誰の店だと思ってるんだい?
孫二娘でございま〜す。
孟州から、とんでもない噂が届いたよォ。
鴛鴦楼が血まみれになって、壁には武松の名前まで残ってたんだってさァ。
できれば、そのまま遠い土地の怖い話で終わってほしかった。
ところが夕暮れになって、暖簾が上がった。
入ってきた男は血と土にまみれて、開口一番
「水をくれ」
……噂って、自分の足で店まで来るものだったかねェ。
しかもアタイには、この男を追手へ渡すか、追い返すか、それとも別の道へ逃がすか決める時間しかない。
父ちゃんはいない。
だから――
誰の店なのか、そろそろアタイ自身が答えなきゃならないねェ……
鴛鴦楼の血の噂が十字坡へ届いた、その日の夕暮れだった。
噂の本人が、暖簾を上げた。
「水をくれ」
一瞬、誰も動かなかった。
髪も衣も乱れ、肩口は裂けている。
土と乾きかけた血が混じった姿なのに、目だけは景陽岡の虎殺しだと聞いた時と何も変わっていない。
武松だった。
手首が疼いた。
傷そのものは、もう薄い。
それなのに身体は勝手に、掴まれた時の強さまで引っ張り出してくる。
心理学的に言えば、関連刺激による記憶の再活性化。
はいはい、知ってるよォ。
だから何だ?
知識に武松を追い返す効能はない。
張青が一歩動いたが、アタイの前にも武松の前にも出ず、こっちを見る。
「お嬢」
「水」
それだけ言うと、張青は頷いた。
女中の一人が息を呑んでいる。
もう一人は、さっき孟州の噂を持ち込んだ旅の男が休んでいる奥を見た。
まずい……
あの男に武松を見られたら、十字坡が一瞬で「逃亡犯を匿った店」に格上げされる。
そんな昇進はいらないよォ。
「奥の客、裏へ移しな。気分が悪いって言えばいい」
女中がすぐ動いた。
「張青、表」
「承知しました」
武松へ水が出る。
男は椀を取り、一息で飲んだ。
手にも血が残っている。
噂だけなら、どこか遠い孟州の話だった。
壁に血で名を書いた殺人者。
それが今、うちの水を飲んでいる。
アタイの人生、もう少し段階を踏んでくれないかねェ。
「客として来なとは言ったよォ」
アタイは卓の向こうから武松を見る。
「血まみれで来いとは言ってない」
「追われている」
「見れば分かる」
「俺を渡せば、店は助かる」
腹が立った。
この男は脅しているわけじゃない。
自分を差し出せとも言わない。
ただ、事実だけ置く。
そこが嫌いだ。
「十字坡をどうするかは、アタイが決める」
武松がこちらを見る。
手首がまた痛んだ気がした。
逃げたいのも本当だし、店から叩き出したい気持ちだってある。
でも、追手へ突き出したいかと言われると、それも違う。
ややこしい男だねェ。
人間の感情を選択式にするな。
「張青」
「はい」
「裏の箱、まだある?」
張青の眉が動いた。
「ございますが……あれを?」
「出しな」
「あまり縁起の良い品ではございません」
「縁起が追手を追い返してくれるなら、毎朝拝むよォ」
張青は裏へ消えた。
しばらくして、古い木箱を抱えて戻ってくる。
蓋を開けると、古布の匂いが広がった。
中には行者の衣と笠、数珠、それから、もう使う本人のいない小物がいくつか残っていた。
昔、この店へ来た旅の行者が置いていった。
正確には、置いていったんじゃない。
本人が帰らなかった。
十字坡だからねェ。
「死人の衣か」
武松が言った。
「嫌なら裸で逃げる?」
「着る」
「判断が早くて助かるよォ」
張青が箱の中を確かめる。
「丈は合いそうでございます」
「何で分かるの?」
「前の持ち主も大柄でしたので」
「どれくらい?」
「武松殿より少し細身でございました」
「詳しいねェ」
「解体の際に――」
「張青」
「はい」
「今は黙ろうか?」
「承知しました」
武松がこっちを見る。
見るな。
うちの店の業務内容を今さら確認するんじゃないよォ。
「着替えな」
アタイは背を向けた。
「張青、見てな」
「俺がでございますか?」
「男同士だろォ」
「見張る意味でございましたら承知しました」
「他に何があるんだよ!」
余計な方向へ話を広げるな。
今のアタイには処理できる情報量に上限があるんだよォ。
