食えぬ方でございます
孫二娘でございま〜す。
前回、ようやく分かったよォ。
アタイが蒙汗薬を盛って、寝たふりに騙されて、床に転がされた相手――景陽岡で虎を殴り殺した武松だった。
先に言え。
しかも張青は名前を聞いた途端、いきなり床へ膝をつきやがった。
ちょっと待ちな。
店主のアタイを差し置いて、勝手に謝罪会見を始めるんじゃないよォ。
さらに今日は、姉ちゃんも手伝いに来る予定だ。
今の十字坡には、虎殺しの罪人、眠った役人二人、土下座しかけの張青、それから事情を知らない姉ちゃんが揃おうとしている。
……嫌な予感しかしないねェ。
張青の膝が、床へ落ちた。
乾いた音だった。
「……何してるんだい?」
武松の名を聞いた途端だった。
さっきまでアタイに「どうします?」と訊いていた男が、今度は床へ両手をついている。
「張青」
「はい」
「立ちな」
「少々お待ちください」
「何で待つんだよォ」
張青は顔を上げず、武松へ向かって頭を下げた。
「武都頭とは存じ上げませんでした。この店の者が、とんだ失礼をいたしました」
「店の者って誰だい?」
「二娘お嬢です」
「名指しするな!」
しかも勝手に謝るな。
武松は卓の向こうに座ったまま、張青を見る。
「薬を盛ったのは、この女だ」
「承知しております」
「ならば、お前が頭を下げることではあるまい」
「店の不始末でございますので」
腹が立つ。
筋が通っているから、もっと腹が立つ。
「張青、立ちな。アタイがやったことを、あんたが勝手に引き取るんじゃないよォ」
ようやく張青が顔を上げた。
謝っている目じゃないし、困ってもいない。
こっちを見て、次をどうするか待っている。
だったら最初から膝をつくな。
「お嬢、どう収めます?」
「それを膝つく前に訊け!」
「武都頭と分かったので、状況が変わりました」
「何が?」
「虎を素手で殺す方です」
「知ってるよ! 今聞いたよ!」
その虎殺し本人の口元が少し動いた。
笑うな…… アタイはまだ手首が痛いんだよォ。
「役人を起こす」
そう言うと、張青が立った。
「飯も作り直す。酒はもう出すな。少なくとも今日はねェ」
「承知しました」
「あと、その手枷も役人が起きたら戻してもらいな」
武松が卓の端へ目をやる。
「要るのか?」
「要るよ!」
役人二人が揃って寝ていて、そのうえ虎殺しの手枷まで外れている。
これをどう説明するつもりなんだ。
前世なら危機管理の教材にできる。
題名は『失敗事例から学ぶ、やってはいけないこと全部』だねェ。
張青が醒ましを用意し始めたところで、外から足音が近づいた。
聞き慣れている。
しかも速い。
「二娘、来たよ。今日は少し――」
暖簾を上げた姉ちゃんの声が途中で止まった。
最初に卓へ伏した役人二人を見て、端に置かれた手枷へ目をやり、張青を見る。
その次に武松。
最後にアタイ。
髪はまだ完全に結び直していない。
手首には赤い跡が残っている。
姉ちゃんの眉間に皺が寄った。
「二娘」
「何?」
「どいつを殴ればいい?」
早いよ……
「何で見た瞬間に殴る話になるんだい!」
「じゃあ、どいつがやった?」
もっと悪くなった。
姉ちゃんの目が武松へ向き、武松も姉ちゃんを見る。
やめろ……何でうちの姉妹は、初対面の男を見ると戦闘判定から入るんだ。
「姉ちゃん、待ちな」
「待ってる」
「足が前に出てる!」
「まだ殴ってないだろ?」
「基準がおかしいんだよォ!」
さらに踏み出そうとした袖を掴み、反射で引いた。
思ったより軽く動いた。
姉ちゃんが半歩こちらへよろける。
「おっと」
アタイも自分の手を見る。
……今の、アタイ?
「二娘」
姉ちゃんまでアタイの手を見た。
「また力が強くなってないか?」
「今それどころじゃないよォ!」
父ちゃんがいた頃から少しずつ妙なことにはなっていた。
最近は重い甕を持っても、以前ほど身体に響かない。
だから何だ?
