帰さない客
孫二娘でございま〜す。
今回は、アタイが初めて客を選ぶ話だよォ。
父ちゃんに決められたんじゃない。
見て、考えて、自分で決めた。
怖いのは、蒙汗薬を使ったことより――
間違っていなかったと知って、安心しちまったことなのさ。
久々に、大学の講義の夢を見た。
誰でも、偉い人の命令には従ってしまう。
最初から、酷いことをさせるわけじゃない。
これくらいなら、と受け入れられることから始める。
一つ終われば、もう少し先へ進ませる。
ここまで来たのだから、今さらやめても仕方がない。
そう思わせる。
何という実験だったかは、もう思い出せない。
教授の顔も、隣に座っていた学生の名前も忘れた。
覚えているのは、途中まで進んだ人間ほど、そこで手を止めるのが難しくなるという話だけだった。
店を開ける前に、厨房の棚を開く。
酒甕の横。
乾いた布巾の下。
昨日戻した紙包みがある。
蒙汗薬――
名前を知らなかった頃は、ただの紙くずだった。
触るなと言われた物。
父ちゃんが客へ酒を出す前に、棚から消える物。
今は違う。
何に使うのか知っている。
掌に載せた時の軽さも覚えている。
どんな客へ使うのかまで教えられた。
アタイは布巾を戻した。
見なかったことにはできない。
でも、今日は触らなくていい。
そう考えた直後、胸の奥がざらついた。
使わない、でいいはずだった。
そこへ勝手に、今日は、をつけた。
「お嬢」
背後から張青の声がした。
昨日と同じ低い台に座っている。
足はまだ腫れていたが、顔色は少し戻っていた。
「何だい」
「棚を開けてから、ずっと固まってるぞ」
「見りゃ分かることを言うんじゃないよォ」
「なら、見なかったことにする」
「最初からそうしなァ」
アタイは水桶を持ち上げた。
父ちゃんが店の戸を開ける。
朝の光が床へ伸び、いつもの一日が始まった。
粥を出し、椀を下げる。
水を足し、泊まり客の寝具を片づける。
夜明けとともに発つ旅人。
朝酒を一杯だけ飲み、畑へ戻る常連。
誰にも紙包みは要らなかった。
そう判断するたび、棚の奥が近くなる気がした。
昼を少し過ぎた頃、一人の男が入ってきた。
旅装は汚れているが、草鞋は新しい。
腰の袋は膨らみ、金がないようには見えない。
「やってるかい」
明るい声だった。
アタイは水場から男を見る。
顔つきも、笑い方も普通だ。
武器も見せびらかしていない。
けれど、戸口を越えた足がすぐには進まなかった。
店の中を見ている。
卓の数と厨房までの距離。
二階へ上がる階段と裏へ続く戸。
父ちゃんと張青。
最後に、アタイへ目を向けた。
顔から手元へ。
水桶を持つ腕を見て、腰の辺りで止まる。
「一人かい」
父ちゃんが聞いた。
「ああ。連れとは先で落ち合う」
男はそう答え、奥の卓を選んだ。
壁際――
戸口から遠く、階段と裏戸の両方が見える席。
以前なら、空いているから座っただけだと思ったかもしれない。
今は、選んだ、と分かる。
「酒をくれ」
アタイは盃を用意した。
父ちゃんは何も言わない。
張青も黙っている。
酒を注ぎ、男の卓へ運ぶ。
「酒だよォ」
男は盃より先に、アタイの顔を見た。
「こりゃいい店だ」
「まだ飲んでもいないだろォ」
「酒の話じゃないさ」
男は笑った。
アタイも口元だけで返す。
顔に出すな――
張青に言われる前に、客前の顔へ切り替えた。
男は酒を一口飲む。
「親父さんと二人でやってるのかい」
「見ての通りさ」
「奥の男は?」
張青へ目を向ける。
「怪我人だよォ」
「用心棒じゃないのか」
「立つのもやっとの用心棒がいるかい」
男は声を立てて笑った。
それでも、目は止まらない。
父ちゃんの包丁と裏戸の掛け金。
張青の足と階段の幅。
そして、アタイの袖。
「今夜、泊まれるかい」
「空きはあるよォ」
「部屋は上か」
「見りゃ分かるだろォ」
「裏にも寝る場所があるのかと思ってね」
アタイは笑ったまま、男を見る。
泊まり客が部屋を気にするのは珍しくない。
けれど、この男が知りたいのは、自分の寝床ではなかった。
夜、誰がどこにいるのか。
店の中に、何人残るのか。
「親父さんも夜は起きてるのかい」
「客次第だねェ」
「この辺りは物騒だろ。女が夜まで店先にいて、怖くないのか」
心配する声ではない。
アタイが怯えるかを見ている。
「何が怖いんだい」
「盗賊も出ると聞く」
「アンタも気をつけなァ」
男は盃を回した。
「馬を裏へつないでもいいか」
「馬がいるのかい」
「ああ。少し離れた所に置いてきた」
草鞋は新しい。
裾に泥はついているが、長く歩いた汚れ方ではない。
馬を離してきた旅人が、荷を全部持って店へ入るだろうか。
「連れは今夜ここへ来るのかい」
男は一瞬黙った。
「さあな。間に合えば」
笑ってごまかす。
