逃げた女の働き方
孫二娘でございま〜す。
逃げた女ってのは、もっと泣くものだと思っていたよォ。
ところが潘巧雲は、泣くより先に自分の立ち位置を聞いた。
役人が戻ってくれば厨房へ入り、迎児をかばいながら膳を運ぶ。
翌朝には働き、三日もすれば店の中を見始める。
客じゃない。
新入りでもない。
あれは、帳面を持っていないだけの番頭だねェ。
十字坡は、綺麗な避難所じゃない。
飯を出し、寝る場所もやる。
その代わり、働いてもらう。
けれど、この女は働くだけじゃ済まなかった。
アタイが父ちゃんに言われたのは、店を開けろ、だった。
でもねェ。
店を開けることと、潰さないことは同じじゃない。
今回は、潘巧雲が十字坡の働き方を変える回だよォ。
ただし、逃げた女の噂は、本人より早く道を渡る。
まだ、逃げ切ったわけじゃない。
戸板が叩かれた。
また役人だ。
十字坡ってのは、客より面倒の方が先に来る夜がある。
酒を頼むならまだいい。
こっちの戸を叩く連中は、だいたい銭を払う気がない。
「張青」
「はい」
「水を出しな」
「また水でございますか」
「ただの水だよォ。今夜は薬より笑顔の方が効く」
張青は嫌そうな顔をしたが、すぐ椀を取った。
その横で、男物の衣を着た潘巧雲がこちらを見ている。
迎児は袖を握ったまま、顔を青くしていた。
「二娘さん」
潘巧雲が低く言った。
「私は、どこへ?」
いいねェ。
泣くより先に配置を聞く。
「厨房だ。顔を伏せて膳を運びな」
「承知しました」
「迎児は椀を持てるかい?」
迎児は震えながら頷いた。
「じゃあ、汁をこぼすんじゃないよォ。こぼしたら床を拭く手間が増える」
潘巧雲が迎児の背に手を添えた。
慰めるというより、倒れないように支える手だった。
戸を開けると、さっきの役人が戻ってきた。
「もう一度、奥を改める」
「好きにしなァ。ただし、客の飯は冷まさないでおくれよォ」
役人は返事もせずに入ってきた。 下役が二人、奥へ目を走らせる。
潘巧雲はすぐ動いた。
顔を少し伏せ、膳を持ち、厨房から出てくる。
背筋を伸ばしすぎない。
歩幅を小さくする。
目立たないようにしている。
悪くない。
さっき連れてこられたばかりの女が、もう店の空気に合わせている。
ただ、男物の衣は駄目だ。
隠すつもりが、かえって目を引く。
現代語で言うなら、逆効果だねェ。
本人は潜伏しているつもりで、存在感だけが全力で働いている。
役人の一人が、潘巧雲へ目を止めかけた。
その瞬間、迎児が椀を小さく鳴らした。
わざとじゃない。
本気で震えた音だ。
役人の目がそちらへ流れる。
潘巧雲は膳を置き、その陰で迎児の手元を隠した。
いい――
自分が見られそうになったら、怯えた小娘を前に出す。
冷たいと言えば冷たい。
でも、逃げる時に必要なのは綺麗な心だけじゃない。
役人たちは奥を覗き、戸口を叩き、酒壺の後ろまで調べた。
武松はもういない。
行者の衣もない。
残っているのは、働く女と、腹の減った客と、水代を取り損ねまいとする張青だけだ。
「怪しい者が来たら知らせろ」
「知らせるよォ。代は取るけどねェ」
役人は舌打ちして出ていった。
戸が閉まった瞬間、迎児はその場にへたり込みかけた。
潘巧雲が腕を掴む。
「立って」
「でも、足が」
「倒れるなら、客のいないところで」
張青が目を丸くした。
「厳しいお方でございますな」
「甘くして倒れられたら困ります」
潘巧雲は、まだ男物の袖を握ったまま言った。
アタイは笑った。
「気に入ったよォ」
「ありがとうございます」
「褒めたわけじゃない。面倒そうだと思っただけだ」
「それは、だいたい同じ意味でしょうか」
「違うねェ」
けれど、その時点で決めた。
この女は置く。
迎児も一緒にだ。
飯を出し、寝る場所もやる。
代わりに働かせる。
十字坡は、傷ついた女を寝かせて涙を拭いてやるような綺麗な場所じゃない。
でも、生きるために手を動かす女なら、置く場所くらいはある。
翌朝、潘巧雲は女物に着替えた。
困ったことに、余計に目立った。
男装であれなら、女の格好をすれば当然だ。
髪を整え、襟を直し、少し顔を上げただけで、店の空気が変わる。
張青がぼそりと言った。
「お嬢、これは客が増えます」
アタイは張青の足を踏んだ。
「誰が嬉しそうにしろと言ったんだい?」
「踏まれましたので、慎みます」
迎児は厨房へ入れた。
潘巧雲も最初はそこへ回した。
働く気があるかと聞いたら、あると言った。
なら働けばいい。
朝は火を起こし、米を洗い、野菜を刻む。
迎児はよく動いた。
