昔からが、どうしたって?
孫二娘でございま〜す。
武松が帰って、姉ちゃんもようやく袖を下ろすかと思ったら――
今度は裏で、手下が客に蒙汗薬を盛りやがったよォ。
しかも勝手にアタイと張青の名前まで使ってる。
姉ちゃん、袖をまくり直すな!
まず話を聞け!
横ではフェロモンの悪魔・潘巧雲が、もう「誰が命じたのか」「客はどこへ逃げたのか」って確認を始めてるし、仕事が早すぎて怖いんだよ!
でもねェ……
「昔からやってた」
それで済ませるには、アタイはもう十字坡の主になっちまった。
さて――昔からが、どうしたって?
アタイは笑うのをやめた。
土間に膝をついた手下は、額を床につけたまま震えている。
片袖は裂け、頬には血がついていた。
自分の血だけじゃないねェ。
そういう血は、乾き方が違う。
「誰に盛った?」
男の喉が鳴る。
「商人です。連れが二人……」
「死んだのかい?」
「死んでは、おりません」
張青が息を吐いた。
安心した音じゃない。
まだ最悪まで行っていなかった、それだけの音だ。
姉ちゃんは男を睨んでいる。
袖はもう肘までまくっていた。
「姉ちゃん?」
「あたいは何もしてないよ?」
「その格好で言われても説得力がないんだよォ」
「話は聞いてるだろ?」
「拳で聞く気満々じゃないか!」
潘巧雲が小さく咳払いした。
フェロモンの悪魔が真顔になると、妙に場が締まる。
「逃げた客は、どちらへ?」
潘巧雲が聞くと、手下は一度口を開いてから閉じた。
「孟州の方へ……」
「役人のところだねェ」
返事はない。肩が跳ねた。
十分だ。
迎児は戸口の柱に手を置いている。
怖いんだろう。
それでも潘巧雲の背中へ隠れなかった。
「名は出したのかい?」
男はさらに頭を下げた。
「十字坡の……孫二娘様と、張青様の名を」
張青が一歩前へ出る。
「てめえ!」
「張青」
アタイが呼ぶと、張青は歯を食いしばって止まった。
怒鳴るのも殴るのも簡単だ。
この場所なら、殺すのだって難しくない。
簡単な答えは、その場だけ気持ちがいい。
でも後から高くつく。
大学で教えていた頃、人間は危機に追い込まれるほど視野が狭くなる、なんて話をした。
男子学生が妙に前の席へ集まる講義室で、偉そうにねェ。
心理学って便利だよ。
地獄にも名前をつけてくれる。
やっぱり止めてはくれないけど。
「なぜ使った?」
手下は床を見たまま答えた。
「近頃、休み小屋の入りが悪く……」
「悪くないよォ」
男が顔を上げる。
「帳面を見た。前より銭は残ってる。飯を出して、酒を出して、寝床を貸して、それで取ればいい」
潘巧雲が頷いた。
この女が来てから、銭の残り方は変わった。
男装していれば帳面を整理し、女の格好になりゃあ客が勝手に酒を追加する。
色気で酒の注文が増える女を、現代の経営学がどう分類するのかは知らない。
「ですが……昔から」
「昔から、何だい?」
男の口が閉じた。
それで分かった。
こいつ一人の話じゃない。
父ちゃんの頃から、怪しい客が来れば薬を盛り、金を持っていれば奪い、面倒なら消してきた。
その道の者なんだから仕方ない、山夜叉の旦那もやっていた、十字坡とはそういう場所だ――そんな理屈が、誰かに命じられなくても手下たちの中に残っている。
ぞっとした。
父ちゃんは死んで墓に入ったし、声だってもう聞こえない。
なのに、父ちゃんのやり方だけがまだ人間の中で歩いている。
現状維持バイアスだの、慣習の内在化だの、嫌になるほど言葉が浮かぶ。
昔からやってきたから今日もやる。
誰かが止めなければ、それは続く。
そして、たぶんアタイだって同じだった。
父ちゃんに店を開けろと言われたから、開け続けていた。
血の匂いが梁に染みても、ここを守ることが父ちゃんの言葉を守ることだと思っていた。
でも、父ちゃんは最後に言った。
山夜叉の娘で終わるな。
孫二娘で立て。
だったら、父ちゃんの真似を続けることだけが答えじゃない。
「張青」
「へい」
「休み小屋の連中を集めな。蒙汗薬は全部出させる」
張青が目を見開く。
「全部ですかい?」
「ああ」
アタイは土間の男を見る。
「今日から、十字坡では客に蒙汗薬を盛らない」
空気が止まった。
男が慌てて顔を上げる。
「ですが、二娘様、それでは――」
「飯を売れ」
