勘定
孫二娘でございま〜す。
今回は、勘定の話だよォ。
酒を薄める。
饅頭を少し小さくする。
良い客には、良い声と良い酒を出す。
心理学っぽく言えば、損得で人の見え方が変わるってやつかねェ。
怖いのは、商売って言葉が便利すぎることなのさ。
昼を過ぎると、客の入り方が変わる。
朝は腹を満たす者が多い。
昼は足を休める者が増える。
夕方に近づけば、泊まりか、酒か、それとも別の何かを目当てにした者が混じる。
前は、そんな違いなど考えもしなかった。
椀を出し、水を足し、笑う。
嫌なら目を逸らす。
それだけで済むと思っていた。
今は違う。
戸口を越えた時の足。
腰の袋の膨らみ。
草鞋の減り方。
連れの数。
酒を頼む声の張り。
勝手に目が拾ってしまう。
張青は戸口の台に座っていた。
父ちゃんは奥で饅頭の具を刻んでいる。
アタイは水場で盃を拭いていた。
「二娘」
父ちゃんが呼ぶ。
「何だい」
「甕の小さい方、使え」
「客も来てないのにかい」
「来る」
そう言ったきり、父ちゃんは包丁を動かした。
まったく――
天気を見るように客を読む。
アタイが小さい甕の蓋を開けると、少し軽い酒の匂いがした。
薄い――
悪くはない。
けれど、良い酒ではない。
前なら気にしなかった。
酒なんて酒だと思っていた。
でも今は、甕の違いが分かる。
誰へ何を出すかまで、店の中で決まっている。
しばらくして、三人組の男が入ってきた。
服は汚れている。
荷はある。
けれど、腰の袋は薄い。
一番前の男だけ声が大きく、後ろの二人は店の中を見ていない。
腹が減っている顔だ。
危ない客ではない。
帰さない客でもない。
金を落とす客でもない。
長居しそうな客だった。
「酒だ。あと、食うもんをくれ」
先頭の男が言った。
「先に水だよォ」
アタイは水を三つ置く。
男たちは礼も言わずに飲んだ。
喉の鳴り方で、朝から何も入れていないのが分かる。
父ちゃんは奥から饅頭を出した。
いつものより少し小さい。
皿に乗る数は同じだ。
でも、一つずつが軽い。
男たちは気づかない。
気づく余裕もない。
アタイは酒を注いだ。
小さい甕の酒。
三つの盃へ、きっちり同じ量。
多くも少なくもない。
「姉ちゃん、もっと景気よく入れてくれよ」
先頭の男が笑う。
「景気がいいなら、先に銭を見せなァ」
「きついな」
「腹が減ってるんだろォ。喋るより食いな」
男は文句を言いながら饅頭へかぶりついた。
後ろの二人もすぐ続く。
張青が戸口からこちらを見る。
何も言わない。
ただ、今の客をどう見たか、確かめているような目だった。
嫌な男だ。
黙っているのに、口を出してくる。
男たちは酒を二度頼んだ。
一度目と同じ甕から注ぐ。
二度目は少しだけ水を足した。
自分の手が、迷わなかった。
そのことに気づいて、指先が冷えた。
少し前までなら、酒を薄めるなんて悪いことだと思ったかもしれない。
今は違う。
この客たちは味を見ていない。
酔えればいい。
腹が膨れればいい。
それで払える銭も少ない。
なら、これでいい。
そう考えた。
心理学じゃない。
ただの損得勘定だ。
いや、こういうのも何か名前があったかもしれない。
人は得した気になると財布を緩めるとか、損したと思うと急に怒るとか。
大学で聞いた気もする。
でも、名前なんて要らなかった。
十字坡では、名前より銭の音の方が早い。
男たちは食べ終えると、しばらく卓に腕を乗せていた。
動く気配がない。
まだ居座るつもりだ。
アタイは水を足しに行くふりをして、空いた皿を下げた。
「まだ食うかい」
「いや、もういい」
「じゃあ、卓を空けなァ。次の客が来る」
「まだ客なんかいないだろ」
「来るんだよォ」
男は面倒くさそうに腰を上げた。
銭を卓へ置く。
少ない。
でも、足りないほどではない。
父ちゃんは見もしない。
アタイが数えた。
一枚、二枚、三枚。
酒と饅頭。
水は取らない。
席代も取らない。
泊まりもしない。
少し残る。
それだけだった。
三人が出ていくと、張青が低く言った。
「上手く追い出したな」
「追い出してないよォ」
「言い方を変えただけだ」
「怪我人は細かいねェ」
「暇だからな」
アタイは皿を洗った。
油は少ない。
具も少ない。
酒も薄い。
それでも客は腹を満たして帰った。
店は損をしていない。
損をしていない。
その言い方が、妙に腹へ残った。
次に来たのは、一人の旅人だった。
服は古いが、手入れされている。
草鞋はよく減っている。
腰の袋は重そうで、音がしない。
