張青がいる。
それだけで、店の雰囲気が少し変わって見えた。
奥の男が、境目に立っている。
アタイは湯を足し、椀を下げる。
客は礼を言う。
常連が笑う。
その時、張青が小さく言った。
「そこ、置きっぱなしでいいのか」
アタイは振り返る。
張青は顎で厨房の端を示した。
空の椀が二つ、重なっている。
あとで下げるつもりだったものだ。
「アンタが気にすることじゃないよォ」
「落ちる」
言った途端、常連の肘が卓に当たった。
近くに置いていた皿が少しずれ、厨房の端に響く。
張青の言った椀が、かすかに揺れた。
アタイは手を伸ばして押さえた。
間に合った――
張青は何も言わなかった。
得意そうな顔もしない。
ただ、見ていた。
「……見えてたのかい」
「音だよ」
またそれだった。
「卓が少しずれてた。客が肘を置く癖もある」
「よく見るねェ」
「よく聞いてるだけだ」
アタイは椀を重ね直す。
張青はまだ戸口に立っている。
息は少し荒い。
無理をしているのは分かる。
それなのに、邪魔にはなっていない。
父ちゃんが包丁を置いた。
「そこの椀、こっちへ寄せろ」
一瞬、アタイは父ちゃんを見た。
父ちゃんはアタイを見ていない。
張青を見ている。
張青も、少しだけ父ちゃんを見る。
「俺か」
「他に誰がいる」
「足は使い物にならねぇぞ」
「手はあるだろ」
張青は低く息を吐いた。
それから、近くの椀に手を伸ばす。
無理に歩かない。
届く分だけを取る。
腕を伸ばしすぎず、身体を傾けすぎず、痛む脇腹をかばいながら、椀を寄せる。
遅い。
でも、落とさない。
父ちゃんはそれを見る。
それから、何も言わずに包丁へ戻った。
たったそれだけだった。
椀を寄せただけ……
客に水を出したわけでもない。
酒を運んだわけでもない。
金を受け取ったわけでもない。
それなのに、張青が少しだけ店の中へ入った気がした。
アタイは胸の奥が冷えた。
「無理して倒れたら邪魔だよォ」
「邪魔にならねぇように立ってる」
「そういうことじゃない」
「なら、どういうことだ」
なぜか、返せなかった。
どういうことか、自分でも分からなかった。
張青が邪魔なら、怒ればいい。
客みたいに触ろうとするなら、手を払えばいい。
逃げようとするなら、父ちゃんを呼べばいい。
でも張青は逃げない。
触らない。
騒がない。
ただ、邪魔にならない場所を探して、そこに立つ。
それが嫌だった。
昼前、父ちゃんが井戸水を汲みに裏へ出た。
アタイは厨房に残り、粥の鍋を混ぜていた。
張青はまだ戸口にいた。
さすがに疲れたのか、戸枠に背を預けている。
「座れば」
「座ると立てねぇ」
「じゃあ奥で寝てなァ」
「寝ると聞こえすぎる」
「立ってても聞いてるだろォ」
張青は薄く笑った。
「まあな」
その顔に、少しだけ血の気が戻っていた。
怪我人の顔ではある。
でも、初日の死にかけた男ではなかった。
アタイは鍋から目を逸らさない。
「二娘ちゃん」
その呼び方に、父ちゃんの足音が止まった。
裏口の方で、桶の水が揺れる音がした。
父ちゃんが戻っていた。
「違う」
低い声だった。
張青が振り向く。
父ちゃんは水桶を置く。
床に重い音がした。
「二娘じゃねぇ。お嬢だ」
店の音が、少し止まった気がした。
アタイは鍋を混ぜる手を止める。
張青は黙って父ちゃんを見た。
それから、ほんの少しだけアタイを見る。
「この店じゃ、そう呼べ」
父ちゃんはそれだけ言った。
命令だった。
怒鳴ってはいない。
けれど、逆らう余地はない声だった。
張青は軽く息を吐く。
痛みを逃がす時とは違う息だった。
「……お嬢」
その呼び方が、部屋の中に響く。
客が呼ぶ二娘ちゃんとは違った。
