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蒙汗薬

孫二娘でございま〜す。

棚の奥にあった紙包み。

名前を知らないうちは、見ないふりもできたんだよォ。

けど、父ちゃんが教えた。

蒙汗薬――

使い道も、重さも、置き場所も知っちまった。

怖いのは、薬そのものじゃない。

次に客を見た時、使う相手かどうかを考えちまったことなのさ。

翌朝、店を開ける前に父ちゃんがアタイを呼んだ。

張青は昨日と同じ戸口にいた。

立つのはまだ辛いらしく、低い台へ腰を下ろしている。

傷の具合は良くなっているようだったが、顔には疲れが残っていた。

父ちゃんは何も言わず、厨房の棚へ手を伸ばした。

酒甕の横。

乾いた布巾の下。

見覚えのある紙包みが出てきた。

何度か見ている。

父ちゃんが触るなと言った物。

客の声が鈍る前に、棚から消えていた物。

アタイは足を止めた。

父ちゃんは紙包みを卓へ置いた。

「二娘」

返事をしたくなかった。

昨日の言葉が戻ってくる。

独り身の看板娘でいた方が、客を呼べる。

父ちゃんは、あれを聞いていた。

笑って、違いねぇと言った。

今、紙包みを出した理由も、たぶんそこにある。

「昨日、自分で言ったな」

やっぱりだった。

「何をさ」

「客を呼べると」

「そんな言い方はしてないよォ」

「同じだ」

父ちゃんは包みを指先で押す。

「店に立つ意味が分かってきたなら、これも覚えろ」

アタイは卓へ近づかなかった。

張青は黙っている。

目だけが、父ちゃんの手と紙包みを見ていた。

「何なんだい、それ」

父ちゃんは短く答えた。

「蒙汗薬だ」

聞いたことのない名前だった。

「もう……何?」

「蒙汗薬」

父ちゃんは、今度は少しゆっくり言った。

アタイは口の中で繰り返さなかった。

名前を覚えたら、何かが決まってしまう気がした。

「何に使うのさ」

父ちゃんがアタイを見る。

「酒に入れる」

それだけでは分からない。

「入れたら?」

「身体が利かなくなる」

胸の奥がザラつく。

声が鈍る。

盃を置く音が重くなる。

椅子が軋む。

自分の足で歩けなくなる。

今まで聞いてきた音が、紙包みへつながった。

「あれは……これだったの」

父ちゃんは答えなかった。

答えなくても分かった。

身なりの良い客。

アタイの手首へ指を伸ばした男。

奥へ運ばれていった客たち。

酒だけで、ああなったわけではなかった。

この包みがあった。

「アタイに使わせる気?」

「今日は使わねぇ」

今日は――

使わせないとは言わなかった。

アタイは紙包みを見る。

薄汚れた紙に、何度も開いた跡がある。

父ちゃんにとっては、珍しい物ではないのだろう。

包丁や縄と同じように、必要になれば出す物。

その扱い方が気味が悪かった。

「持て」

「嫌だねェ」

「中を開けろとは言ってねぇ」

「持ってどうするのさ」

「重さを覚える」

紙包みは小さい。

見るからに軽そうだった。

それでも手が出なかった。

父ちゃんは待っている。

急かさない。

怒鳴りもしない。

断れば済むような待ち方ではなかった。

「嫌だと言ってるだろォ」

「嫌でも、店に立つなら知っておけ」

「看板娘ってのは、客に酒を出すだけじゃないのかい」

父ちゃんの目が細くなった。

「酒を出すだけなら、誰でもできる」

その言葉が刺さった。

昨日、確かにアタイは、自分の顔が客を呼べると言った。

独り身の方が店に得だと、父ちゃんへ返した。

父ちゃんは、それを看板娘としての覚悟だと思ったのかもしれない。

客を呼び、気を緩ませ、酒を飲ませる。

その先まで、覚える気があると。

違う――

張青を婿にすると言われたくなかっただけだ。

勝手に決められるのが嫌だった。

だから、店の理屈で押し返した。

それだけだったはずなのに。

アタイの言葉は、もう父ちゃんの中で別の意味になっている。

「誰にでも使う物じゃねぇ」

父ちゃんが言った。

「腹を空かせてるだけの奴には使わねぇ。酒癖が悪いだけの客にもだ」

「じゃあ、誰に使うのさ」

「こっちを獲物にしてる奴だ」

前にも聞いた言葉だった。

店の中を測る客。

父ちゃんの位置を見る客。

アタイの手や袖へ目をやる客。

夜に戻るつもりの者。

仲間を呼ぶ者。

帰さなくていい客。

今度は、その客をどう沈めるのかを教えようとしている。

「間違えたら?」

父ちゃんは紙包みへ視線を落とした。

「取り返しがつかねぇ」

声が低くなった。

「薬を使うことより、相手を間違えるな」

人を動けなくする道具を前にして、父ちゃんはそこを一番に言った。

薬が悪いとは言わない。

使うなとも言わない。

誰に使うかだけを間違えるな。

十字坡の決まりだった。

アタイは張青を見た。

張青は相変わらず黙っている。

「アンタは何とも思わないのかい」

