じゃあ、嫌だったんだよ
孫二娘でございま〜す。
武松は、ようやく十字坡から出ていったよォ。
役人二人も一緒だし、手枷も戻った。これで一件落着――と言いたいところなんだけどねェ。
さっきから姉ちゃんが、暖簾の向こうをずっと見てる。
あの顔、知ってるよ。
追いかけて殴るかどうか考えてる顔だ。
やめな……
相手は虎を素手で殺した男なんだよォ。
それより困ってるのは、姉ちゃんがまだ何も聞いてこないことだ。
店に来た時、アタイの手首も髪も見た。
それでも「今日は聞かないで」と言ったら、本当に待ってくれた。
でも武松はもういない。
つまり――そろそろ聞かれる。
姉ちゃん……
できれば今日は、心理学者にも答えにくい質問をしないでくれよォ……
手枷の音が、街道の向こうへ消えていった。
それでも姉ちゃんは、しばらく暖簾の外を見ていた。
「……姉ちゃん」
返事がない。
「もう見えないよォ?」
「知ってる」
知っている顔じゃない。
あれは追うかどうか考えている顔だ。
嫌な予感がして袖を掴むと、姉ちゃんがゆっくりこっちを向いた。
「二娘」
「何?」
「あたい、ちょっと行ってくる」
「どこへ?」
「あいつのところ」
「何しに?」
「殴りに」
やっぱりか。
「待て待て待て! 相手は虎を素手で殺した男だよォ!」
「だから?」
「だから、の後に続く言葉がないんだよ!」
姉ちゃんは本気だった。
腰の得物へ手まで伸ばしている。
張青が顔を引きつらせた。
「大娘お嬢、さすがに今追うのは――」
「張青」
「はい」
「店見てな」
「命令が簡潔すぎます!」
姉ちゃんが暖簾へ向かったので、アタイは反射で腕を掴んで引いた。
思った以上に軽く戻ってくる。
その勢いで姉ちゃんの腰が脇の長椅子へ当たり、ばき、と嫌な音がした。
三人で椅子を見る。
脚が一本、斜めになっている。
「……二娘」
「何?」
「今、あたいより椅子の方が負けたぞ」
「知らないよォ」
「親父さんの店、また壊れましたね」
「張青、黙れ!」
武松に壊されず、身内で壊す。
父ちゃん、ゴメン。
十字坡の修繕費、敵味方の区別がないねェ。
姉ちゃんは折れかけた椅子を見てから、アタイの手へ目を落とした。
「やっぱり強くなってるね」
「今それ調べなくていいから」
「じゃあ後で樽でも持たせるか?」
「測定方法が雑すぎるよォ!」
張青が何か言おうとしたところで、姉ちゃんが振り返った。
「張青」
「はい」
「女中たち連れて、表お願い」
今度はふざけなかった。
「……承知しました」
張青は何か言いたそうにアタイを見る。
でも、訊かなかった。
「二娘お嬢。何かありましたら呼んでください」
「分かったよォ」
女中たちを連れて表へ出ると、姉ちゃんは奥の戸を閉めた。
音は小さかった。
それなのに、胸の中で何かが落ちた。
店の主でいなくていい場所を、勝手に作られた気がした。
「座りな」
「立ってる」
「二娘」
「立てるんだから立ってるよォ」
「じゃあ、あたいも立つ」
姉ちゃんは向かいに立った。
何も言わない。
こういう沈黙は嫌いだ。
前世では学生の相談を受ける側だった。
相手が話し出すまで待つことも、沈黙を慌てて埋めないことも、技法として知っていた。
今やられる側になると、腹が立つねェ。
「姉ちゃん、心理面接でも始める気?」
「知らないよ、そんなの」
「だろうねェ」
「ただ聞くだけだ」
姉ちゃんの目が、アタイの手首へ落ちた。
赤い跡はまだ消えていない。
「二娘……あいつに何された?」
喉が詰まった。
分かっていた。
これを聞くために戸を閉めたんだ。
「揉めたって言っただろォ?」
「それで済むなら、あたいに『今日は聞くな』なんて言わない」
逃げ道を塞ぐ言い方が、少しだけ武松に似ていて嫌だった。
「姉ちゃん」
「うん」
「似たことするなよォ」
「何を?」
「逃げ道塞ぐの」
「じゃあ、答えなくていい」
思わず顔を上げた。
姉ちゃんは腕を組んだまま、こっちを見ている。
「でも、あたいはここにいる。話すなら聞くし、話さないなら飯でも作る」
「姉ちゃん料理できたっけ?」
「お前よりはできる」
「それは否定しにくいねェ」
少し笑えた。
笑ったせいで、逆に言葉が出た。
「嫌だって言った」
姉ちゃんの顔から笑いが消える。
「うん」
「放せとも言ったし、やめろとも言った」
「うん」
「でも、止まらなかった」
姉ちゃんの拳が握られた。
節が白くなる。
「……殺してくる」
「話聞いてた!?」
「聞いたからだよ!」
「だからって虎殺しに単騎で突っ込むな! 姉ちゃんまで死んだらアタイが何を処理すると思ってるんだよォ!」
「妹がこんな目に遭って、勘定の心配するな!」
「姉ちゃんの葬式代も勘定なんだよ!」
言ってから、二人とも黙った。
ひどい会話だ。
でも姉ちゃんの拳は、少しだけ緩んだ。
「……父ちゃんの葬式、まだそんなに経ってないしねェ」
「そういう問題じゃない」
「二件続けては嫌だよォ」
「あたいも嫌だ」
姉ちゃんは息を吐くと、今度は少し慎重に訊いた。
「他に痛いところは?」
「ある」
「見せられる?」
「今は嫌」
「分かった」
