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片付いた

孫二娘でございま〜す。

夜のうちに起きたことは、朝になると片づいている。

床も、盃も、包丁も……

店は何食わぬ顔で開くんだよォ。

嫌なのは、何があったかを見ることじゃない。

見なくても、自分の役目が分かっちまうことなのさ。

夜が明ける前に、目が覚めた。

鶏の声はまだ聞こえない。

外も暗い。

けれど、店の奥だけは動いていた。

水の音。

桶を置く音。

布を絞る音。

包丁が板に触れる、低い音。

アタイは寝台の上で、しばらく天井を見ていた。

昨日の男の顔が浮かぶと思った。

盃を持つ手。

喉が動くところ。

力の抜けた脚。

落ちた笛。

けれど、最初に思い出したのは、父ちゃんの声だった。

間違えなかったな――

褒められたわけじゃない。

慰められたわけでもない。

ただ、そう言われただけだ。

それなのに、胸の奥が軽くなった。

あの時、確かに軽くなった。

嫌だった。

蒙汗薬を入れたことより、その方がずっと嫌だった。

寝台から起きる。

足を床へ下ろすと、冷たかった。

戸を開ける前に、息を止める。

奥の音は続いている。

見に行くな――

誰に言われたわけでもないのに、そう思った。

見なければ、まだ知らないふりができる。

触らなければ、まだ手は汚れていないと言える。

けれど、台所の水桶が空なら、朝の支度ができない。

湯が足りなければ、店を開けられない。

そういう言い訳なら、もういくらでも出てくる。

アタイは戸を開けた。

廊下は冷えていた。

奥へ近づくにつれて、湿った匂いが濃くなる。

酒でも、粥でも、煮物でもない。

昨日まで知らないふりをしていた匂いだ。

裏口の近くで、父ちゃんが桶を持ち上げていた。

袖をまくり、顔だけこちらへ向ける。

「起きたか」

「目が覚めただけだよォ」

「水を汲め」

それだけだった。

昨日の男の話はしない。

蒙汗薬の話もしない。

何をどうしたかも言わない。

アタイも聞かなかった。

外へ出る。

井戸の縄を引くと、掌が冷たくなる。

桶が水面を打ち、重く沈む。

引き上げるたび、腕が軋んだ。

何度も運んだ。

一杯目は台所へ。

二杯目は裏へ。

三杯目は大きな甕へ。

どの桶をどこへ置くのか、父ちゃんは細かく言わない。

それでも分かる。

昨日まで何度も見ていたからだ。

いや、見ていない。

見ないようにしていた。

見ないようにしていた場所ほど、よく覚えている。

裏戸の向こうで、張青が壁にもたれていた。

足に巻いた布はまだ厚い。

顔色は悪いが、目だけは起きている。

「お嬢」

「こんな朝から何だい」

「顔が白い」

「アンタも人のこと言えないだろォ」

張青は少し笑った。

いつもの軽い笑いじゃない。

余計なことを言うか迷って、飲み込んだ顔だ。

「見たのかい」

アタイが先に聞いた。

張青は首を横へ振る。

「見ちゃいない。音だけだ」

「なら、知らないままでいなァ」

「そうしたいところだがな」

それきり、張青は黙った。

父ちゃんが奥から声をかける。

「湯を沸かせ」

アタイは竈へ向かった。

薪を足し、火を起こす。

火種はまだ残っていた。

息を吹きかけると、赤いところが広がる。

湯が沸くまでの間、布を洗った。

普通の布だ。

普通に見える。

少し重いだけ。

水へ沈めると、薄く濁った。

手を止めそうになる。

見なければいい。

考えなければいい。

これはただの布だ。

店で使った布を洗っているだけだ。

一瞬、大学の講義で聞いた言葉が、頭の端に引っかかった。

認知的不協和――

自分のしたことと、思っていた自分が合わなくなる。

だから、人は理由を作る。

仕方なかった。

相手が悪かった。

自分は間違っていない。

そうやって、自分を守る。

アタイは布を強く揉んだ。

守りたいのか――

何から……

誰から……

昨日の男は、旅人じゃなかった。

縄を持っていた。

刃物もあった。

油の染みた布と火打ち石まであった。

間違っていない。

そう思えば、楽になる。

楽になった自分が、気持ち悪い。

「二娘」

父ちゃんが呼んだ。

アタイは布を絞り、振り向く。

「何だい」

「床を流せ」

