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まだ使わない

孫二娘でございま〜す。


昨日、「独り身の看板娘でいた方が客を呼べる」なんて言ったら、父ちゃんが妙な方向にやる気を出した。


翌朝、店を開ける前に呼び出されて、卓の上へ置かれたのは例の紙包み。

ずっと触るなと言われていたやつだよォ。


看板娘として成長したから次の仕事を教える、みたいな顔してるけどさ。


現代じゃ大学で心理学を教えてたアタイが、十字坡では何の実習を受けることになってるんだい?


しかも父ちゃん、最初にこう言いやがった。

「持て」


……嫌な予感しかしないよォ。

翌朝、店を開ける前に父ちゃんがアタイを呼んだ。

昨日まで二日続けて来ていた姉ちゃんは、今日は嫁ぎ先へ戻ったままだった。

張青は昨日と同じ戸口にいる。

立っているのはまだ辛いらしく、低い台へ腰を下ろしていた。

傷は少しずつ良くなっているようだが、顔にはまだ疲れが残っている。

父ちゃんは何も言わず、厨房の棚へ手を伸ばした。

酒甕の横にある乾いた布巾を持ち上げると、その下から見覚えのある紙包みが出てくる。

何度か見たことがある。

父ちゃんから触るなと言われ、客の声が鈍る前にはいつも棚から消えていた物だった。

アタイは足を止めた。

父ちゃんは紙包みを卓へ置く。

「二娘」

返事をしたくなかった。

昨日、自分で言った言葉が戻ってくる。

独り身の看板娘でいた方が、客を呼べる――

父ちゃんは聞いていた。

笑って、「違いねぇ」と答えた。

そして今、あの紙包みを出している。

嫌な予感しかしない。

「昨日、自分で言ったな」

やっぱりだった。

「何をさ?」

「客を呼べると」

「そんな言い方はしてないよォ?」

「同じだ」

同じじゃない、と言いたかった。

アタイが言ったのは、張青を婿にするより独り身でいた方が店に得だという話だ。

自分の顔が客を呼ぶことは認めたけれど、それ以上の話をした覚えはない。

ところが父ちゃんは、卓の上の紙包みを指で押した。

「店に立つ意味が分かってきたなら、これも覚えろ」

「話が一段どころか三段くらい飛んでない?」

「飛んでねぇ」

「飛んでるよォ!」

張青が戸口でほんの少し顔を逸らした。

笑うな。

まだ傷治ってないだろ。

「何なんだい、それ?」

父ちゃんは短く答えた。

「蒙汗薬だ」

聞いたことのない名前だった。

「もう……何?」

「蒙汗薬」

今度は、聞き間違えようがないようにはっきり言われた。

アタイは口の中で繰り返さなかった。

名前を覚えた瞬間、何かが決まってしまいそうだったからだ。

「何に使うのさ?」

父ちゃんがアタイを見る。

「酒に入れる」

「入れたら?」

「身体が利かなくなる」

胸の奥がざらついた。

客の声が鈍り、盃を置く音が重くなって、やがて椅子が軋む。

最後には自分の足で歩けなくなる――今まで聞いてきた音が、一つずつ目の前の紙包みへつながった。

「あれは……これだったの?」

父ちゃんは答えない。

答えなくても分かった。

身なりの良かった客も、アタイの手首へ指を伸ばした男も、奥へ運ばれていった客たちも、酒だけでああなったわけではなかった。

この包みがあった。

「アタイに使わせる気?」

「今日は使わねぇ」

今日は――

使わせない、とは言わなかった。

その二文字だけが妙に耳に残った。

アタイは紙包みを見る。

薄汚れた紙には何度も開いた跡がついている。

父ちゃんにとっては包丁や縄と同じで、必要になれば出し、終われば戻す物なのだろう。

その扱いが、ひどく気味悪かった。

「持て」

「嫌だねェ」

「中を開けろとは言ってねぇ」

「持ってどうするのさ?」

「重さを覚える」

紙包みは小さい。

見るからに軽そうだった。

それでも手が出なかった。

父ちゃんは待っている。