背後で布が動く。
音だけで身体が強張りかけた。
分かっている。
今は何もされていないし、距離もある。
張青だっている。
それでも、呼吸が一度浅くなった。
アタイは卓に手を置いた。
逃げる必要も、振り返る必要もない。
ただここに立っていれば、それでいい。
「お嬢」
張青に呼ばれて振り向く。
武松はもう、さっきまでの血まみれの逃亡者には見えなかった。
笠を深くかぶり、古い行者衣をまとっている。
服が変わっただけなのに、街道ですれ違えば別人とまではいかなくても、一度見ただけの役人なら迷うかもしれない。
アタイは腕を組んだ。
「坊主様より坊主らしいねェ」
「魯智深殿に聞かれたら怒られます」
「遠い青州にいるから言えるんだよォ」
武松の目が動いた。
「魯智深?」
「あんたが孟州へ行った少し前に、書状が来た」
帳面の下から例の紙を引っ張り出す。
何度見ても折り方が雑だ。
字より先に性格が届く書状ってあるんだねェ。
「二龍山を取ったってさァ。楊志もいる」
「青面獣か」
「知ってる?」
「名は聞いている」
「なら話が早い」
アタイは張青を見る。
「紙」
もう出していた。
「早いねェ」
「この流れでございますので」
「筆」
持っている。
「墨」
磨ってある。
何なんだよ。
こういう時だけ有能さを見せつけるの、やめてもらえる?
張青は卓へ紙を置いた。
「魯智深様宛でよろしいですか?」
「そうしな」
「内容は?」
アタイは武松を見る。
鴛鴦楼の血を背負って、死人の衣を着た男。
父ちゃんが生きていたら、どうしただろう。
考えても仕方ない。
今の主はアタイだ。
「武松が十字坡へ来た。追われてる。行者の格好にしてそっちへ送る。あとは頼む」
張青の筆が止まった。
「……そのまま書きますか?」
「駄目なの?」
「もう少し、紹介状らしくいたしましょう」
「面倒だねェ」
「山賊相手でも礼儀は必要でございます」
「山賊本人が言う?」
「俺は宿屋の者でございます」
「どの口が言ってるんだよォ」
張青は勝手に文章を整え始めた。
墨の線が紙の上を進み、武松が孟州から逃れてきたこと、十字坡で行者の衣を与えたこと、追手が迫っているため二龍山で受け入れてほしいことが、いつの間にかそれらしい紹介状へ変わっていく。
最後まで書くと、張青が筆を止めた。
「署名は?」
「アタイ」
張青が顔を上げる。
「孫二娘、と?」
「誰の店だと思ってるんだい」
張青は何も言わず、最後に名を書いた。
十字坡 孫二娘。
その文字を見た時、胸の奥が少しだけ妙な感じになった。
そこにあるのは父ちゃんの名前でも張青の名前でもなく、アタイ自身の名前だった。
その名で、人を別の山へ送る。
こういうことも、主の仕事なのかねェ。
責任者って、もっと椅子に座って偉そうにしてるだけじゃなかったの?
前世の大学助教より業務範囲が広すぎるよォ。
紹介状を受け取り、武松へ差し出す。
「持っていきな」
武松は紙を見た。
「お前の名か」
「嫌なら返しな」
「いや」
懐へ入れる。
「借りる」
「貸しじゃないよォ」
武松の目が上がった。
「じゃあ何だ」
少し考える。
何なんだろうねェ。
助けたいわけでも、許したわけでもない。
まして好きなんて絶対に違う。
それでも、ここで役人へ差し出すのは違う。
人間の感情、本当に面倒だ。
「店の判断だよォ」
それで終わらせた。
「張青、飯」
「すでに」
包みが出てきた。
干し飯だ。
「いつ作った?」
「先ほど武松殿が水を飲んでいる間に」
「怖いよ、あんた」
「褒め言葉として頂戴します」
「褒めてない」
武松が包みを受け取る。
「世話になった」
「代は取るからねェ」
「今か?」
「今払えるなら」
武松が一瞬黙った。
アタイも黙る。
張青が咳払いした。
「お嬢、逃亡中の方へ即時決済を求めるのは、少々酷かと」
「じゃあ掛けだよォ」
「帳面へ?」
「書いときな。武松、行者衣、笠、干し飯、紹介状」
張青が真顔で数え始める。
「水もございます」
「水まで取るの?」
「先ほど旅の方からも頂きました」
「統一しなくていいんだよ!」
武松の口元が動いた。
笑った?
今、笑ったよねェ?