急に聞かれて、張青は少し眉を上げた。

「俺に聞くのか」

「見てるだけだからさ」

張青は紙包みを見た。

「思うことはある」

「なら言いなァ」

「俺が口を出して、お嬢が楽になる話でもねぇだろ」

逃げた言い方ではなかった。

張青は父ちゃんの前で味方をする気も、アタイを説得する気もない。

自分の立場を分かっている。

それが腹立たしかった。

父ちゃんが紙包みを、アタイの方へ滑らせた。

「持て」

紙が卓を擦る音がした。

指先のすぐそばで止まる。

アタイは手を握ったまま動けなかった。

父ちゃんは待っている。

張青も口を閉じている。

誰もアタイの手を掴まない。

無理やり持たせる者はいない。

それなのに、逃げ道がなかった。

ここで触らなければ、何も知らないまま店に立つことになる。

客へ酒を出しながら、その酒に何が入るのかも知らずにいる。

前なら、それでよかった。

見ない方が楽だった。

知らない顔をしていれば、店は回った。

でも、今は違う。

名前を聞いた。

使い道も聞いた。

もう、知らない物には戻せない。

アタイは指を伸ばした。

紙包みに触れる。

ざらついた紙だった。

冷たくも、熱くもない。

持ってみると、あまりにも軽かった。

人ひとりを立てなくする物が、こんな重さでいいのかと思った。

「……これだけ?」

父ちゃんが頷く。

「軽いから怖ぇんだ」

アタイは掌の上を見る。

客の声が崩れる。

手から盃が落ちる。

常連が肩を支える。

裏の戸が開く。

今まで聞いた音が、掌へ乗っている。

「中は?」

「今日は見なくていい」

また、今日は……

アタイは顔を上げた。

「いつ見せるのさ」

聞いてから、息が止まった。

見る気なんかない。

使う気もない。

なのに、いつ、と聞いた。

父ちゃんは表情を変えなかった。

「客を見分けられるようになったらだ」

「もう見分けてるだろォ」

言い返した途端、父ちゃんの目が動いた。

張青もアタイを見る。

自分の言葉に、自分で気付く。

もう見分けている。

帰す客。

金を落とす客。

帰さなくていい客。

アタイはそれを覚えた。

父ちゃんに教えられただけではない。

自分で客を見て、考えている。

父ちゃんは小さく笑った。

「なら、遠くねぇな」

腹の底が冷えた。

今の言葉で、アタイが自分から近づいた。

蒙汗薬へ――

「戻せ」

父ちゃんが棚を示す。

「父ちゃんが戻しなよォ」

「お前が持った物だ」

紙包みを握る指に力が入る。

棚まで、ほんの数歩だった。

酒甕の横へ行き、乾いた布巾を持ち上げる。

空いた場所がある。

何度も見ていた場所。

見ないようにしていた場所。

そこへ、紙包みを戻す。

布巾をかけると、何も見えなくなった。

けれど、もう場所だけではなかった。

名前を知っている。

手触りを知っている。

掌に乗る重さも知った。

父ちゃんが後ろで言う。

「覚えたか?」

答えたくなかった。

「二娘、言ってみろ」

「……蒙汗薬」

アタイは、小さく声に出した。

棚の中の物へ、名前がついた。

同時に、今まで聞いてきた音にも名前がついた気がした。

張青が戸口から言う。

「お嬢」

振り返る。

「何だい」

「顔に出てる」

その言葉を聞いた瞬間、頬が強張っていることに気付いた。

父ちゃんから何度も言われた。

顔に出すな。

アタイは息を吐く。

口元の力を抜く。

何も知らない時に作っていた顔を、また作る。

外で戸が鳴った。

最初の客が来たらしい。

父ちゃんが表へ出る。

「入んな」

いつもの店主の声だった。

アタイは水桶を持った。

張青の前を通る。

「お嬢」

また呼ばれた。

「今度は何さ」

「無理に笑うと、余計に分かるぞ」

アタイは張青を睨んだ。

「黙ってなァ」

「はいよ」

張青はそれ以上言わなかった。

アタイは客席へ出る。

旅人が一人、戸口に立っている。

荷は小さく、顔は疲れている。

目は椀と釜を見ていた。

腹を空かせているだけの客。

そう判断した。

判断してしまった。

「座りなよォ」

声は普通に出た。

客が腰を下ろす。

アタイは水を用意する。

棚の奥は見なかった。

それでも、どこに蒙汗薬があるのか、もう手を伸ばせるほど分かっていた。

まだ使わない。

頭に浮かんだ言葉に、指が止まる。

使わない、ではなかった。

まだ――

自分がそう考えたことだけは、誰にも顔に出せなかった。

孫二娘でございますよォ。

蒙汗薬なんて、知らないままでいたかったねェ。

けど一度、名前も重さも知っちまえば、棚へ戻しただけじゃ終わらない。

客を見る目まで変わる。

腹を空かせただけの客か。

帰していい客か。

そうやって分け始めた時点で、紙包みはもう、アタイの中に入っちまったのさ。

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