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見誤ったな

孫二娘でございま〜す。


前回、どうにも嫌な感じのする罪人へ蒙汗薬を盛ったんだけどさァ。

役人二人は見事に撃沈して、罪人も卓へ伏せた。

……と、ここまでは予定通りだったんだよォ。


ところが、そいつは一滴も飲んでなかった。

寝たふりまでして、アタイが近づくのを待ってやがった。


心理学者として言わせてもらえば、こういう相手には近づかないのが正解だねェ。


十字坡の店主としては?

もう近づいちまったよォ……

しかも手枷は、役人が飯を食わせるために外してある。

そして今、アタイの手首はそいつに掴まれている。


……父ちゃん、ゴメン……

これ、客の見極めを間違えたかもしれないねェ。

手首を掴まれた瞬間、指先の感覚が消えた。

痛いんじゃない。

逃げ道を塞がれた――そう分かった。

アタイは反射で腰を落とし、掴まれた手を引かずに逆へ押し込んだ。

父ちゃんに何度も叩き込まれた外し方だ。

手を取られたら力比べをするな。

骨の向きを変えて、相手の肘へ入れ。

分かっているし、身体も覚えている。

なのに、外れなかった。

さっきまで卓に伏せていた男は、もう身体を起こしている。

眠った役人二人はそのままで、卓の端には外された手枷が置かれていた。

「酒は飲んでないねェ」

笑ってみせると、男は答えた。

「床にくれてやった」

やっぱりか――

盃を傾けて、飲んだように見せただけだ。

蒙汗薬そのものは効いている。

役人二人が立派に実証してくれている以上、薬屋へ苦情を入れる筋合いはない。

騙されたのはアタイだ。

「うちの床は酒好きでねェ」

「客も食うのか?」

「客じゃないって言ったのは、そっちだろォ」

言い返した直後、腕を引かれた。

一気に距離が詰まる。

アタイは脛を狙って膝を入れた。

まともに当たれば、大男でも足は止まるはずだった。

男は半歩だけ位置を変える。

避けたというより、そこにあるはずだった足が消えた。

直後に足首を払われ、床が傾いた。

倒れる前に男の袖を掴み、そのまま引きずり落とそうとする。

相手が大きいなら、重心を崩して下へ落とせばいい。

父ちゃんはそう教えた。

男は落ちなかった。

代わりに、アタイの背中が床へ叩きつけられた。

息ができない……

次には腕を押さえられ、立ち上がる道も朴刀へ手を伸ばす道も消えていた。

「二娘!」

奥で女中が叫んだ。

「来るな!」

アタイが怒鳴ると、男も店の奥を見る。

それだけで女中の足が止まった。

声を荒らげても、刃物を向けてもいない。

ただ見ただけなのに、それで人間が止まる。

嫌な男だねェ。

怖いだけじゃ足りないし、単純に強いとも違う。

アタイが何かしようとする、その一歩前へ回り込んで道を潰してくる。

武芸なのか、勘なのか、それとも獣みたいな才能なのか。

心理学者に訊くな。

今その心理学者が床に転がされてるんだよォ。

空いている膝を跳ね上げ、今度は腹を狙ったが、また外された。

だったら噛む。

近いなら歯が届くし、綺麗に勝つ必要なんてない。

十字坡で生きるなら、上品な負け方より汚い勝ち方の方が役に立つ。

顎を動かそうとしたところで、男の手が先に来た。

「獣か?」

「今さら気づいたのかい?」

言い返すことはできた。

噛めないけど……

本当に腹が立つ。

ここはアタイの店だ。

父ちゃんの椅子を継ぎ、鍵束も帳面も預かった。

客の嘘も、血の匂いも、表では言えない仕事も、全部ひっくるめてアタイが引き受けた場所だ。

その床の上で、アタイが動けない。

暴れた拍子に髪紐が切れ、ほどけた髪が頬へ落ちた。

襟もずれている。

身体を捻れば男との距離が詰まり、逃げようとするたびに先へ回られる。

押さえられているだけだ。

それだけのはずなのに、店の音が妙に遠くなった。

嫌だし、怖いし、何より悔しい。

そこまでは分かる。

ところが身体は頭より先に強張り、自分でも説明のつかない反応まで混ざってくる。

拒否反応なのか。

それとも、もっと始末の悪い何かなのか。

分からない。

分かりたくもない。

「暴れるな」

声が近い。

命令されたことより、その距離の方に腹が立った。

「誰に言ってるんだい?」

笑ったつもりなのに、声が少し掠れた。

男の目が細くなる。

見透かすな。

そう思った時、腰の鍵束が床へ当たった。

鈍い音だった。

父ちゃんの鍵だ。

アタイは奥歯を噛む。

「放しな」

「先に薬を盛ったのは、お前だ」

「客を見て決めたんだよォ」

「見誤ったな」

胸の奥へ、その一言だけが刺さった。

見誤った。

父ちゃんなら何と言う?

