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これはアタイの話だ

孫二娘でございま〜す。


鶏一羽の騒ぎがようやく落ち着いたと思ったら、今度は二龍山から武松が帰ってきたよォ。


しかも今日は姉ちゃんまでいる。

名前を聞いた瞬間、黙って袖をまくるのはやめなァ!


その横では、フェロモンの悪魔・潘巧雲が楊雄の話を聞いているし、店の空気はもう面倒くさいことになってる。


アタイにも、武松へ言っておかなきゃならないことがある。

怖くないわけじゃない。


でも――

誰と話すかも、何を言うかも、今度はアタイが決めるよォ。


……だから姉ちゃん、まだ殴るなって!

外の戸板が、もう一度叩かれた。

さっきと同じ、静かな音だった。

急かしもしない。

力任せでもない。

それなのに、名前を聞いた後では音の意味が違って聞こえる。

手首の奥が痛んだ。

もう痣なんて残っていない。

誰にも掴まれていないし、戸板一枚向こうにいる男が今すぐ何かをするわけでもない。

分かってるよ。

身体は、分かってくれないだけだ。

「二娘?」

奥から姉ちゃんが出てきた。

数日ぶりに手伝いへ来た姉ちゃんは、客が引いてからも納戸で酒樽を数えていた。

潘巧雲に「持てるからといって全部自分で動かさないでください」と言われた翌日から、妙に素直に在庫まで見るようになった。

武松の名を聞いたらしく、表情が変わっている。

「……あいつかい?」

「そうみたいだねェ」

姉ちゃんは戸口を見ると、袖をまくり始めた。

「姉ちゃん」

「何?」

「まだ殴るなよォ?」

「まだ何もしてないだろ?」

「その袖は何だ!」

張青が戸に手を掛けたまま、こっちを見ている。

潘巧雲は帳面を閉じ、迎児を自分の後ろへ半歩下げた。

アタイは一度息を吐いた。

怖いから開けないのも、自分で決めることだ。

怖いけど開けるのも、同じだ。

「開けなァ」

張青が戸を引いた。

雨の匂いと一緒に、黒い行者衣が見えた。

肩に荷を負い、腰には戒刀を差し、首から数珠を下げている。

武松は敷居の外に立っていた。

あの時と同じ男だ。

顔も、肩も、腕も変わっていない。

なのに、以前と一つだけ違う。

入ってこない。

「久しぶりだな」

「まだ生きてたのかい?」

「お前もな」

そこで姉ちゃんが前へ出た。

「あんたが武松かい?」

武松の目が姉ちゃんへ向く。

「ああ」

「そうかい」

姉ちゃんの拳が握られた。

「聞いてるよ」

それだけで十分だった。

武松も、何を聞いたのかとは訊かなかった。

アタイを見る。

「……そうか」

姉ちゃんが一歩出る。

アタイは腕を掴んだ。

「やめなァ」

「二娘」

「これはアタイの話だよォ」

姉ちゃんが止まった。

武松を睨んだまま、しばらく動かない。

それでも最後には拳を開いた。

「分かった」

そういうところは間違えない。

姉ちゃんはアタイを守ろうとする。

けれど、アタイの代わりに決着まではつけない。

「入るのかい?」

武松に聞くと、向こうもすぐには動かなかった。

「いいのか?」

「それを決めるのはアタイだろォ」

「……そうだな」

「入りなァ」

そこでようやく敷居を越えた。

たった一歩なのに、肩が勝手に固くなる。

姉ちゃんもいるし、張青も、潘巧雲も、迎児もいる。

頭なら、ここに何人いるのか数えられる。

それでも身体は数えてくれない。

大学で教えていた頃なら、条件づけだのトラウマ反応だの、説明はいくらでもできた。

心理学って便利だねェ。

名前だけはつけてくれる。

止めてはくれない。

武松は卓へ腰を下ろした。

戸口と裏口が見える場所を選び、戒刀も外さない。

相変わらず、休んでいるようで休んでいない男だ。

姉ちゃんまで向かいに座った。

「何で姉ちゃんも座るの?」

「客なんだろ?」

「見張る気しかないだろ!」

「酒も飲むよ」

「帰る気までなくすな!」

潘巧雲が口元を押さえた。

笑ったね?

