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まだ店は閉めない

孫二娘でございま〜す。

魯智深が戻ってきたよォ。

前に蒙汗薬入りの酒を飲ませかけて、悪酔いだと言い張って逃げ切った、あの坊主様だ。

普通なら、仕返しに来たと思うだろうねェ。

でも、あの男は暖簾をくぐるなり、まともな酒を出せと言った。

坊主様なのに酒。

坊主様なのに肉。

坊主様なのに山の頭領。

順番も肩書きも、何もかもおかしい。

しかも、その魯智深が二龍山を取ったと言う。

そのうえ、アタイに来いと言う。

十字坡を畳めとは言わない。

でも、食えぬ客が続けば、店ごと噛み砕かれる。

嫌な言い方だねェ。

けれど、武松の後だと笑い飛ばしきれない。

二龍山には、楊志もいるらしい。

山と頭領。

逃げ道じゃなく、生き場。

張青は飯があるかどうかで判断しようとするし、魯智深は当然のように誘ってくる。

でも、アタイはまだ行かないよォ。

父ちゃんは、店を開けろと言った。

アタイはまだ、その暖簾を下ろす気はない。

ただねェ……

道は繋がった。

十字坡の外に、二龍山という名ができた。

そして、その名が帳面に残った直後、孟州から血の噂が走ってくる。

鴛鴦楼――

その名が、また武松を連れてくるよォ。

入ってきたのは、魯智深だった。

丸い頭、太い首、僧衣の肩。

見覚えのある太い禅杖。

そして、酒の匂い。

坊主様なのに、相変わらず順番がめちゃくちゃだねェ。

仏より先に酒が来る。

「今度の酒は、まともだろうな?」

魯智深は暖簾をくぐるなり、そう言った。

張青の足を踏んだまま、アタイは笑った。

できるだけ綺麗に。

できるだけ怖く。

十字坡の看板娘は、床に転がされた後でも笑う。

転がされたことを帳消しにはできない。

けれど、笑う場所は選べる。

ここはアタイの店だ。

「いらっしゃい、坊主様。まともな酒が欲しいなら、まともな顔で入りなよォ」

「わしの顔に文句をつけるか」

「顔じゃないよォ。酒より先に禅杖が入ってきたら、店の床が怯えるだろォ」

魯智深は禅杖を見た。

それから、床を見た。

「床が怯えるか」

「うちの床は繊細なんだよォ」

張青が小さく咳をした。

「お嬢、床板は先月張り替えたばかりでございます。繊細というより、まだ新しいだけで」

アタイは張青の足をもう一度踏んだ。

「説明を足すんじゃないよォ」

「承知いたしました。踏まれておりますので、よく分かります」

魯智深が腹の底から笑った。

店の奥で、女中たちが固まっている。

無理もない。

前にこの坊主様へ蒙汗薬入りの酒を出した。

途中で気づいて、悪酔いにした。

悪酔いと言い張って、どうにか収めた。

そして今、その本人が戻ってきた。

普通なら、仕返しだと思う。

十字坡基準でも、かなり嫌な再来店だ。

「座りな、坊主様」

アタイは奥の卓を指した。

「今度は、酒に余計なものを入れるなよ」

「坊主様の口は相変わらず悪いねェ」

「前に入れただろう?」

「悪酔いだよォ」

「まだ言うか」

「言い張ったことは、最後まで言い張るもんだよォ」

張青が顔を青くした。

「お嬢、相手は魯智深様でございます。言い張りにも、向き不向きが」

「張青」

「はい」

「水」

「はい、ただいま」

「酒もだよォ。まともなやつ」

「まともな方でございますね」

「変な方を出したら、今度はあんたを煮てやるよォ」

「急いでまいります」

張青は足を少し引きずりながら奥へ向かった。

情けない背中だ。

でも、動きは早い。

水を出し、盃を選び、酒壺を替える。

間違っても蒙汗薬の棚には近づかない。

そこだけは褒めてやるよォ。

口には出さないけどねェ。

魯智深は卓へ座った。

椅子が小さく軋む。

床だけじゃない。

椅子も繊細だったらしい。

「坊主様、椅子を壊したら代を取るよォ」

「取ればよい」

「払えるのかい?」

「山に来い。いくらでも木はある」

「山?」

アタイは盃を置く手を止めた。

魯智深は、出された酒を一口で飲んだ。

今度は倒れない。

当然だ。

まともな酒だ。

倒れたら、それは坊主様の体質の問題だねェ……

「二龍山を取った」

魯智深は、まるで饅頭を一つ買ったみたいに言った。

張青が奥から戻ってきて、酒の肴を持ったまま固まった。

「二龍山……でございますか?」

「そうだ」

「山賊の巣でございます」

「今は、わしの山だ」

「寺の方々が聞いたら、卒倒なさいますねェ」

アタイが言うと、魯智深はまた笑った。

「寺に戻る気はない」

「戻れると思っていたことに驚きだよォ」

「この魯智深を入れる寺など、そうない」

「自覚はあるんだねェ」

「ある!」

堂々と言うな――

この坊主様は、反省という言葉をたぶん酒壺の底へ置いてきた男だ。

けれど、嫌いじゃない。

反省しないのに、筋だけはある。

そういう意味では、少しだけ分かる。

少しだけだよォ?

