商売
孫二娘でございま〜す。
十字坡にも、ちゃんと普通の商売があるんだよォ。
腹を空かせた客には飯を出すし、旅人には酒を売る。
泊まりたいって言われれば部屋も貸すし、銭を持ってる客には少し良い酒だって出す。
……うん。ここだけ聞けば、まともな店だねェ。
問題は、父ちゃんが客の懐具合を見て、出す酒も饅頭も平然と変えてることなんだけどさ。
しかも気づいたら、アタイまで同じことを始めてる。
前世では心理学を教えてたはずなのに、今や客の財布を見て利益率を考える看板娘。
人生、専門外への転職が急すぎるよォ。
さて――
普通に商売を覚えるだけなら、まだいい。
その「普通」の中へ、何が混ざり始めるかが問題なんだよねェ?
昼を過ぎると、客の入り方が変わる。
朝は腹を満たすために寄る者が多いが、昼になると足を休める者が増え、夕方が近づけば泊まりや酒、それ以外のものを目当てにした人間まで混じってくる。
そんな違いを、前のアタイは考えもしなかった。
椀を出して、水を足して、客前では適当に笑う。
嫌な目で見られたら避けて、面倒そうなら父ちゃんに任せればいいと思っていた。
姉ちゃんは昼前に嫁ぎ先へ戻った。
帰り際まで米と酒の残りを確認し、「明後日くらいにはまた来るよ」と言っていたけれど、嫁いだ娘が実家の在庫を二日先まで心配するのは普通なのかねェ?
たぶん普通じゃない。
でも、この店では普通らしい。
張青は戸口の台に座り、父ちゃんは奥で饅頭の具を刻んでいる。
アタイは水場で盃を拭いていた。
「二娘」
父ちゃんに呼ばれて顔を上げる。
「何だい?」
「今日は小さい甕から使え」
「まだ客も来てないよォ?」
「来る」
父ちゃんはそれだけ言うと、また包丁を動かし始めた。
天気でも読むみたいに言うな。
アタイが小さい甕の蓋を開けると、少し軽い酒の匂いがした。
悪い酒ではないけれど、大きい甕の酒より明らかに質が落ちる。
少し前までなら、酒なんて全部同じだと思っていた。
今は甕を開けただけで違いが分かる。
誰へ何を出すのかまで、この店の中では決まっているらしい。
そして父ちゃんの予想どおり、しばらくすると三人の男が入ってきた。
服は汚れていて荷もあるが、長旅というより近隣を歩き回ってきたような格好だった。
一番前の男だけ声が大きく、後ろの二人は店の中を探るより、卓の上に何が出てくるのかを気にしている。
腰の袋は薄く、見るからに腹が減っている。
危ない客ではないし、帰さない客でもない。
ただ、銭はあまり持っていないうえに、座らせたら長居しそうだった。
判断が出るまで、ほとんど時間がかからなかった。
「酒だ。あと食う物をくれ」
先頭の男が卓へ座りながら言う。
「先に水だよォ」
アタイが三つの椀を置くと、男たちは礼を言うより先に飲み始めた。
喉の鳴り方を見ただけで、しばらくまともに飲み食いしていなかったことが分かる。
父ちゃんが奥から饅頭を出した。
皿に乗っている数はいつもと同じなのに、一つずつが少し小さい。
気づいた瞬間、思わず父ちゃんを見る。
向こうは知らん顔だ。
やってるな、この親父……
男たちはそんなことに気づく余裕もなく、饅頭へかぶりついた。
アタイは小さい甕から酒を注ぐ。
三つの盃へ、多すぎず少なすぎず、同じ量を入れた。
「姉ちゃん、もうちょっと景気よく入れてくれよ」
「景気がいいなら先に銭を見せなァ」
「きついな」
「腹が減ってるんだろォ。喋る暇があるなら食いな」
男は文句を言いながら、また饅頭へかぶりついた。
戸口では張青がこちらを見ている。
何も言わないくせに、アタイが三人をどう判断したのか確かめている顔だ。
嫌な男だねェ。
口を挟んでこないのに、見られているだけで口を出された気になる。
男たちは酒をもう一度頼んだ。
アタイは同じ甕を持ち上げ、今度は少しだけ水を足した。
手が迷わなかった。
注ぎ終えてから、自分が何をしたのかに気づいた。
少し前なら、酒を薄めるなんて客を騙すことだと思ったはずだ。