急かさないし、怒鳴りもしない。

でも、断れば話が終わるような待ち方ではなかった。

「嫌だって言ってるだろォ」

「嫌でも、店に立つなら知っておけ」

「看板娘って、客に酒出して、にっこり笑ってりゃいい仕事じゃないの?」

父ちゃんの目が細くなる。

「酒を出すだけなら、誰でもできる」

その言葉が刺さった。

昨日、確かにアタイは自分の顔が客を呼べると言った。

独り身の方が店には得だと、自分から勘定に入れた。

父ちゃんは、それを看板娘として一段進んだ証拠だと思ったのかもしれない。

客を呼び、気を緩ませ、酒を飲ませたその先まで覚える気がある、と。

違う。

張青を婿にすると勝手に決められたくなかっただけだ。

だから店の理屈で押し返した。

それだけだったはずなのに、口から出した言葉はもう戻らない。

父ちゃんの中では、別の意味へ変わってしまっている。

「誰にでも使う物じゃねぇ」

父ちゃんが言った。

「腹を空かせてるだけの奴には使わねぇ。酒癖が悪いだけの客にもだ」

「じゃあ、誰に使うのさ?」

「こっちを獲物にしてる奴だ」

前にも聞いた言葉だった。

店の中を測り、父ちゃんの位置を確かめながら、アタイの手や袖へ目をやる客。

夜に戻るつもりだったり、仲間を呼ぼうとしたりするような――帰さなくていい客。

今度は、その客をどう沈めるのかを教えようとしている。

「間違えたら?」

父ちゃんは紙包みへ視線を落とした。

「取り返しがつかねぇ」

そこで少しだけ声を抑える。

「薬を使うことより、相手を間違えるな」

人を動けなくする薬を前にして、父ちゃんが一番に言ったのはそこだった。

薬が悪いとは言わない。

使うなとも言わない。

使う相手だけは間違えるな。

それが十字坡の決まりらしい。

現代の倫理教育が泣いてるよォ。

というか、元大学教授に何の研修を受けさせてるんだ、この店は……

アタイは張青を見る。

張青は相変わらず黙って、紙包みと父ちゃんの手を見ていた。

「アンタは何とも思わないのかい?」

急に振られて、張青が眉を上げる。

「俺に聞くのか?」

「ずっと見てるじゃん」

張青は少し考えてから紙包みへ目を戻した。

「思うことはある」

「なら言いなァ?」

「俺が口を出して、二娘お嬢が楽になる話でもねぇだろ」

逃げた言い方ではなかった。

父ちゃんへ同調する気も、アタイを説得する気もない。

ただ自分がどこまで口を挟める人間なのか、もう分かっている。

昨日まで「二娘ちゃん」だった男が、今日は当たり前みたいに「二娘お嬢」と言う。

適応速度が怖いんだよ、アンタ……

父ちゃんが紙包みをアタイの方へ滑らせた。

「持て」

紙が卓を擦る。

指先のすぐ近くで止まった。

アタイは手を握ったまま動けなかった。

父ちゃんは待つ。

張青も何も言わない。

誰もアタイの手を掴まないし、無理やり持たせる者もいない。

それなのに、逃げ道がなかった。

ここで触らなければ、何も知らないまま店に立つことになる。

客へ酒を出しながら、その酒に何が入ることがあるのかも知らない顔をする。

少し前なら、それでよかった。

見ない方が楽だった。

知らない顔をしていれば、店は回った。

でも今は、もう名前を聞いた。

使い道まで知った。

知らない物には戻せない。

アタイは指を伸ばして紙包みに触れた。

ざらついた紙は冷たくも熱くもなく、恐る恐る持ち上げてみると、拍子抜けするほど軽かった。

「……これだけ?」

父ちゃんが頷く。

「軽いから怖ぇんだ」

掌の上を見る。

客の声が崩れ、手から盃が落ち、常連がその肩を支えて裏の戸が開く。

これまで聞いてきた一連の音が、今は全部、掌の上にある紙包みから始まるものに思えた。

人ひとりを立てなくする物が、この程度の重さしかない。

その事実が気持ち悪い。

「中は?」

「今日は見なくていい」

また、「今日は」

