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置き場所

孫二娘でございま〜す。


昨日、アタイは初めて蒙汗薬を使った。

さぞ眠れない夜になるかと思ったら、ちゃんと眠れて、夜明け前には普通に目まで覚めたんだよォ。


しかも店の奥では、もう父ちゃんが後片づけを始めてる。

見たくない。

でも朝の水は要るし、湯も沸かさなきゃ店は開かない。


こういう時、人間の頭って便利だねェ。

「店の仕事だから」って理由をつけると、嫌なことでも一歩だけ近づける。

……一歩だけ、のはずなんだけどさ。

今日は姉ちゃんまで三日ぶりに帰ってくる。


さて、昨日までと同じ朝に見える十字坡で――変わっちまったのは、いったい誰なんだろうねェ?

夜が明ける前に目が覚めた。

鶏の声はまだ聞こえず、外も暗い。

それなのに店の奥ではもう水が流れ、桶が置かれ、布を絞る音がしていた。その合間に、包丁が板へ触れる音まで混じっている。

アタイは寝台の上で、しばらく天井を見ていた。

昨日の男を思い出すと思った。

盃を持った手や、酒を飲み込んだ喉、やがて力を失った脚と、床へ落ちた小さな笛。

そんなものが真っ先に浮かぶはずだった。

けれど、最初に戻ってきたのは父ちゃんの声だった。

――間違えなかったな。

褒められたわけでも、慰められたわけでもない。

ただ事実を確かめるみたいに言われただけなのに、あの瞬間、胸の奥が確かに軽くなった。

蒙汗薬を入れたことより、その方が嫌だった。

寝台から起き、冷たい床へ足を下ろす。

戸へ手をかけたところで、アタイは一度だけ息を止めた。

奥の音はまだ続いている。

見に行くな、と頭のどこかが言った。

直接見なければ、まだ知らないふりができる。

触らなければ、自分は何もしていないと言えるかもしれない。

ところが、すぐ別の考えが浮かんだ。

台所の水桶が空なら朝の支度ができないし、湯が足りなければ店を開けられない。

店を開けるためなら、奥へ行くのも仕方がない。

……便利だねェ。

言い訳ってのは、必要になった途端いくらでも出てくる。

アタイは戸を開けた。

廊下は冷えていた。

奥へ近づくほど湿った匂いが濃くなる。

酒でも粥でも煮物でもない、昨日まで知らないふりをしていた匂いだった。

裏口の近くで父ちゃんが桶を持ち上げている。

袖をまくったまま、顔だけこちらへ向けた。

「起きたか」

「目が覚めただけだよォ」

「水を汲め」

それだけだった。

昨日の男について何も言わず、蒙汗薬の話もしない。

その後、何をどうしたのか説明する気もないらしい。

アタイも聞かなかった。

外へ出て井戸の縄を引くと、冷たさが掌へ食い込んだ。

桶を落とせば水面を打つ音がして、縄がずしりと重くなる。

引き上げたところで、また違和感があった。

重いはずなのに、以前ほど腕が悲鳴を上げない。

一杯目を台所へ運び、二杯目を裏へ持っていく。

三杯目を大きな甕へ移しても、息が切れるより先に身体が次の桶を取りに戻ろうとした。

「……やっぱり変だねェ」

「何がだ?」

裏戸の脇で、張青が壁にもたれていた。

足に巻いた布はまだ厚く、顔色も完全には戻っていないくせに、耳だけは相変わらずよく働くらしい。

「アンタに話してないよォ」

「独り言がでかいんだよ、二娘お嬢」

「病人は大人しく寝てなァ」

もう一度縄を引いた時、勢いがつきすぎて桶が井戸端へぶつかり、水が派手に跳ねた。

張青が眉を上げる。

「井戸まで壊すなよ」

「壊すか!」

桶は無事だった。

けれど、少し前ならこんな勢いで引き上げられなかった。

十七歳の身体が戻っているだけなのか、それとも元の孫二娘がこうだったのか。

心理学教授として生きた二十七年の次に、まさか筋力の再獲得まで自分で観察することになるとは思わなかったよォ。

しかも被験者、アタイ。

倫理審査はどこ行った。

父ちゃんが奥から声を飛ばした。

「湯を沸かせ」

「はいはい」

竈へ向かって薪を足す。火種へ息を吹きかけると赤いところが広がり、やがて小さな炎が立った。

