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独り身の価値

孫二娘でございま〜す。


張青が十字坡へ来て五日。

まだまともに歩けないくせに、とうとう奥の部屋から這い出てきやがった。


しかも今日は姉ちゃんまで二日続けて登場。

昨日は仕事を決められ、今日は呼び方まで決められて、気づけば張青はアタイを「二娘お嬢」、姉ちゃんを「大娘お嬢」と呼ぶことになった。


本人、まだここで働くとも言ってないんだけどねェ。


さて――

人の立場って、本人が決めるものだと思ってたんだけど、周りが先に役割を作っちまったら、どっちが本物になるんだろうねェ?


……まあ、そのあと父ちゃんが、もっと余計なことを言い出すんだけどさ。

張青が、初めて奥の部屋から出てきたのは、十字坡へ来て五日目の朝だった。

出てきたと言っても、歩いているとは言い難い。

壁に手をつき、腫れた片足を庇いながら、息を詰めるようにして戸口まで来ただけで顔色が悪くなっている。

それでも張青は、奥へ戻ろうとはしなかった。

アタイは水桶を持ったまま足を止めた。

「何してんだい?」

張青は戸枠へ肩を預け、額に浮いた汗を袖で拭った。

「寝てるのに飽きた」

「寝てなァ」

「寝ても聞こえる」

「だからって出てくる理由にはならないよォ」

何度目だ、その理屈。

張青は返事をせず、店の方を見ようとした。

奥の戸口から客席までは見えない。

見えるのは厨房の端と水場、それから包丁を動かしている父ちゃんの背中くらいだ。

それなのに、張青が立った場所が妙に良かった。

戸口の真ん中なら、アタイが水を運ぶたび邪魔になる。

厨房へ入りすぎれば父ちゃんの仕事を塞ぎ、客席側へ出れば客から見える。

張青は、そのどれにも当たらない場所にいた。

父ちゃんからは見えるのに、アタイの通り道を塞がず、客からもほとんど見えない。

偶然にしては出来すぎている。

「そこ、邪魔だよォ」

わざと言ってみた。

張青は周囲を見てから半歩だけ下がる。

「これでいいか?」

よくない、と言いたかった。

でも本当によくなった。

「……腹立つなァ」

「何でだよ」

「こっちの話」

水桶を抱えて横を通ると、張青は手を出さず、身体も寄せない。

ただ、アタイの向こうにある店の気配を目と耳で拾っている。

父ちゃんが振り返った。

「出てくんなと言ったろ」

「歩けるか試しただけだ」

「歩けてねぇ」

「戸口までは来た」

「それを世間じゃ歩けねぇって言うんだ」

正論だった。

でも父ちゃんは張青を奥へ戻さなかった。

しばらく立ち方を見ただけで、また包丁へ戻る。

それも嫌だった。

店には朝の客が三人いる。

飯を食う旅人が一人と、酒を頼んだ常連が二人。

いつもの朝なのに、奥と店の境目へ張青が立っただけで、何かが少し変わったように見えた。

アタイが旅人へ湯を足して戻ってくると、張青が厨房の端を顎で示した。

「そこ、置いといていいのか?」

空の椀が二つ重なっている。

「アンタが気にすることじゃないよォ」

「落ちるぞ」

言った直後、常連が大笑いして肘を卓へぶつけた。

卓の端にあった皿がずれ、その振動が床板を伝ったらしく、積んだ椀が小さく揺れる。

アタイは慌てて押さえた。

間に合った。

振り返ると、張青は得意そうな顔すらしていない。

「……見えてたのかい?」

「音だよ。さっきから卓が少し動いてたし、あの客は笑うたび肘を置く」

「よく見てるねェ」

「よく聞いてるだけだ」

またそれだ。

父ちゃんが包丁を置いた。

「張青、そこの椀寄せろ」

アタイは父ちゃんを見る。

張青も自分を指した。

「俺か?」

「他に誰がいる」

「足はまだ使い物にならねぇぞ」

「手はあるだろ」

ひどい……

でも昨日、姉ちゃんもほぼ同じことを言っていた。

この家族、怪我人に対する労働倫理がおかしい。

張青は諦めたように息を吐き、届く範囲の椀だけを手前へ寄せた。

脇腹を庇い、身体を無理に伸ばさず、それでも落とさない。

遅いけれど、丁寧だった。

父ちゃんは一度見ただけで、何も言わず仕事へ戻る。

本当に、たったそれだけだった。

