帳面には書かない
孫二娘でございま〜す。
鶏の話が終わったと思ったら、今度は武松が来たよォ。
行者の衣を着せて二龍山へ逃がした男だ。
景陽岡で虎を殴り殺し、鴛鴦楼を血で染めた男。
そして、十字坡の昔を知っている男でもある。
昔のことは、何でも帳面に書けばいいってもんじゃない。
潘巧雲はそれを分かっていた。
見たものを、全部見る必要はない。
聞いたことを、全部残す必要もない。
今回は、武松が十字坡へ戻る回だよォ。
ただし、戸を叩いたのは武松だけじゃない。
十字坡の古いツケも、裏口から転がり込んでくる。
外の戸板が、静かに叩かれた。
乱暴な音ではない。
急かす音でもない。
それなのに、店の中の空気が一段重くなった。
張青は戸口で固まっている。
潘巧雲は帳面の上に筆を置いた。
迎児は湯呑みを持ったまま、こちらを見ている。
アタイは盃を置いた。
置いた音が、少しだけ強かった。
「開けなァ」
張青が戸を開ける。
雨の匂いと一緒に、黒い行者衣の男が入ってきた。
肩に荷を負い、腰には二振りの戒刀。 首には数珠。
旅の僧に見えなくもない。
ただし、まともな坊主は、あんな目をしない。
景陽岡で虎を殴り殺し、鴛鴦楼を血で染め、十字坡で行者の衣を着て二龍山へ向かった男。
武松だ――
「久しぶりだな、二娘」
「まだ生きてたのかい?」
「お前もな」
客なら、いらっしゃいと言う。
役人なら、水を出す。
酔っ払いなら、銭を見てから座らせる。
武松には、どれもしっくり来なかった。
アタイは酒壺を取った。
「飲むのかい?」
「飲める酒ならな」
「今はまともだよォ?」
「前も、そういう顔で出した」
張青が咳をした。
余計な音だ。
潘巧雲の筆先が、ほんの少し動いた。 書く気になったらしい。
アタイは目だけで止めた。
潘巧雲は、察しがいい。
筆を置き直した。
武松は卓へ腰を下ろした。
戒刀は外さない。
背は壁へ向けず、戸も裏口も視界に入る場所を選ぶ。
相変わらずだねェ。
安心する場所を知らない男は、座り方まで戦っている。
「二龍山はどうだい?」
「飯は食える」
「魯智深は?」
「元気だ。酒が足りねえと怒っている」
「坊主の言うことかねェ」
「花和尚だからな」
その言い方で、少しだけ空気が緩んだ。
迎児が汁物を運ぼうとしたが、足が止まった。
無理もない。
武松の前へ出るのは、酔客の前へ出るのとは別の怖さがある。
「潘巧雲」
アタイが呼ぶと、潘巧雲が盆を取った。
「はい」
彼女は武松の卓へ近づいた。
卓の角を挟み、手の届く場所へ深く入らない。
けれど、逃げ腰にも見えない。
この女は、怖い相手の前でも自分の立ち位置を崩さない。
「お待たせいたしました」
武松の目が潘巧雲を見た。
武松の目は、潘巧雲の顔から手元へ落ち、足元を見て、逃げ道まで測った。
一息で、そこまで見た。
「見ねえ顔だな?」
「少し前から、こちらで働いております」
「名は?」
「潘巧雲と申します」
武松の眉が動いた。
「楊雄の女房か」
迎児の肩が跳ねた。
潘巧雲は盆を置き、手を引いた。
「以前は、そう呼ばれておりました」
「今は?」
「潘巧雲です」
いい答えだよォ。
武松はしばらく彼女を見ていた。
責めるでも、笑うでもない。
ただ、そこにいる女をそのまま見ている。
「戻るのか?」
「戻りません」
「なら、ついて行くな」
ずいぶん簡単に言う。
潘巧雲も、少しだけ目を細めた。
「簡単にできれば、夜の町を馬で逃げたりはいたしません」
武松は盃を持ち上げた。
「それもそうだ」
それだけだった。
理由を聞かない。
事情を掘らない。
楊雄の言い分を持ち出さない。
