厚さ
孫二娘でございま〜す。
今回は、包丁の話だよォ。
何の肉か、誰の肉か、考える前に、厚さを見ていた。
心理学っぽく言えば、脱感作だの手続き記憶だの、名前は付けられるんだろうけどねェ――
十字坡じゃ、もっと短い。
身についた――
それが一番嫌なのさ。
正月の浮ついた空気は、三日もすれば薄くなった。
戸口の赤い紙はまだ貼ってある。
けれど、端は少し乾いて、風が吹くたびに小さく鳴る。
客も、正月だからと酒を余計に飲む顔ではなくなった。
腹が減れば飯を頼む。
寒ければ酒を飲む。
泊まる者は部屋を聞く。
店は、いつもの顔へ戻っていく。
アタイも同じだった。
紅を差し、髪をまとめ、水を出す。
声色を少し柔らかくする。
駄目な客には距離を取る。
金のある客には良い酒を出す。
十八になったからといって、毎日が変わるわけではない。
ただ、客の目がほんの少し変わった。
そして、アタイの返し方も少し変わった。
それだけのはずだった……
朝の客が切れた頃、父ちゃんが奥から呼んだ。
「二娘」
「何だい」
「こっちへ来い」
声はいつも通りだった。
怒っているわけでも、急いでいるわけでもない。
だから余計に嫌だった。
張青は戸口で馬具の紐を直していた。
ちらりとこちらを見る。
何も言わない。
最近、この男は言わないことが増えた。
言わない代わりに、よく見ている。
アタイは袖を少しまくり、奥へ入った。
厨房の奥――
普段、客からは見えない場所。
火の熱と、湿った匂いがこもっている。
板の上には、肉が置かれていた。
もう、形はなかった。
何かの顔も、手も、足もない。
ただの肉の塊……
そう思えばよかった。
そう思えるように、父ちゃんがそこまで済ませていたのだと分かった。
「これを切れ」
父ちゃんが包丁を置いた。
前にも包丁は持った。
饅頭の具を刻んだ。
野菜も切った。
干した肉も切った。
魚も捌いた。
けれど、今日の板の上にあるものは、それらと同じ顔をしていなかった。
「何の肉だい」
聞いてから、後悔した。
父ちゃんはアタイを見た。
答えない――
答えないことで、答えた。
「厚さを揃えろ」
それだけだった。
肉の名前ではなく、切り方を言う。
どこから来たかではなく、どう使うかを言う。
ここでは、それで済む。
包丁の柄に手をかけた。
木の感触は知っている。
重さも知っている。
指の置き方も、手首の角度も……
なのに、刃が板へ近づくところで止まった。
見ていない。
昨日も、一昨日も、その前も……
アタイは全部を見たわけじゃない。
蒙汗薬を入れた。
水を運んだ。
床を流した。
盃を洗った。
客を見分けた。
でも、切るのは初めてだった。
「二娘」
父ちゃんの声が落ちる。
「見なくていい所は見せてねぇ」
「親切だねェ」
「そう思え」
「思えるかい?」
「思えなくても切れ」
その言い方が、父ちゃんらしかった。
慰めない。
怒鳴らない。
ただ、次にすることだけを出してくる。
アタイは息を吐いた。
包丁を持ち直し、肉の端へ刃を当てる。
最初の一枚は、厚くなった。
父ちゃんが横から言う。
「厚い」
「分かってるよォ」
二枚目は薄すぎた。
「薄い」
「いちいち言わなくても分かるっての」
「分かってねぇから言ってる」
腹が立った――
腹が立つと、少し楽になった。
怖がるより、腹を立てる方が手は動く。
三枚目――
刃を入れる。
繊維に沿わせる。
力を入れすぎない。
押すのではなく、引く。
肉が離れた。
今度は、少しまともだった。
父ちゃんは何も言わない。
何も言わないということは、悪くないということだ。
