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逃げた女の度胸

孫二娘でございま〜す。

武松を行者にして逃がしたと思ったら、今度は役人が戸を叩いたよォ。

今夜の十字坡は、客入りが良すぎる。

蒙汗薬は使わない。

ただの水と、ただの笑顔でごまかす。

そうして一息つく暇もなく、裏道で怪しい小僧が二人捕まった。

小僧――に見えればよかったんだけどねェ。

二人とも男物を着ている。

けれど片方は、どう見ても小娘。

もう片方は、男装しているのに、女の匂いが強すぎる。

何だい、あれは?

十字坡の看板娘をやっているアタイが、少し引いたよォ。

名は潘巧雲。

連れているのは迎児。

亭主の家から衣と馬と銭を借りてきたそうだ。

返す気はないらしい。

それは盗んだって言うんだよォ。

でも、いい度胸だ。

逃げた女を責めるほど、十字坡は上品な店じゃない。

今回は、潘巧雲が十字坡へ来る回だよォ。

ただし、拾ったそばから役人が戻ってくる。

新入りの働き、さっそく見せてもらおうかねェ。

「ここに、怪しい行者は来なかったか」

戸板の向こうから、役人の声がした。

アタイは盃を持ったまま、口元だけで笑った。

中には水しか入っていない。

今夜は蒙汗薬を使わない。

薬を入れなくても、人は十分に化かせる。

「張青」

「はい」

「開けな」

張青が戸へ向かう。

背中は相変わらず頼りない。

けれど、武松を隠した時の背中だ。

頼りないのに使える。

そこが本当に腹立たしい。

戸が開き、役人が二人、土埃を連れて入ってきた。

後ろには槍を持った下役が見える。

どいつも目が荒れていた。

疲れていて、腹が減っていて、自分が正しいと思っている。

最悪だねェ。

現代ならクレーム対応案件だ。

ただし、今回は相手が剣を持っている。

「女将はどれだ」

先頭の役人が言った。

「女将なんて上品なものじゃないよォ」

アタイは盃を卓に置いた。

「この店の者なら、アタイだ」

役人の目がアタイを見た。

顔、袖、手元。

それから奥へ動く。

いいよォ――

疑うなら、まずアタイを見な。

裏口の方へ目をやるのは、もう少し後でいい。

「怪しい行者を見なかったか?」

「道端の店だよォ。怪しい客なら毎日見るねェ」

「血を浴びた男だ」

「血を浴びた客なら表には座らせないよォ。飯がまずくなる」

役人の眉が跳ねた。

「ふざけるな」

「ふざけてないよォ。うちは酒と飯の店だ。血の匂いは商売の邪魔になる」

張青が横で静かに咳をした。

「お嬢、水代はいただきましたが、臭い代の項目はまだございません」

「今それを作るんじゃないよォ」

「承知いたしました」

役人が卓を叩いた。

「鴛鴦楼の凶賊を追っている。怪しい者が来たなら隠さず言え」

奥で、旅の男が息を詰めた。

張青がさりげなく動き、男の姿を隠す。

いい。

今夜の張青は、腹が立つほど働く。

「凶賊ねェ」

アタイは首を傾げた。

「そんなものが来たなら、こっちが知らせてほしいよォ。店を壊されたら、役所で直してくれるのかい」

「奥を見せろ」

来た――

疑っている者は、空の箱にも罪人を詰めたがる。

見たいものだけ見える。

確証バイアスというやつだねェ。

講義では眠かったけど、今は命に関わる。

先生、あの時寝かけて悪かったよォ。

「見るのは勝手だよォ」

アタイは笑った。

「ただし、客の椀を割ったら代は取る」

「貴様、役人を脅す気か」

「脅してないよォ。請求するだけだ」

張青が深く頭を下げた。

「床板は先月張り替えたばかりでございます」

「黙れ」

「はい。黙って床板を守ります」

アタイは張青の足を踏んだ。

「守る場所を間違えるんじゃないよォ」

「踏まれましたので、よく分かります」

役人たちは店へ踏み込んだ。

卓の下を覗き、厨房の入口を確かめ、酒壺の影まで見る。

女中たちは怯えた顔で下を向いた。

本当に怯えている顔は使える。

演技より強い。

ひどい話だけどねェ。

下役の一人が床を見た。

「ここ、濡れているぞ?」

張青が即座に答えた。

「客が水をこぼしました」

「赤くないか?」

「土でございます」

「血ではないのか?」

「血なら、もっと高く――」

張青が自分で口を押さえた。

「失言でございます」

「張青」

「はい」

「あとで蹴る」

「承知いたしました」

役人は舌打ちした。

疑っている。

けれど、決め手がない。

決め手がない者ほど、声を荒くする。 それもまた人間らしいねェ。

「行者が来たら知らせろ」

「水でも飲んでいくかい」

アタイは盃を指で弾いた。

「ただし、代は取るよォ」