虎を殴り殺した男には勝てなかった。
比較対象が悪すぎる。
「大娘お嬢」
張青が二人の間へ入る。
姉ちゃんが睨んだ。
「説明しなよ」
「こちら、景陽岡で虎を打ち殺した武松殿です」
「そこじゃない」
「ですよね?」
張青がアタイを見る。
見るな。
仕方なく口を開いた。
「アタイが蒙汗薬を盛った。こいつは飲まずに寝たふりをしてた。近づいたアタイが捕まって……それで、揉めた」
「揉めた?」
姉ちゃんの顔から笑いが消えた。
「姉ちゃん」
「何?」
「今日は、それ以上聞かないで」
すぐには返事がなかった。
姉ちゃんはアタイの顔を見て、赤くなった手首へ目を落とし、もう一度だけ武松を見る。
それから息を吐いた。
「分かった」
それだけだった。
ありがたい。
そして怖い。
姉ちゃんがこういう時に素直なのは、忘れたからじゃない。
今は聞かないと決めただけだ。
この姉に守秘義務なんてものは存在しない。
「それで、どうする?」
姉ちゃんが訊く。
張青も、女中たちもアタイを見る。
父ちゃんが死んでから、こういう瞬間が増えた。
前なら誰もが父ちゃんを見ていた。
今はアタイを見る。
慣れないねェ。
でも、逃げる気もない。
「こっちが先に薬を盛った。その分は詫びるよォ」
武松の目がこちらへ向く。
「飯は作り直す。役人も起こす。ただし、これ以上うちの者に手を出すなら話は別だ」
「勝てると思うか?」
嫌なところを突くねェ。
「思わない」
張青がむせた。
姉ちゃんまで振り返る。
「何だい。勝てない相手に勝てるって言い張るほど馬鹿じゃないよォ」
武松が訊く。
「なら、どうする?」
「一人で勝てないなら、店ごと使う」
今度は女中たちまで顔を上げた。
張青が嫌そうな顔をする。
「二娘お嬢、それ、俺たちも入ってます?」
「当たり前だろォ?」
「聞かなければよかった……」
姉ちゃんが張青の肩を叩く。
「諦めな。二娘はこういう奴だ」
「姉ちゃんは一番前ね」
「なんでだよ!」
「さっき殴りたがってたじゃないか!」
「そうだけど!」
武松が笑った。
今度は、はっきり分かった。
「面白い姉妹だ」
「見世物じゃないよォ?」
「二娘」
「何?」
「そいつ、あたいも数に入れてるからな」
「姉妹だからねェ」
「便利な時だけ姉妹を使うな!」
ようやく店の空気が少し動いた。
張青は醒ましを持って役人のそばへ行き、一人目の口へ流し込む。
しばらくすると男が咳き込み、ぼんやり顔を上げた。
「う……何だ……」
「旅疲れでございます」
張青は平然と答えた。
「お二人とも急に酔いが回られまして」
「俺たちが?」
「ええ、それはもう見事に」
余計なことを足すな。
役人は眠そうな目で周囲を見る。
床は女中が拭いている。
武松は何事もなかったように座り、手枷も卓の端にある。
普通じゃない。
でも寝起きの頭では、そこまで回らないらしい。
もう一人も醒ましを飲ませている間に、張青が武松へ訊いた。
「武都頭。この先はいかがなさいます?」
「孟州へ行く」
「しかし、その御身ならば――」
張青が少し考え、アタイの帳面の下へ目をやった。
朝届いた魯智深の書状が挟んである。
嫌な予感しかしない。
「二龍山へ向かわれる手もございます」
武松の目が動いた。
「二龍山?」
「青州にございます。花和尚・魯智深殿と、青面獣・楊志殿が入りました」
「張青」
アタイが呼ぶ。
「何でそこまで話すんだい?」
「逃げ道は多い方がよろしいかと」
「罪人の逃走経路を役人の前で説明するな!」
寝起きの役人二人が固まった。
姉ちゃんが横で腹を抱えている。
笑ってる場合じゃないよォ!
