間違えなかった
孫二娘でございま〜す。
昨夜、久しぶりに大学の講義を夢で見た。
人間ってのは、いきなり大きな一線を越えるんじゃなくて、「これくらいなら」を積み重ねているうちに、気づけばずいぶん遠くまで来ちまうらしい。
何て実験だったかは思い出せない。
ただねェ。
目が覚めて厨房へ行ったら、昨日まで怖くて仕方なかった蒙汗薬を見て、アタイはこう考えたんだ。
今日は触らなくていい。
……「使わない」じゃないところが、もう相当まずいよねェ?
しかも昼には、その答え合わせみたいな客が来やがった。
久しぶりに、大学の講義の夢を見た。
誰でも、権威のある人間から命じられれば、普段ならしないことまでしてしまう。
ただし、最初から酷いことを命じるわけではない。
これくらいなら、と受け入れられるところから始めて、一つ終わればもう少し先へ進ませる。
そこまで来れば、今さらやめても仕方がないと思わせる。
そんな話だった。
何という実験だったかは、もう思い出せない。
助教の顔も、隣に座っていた学生の名前も消えていた。
それでも、途中まで進んだ人間ほど、そこで手を止めることが難しくなるという話だけは残っている。
目が覚めた時、嫌な汗をかいていた。
「……最悪だねェ」
夢の内容ではない。
思い当たる節がありすぎる。
店を開ける前、アタイは厨房の棚を開いた。
酒甕の横にある乾いた布巾を少し持ち上げると、昨日戻した紙包みが見える。
蒙汗薬――
名前を知らなかった頃には、ただの薄汚れた紙包みだった。
父ちゃんから触るなと言われ、客へ酒を出す前になると棚から消える、正体不明の物。
今は違う。
何に使うのか知っているし、掌へ載せた時の軽さまで覚えている。
どんな客へ使うのかも教えられた。
アタイは布巾を元へ戻した。
知らなかった頃には戻れない。
でも、今日は触らなくていい。
そう考えた直後、胸の奥がざらついた。
使わない、でいいはずなのに、頭の中では勝手に「今日は」がついた。
「二娘お嬢」
背後から張青の声がした。
振り向けば、昨日と同じ戸口に座っている。
足の腫れはまだ残っていたが、顔色は来たばかりの頃よりずっとましだった。
「何だい?」
「棚を開けてから、ずいぶん長いこと止まってるぞ」
「見りゃ分かることを報告するんじゃないよォ?」
「なら、見なかったことにする」
「最初からそうしなァ?」
アタイは水桶へ手を伸ばした。
水をいっぱいに張った桶を持ち上げたところで、少しだけ違和感があった。
前より軽い。
水が減っているわけではない。
縁近くまで入っているのに、両手で抱えなくても身体の横で持ててしまう。
「……またか?」
「何がだ?」
「こっちの話だよォ」
最近、重い物を持つたびにこういうことが増えている。
十七歳の身体に戻っているだけなのか、それとも元の孫二娘がこんな身体だったのか。
考えたところで、どちらもあまり嬉しくない。
心理学助教だったはずなのに、人生二周目で筋力まで再学習してどうする。
父ちゃんが店の戸を開けると、朝の光が床へ長く伸びた。
それからは、いつもの一日だった。
粥を出して椀を下げ、水を足し、泊まり客の寝具を片づける。
夜明けとともに出ていく旅人もいれば、朝酒を一杯だけ引っかけて畑へ戻る常連もいる。
誰にも蒙汗薬は要らなかった。
腹を空かせているだけなのか、酒を飲みたいだけなのか、それとも道を聞きたいだけなのか。
そう判断するたび、なぜか棚の奥が近くなっていく気がした。
使わないために客を見ているはずなのに、気づけば「この客には要らない」と分類している。
それって結局、使う側の見方なんじゃないかねェ。
昼を少し過ぎた頃、一人の男が店へ入ってきた。
旅装は汚れているが、草鞋は新しい。
腰の袋は膨らんでいて、金に困っているようには見えなかった。
「やってるかい?」
明るい声だった。
アタイは水場から男を見る。
顔つきも笑い方も普通で、武器をこれ見よがしに見せてもいない。
けれど、戸口を越えた男の足はすぐには進まなかった。
