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行者の衣

孫二娘でございま〜す。

鴛鴦楼が血の海になったそうだよォ。

壁に残された名は、殺人者、打虎武松也。

あの虎、やっぱり大人しく孟州で飼われてはいなかったねェ。

前に十字坡を出ていく時、武松は言った。

また会う、と――

嫌な予言ほど、当たるのが早い。

しかも今回は、客としてじゃない。

追われる者としてだ。

血の噂が先に来て、本人が後から来る。

順番としては最悪だねェ。

ここで名前を呼んだら終わり。

余計なことを喋ったら、もっと早く終わりだよォ。

だから今回は、知らない顔をする。

聞いていない顔をする。

ただの酒と飯の店の顔をする。

もちろん、裏では動くよォ。

死人の衣でも、張青の字でも、生きる役に立つなら使う。

今夜は蒙汗薬に頼らない。

薬を入れなくても、人は十分に化かせる。

今回は、武松が行者になる回だよォ。

「殺人者……打虎武松也、と」

旅の男がそう言った瞬間、店の中の音が細くなった。

水を注ぐ音がかすかに続き、女中が息を呑む。

外では馬が鼻を鳴らし、張青の手元で暖簾が小さく擦れた。

全部聞こえる。

聞こえるのに、遠い。

嫌な名ほど、耳に残る。

手首が痛んだ気がした。

床の冷たさまで戻ってくる。

あの男の目も、低い声も……

また会う――

本当に、嫌な記憶の関連づけは仕事が早いねェ。

現代なら、トラウマ記憶の再活性化とか言うのかもしれない。

名前をつけると、少しだけ賢くなった気がする。

でも、追手は止まらない。

血の噂も消えない。

「その名を、店の中で何度も出すんじゃないよォ」

アタイは水の椀を旅の男の前へ置いた。

男は肩を跳ねさせた。

「す、すまねえ」

「謝る前に飲みな。血の噂を持ち込んだ客まで干からびたら、寝覚めが悪い」

男は震える手で椀を取った。

飲むというより、喉へ流し込んでいる。

張青が横から静かに咳をした。

「お嬢、水代は?」

「取るよォ」

旅の男の顔がさらに青くなった。

「金を取るのか?」

「当たり前だよォ。ここは寺じゃない。酒と飯の店だ」

「水はまだ安うございます」

張青が低く付け足した。

「命よりは」

「張青」

「はい」

「客を余計に怯えさせるんじゃないよォ」

「申し訳ございません。事実を少し薄めます」

「水みたいにねェ」

「水代は薄まりませぬが」

「そこは薄めな」

男は椀を持ったまま、目だけを忙しく動かしている。

この店に何かあるのか?

