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回しているのは、二娘さんです

孫二娘でございま〜す。


潘巧雲を拾った翌朝、店の様子がちょっとおかしくなったよォ。


女物に着替えた途端、客が朝から酒を追加し始めた。

何だい、このフェロモンの悪魔。


アタイは居酒屋を継いだはずなのに、三枚看板が並んで、張青が売上を数えてる。

スナックかキャバクラかねェ?

でも、厨房の奥を開けたらホラーだけど……


ところが、この女の厄介なところは色気だけじゃなかった。

数日黙って働いて、店の中を見ていたと思ったら、六日目になって帳面を持ってきた。


そしてアタイに、笑えないことを言った。

十字坡が回ってる理由は――どうも、アタイらしい。

戸板が、もう一度叩かれた。

今夜二度目だ。

十字坡ってのは、客より面倒の方が先に来る夜がある。

酒でも頼んでくれるならまだいいけど、こういう叩き方をする連中は、だいたい銭を払う気がない。

「張青、水を出しな」

「また水でございますか」

「ただの水だよォ。今夜は蒙汗薬より笑顔の方が効く」

張青は嫌そうな顔をしたものの、すぐ椀を取った。

姉ちゃんは腕をまくったままだ。

「殴るなよォ」

「まだ何もしてないだろ」

「する顔なんだよ!」

その横で、男物の衣を着たままの潘巧雲が笠を受け取る。

迎児は彼女の袖を握り、戸板が鳴るたび肩を強張らせていた。

「二娘さん、私はどこへ?」

いいねェ。

十字坡へ来て飯も食ってないのに、泣くより先に配置を訊く。

「厨房から膳を運びな。顔は伏せすぎるなよォ。隠そうとすると余計に見られる」

「承知しました」

「迎児は椀を持てる?」

迎児は青い顔のまま頷いた。

「じゃあ汁を運びな。こぼしたら床掃除が増えるからねェ」

潘巧雲が迎児の背へ手を添えた。

慰めるというより、膝が抜けても倒れないよう支える手だ。

張青が戸を開けると、案の定、さっき追い返した役人たちが入ってきた。

「もう一度、奥を改める」

「好きにしなァ。ただし、今度こそ椀を割ったら弁償してもらうよォ」

「まだ金の話をするか」

「店で金の話をしないで何を話すんだい」

姉ちゃんが横から口を挟んだ。

「壊したら払え。それだけだろ」

役人が姉ちゃんを見る。

姉ちゃんも見る。

やめろ。

何で視線だけで喧嘩を始められるんだ、この女……

「大娘お嬢」

張青がそっと呼ぶ。

「何だい?」

「今夜は床板を守るだけにしていただけますと」

「分かった」

分かるんだ。

アタイより張青の方が、姉ちゃんの扱いに慣れてないかい?

役人たちは下役を連れて店へ踏み込み、厨房や宿の奥へ目を走らせた。

その間を潘巧雲が膳を持って歩いていく。

ほんの少し前まで裏道で縄を掛けられていた女とは思えない。

背筋を伸ばしすぎず、歩幅を狭め、目線も必要以上に動かさない。

悪くない。

問題は男物の衣だ。

逃げるために着たはずなのに、女の気配ばかり目立っている。

潜伏している本人よりフェロモンの方が働いてどうする。

役人の一人が潘巧雲へ目を止めかけた。

その瞬間、迎児の椀が小さく鳴る。

わざとじゃない。

本気で震えた音だ。

役人の視線が迎児へ流れた隙に、潘巧雲は膳を置き、自分の身体で迎児の手元を隠した。

自分が見られそうになったから、怯えた娘を囮にした――とだけ言えば聞こえは悪い。

でも、逃げる時に綺麗な心だけ抱えていたって足は速くならない。

それに、役人の目から迎児を庇ったのも潘巧雲だ。

使えるものを使いながら、守るところは守る。

この女、やっぱり面倒だねェ。

役人たちは宿の戸を確かめ、酒壺の裏まで覗いたが、武松も行者の衣もすでに消えている。

残っているのは働く女と腹を空かせた客、それから役人相手でも水代を取れないか本気で考えている張青くらいだった。

「怪しい者が来たら知らせろ」

「知らせるよォ。次から水代は先払いでねェ」

役人は舌打ちして出ていった。

馬の音が遠ざかってから戸を閉めると、迎児の膝が崩れかけた。

潘巧雲がすぐ腕を掴む。

「立って。倒れるなら、せめて客のいないところで」

「でも、足が……」

「なら壁まで三歩。そこまで行ってから座りなさい」

迎児は本当に三歩進み、壁際で座り込んだ。

姉ちゃんが感心したように潘巧雲を見る。

「あんた、厳しいねぇ」

「ここで倒れて膳を割れば、迎児も困ります」

張青が頷いた。

「非常によく分かっておられます」

アタイは笑った。

「気に入ったよォ」

「ありがとうございます」

「褒めたんじゃない。面倒そうだと思っただけ」

潘巧雲は少し考えてから訊いた。

「こちらでは、だいたい同じ意味なのでしょうか?」

「違うよォ」

「大差ないだろ」

姉ちゃんが言う。

ほらね。

翌朝、潘巧雲は女物の衣へ着替えた。

困ったことに、さらに目立った。

髪を整えて襟を直し、少し顔を上げただけで店の空気まで変わる。

昨夜まで逃亡中だった女が、一晩寝たら看板娘になっていた。

張青が客席の方を見ながら呟く。

「二娘お嬢、本日は朝から酒の注文が多うございます」

「朝から?」

「潘巧雲殿が膳を出してから、もう一杯という客が三人ほど」

何だい、それ……

アタイは居酒屋を継いだはずだよねェ。

看板娘が三人いて、客が女を見ながら酒を追加して、張青が売上を数えてる。

スナックかキャバクラか……

しかも厨房の奥を開けたらホラーだよ!

