三枚看板だろぉ?
孫二娘でございま〜す。
血まみれの武松を裏から逃がした直後、今度は男装した二人連れが捕まったよォ。
一人は小柄な娘。
もう一人は――男物を着てるのに、どう見ても女。
いや、それどころじゃない。
隠してるはずなのに色気が隠れてないんだよォ。
何だい、このフェロモンの悪魔。
名前は潘巧雲。
亭主の家から迎児を連れて逃げてきて、行く当てもないらしい。
普通なら面倒事だねェ。
でも十字坡は、そもそも面倒事の集積所みたいな店だ。
しかもこの女、帳面も客扱いもできるっていうじゃないか。
……使える。
そう思ったところへ、姉ちゃんまで現れた。
今日は看板が、増えるかもしれないねェ。
「ここに――血まみれの男は来なかったか?」
役人の問いに、アタイは笑った。
「来たよォ」
張青の肩がわずかに揺れた。
役人の目が鋭くなる。
「どこだ」
「奥」
言いながら、アタイは卓の向こうを指した。
嘘は、全部を嘘にすると面倒になる。
本当のことに少しだけ別の意味を足した方が、人は勝手に納得してくれる。
心理学というより詐欺師の心得だねェ。
大学では教えてないよ。
「連れてこい」
「客なんだから、もう少し丁寧に言いなよォ」
「早くしろ!」
仕方ない。
女中へ目をやると、さっき孟州から逃げるように来た旅の男が連れてこられた。
腰の辺りには、まだ乾いた血が残っている。
役人が立ち上がった。
男はもっと驚いた。
「な、何だ!?」
「血まみれの男だよォ」
「俺は違う!」
「何が?」
「武松じゃねえ!」
自分から言った。
役人の顔が変わる。
アタイは心の中で頭を抱えた。
頼むから、事情を知らない人間は余計な情報を足すんじゃないよォ。
「武松を見たのか?」
「見てねえ! 鴛鴦楼の近くを通っただけだ。死人が山ほどいて、壁に名前が――」
「顔を上げろ」
男は怯えながら従った。
役人が近づき、頬や腕、背丈まで確かめる。
武松とは違う。
そこだけは、どう見ても違う。
「他には?」
「何が?」
「血をつけた者は来なかったか」
アタイは首を傾げた。
「うちは肉を扱う店だよォ。血がついた人間を一人ずつ覚えてたら、客の注文を忘れちまうねェ」
役人が鼻を鳴らし、奥へ目を向けた。
「調べる」
来たねェ。
疑う人間は、疑い始めると何もない場所まで怪しく見える。
確証バイアス――
こういう時だけ講義内容が元気に蘇ってくるの、本当に腹立つよォ。
「どうぞ。ただし、壺と椀を割ったら弁償してねェ」
「役人に金を請求する気か?」
「店の物を壊した人に請求するんだよォ。身分で値段は変わらない」
隣で張青が頭を下げた。
「床板も先日直したばかりでございます」
「誰も床板の話はしていない!」
「念のためでございます」
「張青、余計なこと言うんじゃないよォ」
「床板は大事でございます」
役人が本気で苛立ち始めた。
危ない。
うちの張青、命より修繕費を優先する時がある。
役人たちは卓の下や厨房の脇まで調べ始めた。
女中たちは黙って道を空ける。
一人が、床の一角で止まった。
武松の血を拭ったところだ。
「ここは?」
「さっき水をこぼしたよォ」
役人が屈み、指先で床を擦る。
「赤く見える」
張青が答えた。
「土でございます」
「血ではないのか?」
「血でしたら、もっと――」
アタイは張青の脇腹を肘で突いた。
「痛っ」
「続きを言ったら次は蹴るよォ」
「承知いたしました」
役人がこちらを見る。
笑え。
十字坡の看板娘は、こういう時に顔を強張らせちゃ駄目だ。
前世じゃ男子学生に妖艶なお姐さん助教だの何だの好き勝手言われていたけど、まさかその愛想笑いが逃亡犯を隠す時に役立つとは思わなかったねェ。
人生、何が伏線になるか分からない。
「何か隠しているな?」
「客には秘密が多いんだよォ」
「貴様のことを聞いている」
「アタイ?」
少し身を乗り出して笑う。
「女に秘密の一つや二つないと思ってるのかい?」
役人が一瞬だけ黙った。
効いた。
こういうのは、内容じゃない。
