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戸口の男

孫二娘でございま〜す。

最近、少し嫌なことに気付きましてねェ。

最初の頃は怖がるだけで精一杯だったのに、今は客を見ながら心理学の言葉まで浮かぶんだよォ。

スキーマだの、認知の枠組みだの。

余裕が出たのか。

それとも、十字坡に染まったのか。

たぶん、どっちもなのさ。

昼前の道は、白く乾いていた。

風が吹くたび、戸口の土埃が薄く舞う。

アタイは水桶の脇で椀を拭いていた。 父ちゃんは奥で粥の火を見ている。

張青はいつもの低い台に座り、片足を投げ出していた。

まだ働ける足じゃない。

けれど、寝ているだけでもなくなった。

中途半端な男だと思う。

客でもない。

身内とも言い切れない。

怪我人なのに、やけに店の音を聞いている。

「お嬢」

張青が道を見たまま呼んだ。

「何さ」

「今日は風が悪いな」

「天気の話なら、外でやりなァ」

「外へ出られる足なら、そうする」

口だけは動く。

アタイは鼻で笑い、椀を棚へ戻した。

その時、道の向こうから男が二人歩いてきた。

片方は細い。

もう片方は肩が広い。

荷は軽い。

旅人というより、近くをうろついている男たちに見えた。

二人は店の前で足を止めた。

すぐには入らない。

暖簾もない戸口の前で、中を覗く。

父ちゃんと台所。

卓と階段。

そして、アタイ――

目が順に動く。

昨日までなら、嫌な見方だと思ったかもしれない。

今は、見方の種類まで分かる気がした。

欲しがっている目。

値踏みする目。

逃げ道を測る目。

誰が強いか探る目。

大学で何か聞いた事を思い出す。

スキーマだか、認知の枠組みだか、そんなやつだ。

一度覚えると、次から勝手に当てはめてしまう。

便利で、雑で、怖いやつ。

アタイは二人を見ながら、椀を置いた。

「やってるかい」

細い方が声をかけてきた。

明るい声だった。

肩の広い方は黙っている。

「見りゃ分かるだろォ」

アタイが返すと、細い方が笑った。

「きつい女だな」

「水なら出すよォ。悪口なら外で言いなァ」

父ちゃんは何も言わない。

包丁も持っていない。

ただ、奥で鍋を見ている。

二人が入ってくる。

細い男は先に笑う。

肩の広い男は、戸を越えたところで一度だけ止まった。

張青を見たのだ。

怪我人。

座っている男。

けれど、そこにいるだけで戸口の幅を少し狭くしている。

「二人かい」

アタイが聞く。

「ああ。酒と、何か食う物をくれ」

「先に水だよォ」

水を出すために背を向けかけると、張青が小さく咳をした。

わざとだ――

アタイは手を止めない。

水を汲み、椀を二つ出す。

卓へ置く。

細い男は壁際の席へ向かった。

肩の広い男は、その後ろに立つ。

座らない。

座らない客は、座った客より面倒なことがある。

父ちゃんが前に言っていた。

座れば、尻の位置が決まる。

立ったままだと、手がどこへ伸びるか分からない。

アタイは水を置きながら言った。

「座りなァ。立って飲む店じゃないよォ」

肩の広い男が笑った。

「姉ちゃんが酌してくれるなら座る」

「水なら置いた」

「酒も頼んだろ」

「酒は座って待ちな」

細い男が軽く手を振る。

「まあまあ。そう怒るなよ。旅の疲れでな」

旅の疲れ――

そう言った割に、二人の足は汚れていない。

荷も軽い。

腰の袋は薄い。

金を落とす客には見えない。

帰す客。

ただし、早めに帰す客。

そこまで考えた時、自分で少し嫌になった。

また分けている。

父ちゃんが奥から低く言った。

「二娘」

「分かってるよォ」

アタイは酒甕へ向かう。

蒙汗薬の棚は見なかった。

見る必要がない。

この二人は、帰さない客じゃない。

ただ、置き場所を間違えると店を荒らす。

盃を用意していると、張青がまた小さく言った。

「お嬢、奥へ通すな」

アタイは振り向いた。

「アンタに言われなくても分かってる」

「ならいい」

「なら黙ってなァ」

張青は肩をすくめた。

得意そうな顔はしない。

そこが少し腹立たしい。

酒を持って戻ると、肩の広い男がまだ立っていた。

アタイの通り道を塞ぐように、半歩だけ前へ出る。

わざとか。

たまたまか。

そう考える前に、身体が横へずれた。 盃は揺れない。

袖も触れさせない。

「おっと」

男が笑う。

「器用だな」

「こぼしたら、アンタに払わせるよォ」

「強い女は嫌いじゃない」

「アタイは面倒な客が嫌いだねェ」

細い男が声を立てて笑った。

肩の広い男は笑わなかった。

手だけが少し動く。

