いつから?
孫二娘でございま〜す。
人間って、怖いことにも少しずつ慣れるんだよォ。
最初は見るだけで嫌だったものでも、そのうち近くを通れて、触れて、仕事として扱えるようになる。
心理学的には、別に珍しい話じゃない。
アタイだって前世では、そんなことを学生に教えてた。
問題はねェ。
自分がどこまで慣れたのかって、本人には案外分からないことなんだ。
今日は姉ちゃんも数日ぶりに手伝いへ来てるし、父ちゃんはいつも通り仕込みをしてる。
アタイも、いつも通り厨房へ入った。
包丁を持って、肉を切って――
そこで、ふと思った。
これ、アタイ……いつから普通にやってたんだ?
今日は朝から、姉ちゃんが厨房を占領していた。
数日ぶりに十字坡へ戻ってきたと思ったら、挨拶もそこそこに米甕を開け、酒の残りを確かめ、干してある肉まで勝手に数え始めている。
「二娘、そっちの桶をもう少し奥へ寄せて」
「姉ちゃん、嫁ぎ先って本当にあるんだよねェ?」
「あるよ。急に何だい?」
「実家への出勤率がおかしいから確認しただけ」
「父ちゃんだけに任せとくと、気づいた時には酒が足りなくなるんだよ」
「父ちゃん、信用ないねェ」
「聞こえてるぞ?」
奥から返事が飛んできた。
聞こえるように言ったんだけどねェ。
アタイは笑いながら、大きな桶の縁へ手をかけた。
少し前なら腰を入れ、両手で抱えて、それでも持ち上げる前に一度覚悟が必要だった。
今は重さを感じるより先に足の位置が決まり、身体が勝手に一番楽な持ち方を選ぶ。
そのまま持ち上げて姉ちゃんの横へ運ぶと、すぐに言われた。
「そこじゃ邪魔だよ。もう少し向こう」
「先に言え!」
文句を言いながら持ち直す。
姉ちゃんがアタイの腕を見た。
「ずいぶん戻ったねぇ」
「何が?」
「力だよ。前の二娘なら、それくらい普通に運んでた」
「その情報、何回聞いても嬉しくならないんだけどォ?」
「便利だろ?」
「便利なのが嫌なんだよ!」
姉ちゃんは本気で分からない顔をした。
分からなくていい。
十八歳になったばかりの看板娘が、客の財布を見て酒を変え、危ない相手を見分け、ついでに米袋や桶まで平然と動かすようになっている。
前世の大学なら、絶対に誰かが講義後の感想欄へ書いただろう。
『先生、最近鍛えてます?』
そんな学生は次回から最前列固定だ。
……駄目だ。
うちの男子学生、それを罰だと思わない。
「二娘、手が空いてるならこっち頼む」
父ちゃんに呼ばれ、厨房の奥へ入った。
板の上には肉が置いてある。
アタイは包丁を取った。
それだけだった。
驚かなかったし、何の肉か尋ねもしなかった。
必要な分だけ手元へ寄せ、筋の向きを見て刃を入れる。
固いところは別へ回し、柔らかい部分は使いやすいように分ける。
父ちゃんは隣で別の仕込みを続け、姉ちゃんは酒甕を数えながらこちらへ声を飛ばした。
「それ、今日全部使うのかい?」
「父ちゃん?」
「半分でいい」
「じゃあ残りは塩干ししとくよ」
「頼む」
会話はそれで終わった。
アタイも包丁を動かし続ける。
刃が板へ触れる音は、もう珍しくない。
肉を見れば、どこへ刃を入れると扱いやすいか分かる。
一度に細かくしすぎれば用途が狭くなるし、大きすぎれば後でまた手間がかかる。
何を作るか考えて、必要な形へ分ける。
当たり前の厨房仕事だった。
「父ちゃん、こっちは饅頭に回すのかい?」
口にしてからも、手は止まらなかった。
「そっちは煮る。饅頭は右だ」
「はいよォ」
言われた通り、右側へ手を伸ばした。
そこでようやく、何かが引っかかった。
包丁を持ったまま、アタイは板を見た。
肉の状態がおかしいわけじゃない。
匂いもいつも通りだ。
父ちゃんの指示も、姉ちゃんの返事もおかしくない。
おかしいのは――アタイだった。
「……ちょっと待って」
姉ちゃんが振り向く。
「どうしたの?」
アタイは今まで切っていた肉を見る。
人肉だ。
そんなことは、最初から分かっていた。
別の獣だと思っていたわけじゃない。
父ちゃんが隠していたわけでもないし、アタイ自身が忘れていたわけでもない。