張青もようやく気づいたらしい。
「仮の話でございます」
「何の仮だ!」
武松が手を上げた。
それだけで全員が黙る。
腹立たしいくらい効く。
「俺は罪人だ」
武松は起きた役人二人を見る。
「この二人を置いて逃げろというのか?」
「そこまでは申しておりません」
張青が慌てて否定した。
「もし道中で自由になられることがございましたら、選択肢として――」
「ならば、その時に考える」
武松はそこで言葉を切った。
「少なくとも、この二人を殺して自由になる気はない」
役人二人が武松を見る。
「道中、俺を罪人だからと粗末には扱わなかった。恩を受けておいて、寝ているところを斬って山へ逃げるほど落ちてはいない」
アタイは黙った。
分からない。
本当に、この男は分からない。
人間は一つの規則だけで動くわけじゃない。
相手が変われば、判断も倫理も形を変える。
心理学者だった頃なら、それらしい説明はいくらでもできただろう。
でも、目の前にいると話は別だ。
アタイにはしたことを、この役人たちにはしない。
だから善人だなんて思わない。
悪人の一言でも片づかない。
人間って、こういうところが一番怖いねェ。
「分かりました」
張青が頭を下げる。
「では、食事を整えます」
「張青」
武松が呼び止めた。
「食う相手ともてなす相手を見分けるのが、この店なのか?」
張青が一瞬黙った。
「……本来は、そのつもりでございます」
「俺はどちらだ?」
張青がこっちを見る。
助けを求めるな。
自分で言え。
「食えぬ方でございます」
姉ちゃんが吹き出した。
アタイも危なかった。
武松は怒らない。
「違いない」
その答えが決まったところで、ようやく飯を出し直した。
今度の饅頭を、武松はまた半分に割る。
「人か?」
「違うよォ!」
「犬か?」
「違う!」
「牛か?」
そこで詰まった。
姉ちゃんがアタイを見る。
「二娘?」
「……今日、何だっけ?」
奥から女中の声が飛んだ。
「猪でございます!」
「猪だってさァ!」
武松は一口食べる。
「最初からそう言え」
「最初から人とか犬とか言い出したのはそっちだろォ!」
役人二人は、何の話か分からない顔で粥を啜っている。
知らなくていい。
たぶん、その方が長生きできる。
食事が終わる頃、役人が手枷を取り上げた。
鍵を差す手が少し震えている。
武松は何も言わず、両手を前へ出した。
鉄が閉じた。
さっきまで卓に転がっていただけの手枷が、今度はきちんと武松を拘束している。
そのはずなのに、安心できない。
もう知っているからだ。
あれは虎を閉じ込める檻じゃない。
本人がその気になるまで、手首に付いている鉄でしかない。
役人が立ち上がった。
「世話になった」
「次に来るなら、最初から虎殺しって札でも下げてきなよォ」
武松が暖簾へ向かいかけて、振り返った。
「また寄るかもしれんぞ?」
アタイの口が止まった。
姉ちゃんも張青も黙る。
「……今、何て?」
武松は答えず、役人二人と一緒に外へ出た。
街道で手枷の鉄が鳴り、足音が少しずつ遠ざかっていく。
しばらく誰も喋らなかった。
やがて姉ちゃんが、アタイの肩へ手を置く。
「二娘」
「何?」
「あいつ、また来るって言ったな」
「聞こえてたよォ?」
張青も閉じた暖簾を見る。
「二娘お嬢」
「何だい?」
「次に来た時は、最初から飯だけ出しましょう」
「言われなくてもそうするよォ」
虎は一度通り過ぎれば終わりだと思っていた。
どうやら違うらしい。
あの虎、また十字坡へ戻ってくる。
孫大娘と孫二娘、二人合わせて孫姉妹で〜す!
「二娘、結局あの虎殺し、食えなかったね」
「食えるか! 張青まで真顔で『食えぬ方です』とか言いやがって」
「正しいだろ?」
「正しいけど腹立つんだよォ」
姉ちゃんが腕を組んだ。
「で、また来るって?」
「言ってたねェ」
「次はどうする?」
「飯だけ出す」
「蒙汗薬は?」
「出さない」
「包丁は?」
「出さない」
「姉ちゃんは?」
「……何であたいだけ出す前提なんだ?」
アタイは考えた。
「念のため」
「盾にする気だろ!」
だってさァ。
虎が二度来る店なんて、普通は潰れるんだよォ。




