守れなかったんじゃない
孫二娘でございま〜す。
姉ちゃんに「今日は泊まってって」と頼んだところまでは良かったんだよォ。
店も閉め、鍵もかけた。
念のため、普段は使わない太い閂までかけた。
これで眠れる。
……はずだった。
ところが横になると、外で何かが鳴るたびに目が開く。
馬具か荷車か、ただの風かもしれないのに、耳だけは勝手に手枷の音へ変えやがる。
心理学者としてなら説明できるよォ。
説明だけならねェ。
しかも昼間、姉ちゃんには「嫌だった」と言えたのに、まだ言えてないことが一つある。
たぶん今夜、それを言ったら――
アタイ、泣くかもしれないねェ。
夜中に四度目の閂を確かめたところで、姉ちゃんが布団の中から言った。
「二娘」
背中が跳ねた。
「……起きてたの?」
「起こされたんだよ。あんたが戸まで行って、戻ってきて、また戸まで行くから」
「防犯確認だよォ」
「四回目だ」
「大事な店だからねェ」
「三回目までは?」
「大事だったよ!」
姉ちゃんは布団の中で寝返りを打った。
灯りはもう落としてある。窓から入る月明かりだけで、部屋の中が薄く見える。
戸は閉まり、鍵もかかっている。
その上、昼間まで使っていなかった太い閂まで渡してある。
分かっている。
アタイが自分でかけた。
なのに、横になって目を閉じると、街道のどこかで鉄が鳴る。
馬具かもしれない。
荷車の金具かもしれない。
風に揺れた何かかもしれない。
それでも耳が勝手に拾う。
手枷の音に変える。
心理学的に言えば、過覚醒や安全確認行動、それに記憶と結びついた刺激への反応なんだろう。
名前ならいくらでも出てくる。
便利だねェ、心理学。
自分が何で眠れないのかだけは、きれいに説明してくれる。
眠らせてはくれないけど……
「二娘」
「何?」
「戻ってきな」
「今戻るところだよォ」
布団へ戻る。
姉ちゃんとは別の寝床を用意してある。
いつもなら、それで何の問題もない。
今日は妙に遠く感じた。
横になり、背中を向ける。
目を閉じる。
しばらくすると、外で木が軋んだ。
目が開く。
身体が先だった。
息が止まり、指が布団を掴む。
頭では分かっている。
ただ戸が風で軋んだだけだ。
武松は役人と一緒に孟州へ向かったんだから、ここにはいない。
分かってるよォ。
分かってるのに、胸だけが分かってくれない。
「……姉ちゃん」
「何?」
起きている。
返事が早すぎた。
「寝てなかったの?」
「妹が五回も戸を見に行く夜に、先に寝られるか」
「まだ四回だよ」
「今ので五回目になりそうだった」
起き上がりかけていた身体を戻した。
「数えるなよォ……」
「暇だからね」
「寝なよ」
「お前が寝たら寝る」
「何その監視体制」
「姉だから」
便利な言葉だ。
何でも通る。
アタイは布団を鼻まで引き上げた。
それでも眠れない。
静かになるほど、昼間は押し込めていたものが出てくる。
店では大丈夫だった。
帳面をつけ、客に笑って飯を出し、張青にも指示をした。
姉ちゃんとも普通に喋れていたから、もう少し平気だと思っていた。
違った。
店主の仕事が終わったら、隠していた方が起きてきた。
最悪だねェ。
昼間働いて、夜中に出勤するな。
心の残業代なんて払わないよォ。
「二娘」
「だから何?」
「こっち来る?」
「は?」
「眠れないんだろ」
「子供じゃないよォ」
「じゃあ来なくていい」
姉ちゃんはあっさり引いた。
それがまた腹立たしい。
しばらく黙った。
外で虫が鳴いている。
姉ちゃんの寝息は聞こえない。
まだ起きてやがる。
「……姉ちゃん」
「何?」
「少し詰めな」
「子供じゃないんだろ?」
「うるさい!」
姉ちゃんが笑いながら場所を空けた。
アタイは布団を持って移る。
別にくっつく必要はない。
少し離れて横になればいい。
そのつもりだった。
ところが、背中に姉ちゃんの体温があるだけで、さっきより息が楽になった。
悔しい。
心理学助教、姉の体温に敗北。
今日二敗目だよォ。
前世のアタイを知ってる学生が見たら泣くね。
大学じゃ、男子学生に妖艶なお姐さん助教だの、目のやり場に困るだの、好き放題言われていた。
こっちは授業してるだけなのに、前の席だけ妙に男子が多かった。
男慣れしているようにも見られていた。
実際は、父親が破壊神みたいな人だったせいもあって、恋愛経験なんてろくにない。
見た目だけだった。
見た目だけは、そういうことを全部知っていそうな女だった。
笑えるねェ。
そんな女が今は、姉ちゃんの隣で寝ないと戸の音が怖い。
「二娘」
「……何?」
「何か考えてるだろ」
「人の頭の中まで覗くなよォ」
「顔で分かる」
暗いのに?