役人は答えずに出ていった。

下役たちも続く。

足音が遠ざかるまで、誰も息を吐かなかった。

戸が閉まる。

張青が肩を落とす。

「お嬢」

「何だい?」

「本日、水の売上が伸びております」

「今それを言うかい」

「命が残った記念に、帳面へ明るい数字を」

「命が残った方を先に喜びな」

「そちらは、まだ確定ではございません」

嫌なことを言う。

でも、正しい。

アタイは裏口の方を見た。

武松の足音は、もう聞こえない。

けれど、完全に逃げ切ったわけじゃない。

道は長い。

山は遠い。

追手はしつこい。

その時、裏口で鳥の声がした。

本物じゃない。

うちの手下が使う合図だ。

張青が戸口へ寄り、短く返す。

すぐに男が一人滑り込んできた。

周のところの若い衆だ。

息を切らしている。

「姐さん、裏道で怪しい者を二人押さえました」

「役人かい」

「違います。小僧に見えましたが、どうも妙で」

「妙?」

「二人とも男物を着ております。馬もあります。朴刀まで持っております」

「へえ?」

「片方は小僧で通るかもしれません。ですが、もう片方は……」

そこで手下は言葉に詰まった。

「何だい?」

「男には見えませぬ」

張青が小さく眉を寄せた。

「男装の女が二人、でございますか」

「今夜は本当に客入りがいいねェ」

「売上に結びつくかは不明でございます」

「今は黙りな」

手下が外へ合図した。

連れてこられた二人は、どちらも男物の衣を着ていた。

一人は小柄で、肩をすぼめている。

袖を握り、目を伏せ、どうにか下働きの小僧に見えようとしていた。

黙っていれば、まあ通らなくもない。

もう一人は駄目だ。

髪をまとめ、男物を着て、声を出さずに立っている。

背筋も伸ばし、目線も抑えている。

たぶん、かなり真面目に男に見せようとしている。

なのに、隠しきれていない。

袖を押さえる指。

顎を引いた時の首筋。

疲れているのに崩れない口元。

何だい、これは……

男装しているのに、女の匂いが強すぎる。

現代語で言うなら、フェロモンが仕事をしすぎている。

アタイは少し引いた。

十字坡の看板娘をやっているアタイが言うのも何だけどねェ。

これは客が変な目で見る。

いや、見ない方が難しい。

厄介だよォ。

綺麗な女は客を呼ぶ。

でも、呼ばなくていい客まで呼ぶ。

「男二人を連れてきたのかい?」

アタイが聞くと、手下が困った顔をした。

「いえ、その……」

「見りゃ分かるだろうがァ。何年アタイの下で働いてんだい」

男たちが黙った。

「女だよ。二人ともねェ」

小柄な方が、もう一人の袖を掴んだ。 男装の女は、その手を上から押さえる。

怯えている。 けれど、潰れてはいない。

「縄は?」

「逃げられぬよう、軽く」

「ほどきな」

手下が慌てて縄を解いた。

「アタイの店に連れてきたんだ。逃げるかどうかはアタイが見る」

男装の女は、手首を一度だけ動かした。

擦れた跡が赤い。

それでも文句を言わない。

「名は?」

アタイが聞いた。

女は少しだけ間を置き、まっすぐこちらを見た。

「潘巧雲と申します」

「そっちは?」

「迎児です」

小柄な方が小さく答えた。

「男装とは、面白い逃げ方だねェ」

潘巧雲は自分の袖を見た。

泥が跳ね、片方の裾が裂けている。

「女の姿では、門を出られませんでした」

「出られたじゃないか」

「出ただけです。逃げ切ってはいません」

いい答えだ。

この女、状況を甘く見ていない。

「何から逃げてきた?」

潘巧雲は、ほんの少しだけ息を吸った。

「夫です」

アタイは一度、瞬きをした。

それから笑った。

「亭主からかい」

潘巧雲の顔が少し強張る。 馬鹿にされたと思ったのだろう。

違うよォ。

アタイは逃げた女を笑ったんじゃない。

逃げ方の度胸を笑ったんだ。

「下女まで連れて?」

「迎児です」

「同じじゃないのかい?」

「違います」

迎児が泣きそうな顔で潘巧雲を見る。 潘巧雲は見返さない。

でも、袖を掴む迎児の手を離させなかった。

「その馬は?」

「滄州で、柴進殿にいただきました」

「柴進?」

張青が少し反応した。

やっぱり知っている。

この男、飯と帳面以外の名前も案外よく知っているねェ。

「じゃあ、亭主の家を出た時は?」

「夫の男物の衣を二着と、馬を一頭。銭も少々、借りました」

「借りた?」

「返すつもりはございません」

アタイは声を上げて笑った。

「そいつは盗んだって言うんだよォ。度胸あるねェ」

潘巧雲は今度こそ驚いた顔をした。

責められると思っていたのだろう。

我慢が足りないとか、女が家を出るものではないとか、そういう話をされると思ったのかもしれない。