小娘に見えたくせに、手つきは早い。
潘巧雲は包丁こそ使えるが、うちの食材には慣れていない。
知らない葉を手にしたまま、少し考え込んでいる。
「奥様、そちらは根を落としてからでございます」
「先に言って」
「申し訳ございません」
「あなたが謝ることではないわ」
二人のやり取りを聞きながら、アタイは大鍋を持ち上げた。
「二娘さん、それは誰かに手伝わせた方が……」
潘巧雲が言った。
「これくらい、アタイ一人で足りるよォ」
本当に足りる。
だから今まで、誰も手を出さなかった。
張青は帳面。
手下は荷と馬。
女中は厨房。
足りないところはアタイが埋める。
それで店は回っていた。
回っていた、と思っていた。
三日ほどして、潘巧雲の目つきが変わった。
客を見る目じゃない。
店を見る目だ。
厨房で桶の位置を見る。
宿の廊下で布団の山を見る。
店先で客の入りを見る。
皿を下げながら、誰がどこへ走ったかも見ている。
嫌な女だねェ。
綺麗な顔をして、帳面みたいな目をしている。
昼を過ぎた頃、迎児が厨房の隅で立ったまま眠りかけていた。
潘巧雲が気づく。
「少し休みなさい」
「まだ豆を選っておりません」
「今でなければ駄目?」
迎児は困った顔をした。
「いつするか、決まっておりませんので……」
潘巧雲は黙った。
その黙り方で分かった。
何か数えている。
夜になると、さらに分かりやすかった。
店が混む。
客が酒を呼ぶ。
別の客が飯を急かす。
奥では皿が溜まる。
「潘巧雲、三番へ酒だよォ!」
「今、二番の膳を運んでおります」
「迎児!」
「迎児は裏で皿を洗ってる!」
「張青!」
「お嬢、アッシは樽を替えてます!」
全員が返事をする。
誰も空いていない。
おかしいねェ。
人はいる。
働いてもいる。
なのに、動きが詰まる。
現代なら、動線が死んでいると言うのかもしれない。
人の問題に見えて、仕組みの問題。
そんな話が、酒臭い十字坡で役に立つとは思わなかったよォ。
その晩、迎児は足をもつれさせた。
潘巧雲が腕を掴んで倒れさせなかった。
「大丈夫?」
「はい」
「大丈夫な顔ではないわ」
その言い方に、少し笑いそうになった。
潘巧雲は優しい。
けれど、甘いわけじゃない。
迎児を守るために、迎児の限界も見る。
五日目まで、潘巧雲は口を出さなかった。
ただ働いた。
見て、運んで、洗って、覚える。
そして六日目の昼、店の裏で声をかけてきた。
「少し、お話がございます」
「改まって何だい?」
「この店の働き方についてです」
張青がこちらを向いた。
手下が荷を下ろす手を止める。
潘巧雲は逃げてきた女だ。
まだ新入りでもある。
普通なら黙って働くところだろう。
でも、この女は口を開いた。
「人が足りないのではございません」
「足りてるよォ。だから回ってる」
「回しているのは、二娘さんです」
アタイは笑うのをやめた。
怒ったわけじゃない。
面白いことを言い出したから、ちゃんと聞く顔にしただけだ。
「二娘さんが厨房に入り、宿を見て、店先にも立っています。迎児も朝から夜まで働いている。張青殿たちは、空いたところへ、その都度入る」
「何か悪いかい?」
「誰が何をするか、決まっておりません」
手下の一人が鼻を鳴らした。
「忙しいところを手伝ってんだ。決める必要なんかあるかよ」
「同じ部屋を二人で掃除して、隣の部屋を忘れていました」
男は黙った。
張青が口元を押さえる。
笑うなよォ。 あとで踏む。
「朝は厨房に人が集まりすぎます。昼は宿の片づけに足りません。夜は朝から働いている者まで残っています」
「じゃあ、どうしろってんだい?」
「時間で分けます」
潘巧雲は地面へ棒で線を引いた。
「朝方は厨房と朝の客。昼は宿と仕込み。夕方から夜半は居酒屋。この三つに分け、働く者を交代させます」
「交代で休ませるのかい?」
「はい、朝に出た者は、昼に休む。昼から入った者は、夜の前半まで。夜番は夕方まで働かせません」
「要するに、シフトを組むってことかい」
言ってから、しまったと思った。
潘巧雲が顔を上げる。
張青が首を傾げた。
「しふと?」
「何でもないよォ」
アタイは張青を手で追い払った。
潘巧雲は、こちらを見ている。
今の言葉を聞き逃さなかった顔だ。
厄介だねェ。
綺麗で、逃げ足があって、帳面も読めて、耳までいい。
「続けなァ」
潘巧雲は少し間を置いたが、追及しなかった。
「誰がどこへ入るかを前の日に決めます。宿の部屋も担当を割り振ります。終わったところには印をつける。仕入れと残り物は、帳面へ書きます」