この男は、優しいのか冷たいのか分からない。
分からないから、厄介だ。
「楊雄と石秀が梁山泊へ入ったそうだねェ?」
アタイが言うと、武松は酒を飲んだ。
「ああ」
「その顔なら知ってたね?」
「二龍山にも話は来る。祝家荘が落ちたこともな」
「鶏一羽で大騒ぎだよォ」
「時遷らしい」
「知り合いかい?」
「直接は深くねえ。だが、そういう男だとは聞いた」
潘巧雲が小さく言った。
「私は盗んでおりません」
武松が彼女を見る。
「鶏をか?」
「はい」
武松は少しだけ口元を動かした。
「なら、それでいい」
店の中に、妙な沈黙が落ちた。
笑っていいのか、笑ってはいけないのか。
誰も判断できない。
アタイは笑った。
「アンタも大概だねェ」
「何がだ?」
「それで済ませるところだよォ」
武松は答えなかった。
酒を飲む横顔だけ見れば、ただの旅人にも見える。
けれど、手はいつでも戒刀へ届く位置にある。
こういう男は、休んでいるようで休んでいない。
警戒が癖になっている。
心理学の講義なら、過覚醒とかいう言葉を使ったかもしれない。
常に危険を探す身体。
寝ていても、音に反応する神経。
まあ、名前をつけたところで武松が楽になるわけじゃない。
酒が半分ほど減った頃、武松がぽつりと言った。
「まだ、使っているのか?」
「何をだい?」
「蒙汗薬だ」
張青が今度こそ水を噴きかけた。
潘巧雲は表情を変えなかったが、迎児は完全に固まった。
「今は使ってないよォ」
「やめたのか?」
「やめたというより、使わなくても稼げるようになったのさァ」
アタイは潘巧雲を顎で示した。
「この女が、店を変えた。酒と飯と宿代で、前より銭が残る」
武松は潘巧雲を見る。
「お前が?」
「働く時間を分け、出す品を絞り、帳面を整えただけです」
「それで薬を使わずに済むなら、大したもんだ」
潘巧雲は静かに頭を下げた。
「ありがとうございます」
武松がアタイを見る。
「よかったな」
「何がだい?」
「人を眠らせずに済む」
「偉そうに言うんじゃないよォ。あんたには効かなかっただろうが」
「効かなかったから、今ここで飲んでいる」
その言葉で、あの夜が少しだけ戻った。
鴛鴦楼より前。
武松がまだ逃げる前。
十字坡で、蒙汗薬を入れた酒を出した夜。
アタイが仕掛けて、武松が飲まなかった。
そして負けた。
それだけなら、笑い話にもできる。
それだけならねェ。
武松の目が、ほんのわずかに重くなる。
「二娘」
「その声はやめなァ」
言われる前に切った。
潘巧雲の筆が止まる。
いや、動いていなかった筆が、さらに沈む。
「安心しなァ」
アタイは盃を拭きながら言った。
「あの時は言う暇もなかったけどねェ。ガキはできちゃいないよォ」
武松の手が止まった。
迎児が息を呑む。
張青は目を伏せる。
潘巧雲は、こちらを見なかった。
見ないでくれる女は、ありがたいねェ。
武松が低く言った。
「二娘」
「その名で、そんな声を出すんじゃないよ。済んだことだ」
「済ませていいのか?」
「アタイが済ませたんだよォ」
言ってから、酒壺を卓へ置いた。
「先に仕掛けたのはアタイだ。負けたのもアタイだ。あんたに謝らせるために、今さら蒸し返す気はない」
武松は何も言わない。
こういう時、男はだいたい自分の罪を重く持ちたがる。
それで少し楽になるからだ。
罪悪感というのは、妙な自己満足を連れてくる。
反省している自分。
苦しんでいる自分。
だから少しは許されるはずだと思いたくなる自分。
現代なら、認知の歪みとか言うのかもしれない。
アタイからすれば、どうでもいい。
