親分より親分
孫二娘でございま〜す。
張青が十字坡へ来て三日。
まだまともに歩けないくせに、奥で寝ながら客の足音や椀の置き方まで聞き分け始めやがった。
適応が早いんだよォ。
アタイなんて散々怖がって、嫌がって、それでも少しずつ覚えてきたってのに、この男は生き残るためなら知らない場所の規則まで拾おうとする。
そこへ今日は姉ちゃんが帰ってきた。
父ちゃんが「使える」と判断した男を、姉ちゃんが見逃すわけがない。
さて――
張青はまだ十字坡に残るなんて一言も言ってないんだけど、親分より親分らしい姉ちゃんの前で、その主張はどこまで通るんだろうねェ?
張青が十字坡へ来て、三日が経った。
逃げなかった、というより、まだ逃げられる身体ではない。
脇腹の傷は塞がりきっておらず、足首も腫れたままで、立てたとしても戸口まで行くのがやっとだろう。
それでも、逃げたいのに逃げられない顔には見えなかった。
怯えて父ちゃんの足音に身を固くするなら、まだ客に近い。
水と粥を出されても何が起きているのか分からずにいるなら、まだ外の人間だと思えた。
でも張青は違った。
奥の部屋に寝かされたまま、店の音を聞いている。
朝、粥を持っていくと、張青は壁へ背を預けていた。
顔色はまだ悪く、唇も乾いているのに、目だけは戸口から水場、厨房、最後にアタイの手へと動いた。
「粥だよォ」
器を置くと、張青は小さく頷いた。
「助かる」
毎回、礼を言う。
軽いけれど媚びている感じはなく、そのせいで少し調子が狂う。
「別に……父ちゃんが持ってけって言っただけだよォ?」
「それでも持ってきたのは二娘ちゃんだろ」
そう返されると、妙に返事に困る。
客なら流せるし、常連なら軽口で返せる。
旅人なら、そのまま次の仕事へ移ればいい。
でも張青は客でも獲物でもなく、まだ身内でもない。
十字坡の分類表に、妙な空欄ができたみたいだった。
店の方で椀が鳴った。
朝飯を食べている常連が二人、旅人が一人。
父ちゃんが湯を注ぐ音も聞こえる。
その時、張青が粥を口へ運びながら言った。
「今の客、長居しねぇな」
アタイの足が止まる。
「……何が?」
「椀の置き方が軽い。腹を満たしたら出る客だろ」
「見えてないだろォ」
「見えちゃいねぇよ。聞こえるだけだ」
その言い方が嫌だった。
聞こえるだけと言いながら、もう分けている。
飯だけの客、長居しない客、店そのものには興味のない客。
それはアタイが嫌々覚えて、気づけば音だけでも分かるようになってしまったことだった。
「アンタ、何聞いてるんだい?」
「聞こえるんだよ」
「聞くなよォ」
言ってから自分でも無茶だと思った。
聞こえるものを聞くななんて、できるわけがない。
張青は少し笑って、すぐ脇腹を押さえる。
「聞かねぇで済む店じゃねぇだろ、ここ」
喉の奥が詰まった。
その通りだった。
十字坡では床板の鳴り方も、盃の置かれ方も、父ちゃんが客へ返す声も、常連が笑う間も、全部が何かを教えてくる。
聞きたくなくても耳が拾い、拾ったものは残っていく。
「知ったような口きくねェ?」
声を抑えて言うと、張青は器を置いた。
「知っちゃいねぇよ。だから聞いてる」
その答えが、また嫌だった。
知っているから聞くんじゃない。
知らないから、生きるために聞いている。
外から戸の開く音がして、聞き慣れた声が飛んできた。
「父ちゃん、来たよ!」
アタイは思わず振り返った。
「姉ちゃん?」
数日おきに店を手伝いに来る姉ちゃんだった。
嫁ぎ先から戻ってきたくせに、挨拶より先に酒甕を覗き、積んである菜を確認している。
「二娘、水の減りが早いね。昨日、客多かった?」
「昼からそこそこ」
「父ちゃん、米は?」
「裏だ」
「前もそう言って足りなかったろ?」
「今日はある!」
朝からいつもの調子だった。
張青が少し目を細める。
「……姉ちゃん?」
「アタイの姉ちゃん。数日おきに手伝いに来るんだよォ」
「嫁に行ってるって聞いたぞ?」
「なのに父ちゃんより店の在庫を把握してるんだよねェ」
