↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
22/55

しばらくそこにいろ

孫二娘でございま〜す。


昨日は客を見分けられるようになったと思ったら、今日は張青が戸口で勝手に客を見てる。


いや、怪我人なんだけどねェ?

まともに歩けないくせに、目と口だけは妙に働くんだよォ。


しかも姉ちゃんは朝から帳面を広げてるし、父ちゃんは何も言わずに鍋を見てるし、気づけば店の中でそれぞれ立つ場所が決まり始めてる。


こういうの、昔なら「役割形成」とか講義で説明してたのかもしれない。

でも実際に自分がその中へ入ると、あんまり綺麗な話じゃないねェ。


さて――今日は張青の居場所まで、勝手に決まりそうだよォ?

昼前の道は、白く乾いていた。

風が吹くたびに戸口の土埃が薄く舞い、店の中まで細かな砂が入り込んでくる。

アタイは水桶の脇で椀を拭きながら、何度目か分からないため息をついた。

父ちゃんは奥で粥の火を見ている。

姉ちゃんは朝から残っていて、帳面を片手に米と酒の残りを数えていた。

嫁ぎ先がある二十歳の既婚女性が、実家の在庫管理へここまで本気になる必要あるのかねェ?

そして張青は、いつもの低い台に座って片足を投げ出している。

傷は良くなってきたが、まだ働ける足ではない。

かといって、もう寝ているだけの怪我人でもなかった。

客でもなければ、まだ身内とも言い切れない。

それなのに、やけに店の音だけは聞いている中途半端な男だ。

「二娘お嬢」

張青が道を見たまま呼んだ。

「何さ?」

「今日は風が悪いな」

「天気の話なら外でやりなァ」

「外へ出られる足ならそうする」

口だけは元気らしい。

アタイが鼻で笑って椀を棚へ戻した時、道の向こうから男が二人歩いてきた。

一人は細身で、もう一人は肩が広い。

どちらも荷は軽く、長旅をしてきた人間には見えない。

二人は店の前まで来ると、すぐには入らなかった。

戸口から中を覗く。

父ちゃんのいる厨房を見て、卓の並びを確かめ、階段と裏へ続く戸へ視線を滑らせる。

次に張青、そのあとで姉ちゃん、最後にアタイへと、視線が順番に動いた。

以前なら、嫌な見方をする男たちだと思っただけかもしれない。

今は違う。

欲しがっている目なのか、値踏みしているのか、逃げ道を測っているのか、それとも店の中で誰が一番厄介なのか探しているのか。

見方の種類まで分かる気がする。

大学で聞いた何かが頭に浮かんだ。

スキーマ――認知の枠組み。

一度できた枠組みは、新しく入ってきた情報を勝手にそこへ当てはめる。

便利だけど、雑で、間違えると危ない。

その説明を学生にしていた頃のアタイなら、「だから自分の判断を疑いましょう」とでも言ったんだろう。

今は客を見て、帰すかどうか考えている。

実践編が物騒すぎるよォ……

「やってるかい?」

細い方が明るく声をかけてきた。

肩の広い男は黙っている。

「見りゃ分かるだろォ」

アタイが返すと、細い男が笑った。

「きつい女だな」

「水なら出すよォ。悪口なら外で言いなァ」

姉ちゃんが帳面から顔を上げた。

一瞬だけ二人を見る。

何も言わず、また米の数字へ目を戻した。

たぶん、もう見ている。

何を見たのかは聞きたくない。

二人が店へ入ってきた。

細い男はすぐに卓へ向かったが、肩の広い方は戸を越えたところで一度止まり、張青を見た。

怪我をして座っているだけの男なのに、戸口のすぐ脇に一人いるだけで、出入りできる幅が少し狭く見える。

張青は何もせず、ただ座っている。

それだけなのに、肩の広い男は一度だけ足の位置を変えた。

「二人かい?」

アタイが聞いた。

「ああ……酒と、何か食う物をくれ」

「先に水だよォ」

水を取りに背を向けかけた時、張青が小さく咳をした。

わざとだ。

アタイは振り向かなかった。

二つの椀へ水を入れて卓へ運ぶと、細い男は壁際へ座ったが、肩の広い方はその後ろに立ったままだった。

座らない客は面倒なことがある。

前に父ちゃんから教えられた。

座れば尻の位置が決まる。

立ったままなら、次に手がどこへ伸びるのか分からない。

「座りなァ。立って飲む店じゃないよォ」

肩の広い男が笑う。

「姉ちゃんが酌してくれるなら座る」

「水なら置いた」

「酒も頼んだだろ?」

「酒は座って待ちな」

