しばらくそこにいろ
孫二娘でございま〜す。
昨日は客を見分けられるようになったと思ったら、今日は張青が戸口で勝手に客を見てる。
いや、怪我人なんだけどねェ?
まともに歩けないくせに、目と口だけは妙に働くんだよォ。
しかも姉ちゃんは朝から帳面を広げてるし、父ちゃんは何も言わずに鍋を見てるし、気づけば店の中でそれぞれ立つ場所が決まり始めてる。
こういうの、昔なら「役割形成」とか講義で説明してたのかもしれない。
でも実際に自分がその中へ入ると、あんまり綺麗な話じゃないねェ。
さて――今日は張青の居場所まで、勝手に決まりそうだよォ?
昼前の道は、白く乾いていた。
風が吹くたびに戸口の土埃が薄く舞い、店の中まで細かな砂が入り込んでくる。
アタイは水桶の脇で椀を拭きながら、何度目か分からないため息をついた。
父ちゃんは奥で粥の火を見ている。
姉ちゃんは朝から残っていて、帳面を片手に米と酒の残りを数えていた。
嫁ぎ先がある二十歳の既婚女性が、実家の在庫管理へここまで本気になる必要あるのかねェ?
そして張青は、いつもの低い台に座って片足を投げ出している。
傷は良くなってきたが、まだ働ける足ではない。
かといって、もう寝ているだけの怪我人でもなかった。
客でもなければ、まだ身内とも言い切れない。
それなのに、やけに店の音だけは聞いている中途半端な男だ。
「二娘お嬢」
張青が道を見たまま呼んだ。
「何さ?」
「今日は風が悪いな」
「天気の話なら外でやりなァ」
「外へ出られる足ならそうする」
口だけは元気らしい。
アタイが鼻で笑って椀を棚へ戻した時、道の向こうから男が二人歩いてきた。
一人は細身で、もう一人は肩が広い。
どちらも荷は軽く、長旅をしてきた人間には見えない。
二人は店の前まで来ると、すぐには入らなかった。
戸口から中を覗く。
父ちゃんのいる厨房を見て、卓の並びを確かめ、階段と裏へ続く戸へ視線を滑らせる。
次に張青、そのあとで姉ちゃん、最後にアタイへと、視線が順番に動いた。
以前なら、嫌な見方をする男たちだと思っただけかもしれない。
今は違う。
欲しがっている目なのか、値踏みしているのか、逃げ道を測っているのか、それとも店の中で誰が一番厄介なのか探しているのか。
見方の種類まで分かる気がする。
大学で聞いた何かが頭に浮かんだ。
スキーマ――認知の枠組み。
一度できた枠組みは、新しく入ってきた情報を勝手にそこへ当てはめる。
便利だけど、雑で、間違えると危ない。
その説明を学生にしていた頃のアタイなら、「だから自分の判断を疑いましょう」とでも言ったんだろう。
今は客を見て、帰すかどうか考えている。
実践編が物騒すぎるよォ……
「やってるかい?」
細い方が明るく声をかけてきた。
肩の広い男は黙っている。
「見りゃ分かるだろォ」
アタイが返すと、細い男が笑った。
「きつい女だな」
「水なら出すよォ。悪口なら外で言いなァ」
姉ちゃんが帳面から顔を上げた。
一瞬だけ二人を見る。
何も言わず、また米の数字へ目を戻した。
たぶん、もう見ている。
何を見たのかは聞きたくない。
二人が店へ入ってきた。
細い男はすぐに卓へ向かったが、肩の広い方は戸を越えたところで一度止まり、張青を見た。
怪我をして座っているだけの男なのに、戸口のすぐ脇に一人いるだけで、出入りできる幅が少し狭く見える。
張青は何もせず、ただ座っている。
それだけなのに、肩の広い男は一度だけ足の位置を変えた。
「二人かい?」
アタイが聞いた。
「ああ……酒と、何か食う物をくれ」
「先に水だよォ」
水を取りに背を向けかけた時、張青が小さく咳をした。
わざとだ。
アタイは振り向かなかった。
二つの椀へ水を入れて卓へ運ぶと、細い男は壁際へ座ったが、肩の広い方はその後ろに立ったままだった。
座らない客は面倒なことがある。
前に父ちゃんから教えられた。
座れば尻の位置が決まる。
立ったままなら、次に手がどこへ伸びるのか分からない。
「座りなァ。立って飲む店じゃないよォ」
肩の広い男が笑う。
「姉ちゃんが酌してくれるなら座る」
「水なら置いた」
「酒も頼んだだろ?」
「酒は座って待ちな」
細い男が手を振った。
