結局、母夜叉になっちまった
孫二娘でございま〜す。
十字坡を姉ちゃんに任せて、アタイたちは二龍山へ向かったよォ。
着いてみりゃ魯智深は相変わらず声がでかいし、張青は真っ先に逃げ道を探すし、フェロモンの悪魔・潘巧雲は数日で酒と帳面を握りやがった。
アンタ、本当にどこでも生きていけるねェ!
これで少しは落ち着くかと思ったんだけど――甘かった。
今度は梁山泊へ行くって?
店から山へ来たばっかりなのに、次は湖の中かい!
しかも、そこで妙に目つきの悪い美人と出会ったと思ったら……
もう一人。
初めて聞くはずなのに、なぜか言い方が耳に引っかかる女までいる。
何なんだい、ここは――?
二龍山までの道中は、面倒だから省くよォ。
張青が三度ほど「まだ着かねえんですかい」と泣き言を言い、迎児が途中で足を痛め、潘巧雲が休憩のたびに水と乾飯の残りを確認した。
それだけ覚えておけば十分だ。
アタイだって疲れたけれど、後ろへ戻ろうとは思わなかった。
山門へ着いた時、最初に聞こえたのは魯智深の声だった。
「おお! 本当に来たか!」
「声がでかいよォ!」
姿を見る前から誰だか分かる男も珍しい。
魯智深は大笑いしながら張青の背中を叩き、張青は危うく地面へ顔から突っ込みかけた。
「お嬢、ここじゃ挨拶で人を殺すんですかい?」
「アタイに聞くな!」
その横には、見知らぬ男が腕を組んでいる。
「楊志だ」
「孫二娘だよォ」
眉間の皺が深い。
それ以上、互いに余計なことは言わなかった。
姉ちゃんが「会ってない男を知ってるふりして何になる」と言っていたけど、その通りだったねェ。
実際に会ってみれば、愛想はないけど話は早そうな男だった。
少し離れた場所には武松もいた。
目が合った瞬間、手首の奥に嫌な感覚が戻る。
身体ってのは本当に面倒だ。
頭では今どこにいるか分かっている。
魯智深もいるし、張青も潘巧雲も迎児もいる。
それでも、昔のことだけは勝手に消えてくれない。
武松は近づいてこなかった。
「来たか」
「ああ、来たよォ」
それで終わった。
今は、それくらいでいい。
二龍山へ移ってから、いちばん早く馴染んだのは潘巧雲だった。
三日も経たないうちに倉の出入りを確認し、厨房で余る食材を見つけ、酒壺の置き場所まで変え始めた。
四日目、魯智深が酒を注ぎながら首を傾げる。
「妙だな。酒が減らん」
「出す量を決めましたので」
潘巧雲が平然と答えた。
楊志が鼻を鳴らす。
「前からそうしろと言っていただろう?」
「聞いた覚えがない!」
「だから減るんだ!」
アタイは横で笑いそうになった。
十字坡じゃ、女の姿で店に出れば客が余計に酒を頼んだ女だ。
山へ来たら、今度は酒を減らさなくなった。
フェロモンの悪魔、使い道が多すぎる。
「潘巧雲」
「はい」
「アンタ、どこへ行っても帳面握るねェ」
「握れる者が握ればよろしいかと」
「言い切ったよ!」
迎児も厨房へ入った。
大声が飛べば今でも肩は揺れるけれど、逃げ道を確かめてから自分の仕事へ戻る。
怖くなくなったわけじゃない。
前に話した通り、それでいい。
怖いまま動けるなら十分だ。
張青は初日に倉の位置を覚え、翌日には裏道を見つけた。
「お嬢、いざとなったら向こうから抜けられますぜ?」
「何で来たばっかりなのに逃げ道探してんだい!」
「性分で」
「嫌な性分だねェ!」
とは言ったけれど、こいつの場合は直らないだろう。
臆病だからこそ気づくこともあるし、父ちゃんの下にいた頃から張青はそういう男だった。
アタイは酒を出したり、人の揉め事へ口を挟んだり、放っておいていい喧嘩と止めた方がいい喧嘩を見分けたりしていた。
店が山寨に変わっただけで、案外やることは似ている。
ただし、蒙汗薬だけはない。
最初の何日か、そのことが妙に落ち着かなかった。
自分で捨てたくせにねェ。
習慣というものは厄介だ。
頭で終わらせたつもりでも、身体の方が以前の手順を探す。
前の世界なら、行動の定着だとか条件づけだとか、それらしい言葉を使ったかもしれない。
今は別にどうでもいい。
使わなければいいだけだ。
やがて桃花山や白虎山からも人が集まり始め、二龍山の中が急に騒がしくなった。
青州で好き勝手にやっていた連中が、一緒に動くことになったらしい。
荷物がまとめられ、馬が増え、山道を見知らぬ顔が行き交うようになる。
そのうち、今度は梁山泊へ向かう話まで進んだ。
アタイは二龍山へ来れば、しばらく腰を落ち着けられると思っていたんだけどねェ。
甘かった。
店から山へ移ったと思ったら、次は湖の中だ。
人生って、こんなに引っ越すものだったかい?