その判断が、もう分かる。
嫌になる――
アタイは四枚目を切り、五枚目も切った。
厚さを見て、火の通りを考える。
饅頭に詰めた時の量を考える。
酒のつまみに出すなら、もう少し薄い方がいい。
煮るなら、このくらいでもいい。
考えてしまう――
何の肉かではなく。
誰の肉かでもなく。
どう出せば売れるかを考えている。
大学で聞いた言葉が、ふと浮かんだ。
脱感作――
刺激に慣れて、反応が弱くなる。
そういう説明だった気がする。
でも、違う――
弱くなったわけじゃない。
ちゃんと嫌だ。
気持ち悪い。
喉の奥も重い。
それでも手が動く。
嫌なのに、できる。
怖いのに、厚さを見ている。
気持ち悪いのに、切り口を直している。
これにも、きっと名前があるのだろう。
適応だとか、認知の切り替えだとか。
いくらでも言える。
けれど、今のアタイには、もっと短い言葉で足りた。
慣れてきた――
包丁が板を叩く音が、少しずつ揃っていく。
とん、とん、ではない。
もっと低い、重い音だ。
父ちゃんが隣で別の肉を扱う。
あっちは早い。
迷いがなく、厚さも揃っている。
比べるな――
そう思うのに、目が比べる。
父ちゃんの手元と自分の手元。
刃の角度と肉の倒れ方。
そして、板に残る筋。
見たくないものほど、よく見える。
前にもそう思った。
見ないようにしていた場所ほど、よく覚えている。
「手を切るな」
父ちゃんが言った。
「そんなの分かってるよォ」
「肉じゃねぇ。自分の手だ」
「分かってるって」
「分かってねぇ顔だ」
アタイは口を閉じた。
父ちゃんは肉を見ていた。
けれど、本当に見ていたのはアタイの手だった。
刃がどこへ向くか。
力がどこでぶれるか。
怖がって、変なところへ指を置かないか。
怒鳴らないのは、優しさではない。
手元を狂わせないためだ。
それも分かってしまう。
張青が奥の入口に立ったのは、その少し後だった。
「お嬢」
「入ってくるんじゃないよォ」
「入ってねぇ。入口だ」
「同じだろ」
「違う。ここから先は親父さんの場所だ」
父ちゃんは何も言わない。
否定もしない。
それなら、そうなのだろう。
張青の目が板の上へ落ちる。
一瞬だけ止まった。
すぐ、アタイの手へ移る。
「切ってるのか」
「見りゃ分かるだろォ」
「厚さが揃ってきたな」
その言葉に、腹が立った。
褒めるな――
そう思った。
けれど、張青は褒めたつもりではないのだろう。
見たことを言っただけだ。
それが余計に腹立たしい。
「用がないなら戻りなァ」
「客が来た」
「父ちゃん」
アタイが呼ぶより早く、父ちゃんが言った。
「二娘、続けろ。張青、先に見ろ」
「分かりました」
張青は戸口へ戻った。
アタイは包丁を握ったまま、少しだけ息を止めた。
客が来た。
店は開いている。
客前では酒を出す。
奥では肉を切る。
同時に進む。
前なら、それが変だと思った。
今は、変だと思う前に手が動く。
一枚、また一枚。
張青の声が遠くで聞こえる。
「水ならすぐ出す」
「馬は裏へ」
「泊まりなら先に銭を」
父ちゃんの包丁の音。
竈の火と外の客の声。
全部が一つの店の音になっていく。
アタイは肉を切っている。
張青は戸口で客を見ている。
父ちゃんは奥で次を決めている。
役割分担――
またその言葉が浮かんだ。
前にも浮かんだ。
でもやっぱり、そんな綺麗なものじゃない。
これは、沈む場所だ。
空いたところに足を置いて、気づけば膝まで入っている。
動けるから、さらに進む。
進めるから、戻らなくなる。
包丁の刃に脂がついた。
布で拭うと、刃が少し光る。