細い男が手を振った。

「まあまあ、そう怒るなよ。旅の疲れでな」

旅の疲れ。

そう言う割に、二人の草鞋は大して汚れていない。

荷も軽く、腰の袋も薄かった。

金を落とす客には見えない。

長居させず、早めに帰す客だ。

そこまで考えてから、また気づく。

もう普通に分けている。

昨日は、それが怖かった。

今日は怖がるより先に答えが出た。

「二娘」

父ちゃんが奥から呼んだ。

「分かってるよォ」

酒甕へ向かう。

棚の奥に蒙汗薬がある。

でも、見なかった。

見なくても場所は分かっている。

この二人は、そこへ入れる客じゃない。

ただし、扱いを間違えれば店を荒らす。

そう判断できた自分に、もう昨日ほどの抵抗がなかった。

「二娘お嬢」

張青が声を抑えた。

「何さ?」

「奥へ通すな」

アタイは振り向く。

「アンタに言われなくても分かってる」

「ならいい」

「なら黙ってなァ」

張青は肩をすくめた。

得意そうな顔をしないのが少し腹立つ。

酒を持って戻ると、肩の広い男はまだ立ったままだった。

アタイの通り道を塞ぐように、半歩前へ出る。

わざとかどうか考えるより先に、身体が横へずれた。

盃は揺れない。

袖にも触れさせない。

「おっと」

男が笑った。

「器用だな」

「こぼしたらアンタに払わせるよォ」

「強い女は嫌いじゃない」

「アタイは面倒な客が嫌いだねェ」

細い男が声を立てて笑った。

肩の広い男は笑わない。

その手だけが、アタイの袖へ伸びた。

届く前に、横から手首を掴まれた。

「そこまでにしな」

姉ちゃんだった。

いつの間に帳面を置いたのか分からなかった。

肩の広い男の手首を片手で押さえたまま、にこりともしていない。

「何すんだ!」

「こっちの台詞だよ。うちの二娘に何しようとした?」

「まだ触ってねぇ!」

「じゃあ、その手は何しに伸びたんだい?」

男が腕を引こうとした。

姉ちゃんは離さない。

細い男の笑いも止まった。

アタイは一瞬だけ呆然とした。

ほぼ客商売の看板娘みたいな顔してるくせに、手首一つで男を止めるなよ。

いや、姉ちゃんだから止めるんだけど。

「大娘」

父ちゃんが呼んだ。

「分かってるよ、父ちゃん」

姉ちゃんは男の手を放した。

ただし、押し返す時に少し力を入れたらしく、肩の広い男が一歩よろめいた。

「酒はいらねぇな」

父ちゃんが言った。

店の空気が変わる。

「何だよ、親父」

「うちは飯を食う店だ。女に手を出す店じゃねぇ」

「触ってねぇだろ!」

「触る前に帰れ」

父ちゃんは鍋の前に立ったままだ。

包丁すら持っていない。

それでも二人は厨房の方へ進もうとしなかった。

細い男が立ち上がる。

「客を追い返すのか?」

「金を払う前なら客じゃねぇ」

張青が吹き出した。

「そりゃそうだ」

「怪我人は黙ってな」

今度は姉ちゃんに言われ、張青が本当に黙る。

その素直さを普段から見せろ。

二人はしばらくこちらを睨んでいたが、やがて細い男が舌打ちし、肩の広い男を押すようにして外へ出た。

「覚えてろよ」

よくある捨て台詞だ。

張青が戸口から答える。

「忘れた方が楽だぞ」

「アンタは余計なこと言うなァ!」

二人は振り返らず、土埃の向こうへ消えていった。

店に静けさが戻る。

父ちゃんは何事もなかったように鍋へ戻り、姉ちゃんも帳面を拾った。

「二娘、大丈夫?」

「触られてもないよォ」

「ならいい」

それだけ確認すると、もう米の残りを数え始める。

切り替え早すぎるだろ。

アタイは出し損ねた酒を持ったまま立っていた。

帰さない客でも、金を落とす客でも、泊める客でもない。

店へ入れてしまってもいいけれど、奥には通さず、面倒を起こす前に戸口から出す客。

そんな置き場所まで、いつの間にか頭の中に増えていた。

「二娘お嬢」

張青が言った。

「今度は何だい」

「怒ったか?」

「当たり前だろォ。アタイの店でもないのに横から口を出すんじゃないよ」

父ちゃんが鍋を混ぜながら言う。

「誰の店だと思ってんだ」

「今その話してない!」

姉ちゃんが笑った。

「そのうち二娘の店になるかもしれないけどね」

「姉ちゃんまで話を増やすなァ!」

張青だけが少し困った顔をした。

「でも、奥へ通さなくて正解だった」

「だから、それはアタイも分かってたんだよォ」