残念だったねェ。

十字坡は、逃げた女を責めるほど上品な店じゃない。

「行く当ては?」

「今のところ、ございません」

「滄州へ戻れば?」

潘巧雲は少し黙った。

「戻れば、甘えてしまいそうですので」

正直だねェ。

弱っている人間は、優しい場所に根を張りたくなる。

依存と言えば聞こえが悪いけれど、傷ついた時に安全な場所へ寄るのは自然な反応だ。

ただ、その自然さが次の檻になることもある。

この女は、それを分かっている。

「働く気はあるかい?」

「ございます」

即答だった。

「まだ何をするかも言ってないよォ」

「食事と寝る場所がいただけるなら、働きます」

「ただ飯を食わせる気はないからねェ」

「望むところです」

張青の目が少し動いた。

「何ができますか?」

潘巧雲は張青を見た。

「帳面、客の扱い、女中の取りまとめ。針仕事もできます」

張青の顔が変わった。

帳面という言葉に弱すぎる。

本当に分かりやすい男だねェ。

「荒事は?」

アタイが聞いた。

「逃げる方なら多少は……」

「逃げる方を荒事に入れるのかい」

「入ります。生きて場所を変えるのは、簡単ではありません」

また、いい答えをする。

この女、面倒だ。

かなり面倒だ。

でも、使える。

「うちはまともな店じゃないよォ?」

「見れば分かります」

張青が傷ついた顔をした。

「まだ店の中を十分にはご覧になっておりませんが」

「手順で分かります」

潘巧雲は静かに言った。

「役人を通した後、裏道の見張りが戻る。怪しい者を押さえ、まずここへ連れてくる。女中たちも、怯えているだけではなく動ける。まともな店ではありません」

「お嬢」

張青が低く言った。

「この方、相当面倒でございます」

「分かってるよォ」

アタイは口元だけで笑った。

「だから拾う」

潘巧雲の顔がわずかに変わった。

「よろしいのですか?」

「よくはないねェ。面倒が増える」

「では、なぜ?」

「使えそうだからだよォ」

同情じゃない。

慈悲でもない。

十字坡は、泣いた女を拾うほど綺麗な店じゃない。

けれど、使える女を見逃すほど余裕のある店でもない。

「働きな。飯は出す。寝る場所も用意する」

迎児の目に涙が浮かんだ。

「ありがとうございます」

「泣くなら後にしな。涙は腹の足しにならないよォ」

張青が頷いた。

「飯は足しになります」

「張青」

「はい」

「迎児に温かいものを出しな」

「承知いたしました」

潘巧雲がアタイを見た。

「私は?」

「まず着替えだねェ」

アタイは男物の袖を指で弾いた。

「その格好、悪くない。けど、店に出すには危ない」

「危ない、ですか」

「隠してるのに目立つんだよォ」

潘巧雲は少し黙った。

自覚がある顔だ。

「十字坡では、客の前に出る顔を選べる」

アタイは言った。

「泣く顔も、笑う顔も、男のふりも、女のふりも、使えるなら使いな。ただし、使いどころはアタイが決める」

潘巧雲はゆっくり頭を下げた。

「承知しました」

張青が小さく呟いた。

「お嬢」

「何だい」

「二枚看板になりそうでございます」

アタイは張青の足を踏んだ。

「誰が一枚目を譲ると言ったんだい」

「踏まれましたので、よく分かりました」

その時、外でまた鳥の声がした。

今度は短い。

急いでいる。

周の手下が顔を上げた。

「姐さん」

「今度は何だい?」

「さっきの役人どもが、戻ってきます」

張青の顔が固まった。

迎児が息を呑む。

潘巧雲は、男物の衣のまま、アタイを見た。

アタイは笑った。

綺麗に……

怖く……

「ちょうどいいねェ」

「何がでございますか?」

張青が震えた声で聞く。

アタイは潘巧雲を見た。

「新入りの働きを見るには、早い方がいい」

外で、戸板が叩かれた。

孫二娘でございますよォ。

逃げた女ってのは、思ったより目が強い。

潘巧雲は、泣きついてきたわけじゃない。

捕まって連れてこられても、店の手順を見ていた。

迎児をかばいながら、逃げ道も探している。

いいねェ。 弱っているだけの女なら、十字坡では長くもたない。

張青はさっそく二枚看板などと言っていたけど、誰が一枚目を譲るものか。

ただ、使える女が増えるのは悪くない。

飯を出し、寝る場所もやる。

その代わり、働いてもらう。

十字坡は、綺麗な避難所じゃない。

生きるための店だよォ。

ところが、着替えも飯もまだなのに、役人が戻ってきた。

間の悪さだけは一人前だねェ。

次は、新入りの顔を見せてもらうよォ。

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