その光を見て、胸の奥が冷えた。
包丁は悪くない。
切るための道具だ。
使う手が決める。
そんな理屈は分かっている。
でも、今ここで切っているのはアタイだ。
「二娘」
父ちゃんが言った。
「何さ」
「それでいい」
手が止まりそうになった。
それでいい――
また、その言葉だ。
蒙汗薬の時も、片づけの時も、勘定の時も……
少しずつ違う形で、同じ場所へ押されていく。
違う――
押されているだけじゃない。
アタイは、自分で包丁を握っている。
「……そうかい」
声は思ったより普通に出た。
父ちゃんは切り終えた肉を桶へ移した。
アタイも、自分の分を寄せる。
厚いものと薄いものが少し混じっていた。
でも、最初よりは揃っている。
それが見て分かる。
「次はもっと揃えろ」
「次がある前提で言うんじゃないよォ」
「ある」
父ちゃんは当然のように言った。
ある――
その一言が、やけに重かった。
外から客の笑い声が聞こえる。
張青が何か返している。
店は普通に動いている。
アタイは包丁を洗った。
水に脂が浮く。
布で刃を拭き、元の場所へ戻す。
手を見ると、指は震えていない。
血もついていない。
匂いだけが少し残っている。
何度洗っても、しばらくは残るだろう。
客前へ戻る前に、水鉢を覗いた。
紅は少し落ちていた。
朝より薄い。
でも、まだ残っている。
紅を差した口。
肉を切った手。
同じ身体についている。
そのことが、変におかしかった。
笑えない――
けれど、笑いそうになるほど、変だった。
アタイは袖を直し、客前へ出た。
卓には二人の客がいた。
張青が水を出している。
父ちゃんは奥へ戻った。
客の一人がアタイを見て言う。
「二娘ちゃん、何か食えるかい」
「あるよォ」
声は普通だった。
客前の声だった。
「今日は何がいい」
そう聞かれて、アタイは一瞬だけ奥を見る。
さっきの肉がある。
切ったのはアタイだ。
厚さも知っている。
火の通りも、量も、分かる。
「饅頭がいいよォ」
口が先に答えた。
「じゃあ、それを」
「はいよォ」
アタイが厨房へ戻ると、父ちゃんが黙ったまま、蒸籠を用意していた。
肉を詰め、形を整え、蒸籠へ並べる。
指が迷わない。
怖いと思った。
けれど、怖いより先に、手順が出た。
手続き記憶。
そんな言葉が頭の端をよぎった。
身体で覚えた動きは、考える前に出る。
講義で聞いたか、本で見たか……
今さらどうでもよかった。
今のアタイには、もっと嫌な言い方がある。
身についた――
饅頭が蒸し上がる頃、店の中に匂いが広がった。
客が腹を鳴らし、笑う。
張青が盆を持ちに来る。
「お嬢」
「何さ」
「出すか」
「出すよォ。客が待ってる」
張青は少しだけ黙った。
それから、盆を受け取る。
「分かった」
アタイは蒸籠の蓋を閉めた。
湯気で頬が熱くなる。
紅がまた少し落ちた気がした。
客は饅頭を食べ、酒を飲む。
うまいと言うかもしれない。
何も知らずに笑うかもしれない。
それが店だ。
アタイは水桶のそばに立った。
何の肉か、考えなかった。
考えないようにしたんじゃない。
厚さを見ていた。
火の通りを見ていた。
饅頭に詰めた時の量を見ていた。
それが、一番嫌だった。
孫二娘でございますよォ。
奥で切るだけなら、まだ言い訳もできたんだよねェ。
でも、それを包んで、蒸して、客前へ出した。
紅を差した口で笑って、 肉を切った手で饅頭を出す。
心理学っぽく言えば、区切って考えるってやつかもしれない。
でもねェ――
同じ身体でやってる時点で、もう区切れてなんかいないのさ。




