十八
孫二娘でございま〜す。
正月が来ましてねェ。
この世界では、年が明けると歳も増えるらしい。
つまりアタイは十八。
紅を差して、髪を整えて、客前へ出る顔を作る。
現代ならメイクで気分を上げるところだろうけど、十字坡じゃ話が違う。
心理学っぽく言えば、ラベリングってやつかねェ。
十八、看板娘、孫二娘。
名前を貼られるたび、戻る場所が遠くなるのさ。
正月の朝は、思ったより静かだった。
現代の正月なら、テレビがついていて、どこかで誰かが笑っている。
けれど十字坡の朝は、いつもより冷えていて、道の土が固く、戸口に貼られた赤い紙だけが新しかった。
父ちゃんが夜明け前に貼ったものだ。
古い板の戸に、妙に鮮やかな赤が浮いている。
「曲がってるよォ」
アタイが言うと、父ちゃんは一度だけ振り返った。
「客が読めりゃいい」
「字も曲がってるんじゃないかい」
「なら、お前が書け」
「無理だねェ」
読める字と読めない字がある。
この身体の記憶なのか、アタイの頭なのか、いまだに分からない。
水滸伝どころか、この世界の字まで完璧じゃないなんて、転生特典が雑すぎる。
そう思えるくらいには、朝の空気に余裕があった。
その余裕が、少し嫌だった。
水鉢を覗く。
揺れる水面に、女の顔が映った。
頬に薄く色を乗せる。
唇へ紅を差す。
濃くしすぎれば下品になる。
薄すぎれば、寝起きの顔のままだ。
その加減も、いつの間にか覚えた。
誰に教わったのかは分からない。
客の目か。
父ちゃんの無言か。
何度も失敗した自分の手か。
髪を整え、簪を挿す。
首筋に落ちた後れ毛を、指で払う。
水面の中の女は、アタイより少し落ち着いて見えた。
若い――
けれど、子供ではない。
嫌なことに、客前へ出す顔としては、よく出来ていた。
張青は戸口の台に腰を下ろし、道を見ている。
もう怪我人の顔はしていない。
客の馬を見て、荷を預かり、銭も数える。
勘定は時々怪しいが、客の顔を覚えるのは早い。
「お嬢」
「何さ」
「正月だな」
「見りゃ分かるよォ」
「年が明けた」
「それも分かる」
張青は少し笑った。
「十八か」
手に持っていた椀が、かすかに止まった。
十八。
この世では、正月が来れば一つ歳を取る。
誕生日まで十七、なんて親切な数え方はしてくれない。
年が明けたら十八。
周りがそう言えば、そうなる。
「勝手に増やすんじゃないよォ」
「俺が増やしたわけじゃない」
「じゃあ誰だい」
「年だろ」
つまらない答えだった。
でも、間違ってはいない。
父ちゃんが奥から声をかける。
「二娘、酒は大きい甕を開けろ」
「朝からいい酒かい」
「正月だ」
それだけで、いろいろなことが決まるらしい。
いつもなら小さい甕の客でも、今日は少し良い酒を出す。
粥にも具を足す。
饅頭も形の悪いものから出さない。
正月だから――
便利な言葉だ。
前に商売という言葉が便利だと思った。
今日は正月という言葉が、同じように便利だった。
店の戸を開けると、冷たい風が入った。
道はまだ人が少ない。
遠くで子供の声がして、すぐ消える。
乾いた音も、どこかで一度鳴った。
ここにも正月は来る。
こんな店でも、年は明ける。
最初に来たのは、近くの村の男だった。
何度か見た顔だ。
今日はいつもより身なりがいい。
腰の袋も少し膨らんでいる。
「二娘ちゃん、あけましておめでとう」
「あけましておめでとうだよォ。水かい、酒かい」
「正月だ。酒に決まってるだろ」
「そう言うと思ったよォ」
大きい甕から酒を注ぐ。
男は盃を受け取り、アタイの顔を見て、目を細めた。
「しかし、綺麗になったな。もう十八か」
また、それだ。
十七の時も見られていた。
