前にも一度
孫二娘でございま〜す。
武松が去ったと思ったら、今度は張青の説教だよォ。
あの男、膝をつく時は情けないくせに、横から小言を言わせると妙にしつこい。
食えぬ相手を、食えるかどうかで見るな。
それが今回の説教らしい。
分かってるよォ。
分かってるけど、食えるかどうかは見なきゃ分からない。
十字坡は、そういう店だ。
けれど張青は言う。
前にも一度あった、と……
大きな坊主様。
酒の匂いをまとって、禅杖を持って、店ごと踏み潰しそうな顔で入ってきた男。
あの時も、アタイは食えると思った。
途中で気づいたから、悪酔いにした。
薬でも罠でも失敗でもない。
悪酔いだと言い張って、どうにか切り抜けた。
張青はそれを覚えていた。
本当に嫌な男だねェ。
余計なことは言う。
腹は鳴る。
蹴られる順番にまで注文をつける。
でも、肝心なことだけは忘れない。
今回は、張青の説教を聞く回だよォ。
聞くだけだよ。
反省するとは言ってない。
そして十字坡の暖簾の向こうに、あの坊主様の影が戻ってくる。
「お嬢」
武松の鎖の音が消えたあと、張青が言った。
声が低い。
嫌な声だ。
こういう時の張青は、だいたい余計なことを言う。
しかも、たいてい正しい。
だから余計に腹が立つ。
「何だい?」
アタイは戸口を見たまま返した。
「蹴られる前に、一つだけ申し上げてもよろしいでしょうか?」
「蹴られるのは決まってるんだねェ?」
「はい」
「分かってるなら黙って蹴られな」
「それでは、同じことがまた起きます」
その言い方が気に食わなかった。
アタイはゆっくり振り返る。
張青は、いつもの間抜けた顔ではなかった。
飯の数を数える顔でも、饅頭の売れ行きを気にする顔でもない。
十字坡を見ている顔だ。
父ちゃんが死ぬ前に、この男へ何を見せていたのか?
こういう時に分かるのが、本当に腹立たしい……
「説教かい?」
「はい、できれば蹴られる前に最後まで聞いていただきたく」
「順番を決めるのはアタイだよォ?」
「承知しております。では、蹴られる前の説教でお願いいたします」
「張青、あんた偉くなったねェ?」
「親父さんに、隣に立てと言われましたので……前に出る度胸はございませんが、横から小言を申すくらいなら何とか」
「蹴るよォ?」
「左でお願いいたします。右は先ほど膝をついた時に少々痛めました」
「注文をつけるんじゃないよォ」
「では、お嬢のお好きな方で」
当然だろォ。
蹴る気が削がれる。
いや、削がれない。
あとで蹴る。
アタイは椅子へ座らなかった。
まだ座りたくなかった。
床は拭かれ、倒れた椅子も戻り、盃も片づいている。
けれど、さっきアタイが転がった場所だけ、目が勝手に避ける。
手首は痛い。
裾を戻した感覚が、指に残っている。
張青がどこまで見たのかは分からない。
分からないのが、余計に嫌だった。
「で、何だい。アタイに反省しろって?」
張青は少し黙った。
「反省なさるとは思っておりません」
「分かってるじゃないか」
「ですので、せめて覚えてください」
「何を?」
「食えぬ相手を、食えるかどうかで見ないことを」
アタイは鼻で笑った。
「食えぬかどうかは、見なきゃ分からないだろォ?」
「そこが問題でございます。お嬢は、まず噛んでから硬さを確かめようとなさる」
「獣扱いかい?」
「母夜叉扱いでございます」
「上手いこと言ったつもりかい?」
「はい、少しだけ」
無言で足を上げると、張青は半歩下がった。
逃げるな――
「お嬢、前にも一度だけ、同じことがございました」
アタイの笑いが止まった。
嫌な言い方だ。
前にも一度……
それだけで、思い当たる顔があった。
「坊主様のことかい?」
「はい」
張青が頷いた。
「魯智深様でございます」
その名を聞いた途端、奥で女中が鍋を鳴らした。
わざとじゃない。
手が滑った音だ。
それくらい、店の者も覚えている。
あれは、武松より前のことだった。
十字坡がまだ父ちゃんの影を引きずっていた頃。
アタイが、母夜叉の名に少し慣れ始めていた頃。
大きな坊主が来た。
坊主というより、寺から逃げ出した山みたいな男だった。
僧衣を着ているのに、酒の匂いが先に入ってくる。
禅杖は太く、腕も太い。
歩くたびに床板が鳴った。
その時のアタイは、思った。
食える――
いや、正確には、食えそうだと思った。
今思えば、馬鹿だねェ。
いや、今でも馬鹿とは認めないけどねェ。
「酒はあるか?」
坊主様は、そう言った。
声だけで盃が震えそうだった。
「あるよォ。坊主様に出していい酒かは知らないけどねェ」
「酒に坊主も俗人もあるか」
「寺の偉い人が聞いたら泣くよォ」