湯が沸くまでの間に、父ちゃんが置いた布を洗う。

普通の布にしか見えない。ただ、いつもの布より少し重かった。

水へ沈めると薄く濁り、手が止まりかける。

見なければいいし、考えなければいい。

店で使った布を洗っているだけなのだから……

その時、大学で聞いた言葉が頭の端へ引っかかった。

認知的不協和――

自分がしたことと、自分が思っていた「自分」が噛み合わなくなった時、人はその不快感を減らそうとする。

仕方なかった、相手が悪かった、自分は間違っていないと理由を作れば、少しだけ楽になれる。

アタイは布を揉んだ。

力が入りすぎて、桶の縁から水が跳ねる。

昨日の男は、ただの旅人じゃなかった。

縄を持ち、刃物を隠し、油の染みた布と火打ち石まで持っていた。

だから間違っていない。

そう思えば、やっぱり楽になる。

楽になれる自分が、気持ち悪い。

「二娘」

父ちゃんに呼ばれ、布を絞って振り向いた。

「何だい」

「床を流せ」

裏の土間へ水を撒き、箒で溝の方へ押し流す。

薄暗い中で土の色が変わっていく横で、父ちゃんは包丁を研いでいた。

刃が砥石を擦る音が細く続く。

アタイはそちらを見なかった。

「見なくていい」

父ちゃんが言う。

「見てないよォ」

「なら、それでいい」

それでいい――

その言葉が胸に刺さる。

見ないままでも役には立てる。

直接手を下さなくても、水を汲んで湯を沸かし、布を洗って床を流せば後始末は進む。

全部、店の仕事だと言えてしまう。

一つずつなら、大したことではない。

昨日の夢で見た講義と同じだった。

どこかで突然、大きな一線を飛び越えたわけじゃない。

足元に置かれた小さな段差を、そのたびに「これくらいなら」と越えてきただけだ。

裏口の戸が鳴った。

父ちゃんも驚かない。

こんな時間に勝手口から入ってくる人間なんて、だいたい決まっているらしい。

「おはよう」

姉ちゃんだった。

三日ぶりだ。

朝っぱらから嫁ぎ先を出てきた二十歳の既婚女性は、挨拶を終えるなり裏の床を見て、洗い終えた布へ目を移し、最後に父ちゃんの手元を確かめた。

「終わった?」

「ああ」

それだけで話が通じた。

姉ちゃんは濡れた桶を取ると、水の残りを確かめてから脇へ寄せた。

「二娘、そこはもういいよ。米甕見てきな」

「……何も聞かないの?」

「何を?」

本気で分からない顔をされた。

「昨日のこと」

姉ちゃんは一瞬だけアタイを見たあと、手にしていた布を広げた。

「二娘が話したいなら聞くよ」

「そうじゃなくてさ」

「なら、今はいいだろ」

扱いに迷いがない。

姉ちゃんも知っている。

たぶん、アタイよりずっと前から、この店の朝が何を片づけているのか知っていた。

それでも今のアタイから無理に聞き出そうとはしない。

優しい。

優しいから、余計に怖い。

「大娘お嬢、朝から働くなぁ」

張青が戸口から声をかけた。

姉ちゃんは振り返りもせずに答える。

「怪我人に言われたくないね。あんたは座ってな」

「座ってるだろ」

「なら口も休ませな」

「そこまで仕事止められるのか?」

「口が仕事ならね」

張青は本当に黙り込み、アタイは思わず吹き出しそうになった。

やっぱり姉ちゃんは強い。

親分より親分だよ、この人。

笑いかけて、すぐ胸の奥がざらつく。

こんな朝でも笑える。

昨日、アタイが蒙汗薬を入れた男がこの店から消えた、その翌朝なのに。

姉ちゃんは何事もなかったように米甕の蓋を開け、残りを見て顔をしかめた。

「親分、これじゃ足りないよ。今日のうちに一袋増やしな」

「昨日入れたばっかだぞ」

「客が増えてるんだから減るのも早いだろ。二娘が店に立つようになってから昼の入りも増えてるしね」

「姉ちゃん、それ今言う?」

「事実だろ?」

またアタイの顔が売上に計上された。

昨日は蒙汗薬で、今日は米。

十字坡、経営管理だけ妙に現実的すぎるよォ。

父ちゃんは結局反論せず、仕入れを増やすことにした。

その頃には空が少しずつ明るくなっていた。