アタイは顔を上げた。

「いつ見せるのさ?」

聞いてから、自分で息を止めた。

見る気なんかない。

使う気もない。

なのにアタイは、「見るのか」ではなく「いつ」と聞いた。

父ちゃんは何も驚かなかった。

「客を見分けられるようになったらだ」

「もう見分けてるだろォ?」

言い返した瞬間、父ちゃんの目が動いた。

張青までこちらを見る。

しまった。

自分で言った。

帰す客なのか、金を落として帰す客なのか、それとも帰さなくていい客なのか、アタイはもう自分で見分け始めている。

父ちゃんの横で答え合わせをするだけではなく、自分で判断し始めている。

父ちゃんが笑みを浮かべた。

「なら、遠くねぇな」

悪寒がした。

今のは父ちゃんに一歩引っ張られたんじゃない。

アタイが自分から一歩近づいた。

蒙汗薬へ――

「戻せ」

父ちゃんが棚を示す。

「父ちゃんが戻しなよォ?」

「お前が持った物だ」

何だ、その小学校の片づけ教育みたいな理屈。

よりによって教材が蒙汗薬なのが最悪だよ。

紙包みを握る指に少し力が入った。

棚までは数歩しかない。

酒甕の横へ行き、乾いた布巾を持ち上げると、そこだけ空いている。

そこは何度も見ながら、ずっと見ないふりをしてきた場所だった。

アタイは紙包みを戻した。

布巾をかける。

見えなくなった。

でも、もう駄目だった。

もう場所を知っているだけではない。

名前も手触りも、掌に乗せた時の軽さまで覚えてしまった。

父ちゃんが後ろから聞く。

「覚えたか?」

答えたくない。

「二娘、言ってみろ」

何で復唱まであるんだよォ。

「……蒙汗薬」

声に出した。

棚の中にあった正体不明の物へ、名前がついた。

同時に、今まで店で聞いてきた音にも名前がついたような気がした。

戸口から張青が言う。

「二娘お嬢」

振り返る。

「何だい」

「顔に出てる」

その言葉で、頬が強張っていることに気づいた。

父ちゃんから何度も言われた。

客の前で顔を変えるな。

見ても、見てない顔をしろ。

アタイは息を吐き、口元から力を抜く。

何も知らない頃に覚えた顔を、また作った。

外で戸が鳴る。

最初の客が来たらしい。

父ちゃんが表へ出る。

「入んな」

いつもの店主の声だった。

アタイは水桶を持つ。

張青の前を通ると、また呼ばれた。

「二娘お嬢」

「今度は何さ」

「無理に笑うと、余計に分かるぞ」

アタイは睨んだ。

「黙ってなァ」

「はいよ」

素直すぎて腹が立つ。

客席へ出ると、旅人が一人、戸口に立っていた。

荷は小さく、顔には疲れがある。

その目が追っているのは椀と釜だった。

腹を空かせているだけの客。

そう判断した。

判断してしまった。

「座りなよォ」

いつもの声が出る。

旅人が腰を下ろし、アタイは水を用意した。

棚の奥へ目を向ける必要はなかった。蒙汗薬がどこにあるのか、今なら迷わず手を伸ばせる。

まだ使わない。

そう思った瞬間、指が止まった。

使わない、ではなかった。

まだ――

自分がそう考えたことだけは、誰にも顔に出せなかった。

孫大娘と孫二娘、二人合わせて孫姉妹で〜す!


「姉ちゃん、父ちゃんに蒙汗薬を持たされた」

「へえ、やっとかい」

「その反応が怖いんだよォ!」


しかもアタイ、自分から「いつ中を見せるのさ」なんて聞いちまった。


「覚える気あるじゃないか」

「ない! 口が勝手に!」

「口だけで客を見分けられるのかい?」

「そこを突くな!」


一番まずいのは、最後に思ったことだ。

使わない、じゃない。

まだ使わない。


「じゃあ次は中身だね」

「姉ちゃんまで順番を決めるなァ!」


……でも、その順番をもう想像できる時点で、かなり手遅れなんじゃないかねェ?

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