分かっていた。
なのにアタイは今、
「こっちは饅頭に回すのかい」
と聞いた。
普通に。
まるで鶏肉でも豚肉でも扱うみたいに。
「……アタイ、今なんて言った?」
姉ちゃんが眉を上げる。
「こっちは饅頭に回すのか、って」
「だよねェ」
「そう言ったよ」
「何で普通に言ってんの、アタイ」
姉ちゃんが首を傾げた。
父ちゃんは手を止めずに答える。
「仕事だからだろ」
「今いちばん聞きたくない答えを出すなァ!」
思わず声が大きくなり、戸口から張青が顔だけ覗かせた。
「何だ?」
「来るなァ!」
「入ってねぇぞ」
「今日はその理屈に付き合う余裕ないから!」
張青は素直に顔を引っ込めた。
普段からその素直さを見せろ。
アタイはもう一度、板の上へ目を落とした。
人肉だと認識している。
そこに問題はない。
問題なのは、その情報がアタイの頭の中で最優先ではなくなっていたことだった。
見た瞬間に考えたのは、人間だったということじゃない。
筋の向きや固さを見て、煮込みと饅頭のどちらへ回せば無駄が少ないかを考えていた。
そこまで考えてから、ようやく自分がおかしいと気づいた。
大学で説明するなら、自動化とか、手続き化とか、それらしい言葉はいくらでも出てくる。
繰り返した作業は、いちいち意識へ上げなくても処理できるようになる。
車の運転でも包丁仕事でも同じで、人間はそうやって複雑な行動を楽にしていく。
便利な仕組みだ。
便利なんだけどさァ。
何でよりによって、人肉の仕分けで実感しなきゃならないんだよ。
「二娘」
姉ちゃんが近づいた。
「気分悪いなら代わるよ?」
「姉ちゃん」
「何だい?」
「アタイ、これ初めてじゃないよね?」
姉ちゃんは一瞬、意味が分からない顔をした。
「人の肉を切るの」
「ああ、それなら違うよ」
胸の奥が嫌な音を立てた気がした。
「いつから?」
「さあねぇ。少し前から普通に手伝ってただろ?」
「少し前っていつ!?」
「覚えてないよ。二娘が普通にやってたから」
最悪だった。
父ちゃんを見る。
「父ちゃんは?」
「何がだ?」
「アタイが最初にこれ切った日」
父ちゃんは本気で考えたあと、首を振った。
「覚えてねぇ」
もっと最悪だった。
蒙汗薬を初めて使った日は覚えている。
自分で「帰さない」と判断した客も覚えているし、その翌朝に水を運んで床を流したことだって忘れていない。
なのに、人肉へ初めて包丁を入れた日は誰も覚えていない。
父ちゃんも、姉ちゃんも、当のアタイまで。
越えた瞬間はあったはずなのに、特別な一線として記憶に残らなかった。
いつの間にか、普通の仕込みへ混ざっていた。
「……心理学的に最悪の観察記録だねェ」
姉ちゃんが首を傾げる。
「何の話?」
「被験者が変化の開始日を記録してません」
「被験者って誰だい?」
「アタイだよ!」
姉ちゃんが笑った。
笑い事じゃない。
なのに、アタイも一瞬だけ笑いそうになった。
そのことまで腹立たしい。
父ちゃんが板を示した。
「続けるか?」
今になって選ばせるのか。
アタイは包丁を置こうとした。
置こうとして、右側の肉へ目が行く。
饅頭に回す方。
このままだと少し大きい。
詰めるなら、もう少し細かくした方が火も通りやすい。
そこまで考えてしまった。
「……クソ」
「二娘?」
姉ちゃんが心配そうに覗き込む。
「今、また切り方考えた」
「なら切ればいいじゃないか」
「姉ちゃんは少し黙っててくれない!?」
嫌だからやめたい頭と、やるなら効率よくやれと言う頭が同時に動いている。
認知的不協和なんて可愛いもんじゃない。
頭の中で倫理委員会と厨房担当が取っ組み合いしてるよォ。
しかも厨房担当が強い。
「二娘お嬢」
今度は戸口から張青の声が飛んできた。
「何さ?」
「客だ」
身体が先に動いた。
包丁を置き、手を洗って脂を落とし、袖を直す。
二度目に手を洗いながら、口から言葉が出た。
「父ちゃん、普通の饅頭まだある?」
手が止まった。
父ちゃんは何も気にせず、別の蒸籠を指した。
「そっちだ」
普通の饅頭。
じゃあ、今アタイが切っていた肉を使う方は何だ?