「で、二龍山を取った坊主様が、十字坡へ何の用だい。椅子の木材を売りに来たわけじゃないだろォ」

魯智深は肴に手を伸ばした。

焼いた肉だ。

坊主様への配慮は、前回で捨てた。

この男に精進料理を出したら、料理の方が修行不足になる。

「道を見るためだ」

「道?」

「この辺りは人が流れる。罪人も、役人も、商人も、喰われる者も喰う者もな」

張青が目だけでアタイを見た。

見るな――

うちの店に心当たりがあるみたいな顔をするんじゃないよォ。

「二龍山には楊志がいる」

魯智深が言った。

「青面獣の楊志でございますか?」

張青の声が少し変わった。

やっぱり知っている。

張青はこういう時だけ、妙に帳面の外も読んでいる。

「そうだ。腕は立つ。腹も据わっている。面倒もあるがな」

「あんたが面倒と言うなら、相当だねェ」

「わしほどではない」

「そこは否定しないんだねェ?」

魯智深は肉を食った。

坊主様が肉を食う。

もう驚かない。

人は環境で慣れる。

役割に入る。

十字坡の店の者は、坊主が酒と肉を食っていても、数回見れば「ああ、坊主様だね」で済ませるようになる。

怖いねェ……

適応ってやつは……

「孫二娘」

魯智深が、急に名を呼んだ。

酒の場の声じゃない。

アタイは笑いを少しだけ薄くした。

「何だい、坊主様?」

「二龍山へ来い」

店の音が止まった。

水が落ちる音まで、途中で止まった気がした。

張青は肴の皿を持ったまま、瞬きもしない。

女中たちは奥で息を飲んでいる。

魯智深は続けた。

「この店は目立つ。道の真ん中にある。客を食える間はよい。だが、食えぬ客が続けば、いずれ噛み砕かれる」

「縁起の悪い客だねェ?」

「武松が来ただろう?」

その名で、手首が少し痛んだ気がした。

痛みは消えていない。

身体は嫌なことをよく覚えている。

「来たねェ」

「わしも来た」

「来たよォ」

「次は、もっと面倒な者が来る」

「予言者にでもなったのかい?」

「道を見ているだけだ」

魯智深は盃を置いた。

「十字坡を畳めとは言わぬ。だが、人を連れて山へ来い。女中も、そこの男も、まとめて面倒を見てやる」

張青が小さく口を開いた。

「まとめて、でございますか?」

「そうだ」

「飯は、ございますか?」

アタイは張青を見た。

この場でそれを聞くか。

魯智深は真面目に答えた。

「ある」

「米は?」

「奪えばある」

「肉は?」

「獲ればある」

「お嬢」

張青がアタイへ向き直った。

「二龍山は、なかなか良いところかもしれません」

アタイは張青の向こう脛を蹴った。

「今の話で何を判断したんだい?」

「食糧事情でございます」

「命の話をしてるんだよォ?」

「命は飯がなければ持ちませぬ」

正しい――

だから腹が立つ。

魯智深が笑っている。

完全に面白がっている顔だ。

「よい男を置いている」

「置いてるんじゃないよォ。勝手に横にいるだけだ」

「横にいるならよい」

その言葉が、少しだけ重かった。

父ちゃんの声が、店の奥で聞こえた気がした。

前に立つな。

後ろに立つな。

隣に立て。

魯智深はそれを知らない。

知らないはずなのに、同じ場所を見ている。

嫌な偶然だねェ。

アタイは店を見た。

戸口と卓。

酒壺と、厨房。

女中たちと張青。

父ちゃんが残した鍵と帳面。

そして、まだ座りたくない椅子。

「ありがたい話だねェ」

アタイは言った。

張青の目がわずかに動いた。

魯智深は黙っている。

「でも、今は行かないよォ」

奥で女中が息を吐いた。