「字が書けねえ奴もいるぞ」
張青が言った。
「印で構いません。丸でも、線でも。誰が見ても分かればよいのです」
「面倒が増えないかい?」
「最初は増えます。でも、同じ仕事を二度するよりはましです」
いい答えだ。
変えることは、いつも面倒だ。
人は慣れたやり方を正しいと思いたがる。
現状維持バイアスってやつだねェ。
けれど、慣れた道が崖へ続いているなら、曲がるしかない。
「やってみなァ」
手下たちが顔を見合わせた。
「お嬢、本気ですかい?」
「駄目なら戻せばいいだろ。アタイは面白そうだと思うねェ」
その日のうちに、潘巧雲は割り振りを作った。
字が読めない者にも分かるよう、印を使う。
厨房に入る人数を減らし、店先へ出る者を決める。
迎児には、昼に休む時間を入れた。
迎児は不安そうな顔をした。
「休んでよいのでしょうか?」
潘巧雲は答えた。
「休む時間だから、いいの」
「悪いことをしているようです」
「倒れる方が悪いわ」
アタイは笑った。
厳しいねェ。
でも、正しい。
翌朝、厨房は静かだった。
人が少ない。
なのに、鍋はいつも通り火に掛かった。
戸口を塞ぐ者もいない。
包丁も足りている。
夜、客が増えても、酒を運ぶ者が決まっていた。
皿が溜まる前に一人が裏へ回る。
完璧ではない。
手下は担当を忘れるし、張青は勝手に別の仕事を始める。
アタイも休めと言われた時間に店へ顔を出した。
潘巧雲に見つかった。
「二娘さん」
「何だい?」
「今は出番ではございません」
「アタイの店だよォ?」
「だからこそ、倒れたら困ります」
言うじゃないか。
張青が横で肩を震わせていたので、今度こそ踏んだ。
三日後、張青が帳面を見て首をひねった。
「昨日より客は多かったのに、酒が残ってるな」
潘巧雲が答える。
「出す量を先に決めましたので」
「迎児も倒れそうな顔をしてねえ」
「昼に休ませています」
張青はしばらく潘巧雲を見ていた。
最初の、逃げてきた女を見る目ではない。
「大したもんだな」
手下の一人も渋々頷いた。
「奥方の言った通り、夜が楽になった」
奥方――
その呼び方に潘巧雲の眉が少し動いた。
「私は、こちらの奥方ではございません」
「じゃあ、何て呼びゃいいんで?」
「潘巧雲で結構です」
「長えな」
「では、働き終わるまで黙っていてください」
手下が黙った。
アタイは声を上げて笑った。
「亭主の家から逃げてきたと思ったら、人の働かせ方まで知ってるとはねェ」
「働かせ方ではございません」
「じゃあ、何だい?」
潘巧雲は帳面を閉じた。
「潰れないようにしているだけです」
その言葉で、少しだけ父ちゃんを思い出した。
店を開けろ――
そう言われて、アタイは店を開け続けてきた。
でも、開けることと、潰さないことは同じじゃない。
この女は、それを見た……
逃げてきたばかりのくせに……
自分の寝床もまだ落ち着かないくせに……
他人の店がどこで倒れるかを見ていた。
面倒だよォ。
本当に面倒だ。
でも、拾って正解だった。
その時、表の道から馬の音がした。
一騎ではない。
張青が先に顔を上げた。
アタイも笑うのをやめる。
手下が駆け込んできた。
「お嬢、東の道から旅の商人どもが来ております」
「客なら通しな」
「それが……」
手下は、ちらりと潘巧雲を見た。
迎児の顔から血の気が引く。
「道中で妙な噂を聞いたそうです」
「噂?」
「男物の衣を盗み、馬と銭を持って逃げた女がいる、と」
潘巧雲の指が、帳面の上で止まった。
アタイは暖簾の向こうを見た。
本人が来なくても、名前は歩く。
足より早く、噂は道を渡る。
三日持っただけでも上出来かねェ。
まだ、逃げ切ってはいなかった。
孫二娘でございますよォ。
潘巧雲を拾って、十字坡の働き方が変わった。
朝から夜まで同じ者を走らせる。
空いた者が空いた場所へ入る。
それで回っているつもりだった。
でも、あれは回っていたんじゃない。
アタイが穴を塞いでいただけだねェ。
嫌なところを見られたものだよォ。
潘巧雲は、泣く女じゃなかった。
甘える女でもなかった。
倒れそうな迎児を見て、客の流れを見て、厨房の詰まりまで見た。
それで、休ませる時間を作った。
飯を出すにも、酒を売るにも、人が潰れたら終わりだ。
逃げてきた女に、そんなことを教えられるとはねェ。
けれど、店が少し回り始めた頃、噂が先に追いついてきた。
男物の衣を盗み、馬と銭を持って逃げた女。
だいたい合ってるのが、また厄介だよォ。
次は、その噂をどう売るかだねェ。