裏戸を閉めた父ちゃんが掛け金を下ろし、手を洗って厨房へ戻る。

「片づいた」

短い声だった。

アタイは返事をしなかった。

胃がひっくり返るかもしれないと思っていた。

膝が震えたり、吐き気に襲われたりするのかもしれないとも考えていた。

何も起きない。

ただ、そろそろ店を開ける時間だと思った。

それが怖かった。

父ちゃんが粥の鍋を火へかけ、姉ちゃんは手早く卓を拭き始める。

張青はいつもの戸口の台へ腰を下ろし、アタイは椀を並べて水を汲み直した。

昨日と同じ朝が始まる。

本当は同じじゃないのに、店は昨日までと同じ顔をしていた。

最初の客は、近くの畑へ向かう常連だった。

眠そうな顔で入ってきて、いつもの席へ座る。

「二娘ちゃん、水くれ」

「はいよォ」

普通の声が出て、手も止まらない。

客は何も気づかなかった。

床はきれいになり、匂いもほとんど残っていない。

父ちゃんは鍋を見て、姉ちゃんは帳面を開き、張青は戸口にいる。

アタイだけが知っている。

いや、知っていると言っていいのかも分からない。

見たわけではない。

音を聞き、必要な物を運び、汚れた布と床を洗っただけだ。

それなのに、常連の手元へ目が向いた。

草鞋から腰の袋へ視線が移り、戸口を気にする様子まで追っている。

昨日より早く判断できた。

この客は帰す。

金は大して持っていないし、腹を空かせているだけだ。

朝酒を頼んでも長居はせず、そのまま畑へ戻る。

そこまで考えたところで、息が止まった。

昨日のことを怖がるより先に、次の客を見分けていた。

帰すのか、泊めるのか、金を落として帰すのか、それとも帰さないのか。

頭の中には、客を振り分けるための置き場所が勝手にできていた。

「二娘お嬢」

張青が小さく呼んだ。

アタイは振り向かない。

「何さ?」

「今日は、顔に出てねぇな」

水差しを持つ手へ、ほんの少し力が入った。

「いいことじゃないかい」

「そうかもな」

それ以上、張青は何も言わなかった。

そこが、この男の嫌なところだ。

余計な慰めも、正しそうな説教もしない。

ただ、見たことだけ置いていく。

父ちゃんが粥をよそい、姉ちゃんが客へ運ぶ。

湯気が上がり、箸が椀に当たった。

いつもの朝の音だった。

アタイは洗った盃を棚へ戻す。

昨日、あの男が飲んだ盃も、もう洗ってある。

他の盃と並べれば、どれだったのか分からない。

分からない方がいい。

そう思った自分が、また嫌になる。

昨日の盃も、昨日の男も、昨日のアタイも、全部いつもの店の中へ混ざってしまえば楽なのだ。

なかったことにはできないのに。

棚の奥には蒙汗薬の紙包みがある。

昨日より少し軽くなったはずだ。

見なくても分かる。

店先では客が粥をすすり、父ちゃんは包丁を置いた。

張青は戸口から道を見ていて、姉ちゃんは何事もなかったみたいに、足りない米の量を帳面へ書き込んでいる。

アタイは水桶のそばに立った。

手は震えず、声も普通に出る。

客前の笑い方まで、もう身体が覚えている。

父ちゃんは、片づいたと言った。

店も、きれいに片づいた顔をしている。

けれどアタイの中では、何一つ片づかないまま――

置き場所だけが決まってしまった。

それが、一番嫌だった。

孫大娘と孫二娘、二人合わせて孫姉妹で〜す!


「姉ちゃん、張青に『今日は顔に出てない』って言われた」

「上達したじゃないか」

「だから、その上達を褒めるなァ!」


昨日は蒙汗薬を入れるだけで顔が固まってたのに、今日はもう客を見た瞬間、帰すかどうか考えてた。


「仕事が身についてきたんだねぇ」

「言い方!」


しかも姉ちゃんは朝から米の残りを数えてるし、父ちゃんは「片づいた」で終わらせるし、十字坡だけ通常営業なんだよォ。


「店なんだから当たり前だろ?」

「その当たり前が怖いの!」


……次に怖いのは、アタイまでそれを当たり前だと思い始めた時かもしれないねェ?

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