「アタイは今も、アタイの足で立ってる」
武松の目が、ようやく少しだけ動いた。
「なら、いい」
「そうだよォ。いいんだよ」
そこで話は切れた。
切った――
潘巧雲は帳面を開いたままだった。
宿代も酒代も書ける。
今日の客数も、残った飯の量も書ける。
けれど、今の話だけは書かなかった。
賢い女だねェ。
夜が更け、客が引いた後、武松は店先に立った。
「泊まっていかないのかい?」
「二龍山へ戻る」
「夜道だよォ?」
「夜の方が慣れている」
本当に嫌な答えだ。
潘巧雲が出てきた。
迎児も少し後ろにいる。
武松は潘巧雲へ向き直った。
「ここにいられなくなったら、二龍山へ来い」
アタイは腕を組んだ。
「勝手にアタイの働き手を持っていく話をするんじゃないよォ」
「困った時の話だ」
「困らせなきゃいいだけだろうがァ?」
「梁山泊が相手なら、そう簡単じゃねえ」
その名が出ると、迎児の顔が強張った。
武松は続けた。
「魯智深の兄貴なら、追われた女を売り渡したりはしねえ」
潘巧雲は少し考えてから、頭を下げた。
「覚えておきます」
「覚えるだけでいい。ついて行くかどうかは、自分で決めろ」
その言葉に、潘巧雲の目がわずかに変わった。
この男もまた、女を引っ張るより、道だけ置いていく。
不器用な親切だねェ。
武松はアタイを見る。
「また来る」
「好きにしなァ」
歓迎の言葉ではない。
拒む言葉でもない。
武松はそれ以上言わず、雨の残る道へ出た。
行者衣の背中が、夜へ溶けていく。
二振りの戒刀だけが、月の薄い光を拾った。
潘巧雲は、武松が見えなくなってから帳面を閉じた。
「書かないのかい?」
アタイが聞くと、彼女は静かに答えた。
「書かない方がよいこともございます」
「帳面係が、それを言うかねェ?」
「帳面に残すのは、店に必要なことだけです」
「今夜のことは?」
潘巧雲は少しだけ間を置いた。
「店には必要でも、帳面には不要です」
アタイは笑った。
本当に面倒な女だ。
でも、拾ってよかった。
その時、裏口の方で音がした。
戸を叩く音ではない。
倒れ込むような音だった。
張青が先に走る。
すぐに声が上がった。
「お嬢!」
アタイが裏へ回ると、休み小屋の手下が土間に膝をついていた。
衣は泥だらけ。
片袖が裂けている。
頬には血がついていた。
さっきまで武松が座っていた店の空気が、一瞬で変わる。
「何をやった?」
アタイは聞いた。
男は顔を上げられない。
「申し訳ありません」
「謝れとは言ってないよォ。何をやった」
男の喉が鳴った。
「客に……薬を」
張青が息を止めた。
潘巧雲の手が、帳面の上で止まる。
迎児が小さく後ずさった。
「蒙汗薬かい?」
男は、震えながら頷いた。
アタイは笑うのをやめた。
孫二娘でございますよォ。
武松は、相変わらずだった。
座っていても休んでいない。
飲んでいても酔っていない。
人を助ける時でさえ、手つきが不器用だ。
けれど、潘巧雲には道を置いていった。
ここにいられなくなったら、二龍山へ来い。
ありがたい話だねェ。
ありがたいけれど、言われた時点で嫌な予感はしていたよォ。
潘巧雲は、今夜のことを書かなかった。
書けば残る。
残れば、誰かに読まれる。
読まれれば、傷にも縄にもなる。
だから書かない。
賢い女だよォ。
けれど、書かなかったところで、消えないものもある。
夜の終わりに、休み小屋の手下が戻ってきた。
客に薬を盛った。
蒙汗薬だ。
アタイが封じたはずの古い手口が、まだ十字坡の外れで息をしていた。
次で終わりだよォ。
店を開けろと言われた娘が、店を離れる話を始める。




