怖くていい
孫二娘でございま〜す。
逃げた女の噂が、十字坡まで届いたよォ。
男物の衣を盗み、馬と銭を持って逃げた女。
だいたい合ってるのが厄介だねェ。
けれど潘巧雲は、震えながらでも帳面を開いた。
怖くないわけじゃない。
怖いまま、働く。
そのうえ迎児には、客の手から逃げる動きまで教え始めた。
盆を置け。
半歩下がれ。
駄目ならアタイを呼べ。
綺麗な女だと思って拾ったら、なかなか物騒な番頭だったよォ。
今回は、怖がる女たちが、怖いまま店に立つ話だよォ。
ただし、道の噂は一つじゃ済まない。
今度は独龍岡から、鶏一羽の話が飛んでくる。
噂というものは、飯代を払わないくせに席を取る。
男物の衣を盗み、馬と銭を持って逃げた女。
そんな話が十字坡へ流れてきた翌日、潘巧雲は顔色一つ変えずに帳面を開いていた。
いや、正確に言えば変わってはいた。
笑わない。
慌てない。
けれど、筆を持つ指だけが少し固い。
こういう女は面倒だよォ。
泣いてくれた方が、まだ扱いやすい。
「気になるかい?」
アタイが聞くと、潘巧雲は帳面から顔を上げた。
「気にならないと言えば、嘘になります」
「逃げた女の噂が道を歩いてるんだ。怖くない方がおかしいねェ」
「怖いです」
あっさり言った。
その声を聞いて、厨房の奥にいた迎児が顔を上げる。
「奥様……」
「でも、怖いからといって、今日の酒代は消えません」
潘巧雲はそう言って、また筆を動かした。
いいねェ――
この女は、怖がることを恥にしない。 怖がったまま、仕事をする。
現代の講義で聞いた言葉を思い出した。
不安を消そうとするほど、不安に飲まれる。
なら、先に動きを決める。
パニックになる前に、身体へ道を作っておく。
偉そうな教授が言っていた時は、半分寝ていた。
まさか十字坡で思い出すとはねェ。
その晩、店はよく混んだ。
噂を聞いた旅人が、他の噂を持ってくる。
酒を飲んだ客が、聞いてもいない武勇伝を足す。
潘巧雲のことを知っている者はいないはずなのに、逃げた女という言葉だけが、卓から卓へ渡っていく。
「亭主から逃げる女なんざ、よほどの悪女だろうよ」
酔った客の声が聞こえた。
迎児の肩が跳ねた。
アタイはその客を見た。
潰すほどではない。
でも、放っておくには邪魔だ。
潘巧雲が先に動いた。
酒壺を持って、客の卓へ近づく。
顔は笑っているが、目は笑っていない。
「お客様、盃が空いております」
「おう、気が利くな」
男が手を伸ばした。
酒ではなく、潘巧雲の袖へだ。
その瞬間、壺が卓へ置かれた。
重い音がした。
男の指は袖に届かず、壺の丸みにぶつかった。
「熱い料理も参りますので、手元へご注意くださいませ」
声は柔らかい。
だが、立つ位置がうまい。
卓の角を挟んで、客の手がまっすぐ届かない場所にいる。
盆を身体の前に置き、半歩だけ外へ逃げる余地を残している。
客は酒を注がれ、機嫌を直した。
下卑た言葉を続けようと口を開いたが、潘巧雲が先に聞いた。
「今夜のお泊まりは一人でございますか?」
「いや、連れが馬屋にいる」
「では、部屋は奥ではなく手前にいたしましょう。朝立ちなら、その方が楽でございます」
「お、おう」
会話をずらした。
逃げた女の話から、宿の話へ。
女を触る手から、盃を持つ手へ。
ただ避けたのではない。
客を、別の流れへ乗せた。
アタイは笑いそうになった。
殴った方が早い。
でも、殴ると客が一人減る。
金も減る。
後始末もいる。
潘巧雲のやり方は、面倒だが安い。
安いというのは、商売では大事なことだよォ。
少しして、別の卓で迎児が呼ばれた。
「おい、こっちへ来い」
大柄な男だった。