でも、この三人は酒の味なんか見ていない。
酔えて、腹が膨れて、それなりの銭で済めば満足する。
だったら、これでいい。
そう判断した。
心理学じゃない。
ただの損得勘定――と言い切りたいけれど、人間が得をしたと思えば財布の紐を緩め、損をしたと思えば同じ金額でも腹を立てるなんて話は、大学でも散々扱った気がする。
行動経済学まで引っ張り出して酒を薄める心理学教授。
前世の同僚には絶対見せられない。
「姉ちゃん、もう一杯」
「銭があるならねェ」
「あるよ」
男が腰の袋を叩いた。
軽い音がする。
ないじゃないか。
十字坡では専門用語より銭の音の方が信用できるらしい。
三人は食べ終えても、すぐには動かなかった。
卓へ腕を置き、完全に休憩所として使う気でいる。
アタイは空いた皿を下げながら聞いた。
「まだ食うかい?」
「いや、もういい」
「なら卓を空けなァ。次の客が来る」
男が店内を見回した。
「誰もいないだろ」
「来るんだよォ」
「親父と同じこと言ってるな」
戸口から張青が余計なことを言った。
「アンタは黙ってなァ!」
男たちは笑ったものの、結局は腰を上げた。
卓へ置かれた銭を数える。
酒と饅頭の代金としては足りている。
水は無料で、席代もない。
それでも薄い酒と少し小さな饅頭なら、店にはわずかに残る。
三人が外へ出ていったあと、張青が声を抑えた。
「上手く追い出したな」
「追い出してないよォ。ちゃんと食わせて帰しただろ」
「言い方を変えただけじゃないか?」
「怪我人は細かいねェ」
「暇だからな」
アタイは皿を洗いながら、さっきの卓を見る。
油は少なく、具も少なく、酒には水を足した。
それでも客は腹を満たして帰る。
店は損をしていないはずなのに、その言葉だけが妙に腹の中へ残った。
次に来たのは一人の旅人だった。
古い服を着ているが、手入れはされている。
草鞋の減り方を見る限り、本当に長い距離を歩いてきたらしい。
腰の袋は重そうなのに、歩いてもほとんど音がしない。
金を持っている人間ほど、むやみに鳴らさない。
そんなことまで分かるようになった自分が嫌になる。
男は戸口で軽く頭を下げた。
「休ませてもらえるか」
「水ならすぐ出すよォ」
「ありがたい」
声は穏やかで、目も店の奥を探らない。
アタイの顔を見ても必要以上に止まらず、空いている卓の中から戸口に近い席を選んで素直に座った。
金を落とす客で、しかも荒らさない。
アタイは迷わず大きい甕の蓋を開けた。
香りが立つ。
盃も縁の欠けていないものを選び、饅頭は形の良いものを二つ皿へ乗せた。
「酒はいるかい?」
「少しだけ頼もう」
「少しで済むかねェ?」
男が苦笑する。
「いい酒なら、もう少し頼むかもしれん」
「なら、いい酒を出すよォ」
口から出た声が妙に柔らかかった。
自分で気づいて、嫌になる。
客前の声だ。
しかも、さっきの三人へ向けた声とは明らかに違う。
男子学生が前列を取り合っていた頃の講義でも、こんな露骨に声を使い分けてなかったぞ。
……たぶん。
いや、そこは自信ないな。
張青が戸口からこちらを見ている。
父ちゃんまで奥で一瞬だけ包丁を止めた。
見るな。
妖艶なお姐さん教授の接客実習じゃないんだよォ。
それでも手は止まらなかった。
男は酒を味わうように飲み、二杯目を頼む時には銭を先に添えた。
「泊まりもできるか?」
「部屋は空いてるよォ。馬は?」
「外にいる。あとで水をやりたい」
「裏へ回しなァ。張青、見てやんな」
張青が眉を上げる。
「俺か?」
「戸口担当なんだろォ」
「馬は戸口を通ってねぇぞ」
「今日から守備範囲を広げなァ」
「勝手に昇進させるな」
張青は文句を言いながら立とうとしたが、まだ足が痛むらしく顔を歪めた。
旅人がすぐ手を出す。
「無理をしなくてもいい」
「怪我人を働かせる店なんでね」
「人聞き悪いこと言うな!」
アタイが怒鳴ると、奥で父ちゃんが笑った。