できなきゃ死ぬ。

たぶん、それだけだ。

だからアタイは笑った。

「まだ死んでないよォ」

男の眉がわずかに動く。

今だ。

押さえられた腕ではなく肩を逃がし、腰を返した。

裾が乱れようが、髪が床へ散ろうが知ったことじゃない。

朴刀へ届けばいい。

指先が柄へ触れる。

その瞬間、男の足が先へ回った。

朴刀が床を滑って遠ざかる。

「しつこい女だな」

「褒め言葉かい?」

「命知らずだ」

「それも褒め言葉だねェ」

男の口元が少し動いた。

笑ったのかもしれない。

だったら、なおさら腹が立つ。

肘をずらしても、腰を返しても、逃げる方向を変えても、男は力任せに押し潰してこない。

その代わり、アタイが選んだ道を一つずつ消していく。

現代で講義に使った言葉が、こんな時に限って頭へ浮かんだ。

学習性無力感。

冗談じゃない。

こんな床で学習してたまるか。

無力感なんて、あとで帳面の余白にでも書いておけばいい。

今はこの男をどける方が先だ。

「奥の者」

男が女中へ声をかけた。

「近寄れば、この女の腕を折る」

奥で息を呑む音がした。

脅しているようには聞こえない。

これからそうする、と事実だけを告げている。

その方が怖い。

女中たちは動けなくなり、役人二人は卓に伏したままだ。

転がった盃から酒が流れ、床板の古い傷へ染み込んでいる。

アタイはそれを見て、別の意味でも腹が立った。

そこ、あとで拭くのアタイらだからねェ。

「……あんた、何者だい?」

訊いても、男は答えない。

「名を言われるのが嫌なら、罪ぐらい言いなよォ?」

少し間があった。

「人を殺した」

「何人?」

「数える相手ではなかった」

背筋が冷えた。

山賊なら殺した数を誇り、役人なら理由を飾る。

恨みで刃を取った者なら、相手の名前を忘れない。

こいつは違う。

済んだことを、済んだこととして置いている。

同類じゃない。

アタイは必要だから殺す。

この男は、必要になったら壊す。

そんな気がした。

「母夜叉」

男が言った。

いつもなら腹が立つだけの渾名が、初めて刃みたいに聞こえた。

「俺をどうする?」

答えに詰まる。

食う、と言えば殺されるかもしれない。

逃がす、と言えば店が負ける。

もてなす、と言うには、店主が床へ押さえられている格好が悪すぎる。

せめて椅子に座らせてから訊けよォ。

役人の一人が、眠ったまま小さく呻いた。

まずい。

いつ目を覚ますか分からない。

罪人が店主を押さえ、護送役二人が薬で寝ている。

この光景を説明しろと言われても、前世の試験問題なら出題者を呼び出すところだ。

正解はたぶん、問題そのものを作り直せ。

アタイは息を整えた。

床にいようが、主は主だ。

「女中」

奥へ声を投げる。

「役人の盃を片づけな。酒も拭いときな。染みになったら面倒だよォ」

女中は動けない。

男がアタイを見る。

「命じるか?」

「主だからねェ」

「その格好でか?」

「床にいようが、椅子にいようが、十字坡はアタイの店だよォ」

押さえられた腕に力が加わった。

痛い。

でも、声は出さない。

女中が恐る恐る一歩出た。

男は止めなかった。

よし。

まだ全部は取られていない。

「腕を折るなら折りな。でも折ったら帳面が書きにくいんだよォ。勘定まで狂ったらどうしてくれる」

「命より帳面か?」

「命だけ残って店が死んだら、父ちゃんに化けて出られる」

男が黙った。

「……死者まで使うか」

「使えるものは何でも使うのが十字坡だよォ」

そこだけは、少し勝った気がした。

本当に、そこだけだった。

その先のことは、順番がところどころ抜けている。

言葉にしたくない、という方が近い。

嫌だと伝えたことは覚えている。

拒んだことも覚えている。

それでも止まらなかったことも。

細かく並べる気はない。

一つだけ、間違えたくない。

アタイは同意していない。

次に記憶がはっきりしているのは、さっきまでとは違う位置から店の天井を見ていた時だった。