父ちゃんは厨房に立ったまま、こちらを見ない。
いつもなら、客を返すかどうか決める時、何かしら合図があった。
水を頼む。
奥の椀を取れと言う。
厨房へ呼ぶ。
今日は何もない。
アタイが見る番なのだ。
男は二杯目を頼んだ。
酒を取りに戻る。
張青の横を通る時、小さな声がした。
「お嬢」
足が止まりそうになる。
「何さ」
「俺を見る時だけ、あの男は笑わねぇ」
それだけだった。
使えとも、帰せとも言わない。
アタイは酒甕の前に立つ。
棚は、手を伸ばせば開く。
父ちゃんが隣へ来た。
「どう見る」
答えを教える気はないらしい。
「一人じゃない」
「そうか」
「泊まりたいんじゃない。夜の店を見たいんだよォ」
父ちゃんは男の方を見なかった。
「それで」
その先をアタイに言わせる。
喉が乾いた。
帰す客、金を落とす客、泊める客。
そして、帰さなくていい客。
昨日までなら、父ちゃんが決めた。
アタイは知らない顔をして、水や酒を運ぶだけだった。
今は違う。
「帰さない」
父ちゃんの表情は変わらない。
「なら、開けろ」
棚を示す。
アタイは動けなかった。
父ちゃんに命じられたからではない。
先に決めたのは、アタイだ……
棚を開ける。
布巾をどけ、紙包みを取る。
昨日より軽く感じた。
父ちゃんが包みを開き、必要な分だけアタイの前へ置く。
白にも灰色にも見えた。
酒に入れれば、跡は残らない。
「混ぜろ」
指が動かない。
客席から男の声が飛んでくる。
「二娘ちゃん、遅いな」
馴れ馴れしい声。
それだけで決めたわけではない。
店を測り、父ちゃんと張青を確かめた。
夜の人数を聞き、部屋と裏戸の位置を探った。
連れについては答えを濁した。
アタイは盃へ蒙汗薬を落とした。
酒を注ぐ。
小さく揺らすと、何も見えなくなった。
大学の講義が、一瞬戻る。
これくらいなら――
そう思えることを、一つずつ重ねる。
水を出した。
酒を運んだ。
奥へ下がった。
紙包みを持った。
名前を覚えた。
客を見分けた。
そして今、酒へ混ぜた。
どこからが酷いことだったのか、もう分からない。
「お嬢」
張青の声がした。
振り向く。
「顔」
それだけだった。
アタイは息を吐き、盃を持つ指の力を抜いた。
口元を上げる。
張青が眉を寄せた。
「上げすぎだ」
「うるさいねェ」
笑いを少し消す。
それから客席へ出た。
男は卓へ肘をつき、待っていた。
「遅かったじゃないか」
「待たせたねェ」
アタイは盃を置く。
男の手が伸びる。
止めようと思えば、まだ間に合った。
こぼすか、落とすか。
間違えたと言えばいい。
男は酒を口へ運んだ。
喉が動く。
アタイは何も言わなかった。
「やっぱり、いい店だ」
「そうかい」
「夜までいれば、もっと良くなるかね」
「さあねェ」
男は二口目を飲んだ。
アタイは水場へ戻る。
父ちゃんは包丁を動かしている。
張青は戸口に座ったままだ。
誰も褒めない。
責めもしない。
店の音だけが続く。
男の声が少しずつ遅くなる。
盃を置く音が重くなる。
椅子が鳴る。
知っている音だった。
けれど、今日は違う。
あの酒を作ったのは、アタイだ。
男が額を押さえた。
「酒が……強いな」
父ちゃんが答える。
「疲れてるんだろ」
常連の一人が男の後ろへ回り、もう一人が戸口へ寄る。
いつもの形ができていく。
男は立とうとして、卓へ手をついた。
脚に力が入らない。
「何を……」
目がアタイを探す。
さっきまでの笑いは消えていた。
アタイは水桶のそばに立っている。
逃げなかった。
奥へも下がらなかった。
男の腰から、小さな笛が落ちた。
父ちゃんが拾い、手の中で確かめる。
常連が男の荷を開く。
縄と布に包んだ短い刃物。
油の染みた布に火打ち石。
旅の支度ではなかった。
父ちゃんがアタイを見る。
「間違えなかったな」
胸の奥で、何かが緩んだ。
怖かったのではない。
安心したのだ。
この男ならよかった。
アタイの判断は正しかった。
蒙汗薬を入れてもいい客だった。
そう思った。
男が裏へ運ばれ、戸が閉まる。
店に静けさが戻った。
父ちゃんは笛を卓へ置く。
張青は何も言わない。
アタイは空になった盃を下げた。
指は震えていなかった。
実験の名前は、最後まで思い出せなかった。
アタイは盃を洗った。
どこで止まればよかったのかは、もう分からない。
振り返った時には、止まれた場所はもう、ずっと後ろにあった。
孫二娘でございますよォ。
最初は、水を出すだけだった。
次は酒を運んで、その次は棚を開けた。
一つずつなら、大したことじゃないと思えたんだよねェ。
けど、気付いた時には、もう戻り方が分からなかった。
人間ってのは、止まれなかったことより――
止まらなくても平気になった時の方が、よっぽど怖いのさ。