姉ちゃん、怖いよ。
「姉ちゃんさァ」
「うん」
「アタイ、前世じゃ結構モテたんだよ」
「また知らない話が始まったね」
「男子学生に人気の、美人で妖艶な助教だったんだから」
「自分で言うな」
「事実だよォ」
「それで?」
「……何にもなかった」
姉ちゃんが少し黙った。
「何にも?」
「そういう意味でねェ」
「ふうん」
「その『ふうん』腹立つな」
「だって、今の話にどう返せばいいんだよ」
アタイにも分からない。
何でこんな話を始めたんだろう。
でも、口が止まらなかった。
「だから……」
喉が狭くなる。
昼間、大娘に「嫌だった」と言った時とは違う。
今から言おうとしている言葉は、もっと自分の奥に刺さっている。
馬鹿馬鹿しいと分かっている。
価値観の問題だとも分かっている。
純潔で人間の値打ちが決まるわけじゃない。
そんな考えを学生が口にしたら、たぶんアタイは否定した。
本人の意思と尊厳が大事だと言った。
なのに。
「アタイさァ……」
声が震えた。
嫌だ。
ここで震えるな。
「二娘?」
「純潔……守れなかった」
言った途端、涙が出た。
驚いた。
悲しいと理解するより先に、頬が濡れていた。
慌てて拭う。
また出る。
「ちょっと待って」
姉ちゃんが起き上がる。
「見るな」
「暗くて見えない」
「じゃあそのままにして!」
声まで変になった。
最低だ。
泣くなら一人で泣きたかった。
いや、一人では嫌だったから泊まってもらったんだろ。
自分でも面倒くさいねェ。
「アタイ……守れなかったんだよォ……」
言葉にしたら、今度は止まらなくなった。
「ずっと何もなかったのに……前世でも、こっちへ来てからも……アタイが嫌だって言ったのに……」
姉ちゃんが何も言わない。
その沈黙が怖くなって、続けた。
「身体まで変な反応するし……アタイ、何なんだろうねェ……嫌だったのに……守れもしなかった……」
「二娘」
姉ちゃんの手が伸びてきた。
肩へ触れる直前で止まる。
「触っていい?」
その一言で、余計に泣いた。
頷く。
姉ちゃんの腕が肩へ回った。
強い。
でも、嫌じゃない。
「守れなかったんじゃない」
耳元で姉ちゃんが言った。
「でも――」
「取られたんだろ」
身体が止まった。
「お前が渡したんじゃない。嫌だって言ったのに、向こうが勝手に取ったんだろ?」
「……同じだよォ」
「同じじゃない」
「戻らないじゃないか」
「戻らなくても同じじゃない」
「姉ちゃんには分からないよ!」
言ってから後悔した。
でも姉ちゃんは怒らなかった。
「分からないよ」
あっさり認めた。
「そんな目に遭ったことないからね。身体がどうなるかも、明日どんな気分になるかも、あたいには分からない」
腕だけは離れない。
「でも、お前が悪くないことくらいは分かる」
また涙が出た。
本当に、腹が立つ。
昼間もそうだった。
心理学の知識を山ほど持っていたアタイが、姉ちゃんの単純な一言で何度も止められる。
「姉ちゃん……」
「何?」
「もうちょっと賢そうなこと言えない?」
「泣いてる妹に論文でも読むのか?」
「それは嫌だねェ……」
「じゃあ黙って泣け」
「命令するなよォ……」
「じゃあ勝手に泣け」
「もう泣いてるよォ!」
そのまま姉ちゃんへ顔を押しつけた。