「何だ、その家?」
アタイも知りたい。
ほどなく姉ちゃんが奥へ入ってきた。手には干した布を抱えている。
そして張青を見た。
一秒。
本当に、それくらいだった。
傷、腫れた足、食べかけの粥、壁へ預けた背中、戸口を見る目まで順に眺めると、姉ちゃんはアタイへ聞いた。
「これが父ちゃんの拾った男?」
「物みたいに言わないで!」
張青も眉を上げた。
「俺も今それ言おうと思った」
姉ちゃんは気にしない。
「張青だっけ?」
「そうだ」
「字は?」
張青の眉が寄った。
「読める」
「勘定は?」
「多少なら」
「馬は?」
「乗れる」
アタイは頭を抱えた。
「姉ちゃん、父ちゃんと質問が同じ!」
「ああ、やっぱりそこは聞いたか」
「何で納得するの!?」
姉ちゃんは張青の前へしゃがみ、脇腹へ巻かれた布を見た。
「傷はまだかかるね。足も駄目。しばらく力仕事は無理だけど、帳場なら座ってできるか」
張青が器を持ったまま固まる。
「待て……俺、ここで働くって言った覚えはないぞ?」
「飯食った?」
「……食った」
「三日?」
「三日」
「寝床も借りてる?」
「借りてる」
「じゃあ、その分くらい働きな」
「三日飯食ったら手下になる決まりなのか!?」
「姉ちゃん、その採用方法ブラックすぎるんだけど!」
思わず突っ込むと、姉ちゃんが不思議そうにこちらを見る。
「何だい、ぶらっくって」
「姉ちゃんは知らなくていい!」
張青が笑った。
「二娘ちゃん、苦労してんな」
姉ちゃんの目が動いた。
「今、何て呼んだ?」
張青が止まる。
「……二娘ちゃん?」
「気安いね」
「そこ!?」
アタイまで声を上げた。
姉ちゃんは怒鳴りもしない。
ただ腕を組み、当然のことを確認するみたいに張青を見る。
「父ちゃんに拾われて三日の新入りが、親分の娘にずいぶん馴れ馴れしいじゃないか?」
「俺、まだ新入りになるとも言ってねぇぞ」
「三日飯食って寝てるだろ?」
「またその理屈か!」
「それに本人が好きに呼べって言ったんだ!」
張青がアタイを指した。
姉ちゃんもこちらを見る。
「二娘、言ったのかい?」
「言ったけど、何でアタイまで怒られてんの!?」
「別に怒ってないよ。立場を教えてるだけさ」
それが一番怖い。
姉ちゃんは妹へ近づく男を警戒しているわけじゃない。
本当に、父ちゃんが親分で、アタイが親分の娘、張青は拾われたばかりの手下候補だと思っているだけだった。
組織図が完全に山賊なんだよォ……
姉ちゃんは立ち上がると、張青の器を覗いた。
「粥、食えるなら全部食べな。熱が出たら言いなよ」
「……あんた、親父さんより親分っぽくねぇか?」
空気が止まった。
アタイは目を閉じた。
言った……
この男、三日目にして言ってはならないことを言った。
姉ちゃんは笑った。
「何か言ったかい?」
「何でもない」
学習が早い。
その時、表で新しい客が二人入ってきた。
足音が重なり、椅子が引かれ、酒を頼む声がする。
張青の目が戸へ向く。
姉ちゃんはそれを見逃さなかった。
「耳がいいのかい?」
「まあな」
「何が分かる?」
いきなり試験が始まった。
張青は一瞬だけ姉ちゃんを見る。
「……あの二人、連れじゃねぇ」
アタイの背中が少し冷える。
「何で?」
「入る足が合ってねぇし、片方だけ先に卓を選んだ。もう片方は座る前に少し止まった」
姉ちゃんは何も言わない。
張青は続ける。
「金を持ってるのは先に座った方だ。もう一人は、それを知ってる」
「半分当たり」
姉ちゃんが即座に返した。
張青の眉が動く。
「半分?」
「後から入った方、右の懐に刃物がある。戸をくぐった時から何度もそこへ手をやってるよ」
張青は黙った。
アタイも黙る。
見えている姉ちゃんと、聞いている張青。
なのに姉ちゃんは勝ち誇るでもなく、ただ仕事の確認みたいに頷いた。
「耳は使えるね」
「姉ちゃんまで『使える』って言った!」
「使えるものを使えるって言って何が悪いんだい?」
「人間なんだよォ!」
「知ってるよ」
知ってて言ってるから困る。