裏の土間に水を撒く。

箒で押し流す。

溝へ水が走る。

薄暗い中で、土の色が変わっていく。

父ちゃんは脇で包丁を研いでいた。

刃が石を擦る音が、細く伸びる。

昨日より長い。

いつもより丁寧だ。

「見なくていい」

父ちゃんが言った。

「見てないよォ」

「なら、それでいい」

それでいい――

その言葉が、腹の底へ沈む。

見ないままでも、役には立てる。

知らないままでも、店は回る。

手を下さなくても、片づけは進む。

一つずつなら、大したことじゃない。

水を汲み、湯を沸かす。

布を洗い、床も洗う。

そして、包丁を戻す。

どれも店の仕事だ。

そう言える。

言えてしまう。

朝の光が少しずつ差してきた。

父ちゃんは裏戸を閉め、掛け金を下ろした。

それから手を洗い、いつもの顔で厨房へ戻る。

「片づいた」

短い声だった。

アタイは返事をしなかった。

胃が動くと思った。

膝が震えると思った。

吐くかもしれないと思った。

何も起きなかった。

ただ、店の戸を開ける時間だと思った。

それが怖かった。

張青が戸口の台へ腰を下ろす。

父ちゃんが粥の鍋を火にかける。

アタイは椀を並べ、水を汲み直す。

昨日と同じ朝が来る。

本当は同じじゃない。

けれど、店は同じ顔をしている。

最初の客は、近くの畑へ向かう常連だった。

眠そうな顔で入ってきて、いつもの席へ座る。

「二娘ちゃん、水くれ」

「はいよォ」

声が出た。

普通の声だった。

手も止まらない。

椀を置き、水を出す。

相手は何も気づかない。

気づくはずがない。

店はきれいに片づいている。

床も濡れていない。

匂いも薄れている。

父ちゃんは鍋を見ている。

張青は黙って戸口にいる。

アタイだけが知っている。

いや、知っていると言えるのかも分からない。

見ていない。

聞いただけ。

運んだだけ。

洗っただけ。

なのに、常連の手元を見る。

草鞋を見る。

腰の袋を見る。

戸口へ向ける目を見る。

昨日より先に、目が動いた。

この客は帰す。

金もない。

腹を空かせているだけ。

朝酒を頼むだろうが、長居はしない。

畑へ戻る。

そこまで考えてから、息が止まった。

もう見分けている。

昨日のことを怖がるより先に、次の客を分けていた。

帰す客。

泊める客。

金を落とす客。

帰さない客。

頭の中に、勝手に置き場ができている。

「お嬢」

張青が小さい声で呼んだ。

アタイは振り向かない。

「何さ」

「今日は、顔に出てねぇな」

水差しを持つ手に、少しだけ力が入った。

「いいことじゃないかい」

「そうかもな」

それ以上、張青は言わなかった。

言わないところが、この男の嫌なところだ。

余計な慰めも、正しそうな説教もしない。

ただ、見たことだけを置いていく。

父ちゃんが粥をよそい、客へ出す。

常連は礼もそこそこに食べ始めた。

湯気が上がる。

箸が椀に当たる。

朝の店の音だ。

アタイは盃を棚へ戻した。

昨日、男が飲んだ盃はもう洗ってある。

他の盃と並べると、どれだったか分からない。

分からない方がいい。

そう思った直後、自分で嫌になる。

分からなくなれば楽だ。

混ざってしまえば、なかったことにできる。

昨日の盃も、昨日の男も、昨日のアタイも……

けれど、なかったことにはならない。

棚の奥には、蒙汗薬の紙包みがある。

昨日より少し軽くなったはずだ。

見なくても分かる。

店先では、客が粥をすすっている。

父ちゃんは包丁を置いた。

張青は戸口から道を見ている。

アタイは水桶のそばに立った。

手は震えていない。

声も普通に出る。

客前の笑い方も覚えている。

父ちゃんは片づいたと言った。

店も片づいた顔をしている。

けれど、アタイの中では何かが片づかないまま、置き場所だけ決まってしまった。

それが、一番嫌だった。

孫二娘でございますよォ。

「片づいた」って、便利な言葉だねェ。

床が乾けば、店は開く。

盃を戻せば、客は来る。

朝飯を出せば、昨日のことなんて誰も聞かない。

でもねェ……

アタイの中まで片づいたわけじゃない。

ただ、置き場所だけは決まっちまったのさ。

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