自分でも驚くくらい強く抱きつく。
姉ちゃんの身体がぐっと傾いた。
「二娘」
「何……」
「痛い」
「今くらい我慢しなよォ……」
「いや、これ慰めるとかじゃなくて、肋骨が危ない」
「姉なんだから耐えな!」
「妹の怪力に耐えるのは姉の仕事じゃない!」
泣きながら笑った。
笑ったら鼻まで詰まった。
最悪だ。
妖艶なお姐さん助教の面影がどこにもない。
鼻をすすって姉ちゃんにしがみつく肉屋の女だ。
いや、宿屋。
今日何回訂正するんだよォ。
「二娘、少し緩めろ」
「嫌」
「骨が鳴った」
「気のせい」
「気のせいじゃない!」
それでも姉ちゃんは振りほどかなかった。
背中を叩く。
子供をあやすみたいで腹が立つ。
でも離れたくない。
どれくらい泣いたのか分からない。
そのうち涙が出なくなり、喉だけが痛くなった。
姉ちゃんの肩も湿っている。
「……ゴメン」
「何が?」
「服」
「洗えばいい」
「骨」
「そっちは洗っても戻らない」
思わず吹き出した。
姉ちゃんも笑った。
しばらくして、また横になった。
今度は最初から近くにいる。
「姉ちゃん」
「何?」
「明日は帰っていいよォ」
「泊まる」
「旦那のところ帰りなよ」
「明日も泊まる」
「何で決めてるんだい」
「妹が六回目の戸締まり確認をしそうだから」
「もうしないよォ」
「本当か?」
「本当」
そう言った。
言った時は、本当にそう思っていた。
目を閉じる。
姉ちゃんの寝息が、少しずつ規則正しくなる。
今度こそ眠れそうだった。
意識が沈む。
店の音が遠くなる。
暗い。
何もない。
そのはずだった。
鉄が鳴った。
目を開ける。
真っ暗だった。
息ができない。
手が何かを掴んでいる。
誰かの腕だ。
「二娘!」
姉ちゃんの声で、ようやく戻った。
アタイは起き上がった。
自分の手を見る。
姉ちゃんの腕を、両手で掴んでいる。
慌てて離した。
月明かりの中で、姉ちゃんの腕に指の跡が浮いていた。
赤い。
はっきりと。
「……姉ちゃん」
「大丈夫」
「アタイ……」
夢を見た記憶はない。
ただ、鉄の音だけが残っている。
姉ちゃんは腕を擦りながら、アタイを見る。
「二娘」
返事ができなかった。
姉ちゃんの腕には、アタイの指の形が残っている。
昼間より、明らかに深い。
怪力になっている。
そんなことは分かっていた。
問題はそこじゃない。
アタイは、自分の手を見た。
武松を怖がっていたはずなのに。
眠っている間に、今度はアタイが――
姉ちゃんに跡をつけた。
孫大娘と孫二娘、二人合わせて孫姉妹で〜す!
「二娘」
「何?」
「泣いた後に人の腕へ指の跡つける妹、初めて見た」
「アタイだって初めてだよォ!」
姉ちゃんが腕を月明かりへかざす。
まだ、うっすら跡が残っている。
「これ、本当に寝ぼけて掴んだだけ?」
「そうだよ」
「じゃあ起きてる時は?」
「もっと加減できる」
「安心材料になってない!」
失礼な……
「でも姉ちゃん、骨は無事なんだろ?」
「今の確認、妹としてじゃなくて加害者側だよな?」
「人聞き悪いねェ!」
姉ちゃんがアタイの手を見る。
「二娘」
「何?」
「明日、樽持ってみる?」
「何で?」
「どこまで怪物になってるか確認する」
……慰めてもらった翌朝に、怪力測定会が始まりそうだねェ。