そう考えている顔だ。

考えるのは勝手だよォ。

ただし、口に出すな。

「奥で休みな」

アタイは言った。

「道は物騒なんだろう?」

「あ、ああ」

「なら、表の卓で血の話をするんじゃない。飯がまずくなる」

張青が女中へ目配せした。

一人が旅の男を奥の薄暗い席へ案内する。

もう一人が湯を見に行く。

さらに一人が裏口の方へ回った。

いい動きだ。

十字坡は悪い店だ。

でも、段取りはある。

段取りのない悪党は、ただの迷惑な素人だよォ。

「張青」

「はい」

「周へ人を走らせな。渡しと裏道を見張らせる。役人の影が見えたら、先に知らせるんだよォ」

「承知いたしました」

「それと、蒙汗薬には触るんじゃない」

「今夜は効き目より後始末が厄介でございます」

「分かってるならいい」

張青はすぐ動いた。

いつもの腰の低さはそのままなのに、目だけが違う。

こういう時だけ本当に使える。

腹が鳴らなければ、もっと褒めてもいいんだけどねェ。

外で馬が鳴いた。

女中が小さく息を呑む。

張青が戸口へ戻り、耳を澄ませた。

「一人です」

「役人かい?」

「違います。足音が重い」

重い足音――

引きずるようで、止まらない。

倒れそうで、倒れない。

店の前で一度、気配が沈んだ。

暖簾の下に影が落ちる。

酒の匂いじゃない。

土でもない。

汗でもない。

血だ――

アタイは息を整えた。

危機対応では呼吸が大事。

たしか、そんなことを講義で聞いた気がする。

こんなところで役に立つなんて、人生の伏線回収が雑すぎるよォ。

暖簾が上がった。

入ってきた男は、髪も衣も乱れていた。

頬に黒い筋が残り、肩の布は裂けている。

足元には土と赤黒い汚れがこびりついていた。

それでも、目だけは濁っていない。

武松だった。

「水をくれ」

声は乾いていた。

心は折れてはいない。

アタイは奥を見た。

旅の男の席からは、戸口が見えにくい。

張青が何も言わずに立ち位置を変える。

その背で、武松の姿を隠した。

情けない背中だ。

でも、今は使える背中だよォ。

「奥へ」

アタイは短く言った。

武松は何も聞き返さなかった。

張青が水を出す。

武松は椀を受け取り、一息で飲み干した。

その手には、まだ乾ききっていないものが残っていた。

女中が床を見る。

張青が布と灰を取る。

誰も騒がない。

騒げば終わる。

驚けば終わる。

名前を呼べば、もっと早く終わる。

アタイは小声で言った。

「客として来なと言ったはずだよォ。血の噂を背負って来いとは言ってない」

「追われている」

「知ってるよォ」

「渡せば、店は助かる」

その言い方が気に入らない。

武松は試しているわけじゃない。

ただ、事実を置いている。

だから余計に腹が立つ。

「十字坡の店先で、うちの商売をあんたが決めるんじゃないよォ」

武松は黙った。

「張青」

「はい」

「裏の箱を開けな」

張青の顔がわずかに強張った。

「あれを、でございますか」

「使う」

「縁起が悪うございます」

「縁起で役人が帰るなら、今すぐ線香を百本立てるよォ」

「承知いたしました」

張青はそれ以上言わなかった。

裏部屋の隅に、古い箱がある。

開けるたびに気分のいいものではない。

もっとも、十字坡に気分のいい箱なんて、そう多くない。

蓋を上げると、古い布の匂いがした。

中には、行者の衣が畳まれていた。

その脇に笠と数珠があり、短い刀だけが、布の隙間で鈍く光っている。

昔、道を急いでいた行者がいた。

その男はここで道を終えた。

衣だけが残った。

死人の持ち物を、別の逃亡者に着せる。

前の世界なら完全にアウトだねェ。

謝罪会見でも足りない。

でも、この時代で怖いのはコメント欄じゃない。

戸板を叩く拳だ。

「着な」

アタイは衣を出した。

武松がそれを見る。

「死人のものか」

「生きて逃げる男に着せるなら、まだ働きがあるだろォ」

「死人に聞いたのか」

「聞いたら返せと言われるかもしれないから、聞かない」

武松は少しだけ息を吐いた。

笑ったのかもしれない。

張青が女中たちを奥へ下げる。

アタイも目を逸らした。

礼儀じゃない。

処理能力の問題だ。

血の噂、追手、二龍山、行者の衣。

そして武松。

そこへ余計な情報を足したら、脳が勝手に店じまいする。

武松は罪人の衣を脱ぎ、行者の衣をまとった。

笠をかぶると、顔の影が深くなる。

罪人の姿は消えた。

けれど、中身は変わらない。

虎は虎だ。

檻の札を付け替えただけ。

「悪くないねェ」

アタイは言った。

「坊主様より坊主らしいよォ」

張青が困った顔をした。

「お嬢、魯智深様が聞いたら」

「いないから言うんだよォ」

「ごもっともでございます」

武松の目が動いた。