相手が予想していない返事をすると、考える時間が一拍できる。
一拍あれば十分だ。
「お嬢」
張青が背後から呼ぶ。
「何?」
「こちらの棚も確認なさるそうでございます」
「見せな。酒を盗んだら追手でも追うよォ」
「そちらは俺も追います」
「そこだけ元気になるな!」
結局、武松は見つからなかった。
当たり前だ。
もう裏道へ出した後なんだからねェ。
役人たちは何度かこちらを振り返りながら、ようやく店を出た。
馬の音が遠くなるまで、誰も喋らない。
戸を閉めた張青が、その場で肩を落とした。
「……お嬢」
「何だい?」
「本日の水の売上が伸びております」
「今そこ?」
「命が残った記念に、帳面くらい明るくしたいのでございます」
「命が残った方を喜びな!」
「武松殿の分は掛けでございます」
「生きて二龍山へ着いたら回収してやるよォ!」
本当に嫌な店だねェ。
アタイは裏口を見るが、武松の気配はもうない。
それでいい。
今でも名前を聞けば手首は疼くし、怖かったことまで消えたわけじゃない。
それでも役人には渡さなかった。
自分でもまだ全部は説明できないけれど、説明できなくても選ぶことはできる。
今はそれで十分だ。
その時、裏口の方から鳥の鳴き声がした。
本物じゃない。
周の手下が使う合図だ。
張青が戸口へ向かい、同じ調子で短く返す。
しばらくすると、若い男が一人入ってきた。
「姐さん、裏道で二人押さえました」
「役人?」
「違います。男の格好をしていますが、どうも妙で……」
「何が?」
男は言いにくそうに頭を掻いた。
「片方は小僧で通るかもしれません。ですが、もう片方は男には見えませぬ」
「じゃあ何に見えるんだい?」
「女です」
張青がこちらを見る。
「お嬢」
「今度は何を拾ったんだろうねェ?」
「俺に訊かれましても」
二人が連れてこられた。
どちらも男物の衣を着ている。
小柄な方は、肩を縮めて袖を握り、必死に下働きの小僧へ見せようとしていた。
黙っていれば、暗い道なら誤魔化せるかもしれない。
問題はもう一人だ。
背筋を伸ばして髪もまとめ、男物の衣まできちんと着ているから、努力しているのは分かる。
分かるんだけどねェ……
男物の袖を押さえる指から顎を引いた時に覗く首筋まで、どうにも男には見えない。
疲れているのに口元まで妙に整っていて、隠そうとするほど女の気配が目立っていた。
何だい、これは。
男装してるのに、フェロモンが仕事しすぎだろォ……
十字坡で看板娘をやってるアタイが言うのも何だけどねェ。
これは危ない。
綺麗な女は客を呼ぶ。
この女は、呼ばなくていい客まで呼ぶ。
「男二人を捕まえたって?」
アタイが周の手下を見る。
「その……」
「見りゃ分かるだろォ。二人とも女だよ」
小柄な方がびくっとして、隣の袖を掴んだ。
もう一人の女は怯えているものの、逃げようとはせず、目も死んでいない。
「縄、ほどきな」
「よろしいので?」
「アタイの店まで連れてきたんだ。逃げるかどうかはアタイが見る」
縄が外される。
女は擦れた手首を一度だけ動かした。
それを見た瞬間、自分の手首が疼いた。
嫌な連想だねェ。
「名前は?」
女は少し迷ってから答えた。
「潘巧雲と申します」
「そっちは?」
「迎児です……」
小柄な方が答える。
「男装までして、どこから逃げてきたんだい?」
潘巧雲は裾の泥を見た。
「夫の家です」
「亭主から?」
顔が僅かに強張る。
笑われると思ったらしい。
笑わないよォ。
逃げると決めて、ここまで来た女を笑うほどアタイも暇じゃない。
「迎児まで連れて?」
「置いてはいけませんでした」
迎児が潘巧雲の袖を強く握った。
「行く当ては?」
「ございません」
「はっきりしてるねェ」
「嘘を申し上げても、今夜の寝床はできませんので」
アタイは少し笑った。
いいねェ。
現実を見ている。
「何ができる?」
「働けます」
「それは答えになってないよォ」
潘巧雲は少し考えた。
「帳面をつけられます。客の相手もできますし、女中の仕事を割り振ることもできます。仕入れの出入りを見る程度なら、経験がございます」