腹立つ。
「生きて払ってよォ」
アタイが言う。
武松は笑わなくなった。
「分かった」
その返事だけは、妙に真っ直ぐだった。
外で馬の音がした。
一頭じゃない。
続いて、人の声。
張青の顔から余計なものが消える。
「お嬢」
「追手?」
「おそらく」
女中が裏から走ってくる。
「役人らしき者が街道をこちらへ!」
「何人?」
「六、七人ほどです!」
武松が立つ。
「裏は?」
「渡しは駄目だねェ。真っ先に見られる」
アタイは頭の中で道を組み替えた。
周が押さえている場所から、炭焼き兄弟の使う細道へ抜け、馬貸しの裏を回ればいい。
父ちゃんが残した道は、店の外にもある。
「張青、周へ合図」
「はい」
「武松、裏から出な。林へ入ったら右へ行く。二つ目の分かれ道で炭焼きの印がある。そこから山道へ抜けられる」
「分かった」
「笠は深く。人に会っても喋るんじゃないよォ。あんた、顔より声で面倒を呼びそうだから」
「お前に言われたくない」
「逃亡犯が口答えするな!」
こんな時まで腹が立つ男だ。
武松は裏口へ向かう。
一度だけ止まった。
振り返る。
身体が僅かに固まった。
来るな。
近づくな。
そう思った。
武松は近づかなかった。
ただ、その場で言った。
「孫二娘」
「何だい」
「借りは返す」
「利子つけるよォ」
「好きにしろ」
「言ったねェ?」
武松は裏口から消えた。
戸を閉める。
その直後だった。
表の戸が叩かれた。
一度。
二度。
三度目は、戸板そのものを壊す気みたいな音だった。
張青がアタイを見る。
「お嬢」
「分かってる」
卓にはさっき使った筆と硯が出たままで、床には血を拭った跡まで残っている。
箱こそ閉めたものの行者の古着は消え、干し飯まで減っているせいで、状況証拠だけが妙に元気だ。
前世なら弁護士を呼びたいところだねェ。
この時代には来ない。
仕方ない。
店主がやるしかない。
アタイは髪を整えて襟を直し、最後に口元を上げた。
十字坡の看板娘は、こういう時ほど笑う。
怖ければ怖いほど、綺麗にねェ。
「開けますよォ」
張青が戸を開いた。
役人たちが立っている。
先頭の男が店の奥まで見通すように目を動かした。
「孟州より追捕に来た」
「それはご苦労様だねェ。酒でも飲む?」
「いらん」
「残念」
役人は一歩入った。
「鴛鴦楼で人を殺した凶賊を追っている」
知ってる。
ついさっきまで、そこで水飲んでたよォ。
もちろん言わない。
「へえ、怖いねェ」
「武松という男だ」
手首が疼く。
笑え。
「知らないねェ」
役人の目が細くなった。
後ろの者が店の床を見る。
拭いたはずの場所だ。
一人が鼻を動かした。
「……血の匂いがするな」
張青が隣で息を止めた。
アタイは笑った。
「そりゃするよォ」
役人がこちらを見る。
「何?」
アタイは厨房を親指で示した。
「うち、肉を扱う店だからねェ」
奥で女中が包丁を止めた。
役人の視線がそちらへ動く。
まだ笑う。
ここで目を逸らした方が負けだ。
先頭の男が訊いた。
「では聞く」
戸口の外では、馬が土を蹴っている。
裏では今ごろ、行者姿の武松が山道へ入っているはずだ。
間に合え。
頼むから、今日くらいは父ちゃんの道が仕事してくれ。
役人の口が動いた。
「ここに――血まみれの男は来なかったか?」
アタイは笑ったまま、答えを決めた。
孫大娘と孫二娘、二人合わせて孫姉妹で〜す!
「二娘、あたいがいない日に随分でかい客を拾ったね」
「拾ってないよォ。勝手に血まみれで入ってきたんだよ」
「それで着替えさせて、飯持たせて、二龍山へ紹介状?」
「言い方! 完全に逃亡支援の手順書じゃないか!」
姉ちゃんが腕を組む。
「で、追手には何て言った?」
「まだ言ってない」
「は?」
「今ちょうど、『血まみれの男は来なかったか』って訊かれたところ」
「そこで止めるな!」
だって次の話があるんだから仕方ないだろォ。
「二娘」
「何?」
「嘘、得意?」
「元・心理学教授を舐めるんじゃないよォ」
……問題は、相手も人の顔を見てるってことなんだよねェ。