けれど、今日は目の止まり方が違う。
紅を差した唇。
少し色を乗せた頬。
袖口から出た手首。
腰のあたり。
見る場所が、一つずつ増えていく。
本来のアタイより、この身体は若い。
若いはずなのに、客の目には前より女として映っているらしい。
嫌な話だよォ。
中身がどうだろうと、見られるのはこの身体だ。
そして、その身体を、アタイ自身が整えて客前へ出している。
「親父さん、そろそろ婿を探さねぇと」
父ちゃんは奥で饅頭を蒸していた。
返事はしない。
聞こえていないわけがない。
張青が戸口で少しだけ顔を上げる。
何も言わない。
男は気にせず笑った。
「こんな娘を置いておいたら、客が放っておかねぇぞ」
「放っておかない客は、父ちゃんが放り出すよォ」
「怖いねぇ」
男は笑い、酒を飲んだ。
悪い客ではない。
金も払うし、長居もしない。
けれど、言葉だけが少し残った。
十八、婿、綺麗になった。
前から言われていた。
看板娘だとか、いい顔だとか、二娘ちゃんがいるから寄ったとか。
そういう言葉はもう知っている。
けれど今日は違う。
正月のせいで一つ歳を取ったことにされて、周りの目が少し変わった。
子供じゃない――
娘だとか、女だとか、店に置いておくものだとか、客を呼ぶものだとか、誰かが持っていくかもしれないものだとか……
勝手に置き場所を変えられる。
心理学でいうなら、ラベリングだったかもしれない。
名前や役を貼られると、人はそのように扱われる。
扱われるうちに、自分でもその役の形を覚えてしまう。
十八、看板娘、孫二娘。
どれも、いつの間にか貼られていた。
昼前になると、客が増えた。
正月だからと酒を飲みに来る者。
挨拶だけして帰る者。
泊まるほどではないが、暖を取りたがる旅人。
アタイは水を出し、酒を注ぎ、少しだけ声を柔らかくした。
正月だから。
客の財布が緩む日だから。
父ちゃんがそうしろと言ったわけではない。
張青が口を出したわけでもない。
自分でそうした。
それが、嫌だった。
「二娘ちゃん、今年も綺麗でいてくれよ」
「アンタが今年も銭を落とすならねェ」
「言うねぇ」
「正月だから、少しは愛想も高いんだよォ」
客が笑う。
酒が一杯増える。
前なら、嫌な目で見られたら身体が固まった。
今は、どこまでなら酒になるかを考える。
どこから先は父ちゃんを呼ぶか。
どの客なら張青が戸口で睨むだけで済むか。
頭が勝手に動く。
怖がる暇がなくなったのか。
怖がりながらでも動けるようになったのか。
たぶん、後者だ。
慣れという言葉は、便利で残酷だ。
馴化、という言葉もあった。
同じ刺激を何度も受けると、反応が鈍くなる。
講義では、そんなふうに聞いた気がする。
でも、今のアタイには少し違う。
鈍くなったんじゃない。
細かくなった。
客の目、手、足、声、銭、酒の減り方。
紅を差した自分の口元。
張青の咳。
父ちゃんの包丁の止まり方。
全部に反応している。
反応しているのに、表へ出さない。
それができるようになった。
正月の昼、少し上等な服を着た男が入ってきた。
供を一人連れている。
金はある。
だが、供の方が店をよく見ていた。
主の男はアタイを見て笑う。
「噂の二娘ちゃんか」
「噂なんて、ろくなもんじゃないよォ」
「いやいや。十字坡には綺麗な娘がいると聞いてな」
「飯の噂じゃないなら、帰りなァ」
男は笑った。
供は笑わなかった。
張青が戸口で少し姿勢を変える。
父ちゃんは奥で包丁を置いた。
帰さない客ではない。
だが、泊めたくない客だ。
金は落とす。
でも、夜まで置けば面倒になる。
主の男より、供の目が悪い。
アタイは大きい甕の酒を出した。
盃は良いもの。
饅頭も形の良いやつ。