普通じゃない方なのか、裏の方なのか、それとも帰さない客の方なのか。
名前を変えれば分けられる。
分ければ扱える。
扱えれば仕事になる。
仕事になれば、日常になる。
「二娘お嬢?」
「今行くよォ!」
返事はもう客前の声だった。
店へ出ると、一人の旅人が卓へ座っている。
草鞋の減り方は普通で、荷も多すぎない。
腰の袋にはそれなりの銭があり、目も奥を探っていない。
泊めても帰しても問題のない、危なくない客だ。
その判断まで一瞬だった。
「何か食えるかい?」
「あるよォ」
「おすすめは?」
アタイは厨房を見る。
蒸籠は二つ。
どちらに何が入っているか、もう分かっている。
迷う必要はなかった。
「今日は普通の饅頭がいいよォ」
「普通じゃないのもあるのか?」
客が冗談めかして笑った。
アタイも笑った。
「さあねェ?」
笑えてしまった。
厨房へ戻り、父ちゃんが示した蒸籠を開けると、湯気が顔へ当たる。
背後では姉ちゃんが黙っていた。
「何さ?」
「別に」
「言いたいことある顔してるよォ?」
「二娘、客前だと本当に上手く笑うようになったね」
「今それ言う!?」
姉ちゃんが肩を揺らした。
腹が立つ。
でも皿へ饅頭を載せる手は止まらない。
人肉を普通に切れることが怖かったんじゃない。
人肉だと理解したまま、用途まで考えられることだけでもない。
もっと嫌なのは、いつからそうなったのか分からないことだ。
昨日でも今日でもない。
きっと何日も前から、アタイは知ったまま切っていた。
そのたびに「人肉だ」と考える必要すらなくなって、筋や固さや使い道の方が先へ出てくるようになった。
皿を持って客前へ戻る。
「お待たせ」
声はいつも通りだった。
客は何も知らず、饅頭へ手を伸ばす。
アタイは水差しを持ちながら厨房を見た。
板の上には、さっきまで切っていた肉が残っている。
何の肉かは、ずっと分かっている。
忘れていない。
なのに次に厨房へ戻ったら、これは煮るのか、饅頭に回すのか、それとも塩干しにするのかと、たぶんアタイはまた考える。
そして、そう思った自分に気づくのは――
たぶん、もう少し後なんだろうねェ?
孫大娘と孫二娘、二人合わせて孫姉妹で〜す!
「姉ちゃん、アタイが最初に人の肉を切った日、ほんとに覚えてないの?」
「覚えてないねぇ。気づいたら普通にやってたし」
「その“普通に”が怖いんだよォ!」
しかも今日は、自分から「普通の饅頭」って言っちまった。
「ちゃんと分けてるじゃないか」
「分類できるようになったことを褒めるなァ!」
姉ちゃんは笑ってるけど、アタイは笑えない。
だって次に厨房へ入った時、たぶん最初に考えるのは「人肉だ」じゃない。
「今日は何に使う?」なんだろうねェ。
「仕事覚えたじゃないか」
……姉ちゃん、それ以上言うと本気で泣くよォ?