「魯智深が来たのか?」

「さっきまで、うちの椅子を軋ませていたよォ」

「二龍山の魯智深か」

「知ってるなら話が早い。あの坊主様が二龍山を取った。楊志もいるらしい」

武松は短く考えた。

「俺を入れるか?」

「知らないねェ」

アタイは張青を見た。

「だから、紹介状を書く」

張青は戸口へ目をやり、声を落とした。

次の瞬間には、もう筆を取っている。

早い――

本当に、こういう時だけ腹立たしいほど早い。

「魯智深様宛でよろしいですか?」

「もちろんだよォ。二龍山の頭領様にね」

張青は紙を広げた。

墨を含ませ、背筋だけ少し伸ばす。

腰は低い。

顔は情けない。

でも、字は整っている。

二龍山頭領、魯智深様。

筆が進む。

この者、武松――

孟州より逃れ来たり。

十字坡にて行者の衣を与え、そちらへ向かわせ候。

追手多く、道中危うし。

受け入れのほど、願い奉る。

十字坡 張青――

「堅いねェ」

「紹介状でございますので」

「食えない虎につき取り扱い注意、って書かないのかい?」

張青が本気で筆を止めた。

「余白に、でございますか?」

「書くんじゃないよォ」

「ですが、正確では?」

「正確でも書かない」

武松が低く言った。

「食えない虎か?」

「今はただの行者だよォ」

「そうか」

「そういうことにしな」

張青が紙を乾かし、折った。

アタイはそれを受け取り、目を通す。

字は綺麗。

内容は足りている。

余計な腹の話もない。

「いいよォ」

アタイは紹介状を武松へ渡した。

「持っていきな。二龍山へ行けば、魯智深がいる。楊志もいる。山なら、役人の縄も少しは届きにくいだろォ」

「お前は来ないのか?」

「今は行かない」

「なぜだ?」

「店を閉める時じゃないからだよォ」

武松の目が店を巡った。

卓の傷を見て、血を拭いた床を見て、酒壺の並ぶ棚を見た。

それから女中たち、張青、最後にアタイへ戻ってくる。

「強い店だな」

「椅子は弱いけどねェ」

張青が小さく頷いた。

「修繕費は必要でございます」

「今それを言うんじゃないよォ」

「帳面上、大事でございます」

「命の帳面を先に見な」

「どちらも赤字にしたくありませぬ」

正しい。

本当に嫌な男だ。

外で馬が鳴いた。

近い。

張青の顔が変わる。

「お嬢」

「来たねェ」

「おそらく」

武松が紹介状を懐へ入れた。

行者の笠を深くかぶる。

血の匂いはまだ残っている。

完全には消えない。

消したふりをしているだけだ。

それでも、ここにいるのは鴛鴦楼の男ではない。

十字坡から出ていく行者だ。

「裏から出な」

アタイは言った。

「渡しへは行くな。押さえられる。山道へ回れ。手下の者に道を開けさせる」

張青が小さな包みを差し出した。

「干し飯でございます」

武松は受け取った。

「世話になった」

「代は取るよォ」

「取れ」

「生きて払うんだねェ」

武松は背を向けた。

「分かった」

その声だけを残して、行者武松は裏へ消えた。

戸が閉まる。

息を吐く暇もなかった。

表の戸が叩かれた。

一度ではない。

拳で殴るように、何度も。

張青がゆっくりこちらを見る。

アタイは口元だけで笑った。

知らない顔をする。

聞いていない顔をする。

ただの店の顔をする。

十字坡の看板娘は、こういう時ほど綺麗に笑うんだよォ。

「誰だい?」

外から声がした。

「孟州より追捕の役人だ。戸を開けろ」

張青が暖簾へ手をかける。

外の声が、もう一段低くなった。

「鴛鴦楼の凶賊を追っている」

アタイは盃を一つ取った。

中には、ただの水。

今夜は薬なんか入れない。

入れなくても、人は十分に化かせる。

戸板が鳴った。

「ここに、怪しい行者は来なかったか?」

孫二娘でございますよォ。

武松は、十字坡で行者になった。

鴛鴦楼の名を背負ったまま、罪人の姿を脱いで、別の道へ出ていった。

死人の衣を着せるなんて、まともな店なら絶対にやらないだろうねェ。

でも、ここは十字坡だ。

使えるものは使う。

生きるためなら、縁起の悪さも帳面に入れる。

張青は紹介状を書いた。

情けない顔のくせに、字だけは妙に整っている。

腹の話をしなければ、もう少し褒めてやってもいいんだけどねェ。

二龍山には魯智深がいる。

楊志もいる。

逃げ道じゃない。

行き先だ。

武松はそこへ向かった。

そして、アタイはまだ店に残る。

暖簾を下ろす時じゃないからねェ。

ただし、息を吐く暇もなく、役人が戸を叩いた。

今夜は蒙汗薬を使わない。

笑って、知らない顔をして、ただの店の女になる。

次は、その顔で役人を迎える回だよォ。

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