大学の助教をしていた頃は、研究室と講義室を行ったり来たりするくらいだった。
男子学生が講義の前列へ妙に集まってきても、少なくとも全員が刀や槍を持ってるなんてことはなかった。
今の職場環境、労働基準監督署が見たら卒倒するよォ。
舟へ乗ると、迎児が少し顔を強張らせた。
潘巧雲は何も言わず、その隣へ座る。
張青は舟の縁から湖面を覗き込み、
「落ちたら泳げますかね?」
なんて縁起でもないことを言っていた。
「今それ考える必要あるのかい!?」
「念のためで」
「アンタは念のためが多すぎるんだよォ!」
前方に大きな水寨が見えてきた。
船が行き交い、人の声が湖面まで響いている。
十字坡とは比べものにならない。
あの小さな店しか知らなかった頃のアタイなら、見ただけで帰りたくなったかもしれないねェ。
今は、そこまででもない。
慣れって怖い。
山賊の山寨を見ても驚かなくなったあたりで、人として何かを失ってる気はする。
「お嬢」
張青が隣で言った。
「何?」
「ずいぶん遠くまで来ましたねえ」
「そうだねェ」
それだけは否定できない。
父ちゃんの店にいた頃、こんなところまで来るなんて考えもしなかった。
あの場所から逃げたいと思ったこともあったし、守らなきゃと思った時期もある。
父ちゃんが死んでアタイが主になり、最後には姉ちゃんへ渡した。
その姉ちゃんは今ごろ、アタイの部屋を本当に物置へ変えてるかもしれない。
……帰ったら殴ろう。
いや、姉ちゃん相手は勝てる気がしないからやめとこう。
舟が岸へ寄った。
縄が飛び、岸にいた男が受け取る。
次々と人が降りていく中、潘巧雲は帳面を抱え直し、迎児は足元を確かめた。
アタイも舟から降りる。
土を踏んだ瞬間、妙な気分になった。
本当に梁山泊まで来ちまった。
その時、人の流れの向こうに一人の女が見えた。
腰に二振りの刀を帯びた若い女で、顔立ちは綺麗なのに、立っているだけで近づきにくい。
美人だからじゃない。
人が行き交う中でも、どこから誰が来ても動けるように身体の向きを決めている。
戦ったことのある女だ。
向こうもアタイに気づいたらしい。
目が合うと、一度、頭から足まで見られた。
何だい、その値踏みするような目。
アタイも遠慮なく見返す。
「アンタが扈三娘かい?」
女の眉がわずかに動いた。
「あなたが孫二娘?」
「そうだよォ。何て聞いてる?」
「十字坡の女」
「雑だねェ!」
「危ないとも聞いたわ」
「もっと悪くなったよ!」
後ろで張青が咳き込み、潘巧雲が袖で口元を隠した。
扈三娘は少しだけ口角を上げる。
笑ったのか、馬鹿にしたのか分からない。
「そっちは?」
「何が?」
「アタイのことをどう思ったんだい?」
「面倒そう」
「初対面で言う!?」
「そっちも同じ顔してるけど」
言われてみれば否定できない。
気に入らないねェ。
だから少し気に入った。
扈三娘がアタイを見る。
「武器は?」
「あるよォ」
「使えるの?」
「試すかい?」
「いいね」
「やめろ」
横から楊志が割って入った。
いつの間に来たんだい。
少し後ろでは魯智深が豪快に笑っている。
「少しくらいよいではないか!」
「よくない!」
アタイと扈三娘の声が重なった。
また目が合う。
やっぱり面倒な女だ。
人は環境に影響され、与えられた役割に慣れれば、その場所に合うように変わっていく。
昔、学生たちにそんな話をしていた。
だったら、今のアタイはどうなんだろうねェ。
十字坡で育ち、山夜叉の娘と呼ばれ、店を継いで、そこを出て、二龍山を経て梁山泊まで来た。
父ちゃんと同じ道は選ばなかったし、蒙汗薬を使う店も終わらせた。
張青の女房にもならなかったし、武松にされたことを恋だの縁だのへ変える気もない。
それでも、今のアタイを見て、誰が堅気だと思うんだろう?
アタイは自分の手を見る。
昔よりずっと強くなった手だ。
それから梁山泊を見上げた。
何だか笑えてきた。
結局――
「母夜叉の孫二娘になっちまったねェ……」
張青が後ろから首を傾げる。
「今さらですかい?」
「うるさいよ!」
潘巧雲が笑い、迎児もつられて笑った。
少し先では扈三娘が振り返って、何を笑ってるんだという顔をしている。
まあ、いいさ……
誰かに決められたからじゃない。
ここまで自分の足で来たんだ。
アタイはそのまま梁山泊の中へ歩き出したところで、遠くから女の声がした。
「孫二娘さん、少しよろしいでしょうか?」
なぜだろう……
初めて聞くはずなのに、その言い方が妙に耳に引っかかった。
アタイは振り返る――
孫大娘と孫二娘、二人合わせて孫姉妹で〜す!
「二娘、結局どうなったんだい?」
「梁山泊まで来ちまったよォ」
「そこじゃないだろ。母夜叉になったんだろ?」
「姉ちゃんまで言うな!」
父ちゃんと同じ道は選ばず、張青の女房にもならず、蒙汗薬まで捨てた。
なのに結論が母夜叉……
「遠回りしたねぇ」
「五十五話かけて言うことかい!」
姉ちゃんが笑う。
「まあ、帰りたくなったら帰ってきな」
「アタイの部屋は?」
「もう物置だよ」
「仕事が早すぎる!」
梁山泊より先に、帰る場所の方が危なくなってるよォ!