張青の顔が変わった。
分かりやすい。
「帳面、と仰いましたか?」
「そこだけ食いつくな!」
潘巧雲が店の中を見る。
卓の位置、厨房へ出入りする女中、酒壺の並びまで目が動く。
さっき役人をやり過ごしたばかりなのに、もう店を見ている。
「ここは普通の宿屋ではございませんね」
「見れば分かる?」
「役人が来ても女中が勝手に逃げず、裏道には見張りがいる。客を泊める店にしては、人の動かし方が少し違います」
張青が眉を寄せた。
「お嬢、この方は少々面倒かもしれません」
「分かってるよォ」
だから使える。
「潘巧雲」
「はい」
「働きな。迎児も一緒でいい。飯と寝る場所は出す」
潘巧雲が目を見開いた。
「よろしいのですか?」
「よくはない。面倒が二人増える」
「では、なぜ?」
「使えそうだからだよォ」
慈善事業じゃないし、十字坡は逃げてきた女を救うための場所でもない。
それでも、使える女なら働く場所くらい用意できる。
その程度でいい。
迎児が泣きそうになった。
「ありがとうございます……」
「泣くなら飯食ってからにしな。腹減ってる時に泣くと余計に疲れるよォ」
張青が頷く。
「理にかなっております」
「迎児に温かい物を出しな」
「承知しました」
「潘巧雲は着替え」
「この格好では駄目ですか?」
「駄目じゃないけど、その男装、隠してるのに目立つんだよォ」
潘巧雲が黙った。
自覚あるねェ。
張青が彼女を改めて見て、感心したように言った。
「お嬢、これは二枚看板になりそうでございます」
「誰が一枚目を譲るって――」
「誰が二枚だって?」
背後から声が飛んできた。
張青の肩が跳ねた。
振り向くと、いつの間にか姉ちゃんが暖簾の脇に立っている。
「姉ちゃん!?」
「周から役人が来たって聞いたから見に来たんだよ。で?」
姉ちゃんが張青へ寄った。
「大娘お嬢……」
「三枚看板だろぉ?」
張青が一拍も置かずに頭を下げた。
「失礼いたしました。三枚看板でございます」
「訂正が早い!」
「生存本能でございます」
「姉ちゃんも嫁に行ってるだろォ!」
「手伝いに来てるだろ!」
その理屈なら何でもありじゃないか……
潘巧雲が姉ちゃんを見る。
姉ちゃんも潘巧雲を見る。
「この女、何ができる?」
「帳面と客扱い、それに女中の取りまとめだってさァ」
姉ちゃんの顔が変わった。
「帳面も?」
「できるそうです」
「……後で教えて」
「姉ちゃんまで食いつくの!?」
潘巧雲が初めて、ほんの少し笑った。
まずい。
フェロモンの悪魔が笑うと、本当に店の照明が一段明るくなった気がする。
その時、外から鳥の声がした。
今度は短く、二度。
周の手下の顔が変わる。
「姐さん」
「今度は何だい?」
「先ほどの役人どもが、戻ってきます」
迎児が息を呑んだ。
潘巧雲はまだ男物の衣を着ている。
姉ちゃんは腕をまくった。
「殴る?」
「殴るな!」
張青が戸へ走る。
「二娘お嬢、どういたします?」
アタイは潘巧雲を見た。
十字坡へ来て、まだ飯も食ってない新入り。
そして外には、さっき騙したばかりの役人。
口元が勝手に上がった。
「ちょうどいいねェ」
「何がだ?」
姉ちゃんが訊く。
アタイは潘巧雲へ男物の笠を投げた。
「新入りが使えるかどうか――役人相手に見せてもらおうじゃないか」
戸板が、もう一度叩かれた。
孫大娘と孫二娘、二人合わせて孫姉妹で〜す!
「二娘、張青が二枚看板って言ったらしいな?」
「そこからかい」
「三枚だろぉ?」
「嫁に行った姉ちゃんまで数えるな!」
姉ちゃんが潘巧雲の方を見る。
「でも、帳面も客の回し方も分かるんだろ?」
「そこ食いつく?」
「あたい、覚えたい」
「姉ちゃんまで経営者になる気かよォ」
その時、外からまた戸を叩く音がした。
「役人、戻ってきたぞ」
「知ってる」
「殴る?」
「だから殴るな!」
しかも今回は、新入りの実地試験つき。
「二娘」
「何?」
「この店、まともになる気ある?」
「最初からないよォ」




