表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
48/50

私は鶏を盗んでいない

孫二娘でございま〜す。

今度の騒ぎは、鶏一羽から始まったよォ。

独龍岡で盗人が捕まり、祝家荘が動き、梁山泊の名まで出た。

面目ってやつは厄介だねェ。

食える肉より、食えない面目の方が高くつく。

そんな中で、潘巧雲は妙なところを気にしていた。

夫の衣を持って逃げた。

馬も銭も持って逃げた。

けれど、鶏は盗んでいない。

そこだけは譲れないらしい。

今回は、祝家荘の騒ぎが十字坡まで転がってくる話だよォ。

そして最後に、鶏より厄介な男が、戸を叩く。

今度は、鶏かい……

十字坡には、いろんな話が転がり込んでくる。

役人が誰を追っている。

どこそこの道に山賊が出た。

どの屋敷の若旦那が博打で身代を潰した。

だいたいは酒で膨らみ、朝にはしぼむ。

けれど、その夜に入ってきた話は、妙に嫌な匂いがした。

独龍岡で盗人が捕まり、祝家荘が動き、梁山泊の名まで出た。

しかも始まりは、鶏一羽だという。

「鶏一羽で、そんなに騒ぐのかい?」

アタイが聞くと、雨に濡れた旅人は椀を抱えたまま頷いた。

「ただの鶏じゃねえそうだ」

「金の卵でも産むのかい」

「祝家荘の面目だとよ」

面目ねェ……

食える肉より、食えない面目の方が高くつく。

人間ってのは、たまに勘定を間違える。

潘巧雲は帳面を閉じて、旅人の前に立った。

「その盗人は、どちらの者と?」

「梁山泊の仲間だと言っているらしい。捕まったのは小柄な男だそうだ」

「名は分かりますか?」

「時遷とか何とか」

潘巧雲の顔に覚えは浮かばなかった。 知らない名なのだろう。

ただ、梁山泊という言葉には反応していた。

楊雄と石秀。

あの二人が今どこにいるのか、潘巧雲はずっと気にしていた。

口にはしない。

帳面にも書かない。

けれど、客が山の話をすると、筆の先が少しだけ遅れる。

「鶏を盗んだのは、その時遷という者でございますね」

「そう聞いた」

「私ではございませんね」

旅人がきょとんとした。

「何で、ねえちゃんが鶏を盗むんだ?」

「念のためです」

張青が横で吹き出しかけ、アタイに睨まれて口を閉じた。

潘巧雲は真面目だった。

真面目に、自分が鶏を盗んでいないことを確認している。

面白い女だよォ。

夫の衣と馬と銭は持って逃げたくせに、鶏一羽には妙に厳しい。

翌朝、独龍岡へ向かえなくなった者たちが、次々に十字坡へ流れてきた。

商人は荷を戻され、馬方は足を止められ、旅人は行き場を失っていた。

祝家荘の見張りが増え、道の先で止められたと、皆が酒を飲む前から文句を言った。

十字坡は混んだ。

こういう時、客は飯を食いに来るんじゃない。

不安を置きに来る。

酒を飲み、誰かに話し、自分だけが損をしたわけではないと確かめる。

現代なら、集団心理とか同調とか言うのかもしれない。

名前はどうでもいい。

銭を払うなら客だ。

「今夜から酒は種類を減らすよォ」

アタイが言う前に、潘巧雲が酒壺の前へ木札を置いた。

「濁り酒と薄めた酒を中心に出します。強い酒は先に代をいただいてからにしてください」

「ずいぶん早いじゃないか」

「客数が増えます。酔わせすぎると、面倒も増えます」

「飯は?」

「すぐ出せる物へ絞ります。汁物は大鍋。肉は小皿で分けます」

張青が帳面を覗き込んだ。

「肉はまだ残ってますぜ?」

「今の出方なら三日でなくなります」

「三日?」

「昨日の倍、出ています」

張青は指を折った。

四本目あたりで諦めた顔をした。

「お嬢、巧雲さんの言う通りにしましょう」

「最初から、そのつもりだよォ」

潘巧雲は、もう次の札を書いていた。

この女は速い。

騒ぎが起きると、まず怯える。

次に数える。

最後に動かす。