「……はい?」
「酒を売れ。寝床を貸せ。潘巧雲を店に立たせろ。だいたい客は勝手に酒をもう一壺頼む」
潘巧雲がゆっくりこちらを見る。
「二娘様」
「事実だろォ?」
「否定はいたしませんが、経営方針として明文化するのはおやめください」
姉ちゃんが噴き出し、張青まで口元を押さえた。
「顔で酒を売る店みたいじゃないかい?」
「実際に売れておりますので」
「認めるんだ!?」
別の意味で強いよ、この女。
アタイは咳払いして、土間の男へ目を戻す。
「お前も今日で十字坡を出な」
男の顔から血の気が引いた。
「お許しを……!」
「許す許さないの話じゃないよォ。昔からやってたことでも、今やったのはお前だ。しかもアタイと張青の名まで出した」
「二娘様!」
「役人に全部話すなら止めない。逃げるなら自分の足で逃げな。ただし、もうアタイの名は使うんじゃない」
姉ちゃんは口を挟まなかった。
ここで殴らせたら意味がない。
これはアタイの店の話だ。
「薬で客を眠らせて銭を取らなきゃ食えない奴は、もうアタイの下には置けない」
張青が眉を寄せる。
「では、休み小屋の者を全員追い出すので?」
「違う」
アタイは首を振った。
「アタイが出る」
誰も笑わなかった。
迎児が息を呑み、張青が固まった。
潘巧雲だけは驚いたあと、すぐに何かを計算する顔になった。
「二龍山へ?」
「そうだよォ」
武松が道を置いていった。
魯智深がいる。
姉ちゃんが飯を残さなかったという理由で妙に信用している、あの坊主だ。楊志って男は知らない。
「アタイと張青は行く。潘巧雲と迎児も、来たけりゃ来な」
潘巧雲は迎児を見る。
迎児はその視線にすがらず、自分の足元を見てから顔を上げる。
「私が、決めてよろしいのですか?」
「当たり前だろォ。あんたの足だ」
「行きます」
声は細い。でも、迷ってはいない。
潘巧雲が微笑む。
「では、私も参ります」
「アンタは聞く前から荷造り始めそうだけどねェ?」
「必要な銭と帳面の量は、すでに考えております」
「怖いよ!」
色気だけじゃなく仕事まで速い。始末が悪い。
「で」
姉ちゃんが言った。
「この店はどうするんだい?」
そこだけは、すぐ答えられなかった。
十字坡を潰す気はない。
休み小屋は潰すし、蒙汗薬も捨てる。でも表の店まで消す必要はなかった。
父ちゃんと飯を食った場所だ。
張青が初めて来た場所でもある。
潘巧雲が帳面を開き、迎児が怖いまま盆を持てるようになった場所でもある。
全部嫌いなら燃やせば済む。そうじゃないから困る。
「姉ちゃん」
「あいよ」
「ここ、頼めるかい?」
姉ちゃんは目を瞬いた。殴り合いなら考える前に動く女が、珍しく黙った。
「十字坡を?」
「表の店だけだよォ。休み小屋は潰す。薬もなし。飯と酒と宿で食っていく」
「簡単に言うねぇ」
「姉ちゃんならできるだろ?」
姉ちゃんは父ちゃんの店を、アタイより長く知る。
嫁いでからも数日置きに顔を出し、厨房へ入り、手下がさぼっていれば蹴飛ばしてきた。
潘巧雲が仕事を分け始めても、一番早く合わせた。
アタイが残るより、たぶん店は真面目になる。そこだけは少し腹が立つ。
「……しょうがないねぇ」
姉ちゃんが鼻を鳴らす。
「妹が男ばっかりの山へ遊びに行くってんなら、姉が留守番するしかないだろ?」
「遊びに行くんじゃない!」
「武松もいるんだろ?」
「姉ちゃん!」
「冗談だよ」
冗談に聞こえないんだよォ。
その夜、十字坡は眠らなかった。
張青は休み小屋へ走り、大娘のやり方に従う者だけを表へ回した。
蒙汗薬は全部庭へ運ばせる。
並べてみると、壺は思っていたより多かった。
父ちゃんの頃からあったものもある。
何人がここから帰れなかったんだろう。
壺は何も答えない。
「割るよ」
姉ちゃんが太い棒を持って立っている。
「何でそんな嬉しそうなんだい?」
「今日は誰も殴るなって言うからさ」
「物ならいいって話じゃない!」
言い終わる前に、一つ砕けた。
薬の匂いが土へ広がる。
「姉ちゃん!」
「人じゃないだろ?」
「そういう問題じゃない!」
二つ目が割れ、三つ目も砕けた。
止めるだけ無駄だと気づいた張青が、黙って残りの壺を姉ちゃんの近くへ運び始める。
「張青!?」
「早く終わらせた方が被害が少ねえです」