椀を寄せただけ。

それなのに、昨日まで奥で寝ていた男が、店の仕事へ片足を入れたように見えた。

いや、片足はまだ使えないんだけど……

比喩まで怪我人に喧嘩を売り始めた。

「無理して倒れたら邪魔だよォ」

「邪魔にならねぇ場所に立ってる」

「そういう意味じゃない」

「じゃあ、どういう意味だ?」

返せなかった。

張青が邪魔なら追い払えばいい。

客みたいにアタイへ手を出すなら払えばいいし、逃げるなら父ちゃんを呼べる。

でも張青は逃げず、触らず、騒がない。

ただ、邪魔にならない位置を探して、そこへ自分を置こうとしている。

そのやり方が、十字坡に合いすぎていた。

昼前になって、戸口から聞き慣れた声がした。

「父ちゃん、今日も来たよ!」

アタイは思わず顔を上げる。

「姉ちゃん!? 昨日も来たじゃん!」

姉ちゃんは大きな包みを抱えて入ってきた。

「昨日持って帰った布、乾いたから持ってきたんだよ。ついでに米も見てく」

「ついでの範囲が店主なんだよォ!」

「父ちゃんに任せると心配だからね」

「俺は聞こえてるぞ!」

父ちゃんが厨房から怒鳴る。

「聞こえるように言ってるんだよ」

相変わらず強い……

張青が小さく呟いた。

「やっぱり親分より親分だな」

「聞こえてるよ」

「この家、耳がいい奴ばっかりか?」

昨日学習したはずなのに、また言った。

姉ちゃんは張青が戸口へ出ているのを見ると、目を細めた。

「もう出てきたのかい」

「寝てるのに飽きた」

「なら使えるね」

「昨日からそればっかりだな!」

姉ちゃんは笑いながら張青の立ち位置を確認し、それからアタイを見る。

「二娘、この男、まだ二娘ちゃんって呼んでるの?」

「そうだけど?」

「それ、客みたいで紛らわしいね」

張青が嫌な予感のする顔をした。

アタイにもした。

姉ちゃんが何かを整理しようとする時は、大抵、本人以外に拒否権がない。

「父ちゃんの下で働くなら、呼び方も決めといた方がいいだろ」

「待て。俺はまだ父ちゃんの下で働くとも――」

「昨日、帳面の場所聞いたじゃないか」

「それとこれとは別だ!」

「じゃあ帳面見ないのかい?」

張青が黙った。

昨日と同じ負け方をしている。

姉ちゃんは満足そうに頷いた。

「あたいは大娘お嬢、こっちは二娘お嬢。それでいいよ」

アタイは目を瞬いた。

「姉ちゃん、自分にもお嬢つけるの!?」

「父ちゃんの娘なんだから間違ってないだろ」

「嫁に行ったよね!?」

「娘じゃなくなった覚えはないね」

反論できない。

張青が疲れた顔で聞いた。

「何で俺の呼び方まで、あんたが決めるんだ?」

「店の中で誰を呼んでるのか分からないと面倒だからさ。それに新入りが親分の娘を馴れ馴れしく呼ぶのも締まらない」

「まだ新入りじゃ――」

「帳面」

「分かったよ!」

早い。

この男、姉ちゃん相手だと本当に学習が早い。

張青はアタイを見る。

「……二娘お嬢」

背中がむず痒くなった。

「気持ち悪っ!」

「俺が決めたんじゃねぇ!」

「もっと普通に呼びなよォ!」

「普通に呼んだら大娘お嬢に怒られたんだよ!」

姉ちゃんが腕を組む。

「怒ってないよ。立場を教えただけさ」

昨日と同じだ。

本人に怒っている自覚がないから一番強い。

「じゃあ、大娘お嬢」

「何だい?」

姉ちゃんだけ自然に受け入れた。

「何で姉ちゃんは馴染むの早いの!?」

「似合ってるだろ?」

確かに似合ってしまうのが腹立たしい。

そのまま姉ちゃんは店へ入り、昨日と同じように酒の残りを見て、客の数を確認し、父ちゃんへ仕込みの順番を言い始めた。

張青が小声で言う。

「やっぱり大娘お嬢の方が親分じゃねぇか」

「本人の前で三回目言ってみな。たぶん傷が一個増えるよォ」

「二娘お嬢も怖ぇな」

「それやめろ!」

昼を過ぎる頃には、張青も壁際へ腰を下ろし、届く椀を寄せたり、空いた器をまとめたりするようになっていた。

姉ちゃんが仕事を振っても父ちゃんは止めず、張青も文句を言いながら従っている。

そのうちアタイまで、空いた椀を何となく張青の届く場所へ置いていた。

気づいた時には遅かった。

これも役割形成なんだろうか?