常連が呼ぶ二娘とも違った。
父ちゃんが呼ぶ二娘とも違った。
お嬢――
その言葉で、張青の立つ場所が変わった気がした。
客じゃない。
獲物ではない。
まだ身内でもない。
そう思っていた男が、父ちゃんの側からアタイを呼んだ。
「気持ち悪い呼び方だねェ」
アタイは鍋を混ぜながら言った。
張青は少しだけ困った顔をする。
「俺が決めたわけじゃねぇ」
「じゃあ呼ぶんじゃないよォ」
「呼ばねぇと旦那に睨まれる」
「睨まれなァ」
張青は笑いかけて、脇腹を押さえた。
笑うのも痛いらしい。
父ちゃんはそのやり取りを見ていた。
少しだけ口の端を動かす。
「どうだ、二娘」
嫌な間だった。
アタイは父ちゃんを見なかった。
「何が?」
「こいつ、婿にゃ悪くねぇぞ」
鍋の中で、粥が小さく泡を立てた。
張青の動きが止まる。
アタイも止まった。
婿――
言葉だけが、妙に重く残った。
父ちゃんの声は軽かった。
冗談みたいだった。
けれど、冗談だけではなかった。
父ちゃんは分かっている。
アタイが店に立つと、客が見ることを。
酒が少し余計に減ることを。
頼まなくていい饅頭まで頼む男がいることを。
何も言わずに、水を二杯飲んで帰る男がいることを。
全部、知っている――
その上で、張青を見ている。
耳が利く。
口も回る。
邪魔にならない場所を選ぶ。
痛くても、手だけは使える。
店に置く男として、悪くない。
そう見ている。
「嫌だねェ」
声はすぐに出た。
自分でも少し驚くくらい早かった。
父ちゃんが目を細める。
「何でだ?」
アタイは張青を見なかった。
見ると、何かを間違えそうだった。
「独り身の看板娘でいた方が、客を呼べるだろォ?」
言った瞬間、喉の奥が冷えた。
今のは、誰の言葉だ。
父ちゃんが言いそうなことだった。
常連が酒の席で笑いそうなことだった。
客がアタイを見る時に、思ってそうなことだった。
それを、アタイが先に言った。
父ちゃんは少し黙った。
張青も笑わなかった。
外で、馬の鼻息が聞こえた。
店の中では、粥の泡だけが小さく弾けている。
父ちゃんが、微かに笑った。
「違いねぇ」
その返事が、一番嫌だった。
否定しなかった。
怒りもしなかった。
娘の口から出た言葉を、ただ店の勘定として受け取った。
違いねぇ――
それで済んだ。
張青は戸口に立ったまま、アタイを見ていない。
父ちゃんも、もうそれ以上は言わなかった。
でも、父ちゃんの目が少し変わった気がした。
アタイはそれを見てしまった。
独り身の看板娘。
客を呼べる顔。
男を油断させる声。
水を出す手。
アタイは、それを自分で口にした。
張青を婿にするかどうかの話ではなかった。
張青が嫌だとか、嫌じゃないとか、そういう話でもなかった。
アタイが、自分の使い道を言った。
父ちゃんは、その言葉を拾った。
その先に何があるのか。
まだ言われていない。
棚の奥の紙包みのことも、父ちゃんは何も言っていない。
けれど、分かった気がした。
客を呼べるなら、その客をどうするかも覚えろ。
誰も言っていない。
でも、そう聞こえた。
張青が「お嬢」と呼んだことより……
父ちゃんが「婿」と言ったことより……
アタイの口から、看板娘の理屈が出たこと。
それが、一番嫌だった――
孫二娘でございますよォ。
お嬢――
たったそれだけで、張青の立つ場所が変わった。
客じゃない。
獲物でもない。
まだ身内でもない。
なのに父ちゃんは、もう店の中の男として見ていた。
婿の話なんか、笑って流せばよかったんだろうけどねェ。
嫌だったのは、そこじゃない。
独り身の看板娘でいた方が客を呼べる。
その理屈を、アタイの口が先に出しちまったことなのさ。