こういう時だけフェロモンの悪魔は楽しそうだ。

武松の目が潘巧雲へ向く。

「見ねえ顔だな?」

「少し前から、こちらで働いております」

「名は?」

「潘巧雲と申します」

その名を聞いた瞬間、武松の眉が動いた。

「楊雄の女房か。話は聞いてる」

迎児の肩が跳ねた。

潘巧雲は姿勢を変えない。

「以前は、そう呼ばれておりました」

「今は?」

「潘巧雲です」

いい答えだねェ。

武松はしばらく彼女を見たが、事情を聞き出そうとはしなかった。

「戻るのか?」

「戻りません」

「なら、ついて行くな」

潘巧雲がわずかに目を細める。

「それが簡単にできれば、夜の町を馬で逃げたりはいたしません」

「それもそうだ」

話が終わった。

姉ちゃんが腕を組む。

「あんた、女の話にはずいぶん物分かりがいいんだねぇ」

張青が横を向いた。

迎児は盆へ視線を落とす。

潘巧雲は帳面を開こうとして、やめた。

「姉ちゃん」

「何?」

「今日は喧嘩を売る日じゃないよォ」

「売ってないよ。感想だ」

「もっと悪い!」

武松は言い返さなかった。

アタイも、それ以上は言わせない。

今、潘巧雲へどう接しているかと、アタイにしたことは別だ。

良いことを一つしたら、悪いことが帳消しになるわけじゃない。

人間は帳面ほど簡単じゃない。

「楊雄と石秀が梁山泊へ入ったそうだねェ」

「ああ、二龍山にも話は来てる」

「時遷って、本当に鶏を盗んだのかい?」

「盗んだらしい」

潘巧雲が即座に顔を上げた。

「私は盗んでおりません」

武松が見る。

「鶏を?」

「はい」

「なら、お前じゃねえ」

店に妙な沈黙が落ちた。

姉ちゃんが首を傾げ、迎児は笑っていいのか迷っている。

アタイは耐えられなかった。

「何でアンタまで一発で納得するんだよォ!」

「盗ってねえんだろ?」

「そうだけどさァ!」

官服と馬と銭については話が長くなる女なのに、鶏に関する潔白だけは異様な速度で認定されていく。

そのうち梁山泊まで「潘巧雲は鶏を盗まない」で統一されるんじゃないかねェ。

アタイは武松へ酒を出した。

「先に言っとくけど、今日はまともだよォ」

武松は盃の中を見る。

「今日は、か」

「そこ拾うな!」

「前は飲まなかった」

「床にくれてやったんだろォ。覚えてるよ!」

張青が吹き出しかけたが、姉ちゃんに睨まれて止まった。

武松が一口飲む。

アタイは、その手を見る。

何でもない動きだ。

なのに目が離れない。

武松も気づいたのか、盃を卓へ戻した。

「二娘」

身体が強張る。

姉ちゃんが腰を浮かせかけた。

「座ってなァ」

言うと、姉ちゃんは座り直した。

武松はしばらく黙っていた。

アタイの方から口を開く。

「あの時は言う暇もなかったけどねェ」

喉が少し乾いた。

それでも、言う。

「ガキはできちゃいないよォ」

武松の手が止まった。

張青は目を伏せた。

迎児が息を呑む。

潘巧雲はこっちを見なかった。

見ないでくれる女ってのは、こういう時ありがたい。

「……そうか」

武松が答えた。

「安心したかい?」

武松はすぐには答えなかった。

その間だけで十分だった。

「勘違いするんじゃないよォ。アンタを安心させるために教えたんじゃない」

「分かってる」

「アタイが言っときたかっただけだ」

武松が頷く。

それから、言った。

「悪かった」

姉ちゃんの指が卓を叩いた。

一度だけ。

アタイは武松を見る。

謝ったから消える話じゃない。

あの夜のことも、嫌だと伝えたことも、それでも止まらなかったことも変わらない。

「アタイは嫌だった」

「ああ」

「嫌だって伝えた」

「ああ」

「それでもアンタは止まらなかった」

武松は黙って聞いている。

「そこは、勝手に別の話へ変えるなよォ」

「変えねえ」

「謝ったから終わりにもするな」

「分かった」

それでいい。

罪悪感ってのは厄介だ。

苦しんでいる自分を見せて、反省している自分を確認して、少しだけ楽になりたくなる。

前世で学生に話したら、もっときれいな言葉を選んだかもしれない。

今はいらない。

武松の罪悪感の面倒まで、アタイが見る義理はない。

「ただねェ」

アタイは盃を取った。