姉ちゃんはもう表の客へ意識を戻している。
「二娘、酒はあたいが出す。あんたは水を足して。父ちゃんには奥の肉を先に切らせな」
「はいよォ」
返事をしたあとで気づいた。
父ちゃんへまで指示している。
しかも表へ戻ると、父ちゃんも「分かった」と普通に従った。
嫁に出た娘が数日おきに帰ってきて、在庫を見て、客を見て、父ちゃんへ仕事を振る。
前に父ちゃんが言っていた。
姉ちゃんが嫁に行っていなければ、店を任せていた。
冗談じゃなかったんだ。
昼を過ぎる頃には客が増えたが、店は妙に滑らかに回っていた。
姉ちゃんが卓の空きを見ながら客を振り分け、父ちゃんを厨房へ押し込み、アタイには水と酒を任せる。
その間に一度だけ奥へ行くと、張青は目を閉じたまま聞いていた。
「今の二人、まだ揉めてねぇな」
「アンタ、本当に全部聞いてるねェ?」
「聞こえるからな」
「姉ちゃんに見つかると仕事増やされるよォ?」
「もう増やされた気がする……」
そこへ当の姉ちゃんが顔を出した。
「張青、字が読めるなら明日から古い帳面見な」
「ほら来た!」
「まだ怪我人だぞ?」
「座ってできるだろ」
「姉ちゃん、容赦ない!」
「無理なら寝てな。できるならやればいい。それだけだよ」
張青は少し黙ったあと、妙に素直に聞いた。
「帳面、どこにある?」
アタイは張青を見る。
姉ちゃんも見た。
それから姉ちゃんは、ほんの少しだけ笑った。
「二娘、あとで場所教えてやりな」
「もう採用決定してるじゃん!」
「働くって言ってないぞ!」
「帳面の場所聞いた奴が何言ってんの!」
張青が口を閉じた。
夕方近くになると、張青は熱を出した。
さすがに帳面どころではなく、父ちゃんが傷を見て薬草を当てる。
姉ちゃんも額へ手を当てると、「今日は寝かせときな」と言った。
今日だけなんだ。
明日は使う気なんだ。
張青は熱に浮かされながらも、外の音へ耳を向けている。
「……さっきの二人、片方だけ帰ったな」
父ちゃんの手が一瞬止まる。
「寝てろ」
「当たりか?」
「寝てろと言った」
それ以上、張青は聞かなかった。
聞かない方がいいところまで、もう分かり始めている。
姉ちゃんはその様子を見てから父ちゃんへ言った。
「治ったら帳場から使えるね。耳もいいし、客も見られる」
「そのつもりだ」
「二娘が仕入れに出る時も、こいつ連れてけばいい」
張青が目を開いた。
「待て……何で俺の配置まで決まってんだ?」
アタイは思わず肩をすくめる。
「諦めなァ。姉ちゃんが来た時点で本当の面接は終わったよォ」
「何だ、その面接ってのは!?」
姉ちゃんは笑いながら立ち上がった。
「嫌なら傷が治ってから出てけばいいさ」
また出口が崖だった。
その日の夕方、姉ちゃんは嫁ぎ先へ帰った。
張青は結局、どこにも行かなかった。
行けなかっただけなのかもしれない。
それでも父ちゃんは「使える」と言い、姉ちゃんも同じ答えを出した。
嫌なことに、アタイまでその理由を理解している。
張青本人だけが、ここに残るとは一度も言っていない。
なのに三人とも、もうこいつが十字坡にいる先のことを考えていた。
そして一番怖かったのは――その未来が、アタイにも妙に自然に見えてしまったことだった。
孫大娘と孫二娘、二人合わせて孫姉妹で〜す!
「姉ちゃん、張青に仕事を振るの早すぎない?」
「字が読めて勘定もできて、耳までいいんだろ。寝かせとく方がもったいないよ」
「まだ熱出してる怪我人だからね!?」
しかも本人は一度も「ここで働く」なんて言ってない。
「嫌なら治ってから出てけばいいさ」
「その出口、毎回崖なんだよォ!」
「ちゃんと自由に選ばせてるだろ?」
「選択肢の片方が野垂れ死になの!」
おまけにアタイとの仕入れまで勝手に決められた。
「使える手は使わないとね」
「妹まで店の備品みたいに言うな!」
さて――
張青は傷が治った時、本当に十字坡を出ていくんだろうかねェ?
「出ていくなら、その前に帳面は片づけてもらうよ」
「もう辞めさせる気ないだろ!」