「まあまあ、そう怒るなよ。旅の疲れでな」
旅の疲れ。
そう言う割に、二人の草鞋は大して汚れていない。
荷も軽く、腰の袋も薄かった。
金を落とす客には見えない。
長居させず、早めに帰す客だ。
そこまで考えてから、また気づく。
もう普通に分けている。
昨日は、それが怖かった。
今日は怖がるより先に答えが出た。
「二娘」
父ちゃんが奥から呼んだ。
「分かってるよォ」
酒甕へ向かう。
棚の奥に蒙汗薬がある。
でも、見なかった。
見なくても場所は分かっている。
この二人は、そこへ入れる客じゃない。
ただし、扱いを間違えれば店を荒らす。
そう判断できた自分に、もう昨日ほどの抵抗がなかった。
「二娘お嬢」
張青が声を抑えた。
「何さ?」
「奥へ通すな」
アタイは振り向く。
「アンタに言われなくても分かってる」
「ならいい」
「なら黙ってなァ」
張青は肩をすくめた。
得意そうな顔をしないのが少し腹立つ。
酒を持って戻ると、肩の広い男はまだ立ったままだった。
アタイの通り道を塞ぐように、半歩前へ出る。
わざとかどうか考えるより先に、身体が横へずれた。
盃は揺れない。
袖にも触れさせない。
「おっと」
男が笑った。
「器用だな」
「こぼしたらアンタに払わせるよォ」
「強い女は嫌いじゃない」
「アタイは面倒な客が嫌いだねェ」
細い男が声を立てて笑った。
肩の広い男は笑わない。
その手だけが、アタイの袖へ伸びた。
届く前に、横から手首を掴まれた。
「そこまでにしな」
姉ちゃんだった。
いつの間に帳面を置いたのか分からなかった。
肩の広い男の手首を片手で押さえたまま、にこりともしていない。
「何すんだ!」
「こっちの台詞だよ。うちの二娘に何しようとした?」
「まだ触ってねぇ!」
「じゃあ、その手は何しに伸びたんだい?」
男が腕を引こうとした。
姉ちゃんは離さない。
細い男の笑いも止まった。
アタイは一瞬だけ呆然とした。
ほぼ客商売の看板娘みたいな顔してるくせに、手首一つで男を止めるなよ。
いや、姉ちゃんだから止めるんだけど。
「大娘」
父ちゃんが呼んだ。
「分かってるよ、父ちゃん」
姉ちゃんは男の手を放した。
ただし、押し返す時に少し力を入れたらしく、肩の広い男が一歩よろめいた。
「酒はいらねぇな」
父ちゃんが言った。
店の空気が変わる。
「何だよ、親父」
「うちは飯を食う店だ。女に手を出す店じゃねぇ」
「触ってねぇだろ!」
「触る前に帰れ」
父ちゃんは鍋の前に立ったままだ。
包丁すら持っていない。
それでも二人は厨房の方へ進もうとしなかった。
細い男が立ち上がる。
「客を追い返すのか?」
「金を払う前なら客じゃねぇ」
張青が吹き出した。
「そりゃそうだ」
「怪我人は黙ってな」
今度は姉ちゃんに言われ、張青が本当に黙る。
その素直さを普段から見せろ。
二人はしばらくこちらを睨んでいたが、やがて細い男が舌打ちし、肩の広い男を押すようにして外へ出た。
「覚えてろよ」
よくある捨て台詞だ。
張青が戸口から答える。
「忘れた方が楽だぞ」
「アンタは余計なこと言うなァ!」
二人は振り返らず、土埃の向こうへ消えていった。
店に静けさが戻る。
父ちゃんは何事もなかったように鍋へ戻り、姉ちゃんも帳面を拾った。
「二娘、大丈夫?」
「触られてもないよォ」
「ならいい」
それだけ確認すると、もう米の残りを数え始める。
切り替え早すぎるだろ。
アタイは出し損ねた酒を持ったまま立っていた。
帰さない客でも、金を落とす客でも、泊める客でもない。
店へ入れてしまってもいいけれど、奥には通さず、面倒を起こす前に戸口から出す客。
そんな置き場所まで、いつの間にか頭の中に増えていた。
「二娘お嬢」
張青が言った。
「今度は何だい」
「怒ったか?」
「当たり前だろォ。アタイの店でもないのに横から口を出すんじゃないよ」
父ちゃんが鍋を混ぜながら言う。
「誰の店だと思ってんだ」
「今その話してない!」
姉ちゃんが笑った。
「そのうち二娘の店になるかもしれないけどね」
「姉ちゃんまで話を増やすなァ!」
張青だけが少し困った顔をした。
「でも、奥へ通さなくて正解だった」