卓の数と厨房までの距離を測り、二階へ上がる階段と裏へ続く戸まで確かめた。
次に父ちゃんを見て、張青へ目を移し、最後にアタイを見る。
顔から手元へ落ちた視線が、水桶を持つ腕をなぞり、腰の辺りで止まった。
「一人かい」
父ちゃんが聞いた。
「ああ、連れとは先で落ち合う」
男は奥の卓を選んだ。
壁際で、戸口からは遠い。
それでいて階段と裏戸の両方が見える場所だった。
以前なら、空いているから座ったのだと思ったかもしれない。
今は違う。
この男は、席を選んだ。
「酒をくれ」
アタイは盃を用意した。
父ちゃんは何も言わない。
張青も黙っている。
酒を注いで卓へ持っていくと、男は盃より先にアタイの顔を見た。
「こりゃいい店だ」
「まだ飲んでもいないだろォ?」
「酒の話じゃないさ」
男は笑った。
アタイも口元だけで笑う。
張青に言われるまでもない。
客前の顔だ。
男は酒を一口飲んだ。
「親父さんと二人でやってるのかい?」
「見ての通りさ」
「奥の男は?」
張青へ目を向ける。
「怪我人だよォ」
「用心棒じゃないのか?」
「立つのもやっとの用心棒がいるかい」
男は声を立てて笑った。
それでも目は止まらない。
父ちゃんの包丁を見て、裏戸の掛け金を確かめ、張青の足へ視線を落とした。
そのあとで階段の幅まで測るように眺め、最後にはまたアタイの袖へ戻ってくる。
「今夜、泊まれるかい?」
「空きはあるよォ」
「部屋は上か?」
「見りゃ分かるだろォ?」
「裏にも寝る場所があるのかと思ってね」
アタイは笑ったまま男を見る。
泊まり客が部屋を気にするのは珍しくない。
けれど、この男が知りたいのは自分の寝床ではない。
夜になった時、誰がどこにいるのか、店に何人残るのかだ。
「親父さんも夜は起きてるのかい?」
「客次第だねェ」
「この辺りは物騒だろ。女が夜まで店先にいて、怖くないのか?」
心配している声ではなかった。
アタイが怯えるかどうかを試している。
「何が怖いんだい?」
「盗賊も出ると聞く」
「アンタも気をつけなァ?」
男は盃を指先で回した。
「馬を裏へつないでもいいか?」
「馬がいるのかい?」
「ああ、少し離れた所に置いてきた」
アタイは男の足元を見る。
草鞋は新しい。
裾に泥はついているが、長く歩いた人間の汚れ方ではない。
馬から離れて店へ入ったにしては、荷も妙だった。
「連れは今夜ここへ来るのかい?」
男が一瞬だけ黙る。
「さあな。間に合えば」
笑ってごまかした。
父ちゃんは厨房に立ったまま、こちらを見ない。
いつもなら客をどうするのか決める時、何かしら合図があった。
水を頼んだり、奥の椀を取れと言ったり、厨房へ呼んだりする。
今日は何もない。
アタイが見る番なのだ。
男は二杯目を頼んだ。
酒を取りに戻り、張青の横を通ったところで小さな声がした。
「二娘お嬢」
「何さ?」
「俺を見る時だけ、あの男は笑わねぇ」
それだけだった。
使えとも、帰せとも言わない。
アタイは酒甕の前に立った。
棚は、手を伸ばせば開く。
父ちゃんが隣へ来る。
「どう見る?」
答えを教える気はないらしい。
「一人じゃない」
「そうか」
「泊まりたいんじゃない。夜の店を見たいんだよォ」
父ちゃんは客の方を見なかった。
「それで?」
その先まで、アタイに言わせる。
喉が乾いた。
帰す客なのか、金を落として帰す客なのか、泊めて帰す客なのか。
それとも――帰さなくていい客なのか。
昨日までなら、父ちゃんが決めていた。
アタイは知らない顔をして、水や酒を運べばよかった。
でも、今日は違う。
「帰さない」
父ちゃんの表情は変わらなかった。
「なら、開けろ」
棚を示された。
アタイは動けなかった。
父ちゃんに命令されたからではない。
先に決めたのは、アタイだ。
棚を開け、布巾をどけて紙包みを取る。
昨日より軽く感じた。
父ちゃんが包みを開くと、中には白とも灰色ともつかない物があった。
必要な分だけ、アタイの前へ置く。
「混ぜろ」
指が止まった。
