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探し人

孫二娘でございま〜す。

人を探しに来る客ってのは、飯を食いに来る客より厄介だねェ。

見ていないか。

知らないか。

思い出せないか。

心理学っぽく言えば、微表情だの非言語反応だの、いろいろあるんだろうけどさァ――

十字坡で大事なのは一つだけ。

顔に出すな。

それだけなのさ。

昼前の店は、少しだけ空いていた。

朝の粥を食べた客は出ていき、泊まり客は荷をまとめていた。

父ちゃんは奥で蒸籠を片づけている。

張青は戸口で、預かった馬の轡を確かめていた。

アタイは盃を拭いていた。

昨日の包丁の感触は、まだ手に残っている。

いや、感触というほどはっきりしたものじゃない。

木の柄と刃の重さ。

脂のぬめり。

厚さを見ていた目。

それだけが、別々に残っている。

何の肉か。

誰の肉か。

そう考えるより先に、どのくらいの厚さなら火が通るかを見ていた。

そのことを思い出すたび、胃の奥が重くなる。

けれど、店は開く。

客は来る。

水は出す。

盃は拭く。

嫌だと思っても、手は動く。

その時、戸口の前で足音が止まった。

張青が顔を上げる。

道に立っていたのは、一人の男だった。

旅装はきちんとしている。

金がないようには見えない。

けれど、店に入る前から、飯や酒を求める顔ではなかった。

何かを探している顔だ。

「やってるか」

男が聞いた。

「見りゃ分かるだろォ」

アタイはいつもの声で返す。

男は少しだけ頭を下げた。

「水をもらえるか」

「水ならすぐ出すよォ」

酒じゃなく、飯でもない。

まず水――

喉が渇いているというより、話す前に口を湿らせたい顔だった。

アタイは椀に水を入れて、戸口に近い卓へ置いた。

男はそこへ座らず、立ったまま椀を受け取った。

座らない――

それだけで、少しだけ嫌な感じがした。

「座りなァ。立ったまま話す店じゃないよォ」

「すぐ済む」

男は水を一口飲み、椀を卓に置いた。

「この辺りで、人を見なかったか」

指が、盃の布を少し強く握った。

人――

その一言だけで、店の奥が少し遠くなる。

父ちゃんの手が止まった気がした。

張青は戸口で馬具を持ったまま、こちらを見ていない。

誰も助けない。

男は懐から小さな布切れを出した。

何かを包んでいた布らしい。

端に、薄い汚れがついている。

「三十を少し越えた男だ。背は俺より少し低い。右の眉の上に傷がある。笛を持っていた」

笛――

胸の奥で、何かが小さく鳴った。

あの男の腰から落ちた笛。

父ちゃんが拾って、卓へ置いた笛。

その後どこへ行ったのか、アタイは知らない。

知らない――

そういうことにできる。

「連れと落ち合うと言っていた。先にここを通るはずだった」

男は続ける。

「もう何日も戻らない。馬も荷も見つからない」

アタイは男の顔を見た。

怒っているわけじゃない。

泣いているわけでもない。

ただ、探している。

探している人間の顔だった。

大学で聞いたことがある。

人は不安な時、手がかりを探す。

点と点をつなげようとする。

見つからないものに形を与えようとする。

確証バイアス、だったか。

違うかもしれない。

今はどうでもいい。

この男は、手がかりを探している。

そして、十字坡は手がかりを消す場所だ。

「知らないねェ」

声は、揺れなかった。

自分でも驚くくらい、普通に出た。

水を出す時の声。

泊まり客に部屋を教える時の声。

悪い客を遠ざける時の声。

同じ声だった。

男はアタイを見た。

「本当に?」

「この店には、毎日いろんな客が来るんだよォ。眉の傷まで覚えていられないねェ」

嘘だ――

覚えている……

笛も、荷も、声も……

酒が強いと言った顔も……

目がアタイを探した時のことも……

でも、眉の傷は覚えていない。

だから、全部嘘じゃない。

そういう逃げ道を、自分で作っている。

「笛を吹く男だ。腰に下げていたはずだ」

「笛を持つ客なら、珍しくもないよォ」

「一人で来たはずだ」

「一人の客も珍しくないねェ」

男の眉が少し動いた。

疑っている。

当然だ。

疑われてもいい。

証拠がなければ、ただの疑いだ。

この店では、疑いだけで奥へ入れない。

そう判断した自分に気づいて、胸の奥が詰まった。

男は店の中を見た。

卓と階段。

厨房の方。

父ちゃんと張青。

張青がそこで初めて顔を上げた。

「探し人なら、役人に聞いた方がいい」

男が張青を見る。

「この辺りで消えたんだ」

「この辺りは広い」

張青の声は淡々としていた。

助ける気も、追い返す気もない声だ。

ただ、戸口に立つ男として、道の話をしている。

「山道もある。渡しもある。野盗もいる」

「それでも、この店に寄ったかもしれない」

「かもしれない客を、全部覚えてはいない」

張青はそう言って、また馬具へ目を落とした。

うまいと思ってしまった。

張青は嘘をついていない。

覚えていないとは言っていない。

ただ、全部は覚えていないと言った。

言葉の逃げ道。

それをうまいと思った自分が、嫌だった。

父ちゃんは奥で何も言わない。

包丁の音もしない。

ただ、そこにいる。

男はもう一度、アタイを見た。

「女将さん」

女将――

その呼び方に、少しだけ眉が動きそうになった。

アタイは笑ってごまかす。

「アタイは女将じゃないよォ」

「では、二娘さん」

名前を知っている。

誰かに聞いてきたのだろう。