アタイの袖へ伸びる。

その手が届く前に、父ちゃんのカミナリが落ちた。

「酒はいらねぇな」

店の空気が変わった。

細い男の笑いが止まる。

肩の広い男も手を引いた。

「何だよ、親父」

「うちは飯を食う店だ。女に手を出す店じゃねぇ」

「触ってねぇだろ」

「触る前に帰れ」

父ちゃんは鍋の前に立ったままだった。

包丁も持っていない。

でも、声だけで奥の戸が閉まるような感じがした。

細い男が立ち上がる。

「客を追い返すのか」

「金を払う前なら、客じゃねぇ」

張青がそこで初めて笑った。

「正論だな」

「怪我人は黙ってなァ」

アタイが言うと、張青は口を閉じた。 けれど、目は戸口を見ている。

二人はしばらく睨んでいた。

それから細い男が舌打ちし、肩の広い男を押すようにして外へ出た。

「覚えてろよ」

よくある捨て台詞だった。

張青が道を見ながら答える。

「忘れた方が楽だぞ」

二人は振り返らなかった。

土埃の中へ消えていく。

店に静けさが戻った。

父ちゃんは何事もなかったように鍋へ戻る。

アタイは出し損ねた酒を持ったまま立っていた。

帰さない客じゃない。

金を落とす客でもない。

泊める客でもない。

ただ、戸口で止める客。

そんな置き場まで、いつの間にかできていた。

「お嬢」

張青が言った。

「何だい」

「怒ったか」

「当たり前だろォ。アタイの店でもないのに、横から口を出すんじゃないよ」

「そうか」

「そうか、じゃないよォ」

「けど、奥へ通さなくて正解だった」

アタイは盃を台へ置いた。

「だから、それはアタイも分かってたんだよォ」

「うん」

「うん、じゃない」

張青は少しだけ困った顔をした。

口が回るくせに、こういう時だけ妙に下手だ。

「戸口にいると、入る前の顔が見える」

アタイは黙った。

「中へ入った後の顔とは、少し違う。入る前は、まだ作ってねぇ」

張青は道の方を見たまま言う。

「お嬢は中で客を見る。親父さんは奥から見る。俺はここしか見えねぇ」

ここしか。

その言い方が、妙に引っかかった。

怪我をしている。

まともに立てない。

厨房へも入れない。

荷も運べない。

父ちゃんみたいに包丁も握れない。

アタイみたいに客席へ出ることもない。

だから、戸口を見る。

できることを見つけたわけじゃない。 できないことを削ったら、そこが残っただけだ。

それなのに、店の中で一つ役目になりかけている。

「張青」

父ちゃんが奥から呼んだ。

「はい」

張青の返事は、まだ少し硬い。

「しばらくそこにいろ」

「邪魔じゃなければ」

「邪魔ならどかす」

「分かりました」

父ちゃんはそれ以上言わなかった。

認めた、というほど優しい声ではない。

使える場所に置いた。

それだけだ。

でも、この店ではそれで十分だった。

アタイは酒を甕へ戻す。

盃を洗い、棚へ置く。

さっきの二人が座りかけた卓を拭く。

何も起きていない。

誰も倒れていない。

裏戸も閉まらない。

床を流す必要もない。

それなのに、店の形が少し変わった気がした。

父ちゃんは奥を見る。

アタイは客前を見る。

張青は戸口を見る。

役割分担。

また心理学っぽい言葉が浮かんで、すぐ消した。

そんな綺麗なものじゃない。

これは、もっと嫌なやつだ。

生き残るために、空いた場所へ身体を合わせていく。

合わせた場所が、いつの間にか自分の居場所になる。

アタイは水桶を持ち上げた。

「お嬢」

「今度は何さ」

「さっきの二人、戻ってくると思うか」

「来ないよォ」

「何で分かる」

「金がない。根性もない。あと、父ちゃんを見て目が逃げた」

張青は少し笑った。

「よく見てるな」

「アンタに言われたくないねェ」

店の外で、風がまた土埃を運んだ。

張青は戸口に座っている。

まだ、客でも身内でもないような顔で。

でも、通りから店を見た人間には、もう違って見えるのかもしれない。

戸口に男がいる。

奥に父ちゃんがいる。

中にアタイがいる。

十字坡の形が、勝手に整っていく。

アタイはそのことに腹を立てた。

少しだけ、安心もした。

その少しが、一番嫌だった。

孫二娘でございますよォ。

張青はまだ、まともに歩けない。

けど、戸口に座っているだけでも、見えるものがあるんだよねェ。

父ちゃんは奥を見る。

アタイは客前を見る。

張青は入ってくる前の顔を見る。

そうやって、誰かが場所にはまっていく。

十字坡ってのは、店じゃなくて罠みたいなもんなのさ。

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