前世では男子学生に妖艶なお姐さん助教だの何だの言われていたアタイが、今生では人肉店の看板娘兼店主。

そこへフェロモンの悪魔が加入して、姉夜叉まで数日置きに店先へ立つ。

業態が迷子すぎる。

「二娘」

姉ちゃんが横から呼んだ。

「何?」

「あたいが店先に立つと、酒が増えない」

「客層が違うんだよォ」

「どういう意味だ?」

「聞くな。怖いから」

張青が小声で言った。

「大娘お嬢の場合、無銭飲食が減ります」

「ほら、役に立ってるだろ?」

役割が用心棒じゃないか……

潘巧雲と迎児はその日から厨房と客席へ入った。

迎児は小柄な見た目よりずっと手が早く、物の場所さえ教えれば黙々と片づける。

潘巧雲も包丁は使えたが、うちの食材には慣れていない。

二日目の朝、奥から運ばれてきた肉を前にして、彼女の手が止まった。

「二娘さん」

「何だい?」

「こちらも仕入れの帳面へ記しますか?」

「書かない」

潘巧雲が肉を見た。

次にアタイを見る。

そして、もう一度肉を見る。

「何の肉でしょう?」

「知らない方が眠れる肉だよォ」

張青が咳払いした。

「潘巧雲殿、十字坡には帳面へ記す物と、記さぬ物がございます」

「そういう説明すると余計に怖いだろ!」

「事実でございます」

潘巧雲は奥の扉まで一度だけ見たものの、それ以上は訊かなかった。

「承知しました」

「それで済ませるの!?」

「雇われて二日目から、店主が書くなと仰ったものを無理に帳面へ載せるほど命知らずではございません」

……やっぱり使えるねェ、この女。

姉ちゃんは翌日、自分から帳面を持って潘巧雲の横へ座った。

この前「後で教えて」と言ったのを、本気で覚えていたらしい。

「潘巧雲、この印は何だ?」

「酒壺の残りです」

「こっちは?」

「泊まりのお客様の数です」

「こいつは?」

潘巧雲が一瞬だけアタイを見る。

「書かない方です」

「分かった」

「分かるな!」

姉ちゃんは気にせず帳面を覗き込み、潘巧雲の印の付け方や、客の入りに応じて女中をどう動かすのかまで聞き始めた。

前世の姉ちゃんも仕事の整理は妙に早かったけど、今生の姉ちゃんは覚えた知識をそのまま腕力で実行しそうなのが怖い。

「大娘さん、樽は持ち上げなくても、先に置き場所を決めれば人を呼ばずに済みます」

「なるほど」

「姉ちゃん、今まで全部持ち上げてたの?」

「持てるからねぇ」

それ、改善の余地しかないよォ。

潘巧雲は五日目まで、店のやり方へ余計な口を出さなかった。

自分も厨房や客席へ入りながら、誰が何時に働き、どこで手が足りなくなり、何が余っているのかを見ていたらしい。

迎児が昼過ぎに立ったまま眠りかけても、その日は「少し休みなさい」と言っただけだった。

張青が二度同じ酒壺を開けても、黙って閉め直した。

姉ちゃんと女中が同じ部屋を片づけ、その隣の部屋が手つかずでも、その場では何も言わなかった。

嫌な女だねェ。

綺麗な顔をして、店の失敗を全部覚えている。

六日目の昼、潘巧雲がアタイと張青、それに今日も手伝いへ来ていた姉ちゃんを店の裏へ呼んだ。

「少し、お話がございます」

「何だい?」

「この店の働き方についてです」

姉ちゃんが腕を組む。

「喧嘩なら聞こうじゃないか」

「経営の話だよォ!」

潘巧雲は姉ちゃんを一度見た。

何も言わなかった。

賢い。

「人が足りないのではございません」

「足りてるよォ。だから回ってる」

「回っているように見えるだけです」

張青の顔から、少しだけ笑いが消えた。

潘巧雲は帳面を開き、指を置く。

「二娘さんが店先へ出ながら厨房へ入り、宿の方まで見ています。迎児は朝から夜まで働き、張青殿や手下の方々は、空いたところへその都度入っております」

「それで回ってるならいいだろ」

姉ちゃんが言う。

潘巧雲は姉ちゃんを見る。

「先日、大娘さんと別の方が同じ部屋を片づけ、その隣が手つかずでした」

姉ちゃんが黙った。

張青が顔を背ける。

笑ったら踏むよォ。

「朝は厨房へ人が集まりすぎ、昼には宿の片づけが足りなくなります。夜になる頃には、朝から働いた者まで残っている。それでも何とかなっているのは――」

潘巧雲の指が、帳面からアタイへ向いた。

「回しているのが、二娘さんだからです」

アタイは笑うのをやめた。

孫大娘と孫二娘、二人合わせて孫姉妹で〜す!


「二娘、あの潘巧雲って女、店のこと見すぎじゃないか?」

「六日でアタイの働き方まで見抜かれたよォ」

「で、何て?」

「『回しているのは二娘さんです』だってさァ」

「合ってるだろ」

「姉ちゃんまで即答するな!」


姉ちゃんが帳面を覗き込む。


「でも、あの子のやり方は覚えたい」

「姉ちゃん、店回すのは元からできるだろォ?」

「できる。でも、あの子の方が無駄が少ないねぇ」

「そこまで分かってるなら早いねェ」


しかも潘巧雲、まだ改善案まである顔をしてる。


「二娘」

「何?」

「次、たぶん休めって言われるぞ」

「店主を店から追い出す気かい!?」

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