旅人は余計なことを聞かず、馬を裏へ回したあとで部屋へ上がった。
卓に残された銭を見る。
さっきの三人よりずっと多い。
出した酒も饅頭も上等だったのに、それでもこちらの方がよく残る。
当然だ。
商売としては何もおかしくない。
なのに、妙に嫌だった。
客によって酒を変え、料理の量を変え、盃まで変える。
必要なら声の柔らかさだって変える。
全部、店のため。
「二娘」
父ちゃんが呼んだ。
「何さ?」
「今のは泊めていい」
「分かってるよォ」
「前の三人も、よく残さず帰したな」
褒められたのかと思った。
でも、父ちゃんの顔はいつもと変わらない。
ただ、使えるかどうか見ているだけだ。
「損はしてないだろォ?」
アタイが言うと、父ちゃんは初めてこちらを見た。
「そうだ」
その一言で胸の奥が少し軽くなり、直後に嫌な感覚が戻ってきた。
まただ。
間違っていないと確認されると、息がしやすくなる。
蒙汗薬を使った時もそうだった。
その前から、たぶんずっと。
認められることが報酬になっている。
そんな仕組みを知っているから防げる、なんて話ではなかった。
知っていても嬉しいものは嬉しい。
最悪だよォ。
「二娘お嬢」
馬を見てきた張青が戻ってきた。
「何さ?」
「馬は大人しい。客も、たぶん大人しい」
「たぶんで商売されちゃ困るねェ」
「お嬢だって、たぶんで酒を変えただろ」
返す言葉が一瞬詰まった。
「見てたのかい?」
「戸口からでも、そのくらい見える」
「嫌な男だねェ」
「よく言われる」
「誰に?」
「今、お嬢に」
危うく笑うところだった。
今日は蒙汗薬を使っていない。
裏戸も閉まらず、床を流す必要もない。
ただ客を見て、出す物を変えて、残る銭を少し増やしただけだ。
それなのに、昨日より店の役に立った気がする。
十字坡は、人を帰さないだけの場所じゃない。
普通に飯を出し、酒を売り、旅人を泊める。
銭の少ない客にはそれなりの物を出し、金を持つ客には気持ちよく払わせ、面倒な客は早めに帰す。
そして、その全部の先に裏戸がある。
別の仕事だと思っていた。
普通の商売と、帰さない仕事。
でも父ちゃんは分けていない。
同じ店で、同じ客を見て、同じ損得の中で判断している。
アタイも少しずつ、その順番を覚えている。
夕方の光が店へ斜めに入り、張青が戸口へ戻った。
アタイは水差しを満たしながら、次の客が来たらまた見るだろうと思った。
払えるのか、泊めるのか、荒らすのか。
そして――帰すのか。
頭の中に作った置き場所へ、勝手に客が収まっていく。
アタイは商売を覚えている。
そう思った途端、胃の奥が重くなった。
商売。
なんて便利な言葉だろう。
薄い酒も、小さい饅頭も、客に合わせた笑顔も、その中へ入れれば普通のことになる。
だったら、蒙汗薬は?
棚の奥へ目を向ける。
紙包みは、いつもの場所にある。
昨日より軽くなったまま。
アタイは甕の蓋を閉めようとして――戸口の方から足音がするのに気づいた。
張青が道を見る。
さっきまでの気の抜けた顔が消えた。
「二娘お嬢」
アタイも、もう聞き返さなかった。
手が自然に、小さい甕ではなく棚の方へ向いた。
触れる寸前で、そのことに気づく。
まだ、客の顔すら見ていない。
それなのにアタイの手は、もう――蒙汗薬の場所を知っていた。
孫大娘と孫二娘、二人合わせて孫姉妹で〜す!
「姉ちゃん、今日アタイ、客によって酒まで変えてた」
「ちゃんと商売してるじゃないか」
「しかも安い客には少し水も足した」
「ちゃんと商売してるじゃないか」
「二回言うなァ!」
父ちゃんにも「損はしてない」って認められて、ちょっと嬉しかったんだよォ。
「じゃあ順調だね」
「そこが嫌なんだって!」
だって次の客が来た時、まだ顔も見てないのに、手が勝手に棚へ向かったんだ。
姉ちゃんが少しだけ黙る。
「……二娘」
「何?」
「それ、商売の手じゃないね」
分かってるよォ……
だから怖いんだ。