酔いは深いが、足元はまだふらついていない。
一番面倒な頃合いだ。
迎児は盆を持ち直す。
習った通り、卓の正面には入らない。 斜めに立つ。
「ご注文でしょうか?」
「近くで聞けよ」
男が笑った。
迎児は近づかなかった。
「ここで聞こえます」
「生意気だな」
男の手が伸びた。
迎児は盆を胸の前へ立てた。
手は盆に当たる。
音は小さい。
けれど、店の中でアタイと潘巧雲には十分だった。
迎児の顔から血の気が引く。
足が固まった。
そこまでは予想していた。
怖いものは怖い。
問題は、その後だ。
潘巧雲が振り返る。
「迎児、四番の汁物を見てきて」
迎児の目が動いた。
逃げ道を与えられた顔だった。
「はい」
声は震えていたが、足は動いた。
厨房へ下がる。
男は舌打ちした。
「何だよ、注文の途中だぞ」
アタイが卓へ寄った。
「じゃあ、アタイが聞くよォ」
男は一瞬で目を逸らした。
分かりやすいねェ。
小娘には手を伸ばすくせに、アタイには伸ばさない。
「酒かい。飯かい。それとも、外へ出たいのかい?」
「酒だよ」
「なら、盃を出しな」
男は黙って盃を置いた。
その夜、迎児は厨房の奥でしばらく動けなかった。
泣きはしない。
でも、手が震えている。
潘巧雲は水を持ってきて、隣へ座った。
「よく下がれたわ」
迎児は首を振った。
「足が止まりました」
「止まった後、動いたでしょう?」
「奥様が呼んでくださったからです」
「次は、自分で下がるの」
厳しい――
でも、その言葉の後で、潘巧雲は迎児の手から盆を取った。
「今日は、もう卓へ出なくていいわ。皿を洗って」
「逃げているみたいです」
「逃げていい時は、逃げるの」
その言葉に、アタイは少しだけ眉を上げた。
なるほどねェ。
この女、自分にも言っている。
亭主の家から逃げた。
父の家へ戻らなかった。
柴進の屋敷にも留まらず、十字坡へ来た。
逃げることを恥にしたら、この女は立っていられない。
だから迎児にも言える。
逃げていい――
ただし、逃げる先を決めておけ。
閉店後、潘巧雲は店先の卓に盆を置いた。
迎児を呼ぶ。
張青も来た。
手下どもまで、何だ何だと寄ってくる。
「何の寄り合いだい?」
アタイが聞くと、潘巧雲は盆を持ち上げた。
「客に触られそうになった時の動きを決めます」
張青が咳き込んだ。
「それは、その……」
「張青殿も聞いてください」
「アッシもですか?」
「店の者ですから」
張青はおとなしく座った。
こういう時の潘巧雲は、見た目よりずっと強い。
「まず、卓の内側へ入りすぎないこと。客の手が届く場所に、自分から立たないこと。盆はただ運ぶ物ではありません。間に置けば、手が止まります」
迎児が頷く。
「注文を受ける時は、相手に盃か箸を持たせます。手が塞がれば、こちらへ伸びにくくなります」
「なるほど」
張青が真面目な顔で言った。
「それでも駄目なら?」
手下の一人が聞いた。
潘巧雲はアタイを見た。
「二娘さんを呼びます」
「最終兵器みたいに言うんじゃないよォ」
「実際、そうです」
アタイは笑った。
悪くない。
いや、かなり良い。
怖がるなとは言わない。
我慢しろとも言わない。
怖い時に何をするか、先に決める。
現代なら、対処行動だとか安全行動だとか名前をつけるんだろう。
名前はどうでもいい。
盆一枚で手が止まり、呼び声一つで逃げ道ができるなら、それで十分だ。
「迎児」
アタイは声をかけた。
「はい」
「怖いのは悪いことじゃないよォ。怖いと思うから、手を伸ばしてくる奴に気づける」
迎児は目を伏せた。
「でも、怖いと動けなくなります」
「だから動きを決めるんだろ。怖くなくなるまで待ってたら、夜が明けちまう」