「本当に、知らないか」

まっすぐな声だった。

嘘をつくなら、今だ。

もうついている。

でも、今が一番はっきりした嘘になる。

アタイは布巾を置き、男の椀へ水を足した。

「知らないねェ」

二度目は、一度目より簡単だった。

嫌になるほど、簡単だった。

男はしばらく黙っていた。

それから、懐から銭を一枚出して卓に置く。

「水代だ」

「水に銭は取らないよォ」

「聞いた礼だ」

「役に立ってないだろォ」

「それでもだ」

男は小さく頭を下げた。

礼なんか言うんじゃない。

そう思った。

怒ってくれればよかった。

疑ってくれればよかった。

卓を叩いて、奥を見せろと言ってくれれば、父ちゃんが出てくる。

張青が戸口を塞ぐ。

アタイは店の顔をしていればいい。

けれど男は礼を言った。

「もし、思い出したら……」

「旅人なんて、どこへ行くか分からないもんだよォ」

アタイは先に言った。

男の言葉を終わらせたくなかった。

頼まれたくなかった。

待たれたくなかった。

男は口を閉じた。

「そうだな」

それだけ言って、戸口へ向かう。

張青が少しだけ身体をずらした。

男は外へ出る前に、もう一度店を見た。

アタイと父ちゃん。

張青と奥の戸。

何かを覚えようとする目だった。

その目を見て、アタイは思う。

この男は、また来るかもしれない。

誰かを連れてくるかもしれない。

それとも、どこかで諦めるかもしれない。

どちらにしても、今日ここでは何もできない。

男は道へ出た。

乾いた風が入り、戸口の赤い紙を鳴らした。

店の中に、妙な静けさが残る。

父ちゃんが奥で包丁を置いた。

「二娘」

「何さ」

「水を替えろ」

それだけだった。

褒めない。

責めない。

聞かない。

知らないと言えたことも……

顔に出さなかったことも……

男が置いていった銭を、まだ卓に残していることも……

父ちゃんは何も言わない。

それが、この店では答えだった。

アタイは卓へ行き、椀を下げる。

銭が一枚、そこに残っている。

水代じゃない。

聞いた礼だと言った。

役に立たない返事への礼。

知らないという嘘への礼。

アタイはその銭を指でつまんだ。

軽かった。

軽いのに、やけに持ちづらい。

「お嬢」

張青が戸口から声をかけた。

「何さ」

「顔に出なかったな」

水桶へ向かう足が止まりそうになる。

「出したら終わりだろォ」

言ってから、気づいた。

そうだ――

出したら終わりだ。

だから出さない。

もう理由まで分かっている。

怖いから隠すんじゃない。

店を守るために隠す。

父ちゃんを守るためか……

張青を守るためか……

自分を守るためか……

それとも、十字坡そのものを守るためか……

たぶん、全部だ――

張青は少し黙った。

「さっきの男、また来るかもしれねぇ」

「来たらまた水を出すよォ」

「それだけか」

「飯を頼めば飯も出す」

「聞かれたら?」

アタイは桶の水を捨てた。

古い水が土へ染みる。

「知らないって言う」

張青は何も返さなかった。

店の奥で、父ちゃんが火を見ている。

外では、探し人の足音が遠ざかっていく。

アタイは新しい水を汲み、水桶へ入れた。

水面が揺れる。

そこに、自分の顔が少しだけ映った。

紅は薄く残っている。

目元はいつも通り。

さっき嘘をついた顔には見えない。

嘘をついた顔、なんてものがあるのかも分からない。

心理学の講義なら、微表情だとか、非言語反応だとか言うのかもしれない。

目が泳ぐ。

声が上ずる。

指が動く。

そういうものを見るのだろう。

今日のアタイは、どうだった。

声は揺れなかった。

指も震えなかった。

水もこぼさなかった。

つまり、うまくやった。

そう思ってしまった。

アタイは水面を手で崩した。

奥へ戻ると、父ちゃんが蒸籠を開けていた。

湯気が上がり、饅頭の匂いが広がる。

昨日切った厚さを、アタイはまだ覚えている。

どのくらい詰めたかも覚えている。

火の通りも分かる。

さっきの男が探していた相手と、それが同じなのかは分からない。

分からないことにできる。

分からないままで店は回る。

「客が来る」

父ちゃんが言った。

「見えてるよォ」

アタイは客前へ戻った。

道の向こうから、二人連れが歩いてくる。

一人は腹を押さえ、もう一人は酒場を探す顔をしていた。

普通の客だ。

たぶん――

その、たぶん、で十分だった。

「二娘ちゃん、飯はあるかい」

「あるよォ」

声は普通に出た。

客は笑って席へ座る。

アタイは水を置き、注文を聞く。

奥では饅頭が蒸し上がっている。

張青は戸口で道を見ている。

父ちゃんは火の前にいる。

店は何もなかった顔をしている。

さっき人を探していた男の声が、まだ耳の奥に残っている。

笛。

眉の傷。

戻らない男。

見つからない馬。

それでも、アタイは客に水を出す。

知らないと言った。

二度も言った。

肉を切った時より、簡単だった。

それが、一番嫌だった。

孫二娘でございますよォ。

知らない、と言うだけなら簡単なんだよねェ。

問題は、その声が揺れなかったことさ。

探している人間がいて、探されている人間がいて、その間にアタイが立っている。

心理学っぽく言えば、防衛機制だの合理化だの、まあ色々あるんだろうけどねェ――

十字坡じゃ、もっと雑だよ。

黙って、水を替える。

それで店は続くのさ。

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