窓から入る光は少し傾き、父ちゃんの鍵束は離れた床に転がっていた。

髪はほどけたままで、身体を起こそうとすると、あちこちが自分のものじゃないみたいに重い。

腹が立った。

怖いより先に腹が立つ自分にも腹が立つ。

前世の知識なら、今の反応にいくつも名前を付けられる。

フリーズ反応だとか、解離だとか、防衛機制だとか。

知ってるよ。

今はいらない。

助教は黙ってろ。

アタイは床へ手をついて腕に力を入れたが、一度では起き上がれなかった。

もう一度やると、今度は身体が持ち上がる。

……立てる。

なら立つ。

十字坡の店主がいつまでも床に転がっていたら、邪魔でしょうがない。

我ながら心配する順番が完全に壊れている。

父ちゃんさぁ……

環境適応って、こんなところまで来るもんなのかねェ。

奥から女中がこちらを見ていた。

顔が真っ青だ。

「二娘……」

「湯を沸かしな」

「え?」

「あと役人を起こす準備。いつまでも寝かせてたら、本当にうちが怪しい店みたいだろォ」

女中の口が半分開いた。

「二娘」

「何だい?」

「……怪しくない店だったのでございますか?」

アタイは女中を見る。

女中もアタイを見る。

「今それ言う?」

泣きそうな顔のまま、女中が少しだけ笑った。

それでいい。

笑えるなら、まだ店は動く。

外から足音が近づいた。

一人じゃない。

けれど先頭の歩き方には聞き覚えがある。

張青だ。

いつもなら暖簾をくぐる前から、腹が減っただの周がどうしただの、余計なことを一つは言う。

今日は何も聞こえなかった。

暖簾が揺れる。

張青が入ってきた。

最初に卓へ伏した役人二人を見て、次に転がった盃と、外された手枷を見る。

それから、アタイへ目を向けた。

張青の視線は、ほどけたアタイの髪から床に落ちた髪紐へ移り、少し離れた朴刀と鍵束を追ったあと、何事もなかったような顔で座っている男に止まった。

張青の顔から血の気が引いた。

「お嬢……」

一歩出かけて、止まる。

そして勝手に男へ飛びかからず、アタイを見た。

「……どうします?」

アタイは床の鍵束を拾った。

指が少し震えている。

腹が立ったので、腰へ乱暴に戻す。

「まず役人を起こすよォ。話はその後だ」

「こいつは?」

「名前も聞いてない」

張青が男を見る。

アタイも見る。

「そういや、あんた。さっき聞きそびれたねェ」

男の目がこちらへ向いた。

「こっちは散々な目に遭ったんだ。名前ぐらい置いていきなよォ。帳面につけるから」

「何の帳面だ?」

「今から作る」

「作るんですか……」

張青が呟いた。

男はしばらくアタイを見ていたが、やがて口を開いた。

「武松」

張青の顔が固まった。

「……武松?」

今度はアタイが張青を見る。

「知ってるのかい?」

張青は男から目を離さない。

「お嬢、その男……景陽岡で虎を殴り殺した武松です」

店の中が静かになった。

アタイは武松を見る。

武松もこちらを見る。

アタイは卓に残った手枷と、眠ったままの役人二人へ目をやり、最後にさっきまで自分が転がっていた床を見た。

「…………」

先に言え……

せめて虎を殴り殺した男だって、先に言えよォ。

孫大娘と孫二娘、二人合わせて孫姉妹で〜す!


「二娘、景陽岡の虎殺しって本当?」

「張青が知ってたからねェ。たぶん」

「で、あんたはそいつに喧嘩売ったの?」

「正確には蒙汗薬を盛った」

「もっと悪いわ!」


姉ちゃんが頭を抱えた。


「父ちゃんでも相手を選んだぞ」

「アタイだって選んだよォ。選んだ結果が武松だったんだよ」

「最悪の抽選じゃないか!」


うるさい……


「それで二娘、これからどうするの?」

「どうするって?」

「虎を殴り殺す男が十字坡に来たんだろ。次に来る奴が普通だと思う?」


アタイは黙った。

……それは考えてなかったねェ。


「姉ちゃん」

「何?」

「しばらく店、手伝って」

「あたいを盾にする気だろ!」

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