「今ここで、アンタを追い返すか、酒を出すか、姉ちゃんに殴らせるかはアタイが決める」

「殴らせるのは残ってるんだな?」

姉ちゃんがすぐに食いついた。

「いいところなんだから黙ってな!」

潘巧雲がとうとう吹き出した。

フェロモンの悪魔まで笑うんじゃないよォ。

武松の口元も少し動いた。

腹が立つ。

でも、笑えるならそれでいい。

少なくとも、笑うかどうかまで武松に決められる筋合いはない。

酒が半分ほど減った頃、武松が潘巧雲へ言った。

「楊雄と石秀が梁山泊にいるなら、ここまで話が来ることもある」

迎児が潘巧雲を見る。

「ここにいられなくなったら、二龍山へ来い」

「勝手にアタイの働き手を勧誘するなよォ」

「困った時の話だ」

「困らせなきゃいいだろ?」

「梁山泊が相手なら、十字坡だけじゃ面倒になるかもしれねえ」

潘巧雲の顔から笑いが消えた。

武松が続ける。

「二龍山には魯智深の兄貴もいる。楊志もいる」

姉ちゃんがすぐ口を挟んだ。

「魯智深がいるなら、そこはいいよ」

武松が姉ちゃんを見る。

「知ってるのか?」

「十字坡で何日も飯食って酒飲んでった男だよ。嫌がる女を亭主へ売り渡すような奴じゃない」

「姉ちゃん、評価が豪快すぎない?」

「分かりやすいだろ?」

分かりやすい。

潘巧雲も少しだけ肩の力を抜いた。

「楊志って男は知らないけどねぇ」

「そこは正直なんだ」

「会ってない男を知ってるふりして、何になるんだい?」

正論だよ。

拳より痛い時があるねェ。

潘巧雲は少し考えてから、武松へ頭を下げた。

「覚えておきます」

「行くかどうかは、お前が決めろ」

その言葉に、潘巧雲の目がわずかに動く。

さっき、自分で言ったばかりだ。

逃げるかどうかも、自分が決める。

道が一つ増えたからといって、すぐ走る必要はない。

この女なら、使える道だけ覚えておくだろう。

夜が更ける前に、武松は立ち上がった。

「泊まらないのかい?」

「二龍山へ戻る」

姉ちゃんが即座に頷く。

「そうかい」

「そんな嬉しそうに言うな!」

武松は戸口まで行き、一度だけ振り返った。

身体が反応した。

肩に力が入る。

でも武松は、こちらへ戻ってこなかった。

「また来る」

「好きにしなァ。ただし、次も勝手に入るんじゃないよ」

「ああ」

戸板が閉じた。

足音が遠ざかってから、姉ちゃんが息を吐く。

「二娘」

「何?」

「やっぱり一発くらい殴っとけばよかった」

「終わってから言うな!」

「次があるだろ?」

「予約するな!」

潘巧雲がまた笑った。

その時だった。

裏口の方で、何かが倒れ込む音がした。

張青が先に走る。

すぐに声が飛んできた。

「二娘お嬢!」

アタイたちも裏へ回った。

休み小屋の手下が、土間に膝をついていた。

衣は泥だらけで、片袖が裂け、頬には血がついている。

さっきまでの空気が消えた。

「何をやった?」

男は顔を上げない。

「申し訳ありません」

「謝れとは言ってないよォ。何をやった?」

喉が鳴る。

「客に……薬を使いました」

張青の顔色が変わった。

姉ちゃんの目が細くなる。

潘巧雲は帳面を抱えたまま動かず、迎児がその後ろへ下がった。

アタイは男を見る。

答えは、もう分かっていた。

それでも聞いた。

「何の薬だい?」

男は震えながら口を開いた。

「蒙汗薬です」

よりによって、武松が帰った直後だというのに……

アタイは、笑うのをやめた。

孫大娘と孫二娘、二人合わせて孫姉妹で〜す!


「二娘、やっぱり一発くらい殴っとけばよかったねぇ」

「まだ言ってんのかい!」

「次に来た時でも間に合うだろ?」

「殴る予定を立てるな!」


姉ちゃんが腕を組む。


「でも、魯智深がいるなら二龍山は悪くないねぇ」

「姉ちゃん、あの坊主には妙に甘いよねェ」

「飯を残さなかったからね」

「信用の基準が食堂なんだよ!」


その横で、フェロモンの悪魔・潘巧雲が真顔で頷いている。


「……で、二娘」

「何?」

「裏で蒙汗薬使った馬鹿、誰だい?」

「それを今から聞くんだよォ」


姉ちゃんが、また袖をまくった。


「今度は止めないよね?」

「まず話を聞け!」

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