潘巧雲が小さく笑った。
「その通りです」
「アンタに褒められると、何だか腹が立つねェ」
「では、申し上げません」
「そこは言いなァ」
張青が吹き出したので、足を踏もうとした。
でも、逃げられた。
最近、避け方だけ上達している。
翌日から、店の動きはまた少し変わった。
迎児は卓へ近づきすぎない。
盆を身体の前に置く。
客が妙な話を始めると、潘巧雲が横から別の用を入れる。
面白いことに、客の方も大きくは騒がなかった。
触れないなら、酒を飲む。
話せないなら、飯を食う。
大半の客は、その程度だ。
本当に面倒な客は、アタイが見る。
潘巧雲は、店の女を守るために喧嘩を減らした。
喧嘩を減らして、金は増やした。
逃げた女のくせに、やることがえげつないねェ。
何日か経つと、常連が言い出した。
「十字坡は女が増えて、前より明るくなったな」
張青が答える。
「酒も飯も良くなりましたからね」
「いや、女だよ女」
その男の卓へ、潘巧雲が酒を置いた。
「お客様、酒代がまだでございます」
「今払うところだ」
「先ほども、そう仰いました」
男は慌てて銭を出した。
明るくなった? 違うねェ。
前より、逃げ道が増えただけだ。
迎児は逃げる道を覚えた。
潘巧雲は店を回す道を作った。
アタイは、その道が壊されないよう見張る。
夜の終わり、迎児が厨房でぽつりと言った。
「少しだけ、怖くなくなりました」
潘巧雲は豆を選りながら答えた。
「怖いままでいいわ」
「え?」
「怖くても働けるなら、それでいいの」
迎児は考え込んで、それから小さく頷いた。
その顔を見て、アタイは思った。
十字坡に来た時、この小娘は荷物みたいに潘巧雲の後ろへ隠れていた。
今は、自分の足で半歩下がる。
たかが半歩だ。
でも、その半歩が命を拾うこともある。
店が閉まる少し前、外から馬の音がした。
また噂か……
また役人か……
アタイが戸口へ目をやると、雨に濡れた旅人が一人、息を切らして駆け込んできた。
「酒より先に、水をくれ」
「金はあるのかい?」
「ある。だが先に聞いてくれ。独龍岡の方で騒ぎだ」
潘巧雲の手が止まった。
独龍岡――
この辺りでその名が出る時は、だいたい面倒が飯より先に来る。
旅人は水を飲み干し、声をひそめた。
「祝家荘で盗人が捕まった」
「盗人くらい、どこにでもいるだろォ」
「そいつが梁山泊の者だと言い出したらしい」
店の空気が少し重くなる。
梁山泊――
その名は、客の酒よりよく回る。
旅人は続けた。
「盗んだのは、鶏一羽だそうだ」
潘巧雲がゆっくり顔を上げた。
「鶏、でございますか?」
アタイは笑いかけて、やめた。
鶏一羽で済む話なら、こんな夜に馬を飛ばして噂は来ない。
道の向こうで、また別の馬が鳴いた。
まだ誰か来る。
アタイは暖簾の外を見た。
嫌な予感ってのは、当たる時ほど安っぽい顔をしてくる。
しかも今度は、鶏かい……
孫二娘でございますよォ。
迎児は、少しだけ足を動かせるようになった。
怖さが消えたわけじゃない。
消えなくても、盆を立てれば手は止まる。
半歩下がれば、掴まれる前に逃げられる。
声を出せば、誰かが割って入れる。
潘巧雲は、そういう道を作った。
泣いて慰めるんじゃない。
怒って客を叩き出すだけでもない。
次に同じことが起きた時、どう動くかを決めておく。
嫌なほど実務の女だねェ。
けれど、そのおかげで十字坡の女たちは、少し息がしやすくなった。
いい話で終われば楽なんだけどねェ。
今度は独龍岡だ。
盗人が出て、梁山泊の名が出て、祝家荘まで動き出す。
しかも始まりは、鶏一羽。
……面倒は、いつも安い顔をしてやって来るよォ。