また、それだけだった。
変に優しくされるより助かる。
優しい言葉って、受け取る体力がない時には重いんだよねェ。
前世で学生にそれを偉そうに説明していた助教を、一発殴ってやりたい。
アタイだけど……
「それと……」
言いかけて止まった。
こっちの方が言いにくい。
姉ちゃんは待っている。
「身体がさァ、変な反応したんだよねェ」
姉ちゃんの眉が寄った。
「痛かったってこと?」
「それだけじゃなくて……説明しにくいんだよ。怖かったし、嫌だったし、逃げたかった。でも、身体が頭と同じ動きをしないっていうか……」
言葉を探すほど、自分が嫌になる。
「フリーズ反応とか、自律神経の反応とか、そういう説明はできる。でも、それだけで全部片づけていいのかって考えると――」
「二娘」
「何?」
「嫌だったんだろ?」
「……うん」
「じゃあ、嫌だったんだよ」
思考が止まった。
「いや、姉ちゃん。心理学的にはもう少し――」
「知らない」
「知らないで切るなよォ」
「身体がどう動いたかなんて、あたいには分からない。でも、お前が嫌だって言って、やめろって言ったんだろ?」
「言った」
「なら、それでいい」
腹が立つほど簡単だった。
でも、胸の奥で絡まっていたものが一つだけほどける。
心理学助教、完敗……
資格も講義歴もない姉ちゃんに、三十秒で負けた。
「……雑だねェ」
「難しくしてるのはお前だ」
「専門家だったんだよォ?」
「今は肉屋だろ」
「宿屋だよ!」
いや、肉も扱う。
訂正しづらいのが悔しい。
姉ちゃんがようやく笑った。
「少し顔戻ったね」
「何それ」
「さっきまで、店主の顔しかしてなかった」
刺さった。
父ちゃんが死んでから、店の中で立ち止まる時間は減った。
泣けば飯が遅れ、怒れば勘定がずれ、怖くても客は来る。
だから動く。
それが主だと思っていた。
「張青も気づいてたかな?」
「気づいてるだろ」
「どこまで?」
「知らない。でも、あいつは馬鹿だけど馬鹿じゃない」
「どっちだよォ?」
「饅頭が絡むと馬鹿」
「それは分かる」
戸の向こうで何かが落ちた。
続いて張青の声がした。
「大丈夫です! 饅頭です!」
姉ちゃんと顔を見合わせる。
「ほら」
「本当に饅頭絡みで馬鹿だねェ……」
肩から少し力が抜けた。
姉ちゃんがアタイの隣へ座る。
今度は近すぎない。
手も握らない。
ただいる。
その距離がありがたかった。
「姉ちゃん」
「何?」
「今日は泊まってって」
「いいよ」
答えが早かった。
「旦那は?」
「一晩くらい何とかする」
「怒られない?」
「二娘が面倒事起こしたって言えば納得する」
「何でアタイの信用がそういう方向だけ高いんだよォ」
姉ちゃんは笑っている。
「あと張青には、今の話を――」
「言わない」
「即答だねェ」
「ただし、あいつが自分で察してる分までは知らない」
「それが一番嫌なんだよ」
明日からどんな顔して指示を出せばいいんだ。
普通に出せばいい。
分かっている。
でも、分かっていることと、できることは別だ。
前世で何度学生に言ったかな。
人は理屈だけでは動かない。
今さら自分で実証しなくていいんだよォ。
夕飯の頃には、店はいつもの音を取り戻していた。
姉ちゃんが鍋を見て、張青が饅頭を拾い、女中たちが卓を整える。
アタイも帳面を開いた。
文字は読める。
勘定もできる。
それでも、街道で鉄の鳴る音がした時だけ、指が一瞬止まった。
姉ちゃんは何も言わなかった。
夜になり、最後の客を送り出す。
いつも通り戸を閉め、父ちゃんから受け継いだ鍵をかけた。
それで終わるはずだった。
アタイは戸を見た。
「二娘?」
姉ちゃんが後ろから呼ぶ。
「何でもないよォ」
そう答えながら、倉の脇に立てかけてあった太い閂を持ってきた。
戸へ渡す。
姉ちゃんが眉を上げた。
「それ、夜は使ってなかっただろ?」
「今日から使う」
「そっか」
また、それだけだった。
閂を押し込む。
以前なら二人がかりで動かした太い木が、思ったより簡単に収まった。
怪力になってるとか、今はどうでもいい。
鍵は、店を守るためのものだ。
今日から使う閂は――たぶん、アタイのためだった。
姉ちゃんは訊かなかった。
アタイも説明しなかった。
ただ、寝床へ向かう前に一度だけ振り返った。
武松はもういない。
街道にも、手枷の音はしない。
それなのに、その夜。
アタイは父ちゃんが生きていた頃には使わなかった閂を、自分の手で戸にかけた。
孫大娘と孫二娘、二人合わせて孫姉妹で〜す!
「二娘、今夜はあたいも泊まるから」 「助かるよォ。あと戸に閂もかけたし、これなら少しは安心――」
「二娘」
「何?」
「その閂、前は二人で運んでなかった?」
「……そうだっけ?」
「さっき一人で持ってきたよな」
「気のせいじゃない?」
「長椅子も壊したよな」
「あれは姉ちゃんがぶつかったからだよォ!」
「引っ張ったのはお前だ!」
姉ちゃんが、じっとアタイの腕を見る。
「二娘」
「だから何?」
「虎殺しの心配より先に、あたいは妹が何になるのか心配になってきた」
……それはアタイも、ちょっと知りたいねェ。