怖いと思う場所と、手を動かす場所が別にあるんだろうねェ。

迎児は客の多さに少し固くなっていたが、前ほど足は止まらなかった。

卓の内側へ入りすぎない。

盆を前へ置く。

馴れ馴れしい客には盃を持たせる。

潘巧雲が決めた動きは、もう身体に入っている。

「迎児、三番へ汁物」

「はい」

返事も早い。

怖さが消えたわけじゃない。

消えなくても仕事はできる。

それを最初に見せたのは、潘巧雲だった。

昼を過ぎると、話は少しずつ大きくなった。

盗人を助けるために、梁山泊が軍勢を動かしたらしい。

宋江という男が先に立ち、林冲や秦明や花栄もいるという。

祝家荘には仕掛けが多く、知らずに入れば迷って出られない。

扈家荘からは女武者が出て、梁山泊の男どもを馬上で叩き落とした――

客は、見てきたような顔で話す。

「その扈三娘って女がまた強えらしい」

「十人倒したとか」

「いや、百人だ」

「話を盛りすぎだよォ。次は千人かい」

アタイが言うと、客たちは笑った。

潘巧雲はその話を聞きながら、宿の割り振りを変えていた。

独龍岡へ行けなくなった客は長居する。

明け方に発つ客と、何日も待つ客を同じ部屋へ入れると揉める。

荷の多い商人は奥へ、身軽な旅人は手前へ。

帳面の上で、客が動く。

実際の店も、それに合わせて詰まりが減る。

「潘巧雲」

「はい」

「アンタ、戦の話を聞きながら、よく部屋割りなんかできるねェ」

「戦は、私が止められませんので」

「鶏も?」

「盗んでおりません」

即答だった。

アタイは笑った。

「分かってるよォ」

「大事なことです」

「衣と馬と銭は?」

「必要でした」

本当に面白い女だ。

自分の罪と無実の線を、きっちり引いている。

全部を善人の顔でごまかさない。

かといって、何でも悪女のせいにされる気もない。

潘巧雲は、逃げた女だ。

だが、鶏泥棒ではない。

三日目の夜、祝家荘が一度梁山泊を退けたという話が入った。

道に迷わされた。

伏兵に遭った。

女武者に捕られた者がいる。

客たちは沸いた。

勝った負けたの話は、酒が進む。

人の血で酒を飲むんだから、客ってのはなかなか業が深い。

翌日には、また別の話が来た。

李家荘や扈家荘の名まで混じり、内通だ婚姻だ裏切りだと、話は酒臭く膨らんでいった。

聞いているだけで、頭が痛くなる。

潘巧雲は途中で筆を置いた。

「二娘さん」

「何だい」

「この戦、本当に鶏から始まったのでしょうか?」

「鶏が火打石になったんだろうねェ」

「火種は別にあった、と?」

「鶏一羽で荘を滅ぼすほど、人は暇じゃないよォ」

たぶんね、と心の中で足した。

人間は、思ったより暇で馬鹿な時もある。

怒りに理由をくっつけ、面子に値札をつけ、後戻りできなくなる。

認知バイアスってやつだ。

損をしたと思うと、取り戻すためにもっと損をする。

祝家荘の連中も、梁山泊の連中も、自分だけは正しいと思っているんだろう。

店の端で、迎児が小さく言った。

「鶏は、どうなったのでしょう……」

張青が真顔で答えた。

「食われたんじゃねえか?」

迎児は少し悲しそうな顔をした。

潘巧雲はため息をつく。

「鶏一羽のために、何人が死ぬのでしょうね……」

「だから、私は盗んでおりません」

「聞いてねえよォ」

でも、言いたくなる気持ちは分かった。

数日後、祝家荘が落ちた。

知らせを持ってきた男は、馬を預けるより先に酒を求めた。

顔に土がつき、喉はからからだった。

「落ちたぞ。祝家荘は終わりだ」

店中の声が止まった。

「時遷は?」

誰かが聞く。

「助け出された。梁山泊は仲間を見捨てねえってよ」

仲間を見捨てない。

聞こえはいい。

だが、そのために荘が焼け、家が壊れ、人が死ぬ。

美談ってのは、向こう側から見るとだいたい迷惑だねェ。

潘巧雲は帳面を閉じた。

「楊雄と石秀という名は、出ませんでしたか?」

男は酒を一口で飲み、息を吐いた。