張青は少しだけ肩を落とした。

ほんの少しだけだ。

見逃さないよォ。

「お嬢、念のため伺いますが、飯の話を抜きにしてのご判断で?」

「抜きにするよォ」

「では仕方ございません」

「納得が早いねェ?」

「飯の話を抜かれたら、私には判断材料が少のうございます」

「あとで蹴ってあげるからねェ」

「本日分に加算でございますね?」

「利子もつけるよォ」

魯智深が盃を持ち上げた。

「なぜ来ぬ?」

「ここは父ちゃんが残した店だ」

アタイは笑わなかった。

こういう時に笑うと、軽くなる。

「父ちゃんは死ぬ前に、店を開けろと言った。アタイは開けた。まだ閉める時じゃない」

「食えぬ客が来てもか?」

「食えぬ客なら、食わないと決める」

「また遅れたら?」

「今度は、掴まれる前に気づくよォ」

張青が小さく頷いた。

見えた――

本当に嫌な男だ。

説教が効いたみたいに見えるじゃないか。

反省じゃない。

学習だよォ。

そこは大事だ。

「それにねェ、坊主様」

アタイは口元だけで笑った。

「山へ逃げたら、十字坡の看板娘が廃る」

「逃げ道ではない」

「そうかい?」

「来る場所だ」

魯智深は短く言った。

「来たくなったら来い」

「行きたくなったらねェ」

「来るさ」

「勝手に決めるんじゃないよォ」

「武松もいずれ来る」

その名が、また店に響いた。

今度はさっきより重い。

「武松が?」

「孟州へ向かったのだろう」

「役人に連れられてねェ」

「役人が虎を飼えるか」

魯智深は笑った。

笑い事じゃない。

いや、笑い事なのかもしれない。

虎を縄で引いて歩く役人二人。

考えたら、たしかに絵面はひどい。

でも、アタイは笑えなかった。

武松がまた来る。

あの男が言った。

また会う、と……

嫌な予言は、どうしてこう当たりそうな顔をしているのかねェ。

「二龍山は、その時の置き場所かい」

アタイが言うと、魯智深は目を細めた。

「置き場所ではない。行き先だ」

「似たようなものだよォ?」

「違う」

「坊主様は細かいねェ?」

「山の頭領だからな」

山の頭領――

言葉にされると、やっぱり変だ。

坊主様が頭領。

禅杖を持って酒を飲み、肉を食い、山を取った男が、道の先に場所を持っている。

十字坡だけで完結していた地図に、二龍山という名が増える。

それは、逃げ道ではない。

たぶん、選択肢だ。

前の世界なら、リスク分散とか言うのかもしれない。

でも、この時代で言えばもっと単純だ。

死なないための道……

「覚えておくよォ」

アタイは盃を取った。

「今は行かない。でも、二龍山の名は帳面に書いておく」

「銭を取る気か?」

「情報はただじゃないよォ?」

「なら、これで足りるか?」

魯智深は腰から小さな包みを出した。

銀だ。

張青の目が光った。

露骨すぎる。

「張青?」

「はい」

「目をしまいな」

「しまいました」

「まだ出てるよォ?」

張青は咳をして、真面目な顔に戻した。

戻したつもりだろうけど、遅い。

「代は受け取る」

アタイは銀を取り、張青へ投げた。

「帳面につけな。二龍山、魯智深様。酒、肴、情報料」

「承知いたしました。椅子の軋みは修繕費に入れますか」

「入れな」

「おい」

魯智深がこちらを見る。

「床と椅子は繊細なんだよォ」

「強い店だな」

「強くなきゃ、道端で暖簾なんか出せないよォ」

魯智深は満足したように酒を飲み干した。

そして立ち上がる。

椅子が今度こそ悲鳴を上げた。

張青が小さく「修繕費」と呟いた。

……聞こえてるよォ?