「うん」

「うん、じゃない」

口が回るくせに、こういう時だけ妙に下手だ。

張青は道へ目を戻した。

「戸口にいると、入る前の顔が見えるんだよ」

アタイは黙る。

「中へ入った後とは少し違う。入る前は、まだ客の顔を作ってねぇ」

なるほどと思ってしまった。

張青は続ける。

「二娘お嬢は中で客を見る。親父さんは奥から見てる。大娘お嬢は……全部見てる」

「何だい、その雑な分け方は」

姉ちゃんが帳面から顔を上げた。

「間違ってるか?」

張青が聞く。

姉ちゃんは少し考えた。

「まあ、だいたい合ってるね」

合ってるのかよ。

「俺はここしか見えねぇ」

張青が、自分の悪い足を軽く叩いた。

怪我をしていて、まともに立てない。

厨房にも入れず、荷も運べない。

だから戸口を見る。

できることを探したというより、できないことを削っていったら、そこだけ残ったのかもしれない。

それなのに今、それが店の中で役目になりかけている。

「張青」

父ちゃんが呼んだ。

「はい」

返事には、まだ少しだけ硬さが残っていた。

「しばらくそこにいろ」

張青が戸口を見回す。

「邪魔じゃなければ」

「邪魔ならどかす」

「分かりました」

父ちゃんはそれ以上言わない。

認めた、なんて優しい話じゃない。

使える場所へ置いただけだ。

でも、この店ではそれで十分だった。

姉ちゃんが帳面へ何か書きながら言う。

「じゃあ戸口は張青に見させるか。二娘が仕入れへ出る時にも使えるしね」

「待て待て待て!」

張青が初めて慌てた。

「俺、まだここで働くって言ってないぞ?」

「その話、まだしてたのかい?」

「俺には重要なんだよ!」

姉ちゃんは首を傾げる。

「飯食って、寝床使って、仕事までできたんだから、もう半分働いてるだろ?」

「勝手に雇用関係を成立させるな!」

アタイは思わず笑った。

数日前なら、張青の言うことに全面的に同意したはずだ。

なのに今は、

――戸口にこいつがいる方が楽だ。

そう思ってしまった。

ちょうどその時、姉ちゃんが米袋を指差した。

「二娘、それ向こうへ寄せて」

「はいよォ」

袋の端を掴んで持ち上げる。

持ち上がった。

自分でも驚くほど簡単に。

姉ちゃんが目を丸くする。

「二娘、力戻ってきたね」

「やっぱりこれ普通じゃないの!?」

「昔はそれくらい持ってたよ」

聞きたくなかった。

身体まで十字坡へ馴染むな。

アタイは米袋を下ろした。

父ちゃんが奥を見て、姉ちゃんが店全体を回し、アタイが客前を見る。

そして張青は戸口を見る。

役割分担。

そんな言葉が浮かんだ。

でも、講義で教えていたような綺麗な話じゃない。

人間は、生きるために空いた場所へ身体を合わせる。

できることを覚え、できないことを捨て、その場所に必要な役割へ少しずつ形を変えていく。

そして、合わせ続けた場所が――いつの間にか自分の居場所になる。

風がまた、道の土埃を運んできた。

張青は戸口に座っている。

まだ客でも、完全な身内でもない。

それでも通りからこの店を見た人間には、もうそうは見えないのかもしれない。

戸口に張青がいる。

奥には父ちゃんがいて、姉ちゃんが店を回し、その間でアタイが客を迎える。

十字坡の形が、勝手に整っていく。

腹が立った。

なのに、さっきの二人が入ってきた時より、今の方が少しだけ安心している。

その安心が何を意味するのか、アタイはもう知っていた。

だから――

その少しが、一番嫌だった。

孫大娘と孫二娘、二人合わせて孫姉妹で〜す!


「姉ちゃん、張青がとうとう戸口の担当になった」

「とうとうっていうほど大げさかい? 座って客を見てるだけだろ」

「本人はまだ雇われた覚えがないって言ってるよォ」

「飯食って寝床使って仕事までしてるなら、十分じゃないか」

「それを世間では勝手に就職させたって言うんだよ!」


しかも父ちゃんまで「しばらくそこにいろ」で済ませるし、姉ちゃんはもう仕入れの時に使う気満々だし……


「使えるなら使うよ」

「怖い経営者だねェ!」


でもさ。

戸口に張青がいると、少しだけ安心するんだ。


「なら、もう居場所できてるじゃないか」


……姉ちゃん、それ以上は黙っててくれない?

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。