「出たさ。そいつらが梁山泊へ泣きついたんだろう。捕まった仲間を助けてくれってな」

迎児の持っていた盆が揺れた。

潘巧雲は動かなかった。

動かなかったが、顔の色が少し落ちた。

「その二人は今、どこへ?」

「梁山泊へ入ったらしい。あれだけの騒ぎを起こして、元の役目に戻れるわけがねえ」

店の奥で、雨漏りの音がした。

楊雄と石秀は、南へ来ていた。

潘巧雲を追っていたのか、確かめに来たのかは知らない。

その途中で時遷と出会い、鶏を盗まれ、祝家荘へ絡み、梁山泊へ入った。

筋だけ並べると分かる。

でも、まとめて聞くとまったく分からない。

どうしてそうなるんだい?

潘巧雲が穏やかすぎる声で言った。

「私は、鶏を盗んでいません」

誰も笑わなかった。

今回は、本当に大事なことに聞こえた。

アタイは盃を拭きながら、潘巧雲を見た。

「亭主が山賊になったねェ」

「元亭主です」

「まだ切れてないだろォ?」

「私の中では切れております」

いい答えだ。

「来たらどうする?」

迎児が息を呑んだ。

潘巧雲は少しだけ考えた。

「客として来るなら、酒を出します」

「連れ戻しに来たら?」

「帰りません」

すぐに言った。

怖さはある。

それでも、言葉は逃げなかった。

「なら、それでいい」

アタイは盃を置いた。

「十字坡で勝手に女を持っていけると思ってるなら、梁山泊だろうが何だろうが、勘定を取るよォ」

張青がぼそりと言った。

「高くつきそうですな」

「当たり前だろォ」

その夜、店が閉まってからも、潘巧雲は帳面の前に座っていた。

筆は動いていない。

迎児が隣にいる。

何か言いたそうで、でも言えない顔だ。

アタイは二人へ茶を置いた。

「飲みな」

「ありがとうございます」

「眠れそうかい?」

「分かりません」

正直だねェ。

「楊雄が梁山泊へ入ったのは、悪いことばかりじゃない」

潘巧雲が顔を上げる。

「どういう意味でしょうか?」

「すぐには来られないってことだよォ。山へ入ったばかりの男が、勝手に女房探しへ下りて来られるほど、あそこも暇じゃないだろうさ」

「山賊にも都合がある、と?」

「山賊にも飯が要る。立場も要る。面子もね」

潘巧雲は、少しだけ息を吐いた。

安心まではしていない。

でも、足元が一つ見えた顔だった。

「二娘さん」

「何だい?」

「もし、あの人が来たら……」

「来たら?」

「その時は、私が話します」

「逃げないのかい?」

「逃げるかどうかも、私が決めます」

いいねェ。

逃げた女が、逃げ方を自分で決めようとしている。

その時、外で馬の声がした。

夜半にしては近い。

張青が戸口へ走る。

しばらくして戻ってきた顔が、妙に固かった。

「お嬢」

「今度は何だい。鶏の親でも来たのかい」

「二龍山の方から、行者姿の男が来ています」

潘巧雲の眉が動いた。

アタイは一瞬だけ、盃を持つ手を止めた。

行者姿――

二龍山――

嫌な名前は、だいたい足音より先に胸へ来る。

張青が声を低くした。

「武松殿です」

外の戸板が、静かに叩かれた。

孫二娘でございますよォ。

祝家荘は落ちた。

鶏一羽から始まった話が、荘ひとつを呑み込んだ。

仲間を見捨てない。

聞こえはいいけどねェ。

巻き込まれた側からすれば、たまったもんじゃない。

楊雄と石秀は、梁山泊へ入ったらしい。

潘巧雲を追っていた男たちが、気づけば山賊の仲間入りだ。

道ってのは、曲がる時は勝手に曲がる。

それでも潘巧雲は言った。

帰らない――

逃げるかどうかも、自分で決める。

いい目だったよォ。

ただ、話はそこで終わらなかった。

夜半に、二龍山から行者が来た。

鶏より厄介で、梁山泊より身近な男。

武松が、十字坡の戸を叩いた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