最初はただの怪我人だったのに、父ちゃんが拾った男になり、昨日には使えそうな新入りへ変わって、今日はもうアタイを「二娘お嬢」と呼ぶ側にいる。

呼び名を決めただけなのに、位置まで決まった気がする。

社会心理学では、名称や役割が人の認知を整理することは珍しくない。

理屈では分かってるからこそ、余計に嫌なんだよォ。

夕方前、客足が途切れた。

姉ちゃんが帳場を見ている横で、父ちゃんが張青を眺めていた。

「なあ、二娘」

「何?」

「こいつ、婿にゃ悪くねぇぞ」

時間が止まったように感じた。

張青も、椀へ伸ばしていた手を動かさなくなった。

姉ちゃんだけが帳面から顔を上げる。

「急だね、父ちゃん」

「耳が利く。字も読める。口も回る。店に置くには悪くねぇ」

完全に人材配置の話だった。

恋愛の匂いが一切しない婿選びってある?

「待て親父さん。俺は今朝ようやく戸口まで来た怪我人だぞ!」

「だから治ってからだ」

「そこじゃねぇ!」

アタイもすぐ口を開いた。

「嫌だねェ」

父ちゃんが眉を上げる。

「何でだ?」

張青がどうこうではない。

そこは一瞬も考えなかった。

代わりに出てきたのは、もっと嫌な答えだった。

「独り身の看板娘でいた方が、客を呼べるだろォ?」

言ってから、自分の口を塞ぎたくなった。

父ちゃんが黙る。

姉ちゃんも、今度は笑わなかった。

張青もこちらを見ない。

客はアタイを見る。

酒を余計に頼む男がいる。

用もないのに話しかける男もいる。

独り身なら、自分にも何かあるかもしれないと思う客だっている。

全部知っていた。

元々、男の視線には慣れている。

現代では男子学生が最前列へ集まる理由だって分かっていたし、自分がどう見られる女なのか知らないほど鈍くもなかった。

でも、今のアタイは教授じゃない。

十字坡の看板娘だ。

そして自分から、その価値を勘定に入れた。

父ちゃんが少しして笑った。

「違いねぇ」

否定しなかった。

それが何より嫌だった。

姉ちゃんが帳面を閉じる。

「まあ、二娘が嫌なら婿の話は終わりだね」

「大娘お嬢、そこだけはまともなんだな」

張青が言う。

「そこだけって何だい?」

「何でもない」

今日四回目の学習だった。

アタイは笑えなかった。

張青を婿にしたくないことが怖いんじゃない。

父ちゃんがそんな話をしたことでもない。

アタイ自身が、自分の顔と独り身であることを、店の利益として即座に計算した。

誰にも教えられていない。

父ちゃんですら言っていない。

なのに答えが出た。

アタイは自分で、自分の使い道を考えた。

棚の奥には、まだ触るなと言われた紙包みがある。

アタイには客を呼べる看板娘としての顔があり、その客を見る目も、少しずつ戻っている力もある。

何より、この店が呼び込んだ客をどうする場所なのかまで、もう知っている。

父ちゃんは何も言わなかった。

姉ちゃんも何も言わない。

張青だけが、さっき決められたばかりの呼び方でアタイを呼んだ。

「……二娘お嬢」

アタイは返事をしなかった。

その呼び名よりも、自分の口から出た「独り身の看板娘」という言葉の方が、ずっと十字坡の二娘らしく聞こえてしまった。

それが、一番嫌だった。

孫大娘と孫二娘、二人合わせて孫姉妹で〜す!


「姉ちゃん、父ちゃんが張青を婿にどうだって言い出した」

「耳も利くし、字も読めるなら悪くないんじゃないかい?」

「姉ちゃんまで人材配置で婿を決めるな!」


しかもアタイ、断る理由まで最悪だった。


「独り身の方が客を呼べる、だっけ?」

「復唱するなよォ!」

「間違ってないだろ?」

「正しいから嫌なんだよ!」


男にどう見られるかなんて、昔から分かってた。

でも、それを店の利益として自分で勘定したのは初めてだ。


「成長したねぇ」

「その成長、絶対褒めちゃ駄目なやつ!」


さて――

独り身の価値まで自分で分かっちまったアタイに、父ちゃんは次に何を覚えさせる気なんだろうねェ?

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