「泣かせておけ」
その時点で、普通の坊主ではない。
でも、十字坡に来る客が普通なわけもない。
むしろ普通の客ほど扱いに困る。
アタイは濁り酒を出した。
蒙汗薬は、いつもより少し薄くした。 大きな相手は落ちるまでに時間がかかる。
濃すぎると、味でばれる。
父ちゃんに教わった加減だ。
坊主様は盃を見て、鼻を鳴らした。
「薄いな」
「まだ飲んでないだろォ」
「匂いで分かる」
まずい――
その時、少しだけ思った。
でも、まだ引かなかった。
坊主様は盃を空けた。
一つ、二つ、三つ。
薬は入っている。
確かに入っている。
なのに、顔色が変わらない。
目も濁らない。
舌も回る。
むしろ、こちらの手元を見ている。
四つ目を飲んだ時、坊主様の手が禅杖へ伸びた。
酔った手じゃない。
敵が動いた時の手だ。
アタイの背中に冷たいものが走った。
拒否反応というより、危機察知だねェ。
現代語で言えば、アラートが鳴った。
いや、そんな上品なものじゃない。
頭の中で、店ごと吹き飛ぶ音がした。
「坊主様」
アタイは先に笑った。
「悪酔いだよォ」
坊主様の目が、こちらへ来る。
「あ?」
「悪酔いだって言ってるんだよォ。顔が怖い。酒が悪いんじゃなくて、飲み方が悪いんだねェ」
女中が固まっていた。
張青も、奥で饅頭の籠を持ったまま止まっていた。
アタイは声を張った。
「水を出しな。湯もだよォ。坊主様が悪酔いした。騒ぐんじゃないよォ」
店の空気が、無理やり決まった。
悪酔い――
そう言った以上、それは悪酔いだ。
薬でも、罠でも、失敗でもない。
悪酔いだ。
坊主様は、しばらくアタイを見ていた。
そして、笑った。
「この店の酒は、寝つきが早いな」
女中の顔から血の気が引いた。
張青が一歩出ようとした。
アタイは目だけで止めた。
出るな――
前に立つな。
後ろに隠すな。
まだ父ちゃんの言葉を、ちゃんとは分かっていなかった頃だ。
でも、張青はその時も止まった。
「坊主様の飲み方が乱暴なんだよォ」
アタイは言った。
「酒が驚いて、先に寝かせに来たのさ」
坊主様は禅杖から手を離した。
助かった。
そう思った瞬間、膝から力が抜けそうになった。
抜けなかったけどねェ。
そこは意地だ。
坊主様には水を出した。
湯も出した。
饅頭は下げた。
代わりに焼いた肉を出した。
女中が「坊主様に肉を出すのか」という顔をした。
知らないよォ。
この坊主様に粥だけ出したら、こっちが粥になる。
坊主様は肉を食い、酒をもう一盃だけ飲み、何も言わずに出ていった。
出ていく時、暖簾の前でこう言った。
「次は、まともな酒を出せ」
まともな酒――
あれも嫌な言葉だった。
武松の「もっと上手くやれ」と、少し似ている。
嫌な男たちは、どうして最後に一言置いていくのかねェ。
思い出したら腹が立ってきた。
「で?」
アタイは張青を見た。
「坊主様の時も、アタイは切り抜けたよォ。今回も切り抜けた。何が問題だい」
「切り抜けたから、問題が残っております」
「死んでないなら上出来だろォ?」
「死ななかっただけでございます」
張青の声が、少しだけ強くなった。
珍しい。
「お嬢は、強い相手を見ると、先に試そうとなさる」
「客を見るのが仕事だよォ」
「見るだけで済ませる時もございます」
「食えるなら食う」
「食えぬなら?」
「食わないと決める」
「その判断が、遅うございます」
痛いところを突いてくる。
アタイは笑った。
「張青、今日はよく喋るねェ」
「今日言わねば、次は言えないかもしれません」
店の奥が静かになった。
女中たちも聞いている。
聞くな。
働け。
そう言いたかったが、言わなかった。
張青は続けた。
「魯智深様の時、お嬢は途中で気づきました。武松様の時は、掴まれてからでございます」
「つまり?」
「次は、掴まれる前に気づいてください」
正論だ。
だから腹が立つ。
「アタイに反省しろって?」
「反省なさるとは思っておりません」
「二回言ったねェ、それ?」
「大事なことですので」
「張青」
「はい」
「蹴る」
「先ほど左でと申し上げましたが、やはり右でも構いません」
「覚悟を見せる場所を間違えてるよォ?」
張青は逃げなかった。
本当に蹴りにくい。
アタイは一歩近づいた。
その時、ふと思い出した。
暖簾をくぐった張青の顔。
血の気が引いて、声が途中で止まった顔。
あれは何を見た顔だったのか。
手首、襟、裾。
その上にいた武松。
張青は、何を思った。
考えたくない……
でも、考える。
認知の歪みとか、回避反応とか、現代なら何か名前がつくのかもしれない。
名前をつけたら楽になる?