客席から男の声が飛んでくる。
「二娘ちゃん、遅いな」
馴れ馴れしい。
けれど、それだけで決めたわけではない。
店を測り、父ちゃんと張青を確かめ、夜の人数を聞いた。
部屋と裏戸の位置を探り、連れについては答えを濁した。
アタイは蒙汗薬を盃へ落とした。
酒を注ぎ、わずかに揺らす。
何も見えなくなった。
その瞬間、大学の講義が蘇った。
これくらいなら、と思えることを一つずつ重ねていく。
水を出し、酒を運び、見ない顔を覚え、紙包みを持って名前まで知った。
そのうえ客を自分で見分けるようになり、今は自分で選んだ客の酒へ薬を混ぜている。
どこからが酷いことだったのか、もう分からなかった。
「二娘お嬢」
張青の声に振り向く。
「顔」
それだけで分かった。
アタイは息を吐き、盃を持つ指から力を抜いて口元を上げる。
張青が眉を寄せた。
「上げすぎだ」
「うるさいねェ」
少しだけ笑みを消した。
何なの、この接客指導。
元妖艶なお姐さん助教に笑顔の作り方を教えるんじゃないよォ。
……いや、今は助教じゃない。
十字坡の看板娘だった。
その事実が、冗談より少しだけ重かった。
客席へ戻る。
男は卓へ肘をついて待っていた。
「遅かったじゃないか」
「待たせたねェ」
アタイは盃を置く。
男の手が伸びた。
まだ止められる。
こぼしてしまえばいい。
落としたふりでもできる。
間違えたと言えばいい。
男は盃を持ち上げ、酒を口へ運んだ。
喉が動く。
アタイは何も言わなかった。
「やっぱり、いい店だ」
「そうかい?」
「夜までいれば、もっと良くなるかね」
「さあねェ?」
男は二口目を飲んだ。
アタイは水場へ戻る。
父ちゃんは包丁を動かし、張青は戸口に座ったままだった。
誰も褒めないし、責めもしない。
いつもの店の音だけが続く。
やがて男の声が遅くなった。
盃を置く音が重くなり、身体を支える椅子が軋む。
知っている音だった。
けれど、今日は違う。
あの酒を作ったのは、アタイだ。
男が額を押さえた。
「酒が……強いな」
父ちゃんが答える。
「疲れてるんだろ」
常連の一人が男の後ろへ回り、もう一人が戸口へ寄る。
いつもの形ができていく。
男は立とうとして卓へ手をついたが、脚に力が入らない。
「何を……」
目がアタイを探した。
さっきまでの笑いは消えている。
アタイは水桶のそばに立ったまま、逃げもせず、奥へも下がらなかった。
その時、男の腰から小さな笛が落ちた。
父ちゃんが拾って手の中で確かめる。
常連が荷を開けば、縄と布に包まれた短い刃物が出てきた。
さらに油の染みた布と火打ち石まである。
どう見ても、ただの旅支度ではない。
父ちゃんがアタイを見る。
「間違えなかったな」
その瞬間、胸の奥で何かが緩んだ。
怖かったからではない。
安心したのだ。
この男ならよかった。
アタイの判断は正しかった。
蒙汗薬を入れてもいい客だった。
そう思った。
男が裏へ運ばれ、戸が閉まったあと、店には何事もなかったような静けさが戻った。
父ちゃんは拾った笛を卓へ置き、張青は何も言わない。
アタイは空になった盃を下げた。
指は、もう震えていなかった。
夢で見た実験の名前は、最後まで思い出せなかった。
アタイは盃を洗いながら考えた。
どこで止まればよかったのかは、もう分からない。
振り返った時には、止まれた場所はもう、ずっと後ろにあった。
孫大娘と孫二娘、二人合わせて孫姉妹で〜す!
「姉ちゃん、アタイ……とうとう蒙汗薬を使った」
「ちゃんと相手は見たんだろ?」
「そこなんだよォ!」
男の荷から刃物や火打ち石が出てきて、父ちゃんには「間違えなかったな」って言われた。
「なら良かったじゃないか」
「良くない! アタイまでホッとしたのが一番まずいの!」
薬を使ったことより、相手を間違えなかったことに安心した。
「二娘も仕事が分かってきたねぇ」
「姉ちゃん、それ褒め言葉じゃないから!」
……でも次に同じような客が来たら、アタイは今日ほど迷うんだろうかねェ?