銭を持っている者は、あまり鳴らさない。
男は戸口で軽く頭を下げた。
「休ませてもらえるか」
「水ならすぐ出すよォ」
「ありがたい」
声が穏やかだった。
目は店の奥へ走らない。
アタイの顔を見ても、長く止まらない。
卓を選ぶ時も、戸口に近い席へ素直に座った。
金を落とす客。
それも、荒らさない客。
アタイは大きい甕の蓋を開けた。
香りが立つ。
さっきの酒とは違う。
盃も、少し良いものを選んだ。
縁が欠けていないやつだ。
饅頭も、形の良いものを二つ。
「酒はいるかい」
「少しだけ」
「少しで済むかねェ」
男は苦笑した。
「いい酒なら、もう少し頼むかもしれん」
「なら、いい酒を出すよォ」
アタイは自分で言ってから、嫌になった。
声が柔らかかった。
客前の声だ。
しかも、さっきの三人に出した声とは違う。
張青がこちらを見ている。
父ちゃんも奥で包丁を止めていた。
見ないでほしい。
そう思った。
でも、手は止まらない。
男は酒を飲み、饅頭を食べた。
急がず、盃を置く音も静かだった。
二杯目を頼む時、ちゃんと銭を添えた。
「泊まりもできるか」
「部屋は空いてるよォ」
「では頼む」
「馬は?」
「外にいる。あとで水をやりたい」
「裏へ回しなァ。張青、見てやりな」
張青が少し眉を上げた。
「俺か」
「戸口の男なんだろォ」
「まだ馬までは見えねぇ」
「見えるようになりなァ」
張青は苦笑しながら立とうとした。
足が痛むのか、少し顔を歪める。
旅人がすぐ手を出した。
「無理はしなくていい」
「怪我人を働かせる店なんでね」
張青がそう言うと、父ちゃんが奥から短く笑った。
旅人は余計な詮索をしなかった。
金を払い、馬を裏へ回し、部屋へ上がった。
アタイは卓を拭きながら、残った銭を見た。
さっきの三人よりずっと多い。
使った酒も饅頭も違う。
それでも、こちらの方がよく残る。
当たり前だ。
当たり前なのに、妙に嫌だった。
客によって、水の出し方が変わる。
酒の甕が変わる。
饅頭の大きさが変わる。
声の柔らかさまで変わる。
全部、店のためだ。
「二娘」
父ちゃんが呼んだ。
「何さ」
「今のは泊めていい」
「分かってるよォ」
「前の三人は、よく残さず帰した」
褒めているのかと思った。
違う――
父ちゃんの声はいつも通りだった。
使えるかどうかを見ているだけだ。
「損はしてないだろォ」
アタイが言うと、父ちゃんは初めてこちらを見た。
「そうだ」
その一言で、胸の奥が少し軽くなった。
まただ。
認められると、楽になる。
間違っていないと言われると、息がしやすくなる。
あの時もそうだった。
その前も、たぶんそうだった。
アタイは盃を強く拭いた。
「お嬢」
張青が戻ってきた。
「何さ」
「馬は大人しい。客もたぶん大人しい」
「たぶん、で商売されちゃ困るねェ」
「お嬢だって、たぶんで酒を変えただろ」
返す言葉が一瞬詰まった。
「見てたのかい」
「戸口からでも、そのくらいは見える」
「嫌な男だねェ」
「よく言われる」
「誰に」
「今、お嬢に」
ふざけた返しに、少しだけ笑いそうになった。
笑わなかった。
棚の奥には蒙汗薬がある。
今日は使わなかった。
裏戸も閉まらない。
床も流さない。
ただ、客を見て、出す物を変えただけだ。
それだけなのに、前より店の役に立った気がした。
十字坡は、人を殺すだけの場所じゃない。
飯を出し、酒を売り、泊める。
場合によっては追い返す。
そして、損を避ける。
取れるところから取る。
その全部があって、最後に裏戸がある。
アタイはその順番を、少しずつ覚えている。
店先では、夕方の光が斜めに差していた。
張青は戸口に戻る。
父ちゃんは奥へ引っ込む。
アタイは水差しを満たす。
次の客が来たら、また見る。
帰すか、泊めるか、金を落とすか、荒らすか。
頭の中で、置き場所が勝手に開く。
アタイは商売を覚えている。
そう思った瞬間、胃の奥が重くなった。
商売――
便利な言葉だ。
何でも包める。
薄い酒も、小さい饅頭も、柔らかい声も。
帰さない客さえ、いつかその中へ入ってしまう気がした。
アタイは甕の蓋を閉めた。
音は、思ったより軽かった。
孫二娘でございますよォ。
人を見る目って、一度変わると戻らないんだねェ。
銭を数えて、席を空けて、泊める相手を決める。
それだけなら、ただの店仕事に見えるだろォ。
心理学っぽく言えば、合理化ってやつかもしれない。
でも十字坡では、もっと短い。
覚えた――
それで済んじまうのさ。