「だから、それはアタイも分かってたんだよォ」
「うん」
「うん、じゃない」
口が回るくせに、こういう時だけ妙に下手だ。
張青は道へ目を戻した。
「戸口にいると、入る前の顔が見えるんだよ」
アタイは黙る。
「中へ入った後とは少し違う。入る前は、まだ客の顔を作ってねぇ」
なるほどと思ってしまった。
張青は続ける。
「二娘お嬢は中で客を見る。親父さんは奥から見てる。大娘お嬢は……全部見てる」
「何だい、その雑な分け方は」
姉ちゃんが帳面から顔を上げた。
「間違ってるか?」
張青が聞く。
姉ちゃんは少し考えた。
「まあ、だいたい合ってるね」
合ってるのかよ。
「俺はここしか見えねぇ」
張青が、自分の悪い足を軽く叩いた。
怪我をしていて、まともに立てない。
厨房にも入れず、荷も運べない。
だから戸口を見る。
できることを探したというより、できないことを削っていったら、そこだけ残ったのかもしれない。
それなのに今、それが店の中で役目になりかけている。
「張青」
父ちゃんが呼んだ。
「はい」
返事には、まだ少しだけ硬さが残っていた。
「しばらくそこにいろ」
張青が戸口を見回す。
「邪魔じゃなければ」
「邪魔ならどかす」
「分かりました」
父ちゃんはそれ以上言わない。
認めた、なんて優しい話じゃない。
使える場所へ置いただけだ。
でも、この店ではそれで十分だった。
姉ちゃんが帳面へ何か書きながら言う。
「じゃあ戸口は張青に見させるか。二娘が仕入れへ出る時にも使えるしね」
「待て待て待て!」
張青が初めて慌てた。
「俺、まだここで働くって言ってないぞ?」
「その話、まだしてたのかい?」
「俺には重要なんだよ!」
姉ちゃんは首を傾げる。
「飯食って、寝床使って、仕事までできたんだから、もう半分働いてるだろ?」
「勝手に雇用関係を成立させるな!」
アタイは思わず笑った。
数日前なら、張青の言うことに全面的に同意したはずだ。
なのに今は、
――戸口にこいつがいる方が楽だ。
そう思ってしまった。
ちょうどその時、姉ちゃんが米袋を指差した。
「二娘、それ向こうへ寄せて」
「はいよォ」
袋の端を掴んで持ち上げる。
持ち上がった。
自分でも驚くほど簡単に。
姉ちゃんが目を丸くする。
「二娘、力戻ってきたね」
「やっぱりこれ普通じゃないの!?」
「昔はそれくらい持ってたよ」
聞きたくなかった。
身体まで十字坡へ馴染むな。
アタイは米袋を下ろした。
父ちゃんが奥を見て、姉ちゃんが店全体を回し、アタイが客前を見る。
そして張青は戸口を見る。
役割分担。
そんな言葉が浮かんだ。
でも、講義で教えていたような綺麗な話じゃない。
人間は、生きるために空いた場所へ身体を合わせる。
できることを覚え、できないことを捨て、その場所に必要な役割へ少しずつ形を変えていく。
そして、合わせ続けた場所が――いつの間にか自分の居場所になる。
風がまた、道の土埃を運んできた。
張青は戸口に座っている。
まだ客でも、完全な身内でもない。
それでも通りからこの店を見た人間には、もうそうは見えないのかもしれない。
戸口に張青がいる。
奥には父ちゃんがいて、姉ちゃんが店を回し、その間でアタイが客を迎える。
十字坡の形が、勝手に整っていく。
腹が立った。
なのに、さっきの二人が入ってきた時より、今の方が少しだけ安心している。
その安心が何を意味するのか、アタイはもう知っていた。
だから――
その少しが、一番嫌だった。
孫大娘と孫二娘、二人合わせて孫姉妹で〜す!
「姉ちゃん、張青がとうとう戸口の担当になった」
「とうとうっていうほど大げさかい? 座って客を見てるだけだろ」
「本人はまだ雇われた覚えがないって言ってるよォ」
「飯食って寝床使って仕事までしてるなら、十分じゃないか」
「それを世間では勝手に就職させたって言うんだよ!」
しかも父ちゃんまで「しばらくそこにいろ」で済ませるし、姉ちゃんはもう仕入れの時に使う気満々だし……
「使えるなら使うよ」
「怖い経営者だねェ!」
でもさ。
戸口に張青がいると、少しだけ安心するんだ。
「なら、もう居場所できてるじゃないか」
……姉ちゃん、それ以上は黙っててくれない?