声は柔らかく。
距離は遠め。
「正月だから、いい酒だよォ」
「ほう。気が利く」
「飲んだら次の店へ行きなァ。今日は混むからねェ」
男が眉を上げた。
「泊めてはくれんのか」
「部屋はもう埋まるんだよォ」
嘘じゃない。
埋まる予定だ。
少なくとも、この男で埋めるつもりはない。
供の目が一瞬だけ細くなった。
やはりだ。
父ちゃんは何も言わない。
張青も黙っている。
アタイが決めるところだった。
男は酒を飲み、少し粘ったが、結局は銭を置いて出ていった。
供は最後まで店の奥を見ていた。
戸口を出る時、張青と目が合う。
張青は笑わなかった。
二人が道へ消えると、父ちゃんが短く言った。
「泊めなくていい」
「分かってるよォ」
「正月は、変なのも寄る」
「綺麗な娘がいるらしいからねェ」
アタイが言うと、父ちゃんがこちらを見た。
張青も、少しだけ目を伏せた。
変な間が空いた。
冗談のつもりだった。
いや、半分は本気だった。
アタイの顔が客を呼ぶ。
紅を差した唇が酒を売る。
歳が増えれば、見る目も変わる。
それをアタイ自身が、もう勘定に入れている。
「十八か」
父ちゃんが言った。
「朝から何度も聞いたよォ」
「早ぇな」
その声は、いつもより少し低かった。
懐かしむような声ではない。
寂しがる声でもない。
ただ、何かを確かめる声だった。
父ちゃんの中にも、アタイの置き場所がある。
娘、看板娘、店の手、いつか店を持つ者。
どれが一番近いのか、アタイには分からない。
張青がぽつりと言った。
「お嬢は、十八に見える」
「どういう意味だい」
「客の前だと」
「普段は?」
「口が悪い」
「戸口の男は正月でも黙ってなァ」
張青は笑った。
父ちゃんも、ほんの少しだけ鼻で笑う。
その音に、胸の奥が緩んだ。
まただ。
ここにいることが、嫌なだけではなくなっている。
父ちゃんの声。
張青の軽口。
客が来る前の水の音。
甕の蓋が閉まる音。
水面に映った、紅を差した顔。
全部が、店の音と匂いに混じって、身体に入っている。
夕方、戸口の赤い紙が風で少しめくれた。
アタイは手を伸ばして、端を押さえた。
紙の赤が指に近い。
唇の紅と似た色だった。
現代なら、十八歳は自由に近づく年だったのかもしれない。
免許だの、進学だの、バイトだの、そんな言葉が浮かびかけて消える。
ここでは違う。
十八になったから、逃げやすくなったわけじゃない。
守られる年になったわけでもない。
本来の歳より若い身体なのに、十字坡ではもう、若いだけでは済まない。
顔も、声も、立ち方も、化粧の濃さも、客を呼ぶものになっていく。
むしろ、店に置かれる理由が増えた。
綺麗だから。
客を呼ぶから。
酒を売れるから。
危ない客を見分けるから。
笑って、追い返して、泊めるかどうか決められるから。
アタイは十八になった。
それは、大人になったというより――
十字坡に、ちょうどいい女になってしまったということだった。
戸口の赤い紙を押さえたまま、アタイは道を見た。
次の客が来る。
足を見る。
腰を見る。
連れを見る。
目を見る。
正月でも、店は開く。
年が明けても、やることは変わらない。
ただ、アタイだけが一つ増えた。
紅の色も、一つ濃くなった。
その分だけ、戻る道が遠くなった気がした。
孫二娘でございますよォ。
十八になったからって、急に何かが変わるわけじゃない。
ただ、客の目が変わる。
父ちゃんの見方が変わる。
張青の言葉も、少し変わる。
それに合わせて、アタイの立ち方まで変わっていく。
心理学っぽく言えば、適応ってやつかねェ。
でも十字坡では、もっと嫌な言い方になる。
似合ってきた。
それだけなのさ。