なるわけないだろォ?
名前がついた地獄は、ただ分類済みの地獄だ。
「張青」
「はい」
「あんた、あの時……何を考えてたんだい」
張青が黙った。
長い。
長すぎる。
店の空気まで止まった。
「言いな」
「申し上げても、蹴られます」
「言わなくても蹴るよォ」
張青は、死地へ向かう顔で口を開いた。
「お嬢が無事でよかったと、まず思いました」
「まず?」
「その次に、見てはならぬものを見たと思いました」
奥で女中がまた鍋を鳴らした。
今日は鍋が忙しいねェ。
「続けな」
「自分がどういう顔をしていたかも、考えました」
「それで?」
張青は目を伏せた。
「考えているうちに、腹が鳴りました」
無言で蹴った。
張青は床へ転がった。
店の者が、息を殺している。
笑うなよ。
笑ったら次はお前たちだ。
「今のは、受けて当然でございます」
「分かってるなら黙ってな」
「ただ、お嬢」
「まだ何かあるのかい?」
張青は床に転がったまま、真面目な顔で言った。
「飯は、冷める前が一番でございます」
「張青」
「はい」
「今、何の話をしてたか分かってるかい?」
「お嬢の名誉と、十字坡の危機と、私の腹具合でございます」
「最後を混ぜるんじゃないよォ」
「ですが、三つとも急ぎでございます」
もう一度蹴った。
今度は少しだけ強めにした。
腹が立つ。
本当に腹が立つ。
でも、店の空気は戻った。
女中がとうとう小さく笑い、すぐ口を押さえる。
張青は痛そうな顔で起き上がり、何もなかったように膝の埃を払う。
何もなかったわけじゃない。
それでも、十字坡はこうやって動く。
笑って、蹴って、飯を出す。
地獄みたいな店だねェ。
しかも、たぶん潰れない。
アタイは袖を払った。
髪を直し、襟を整え、口元だけで笑う。
さっきまで床に転がされていた女には見せない。
見せてたまるか。
ここは十字坡。
アタイの店だ。
「次の客を通しな」
張青が青い顔で暖簾を見た。
「お嬢」
「何だい」
「通さない方がよろしい客でございます」
「今さら逃げる店だと思ってるのかい?」
「逃げる店ではございませんが、たまには戸を閉める知恵も――」
「張青」
「はい」
「本日三度目だよォ?」
「数えておりました」
その時、暖簾が揺れた。
丸い頭。
太い首。
肩にかかる僧衣。
手には、見覚えのある太い禅杖。
張青の顔から、今日二度目の血の気が引いた。
「お嬢」
「言わなくていいよォ?」
「ですが」
「分かってる」
アタイは笑った。
できるだけ、綺麗に。
できるだけ、怖く。
十字坡の看板娘は、こういう時ほど笑うんだよォ。
外から、低い声が落ちてきた。
「今度の酒は、まともだろうな?」
張青が囁いた。
「……戸を閉めるなら、今でございます」
アタイは張青の足を踏んだ。
「いらっしゃい、坊主様」
入ってきたのは、魯智深だった――
孫二娘でございますよォ。
張青の説教なんて、聞くものじゃないねェ。
膝をつく時は情けない。
腹は鳴る。
蹴られる足の左右まで注文をつける。
なのに、言うことだけは妙に外さない。
魯智深の時、アタイは途中で気づいた。
武松の時、アタイは掴まれてから気づいた。
その差を、張青はちゃんと見ていた。
嫌な男だよォ。
本当に嫌な男だ。
でも、父ちゃんが言った「隣」ってのは、たぶんこういうことなんだろうねェ。
前に出て格好つけるわけじゃない。
後ろで守られているわけでもない。
横から余計なことを言って、蹴られて、飯の心配をして、それでも店を潰さない。
ああ、腹が立つ。
もっと腹が立つのは、その張青のおかげで、店の空気が戻ったことだよォ。
笑って、蹴って、飯を出す。
十字坡は地獄みたいな店だけど、地獄にも段取りはある。
段取りがあるから、今日も暖簾を上げられる。
だからアタイは笑った。
できるだけ綺麗に。
できるだけ怖く。
床に転がされた女じゃない。
十字坡の看板娘として。
そうして次の客を迎えようとしたら、来たのはよりによって、あの坊主様だった。
魯智深――
前に潰しかけて、悪酔いで誤魔化した男。
まともな酒を出せと言って去った男。
その男が、また暖簾の前に立っている。
張青は戸を閉めろと言った。
遅いよォ。
もう、坊主様は入ってきた。