「何の被害だよォ!」
潘巧雲が横から口を挟む。
「二娘様。割るのでしたら、井戸から離した方がよろしいかと」
「アンタだけ話がまともだねェ!」
「では、こちらへ」
「結局割るのは止めないのか!」
迎児が小さく笑った。
その声を聞いたら、もう止める気もなくなった。
夜明け前、荷がまとまった。
潘巧雲は今の帳面を包み、古い帳面は竈へ入れた。
人を眠らせた記録も、取った銭も、紙の上では同じ墨だった。
火に入れば灰になる。
燃やせば無かったことになるわけじゃない。
ただ、誰にも読めなくなるだけだ。
そこを間違えたら、父ちゃんの頃と何も変わらない。
戸を開けると、朝靄が道を覆っている。
張青が荷を背負い、潘巧雲は帳面を胸に抱えている。
迎児は乾いた飯と衣を入れた包みを両手で持っていた。
姉ちゃんだけが何も持っていない。
ここに残るからだ。
「じゃあねェ」
そう言うと、姉ちゃんの顔が変わった。
怒った時でも、笑った時でもない。
困ったみたいな顔だった。
「あんた、本当に行くんだねぇ」
「自分で行けって言っただろォ?」
「言ったけどさ……」
姉ちゃんが近づく。
殴られたら一生恨むところだ。
でも拳は飛んでこなかった。
代わりに腕が背中へ回った。
思ったよりずっと強くて、普通に痛い。
父ちゃんの娘は、どうして揃って力加減がおかしいんだ。
「姉ちゃん、苦しいよォ」
「少し黙ってな」
仕方なく黙った。
姉ちゃんの肩に顔が当たる。
子供の頃にも、こうされたことがあった気がする。いつだったかは分からない。
そういえば、前の世界にも姉がいた。
あの姉と、こんなふうに抱き合ったことがあったかは思い出せない。
もう会えないと思っている人間ほど、どうでもいい場面ばかり後から浮かぶ。
一緒に食べたものとか、怒られたこととか、そういうものばかり残る。
覚えていなくても、身体が覚えていることはある。
嫌なことだけじゃないんだねェ。
アタイも腕を回した。
今度は自分から。
姉ちゃんの背中を掴む。
少しして、向こうから力が抜けた。
離れた姉ちゃんは、目元を手の甲で擦った。
「泣いてないよ」
「何も言ってないだろォ?」
「言いそうな顔してる」
「どんな顔だよ!」
いつもの姉ちゃんだった。
それで助かった。
「店、頼んだよォ?」
「任せな。あんたより繁盛させてやるよ」
「それはそれで腹立つねェ!」
「だったら、たまには帰ってきな」
返事の代わりに笑うと、姉ちゃんも笑った。
大娘は十字坡の戸口に立つ。
父ちゃんが何度も立っていた場所だ。
今は、姉ちゃんが立っている。
それでいい。
「二娘」
呼ばれて振り返る。
「何?」
「次に武松が来たら、一発くらい殴っとくかい?」
「まだ言ってんのか!」
朝っぱらから全部台無しだよ!
張青が笑い、迎児まで口元を押さえた。
潘巧雲は真顔で、
「一発で済むのでしたら、比較的穏当かと」
と言った。
「アンタまで混ざるな、フェロモンの悪魔!」
姉ちゃんの笑い声を背中で聞きながら、アタイは歩き出した。
怖いし、寂しい。
でも、怖いまま歩くやり方はもう知っている。
父ちゃんが残した店は姉ちゃんに任せ、アタイは前を見る。
道の向こうは朝靄で見えない。
二龍山でどうなるかなんて、着いてから考えればいい。
昨日までと同じ十字坡には、もう戻らない。
「行くよォ」
張青たちの足音が続いた。
アタイは一度だけ振り返る。
姉ちゃんはまだ戸口にいた。
手を振らない。
アタイも振らなかった。
それでいい。
今度こそ、アタイは十字坡を出た。
二龍山へ――
孫大娘と孫二娘、二人合わせて孫姉妹で〜す!
「じゃあ姉ちゃん、十字坡は頼んだよォ」
「任せな。あんたがいない間に繁盛店にしてやるよ」
「それ、さっきから地味に腹立つんだけど!」
「まず酒を増やして、飯を増やして――」
「まともだねェ」
「潘巧雲みたいな女を店先に立たせる」
「結局そこか!」
フェロモンの悪魔を看板にする気満々じゃないか!
「冗談だよ。もう二龍山へ行くんだろ?」
「行くよォ」
「たまには帰ってきな」
「……店が潰れてなかったらねェ」
「誰に言ってんだい?」
姉ちゃんが笑う。
「次に帰ってきた時、びっくりするよ」
「何が?」
「あんたの部屋、物置にしとくから」
「帰る場所を消すな!」