「孫二娘」

「何だい」

「死に場を探すな」

アタイは眉を上げた。

「説教なら、張青で間に合ってるよォ」

「生き場を増やせ」

魯智深はそれだけ言って、禅杖を担いだ。

言うことが大きすぎる。

でも、腹の底へ落ちる。

生き場――

父ちゃんは店を開けろと言った。

魯智深は山を覚えろと言った。

どちらも、死ぬなという話なのだろう。

悔しいけどねェ。

「張青」

アタイは言った。

「はい」

「坊主様を送ってきな」

「私が、でございますか?」

「嫌なのかい?」

「いえ……ただ、送った先でそのまま二龍山へ連れていかれないかと……」

「その時は飯があるんだろォ」

「急に魅力が増しました」

蹴る前に、魯智深が笑って暖簾をくぐった。

張青は慌てて後を追う。

店の中に、酒の匂いと、二龍山という名だけが残った。

アタイは銀を置いた卓を見る。

行かない。

今は行かない。

でも、道は繋がった。

それだけは分かる。

分かるからこそ、腹が立つ。

外で張青の間の抜けた声がした。

「魯智深様、そちらは川でございます。二龍山は逆で――」

「分かっている」

「分かっておられませぬ!」

アタイは額を押さえた。

山の頭領と、うちの張青。

先が思いやられる組み合わせだねェ。

しばらくして、張青だけが戻ってきた。

「坊主様は?」

「二龍山へお戻りになりました」

「川には落ちてないだろうねェ」

「今のところは」

「今のところって何だい」

張青が答える前に、道の向こうから馬の蹄が聞こえた。

一騎ではない。

二騎でもない。

張青の顔が変わった。

やがて先頭の一騎が、店の前で急に止まった。

乗っていた旅の男が、馬から転げるように降りる。

顔は土埃だらけ。

息は荒い。

目だけが血走っている。

「酒を……水をくれ……」

女中が動こうとした。

アタイは手を上げて止めた。

男の腰に、乾いた血がついている。

「どこから来たんだい」

男は喉を鳴らした。

「孟州だ……」

孟州――

その名だけで、背中が少し冷えた。

「孟州で、何があった?」

男は水を掴むようにして飲み、震える声で言った。

「鴛鴦楼が……血の海だ」

店の空気が凍った。

張青が暖簾を押さえる。

旅の男は、さらに低く言った。

「壁に、名が書かれていたそうだ」

アタイは聞きたくなかった。

でも、耳は勝手に待っている。

男の唇が動いた。

「殺人者……打虎武松也、と」

孫二娘でございますよォ。

魯智深は、まともな酒を飲んで、二龍山の名を置いていった。

前に蒙汗薬を盛りかけた相手が、仕返しではなく、行き場の話を持ってくる。

世の中、分からないものだねェ。

坊主様は言った。

死に場を探すな。

生き場を増やせ。

大きすぎる言葉だよォ。

酒を飲み、肉を食い、椅子を軋ませながら言うには、少し重すぎる。

でも、あの男が言うと妙に腹へ落ちる。

二龍山――

そこには魯智深がいて、楊志もいるらしい。

張青は飯の有無で少し揺れていた。

本当に、あの男は大事な場面で腹を基準にする。

腹が立つねェ。

けれど、飯がなければ人は動けない。

そのあたりが、また腹立たしいくらい正しい。

アタイは、まだ十字坡を離れない。

父ちゃんが残した店だ。

アタイが開けた暖簾だ。

まだ閉める時じゃない。

それでも、帳面には二龍山の名が残った。

逃げ道じゃない。

生き場。

そう言われたら、忘れにくいじゃないか。

そして、その名が店の奥に残ったばかりの時、孟州から血の噂が飛び込んできた。

鴛鴦楼――

血の海。

壁に残された名。

殺人者、打虎武松也。

あの虎は、やっぱり道の向こうで大人しくしていなかった。

また会う――

武松はそう言った。

嫌な予言だねェ。

どうやら、もうすぐ当たるらしいよォ。

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