これは、人の肉か?
孫二娘でございま〜す。
青州へ行った酒臭い大和尚から、とうとう書状が届いたよォ。
二龍山を取ったら連絡しろとは言ったけど、本当に取ってくる奴があるかい。
しかも卓代まで踏み倒そうとしてるし……
山一つ取ったからって、十字坡の修繕費が消えるわけじゃないんだよ。
まあ、それは後で取り立てるとして――今日は別の客が来た。
役人が二人、それから手枷をつけた罪人が一人。何もしていないし、騒いでもいない。
なのに、どうにも目が気に入らない。
こういう時は先に眠ってもらう。
最近のアタイは、その判断に迷わなくなった。
……それが正しかったかどうかは、すぐ分かるよォ。
周が持ってきた書状は、妙に分厚かった。
紙が厚いんじゃない。折り方が雑なんだ。
「……あの坊さん、本当に寄越したよォ……」
差出人には、花和尚・魯智深。
母夜叉宛てじゃなかったことだけは褒めてやりたい。
アタイは父ちゃんの椅子に座り、封を開いた。
張青は朝から渡しの周辺を見に出ていて、姉ちゃんが来るのも今日はまだ先だ。
店では女中たちが昼の仕込みをしている。
中の紙を広げると、字は思ったより読めた。
『二龍山を取った』
最初の一行で、手が止まる。
「……本当に取ったのかよォ」
冗談で言ったつもりはなかったけれど、本当にやるとも思っていなかった。
あの酒臭い大和尚は、十字坡で卓を吹き飛ばし、柱を欠けさせ、四日も五日も飯を食った。
その勢いのまま青州まで行って、本当に山まで取ったらしい。
行動力という言葉で片づけていいのかねェ、これ?
前世では学生に「目標達成には具体的な計画が重要です」なんて話した覚えがある。
魯智深に聞かせたら、
――歩けば着く!
で全部終わりそうだ。
続きを読むと、鄧龍を追って宝珠寺へ入り、楊志という男と一緒に二龍山を拠り所にすることまで書かれていた。
最後には、少し大きな字がある。
『取ったぞ』
「二回言わなくても分かるよォ」
その下に、さらに一行あった。
『卓代はこれで無しだ』
「それとこれとは別だろ!」
店の奥で女中がびくっとした。
「二娘?」
「何でもないよォ? 青州から借金を踏み倒そうとしてる坊主がいるだけ」
「遠うございますね」
「距離の問題じゃないんだよ」
書状を畳みかけて、やめた。
もう一度開く。
二龍山――
父ちゃんが生きていた頃のアタイなら、青州の山なんて自分には関係のない話だった。
十字坡へ来る客を見て、父ちゃんに言われた仕事をして、時々姉ちゃんと喧嘩する。
それで世界は足りていた。
今は、魯智深が向こうにいる。
そこへ行く道があり、こっちを知っている人間が遠い土地に一人増えた。
それだけなのに、店の戸の向こうが少し広くなったような気がする。
父ちゃんが死んだら、十字坡だけが残ると思っていた。
残ったのは十字坡だけじゃなかったらしい。
「お嬢」
表から店の若い者が呼んだ。
「何だい?」
「役人が二人、こちらへ参ります」
「役人?」
アタイは書状を畳んだ。腰の鍵束が小さく鳴る。
「何の用だい?」
「罪人を一人連れております。休ませろと」
……今度はそっちか。
魯智深が出ていってから、店は妙に平和だった。
平和というのは良くないねェ。
何も起きない日が続くと、それが普通だと思い始める。
正常性バイアスとは少し違うけれど、人間は今まで何も起きなかったというだけで、次も同じだと思いやすい。
十字坡でそんな学習をする方が間違っている。
「通しな」
書状を帳面の下へ挟み、椅子から立つ。
しばらくして、暖簾の向こうに三人の影が現れた。
先に入ってきたのは護送役の男二人だった。
旅の埃をかぶり、顔には疲れが出ている。
腰の得物より先に酒甕を見るあたり、警戒より喉の渇きが勝っているらしい。
その後ろから、罪人が入ってくる。
大きな男だった。
魯智深ほど横にでかいわけじゃない。
それでも身体の芯が太く、手枷を付けられているのに背が曲がっていない。
罪人なら、店へ入った時にだいたい二つの顔をする。
もう諦めた顔か、役人の機嫌を取る顔だ。
この男はどちらでもなかった。
店の中へ視線を巡らせたあと、最後にアタイを見る。
それだけなのに、こっちが見られているというより、測られている感じがした。
嫌だねェ……
こういう目は。
「店の女!」
護送役の一人が卓を叩いた。
「飯を出せ。酒もだ」
「うちはちゃんと名前のある店主がいるんだけどねェ?」
「何でもいい。急げ」
何でもいいと言われると、何でも出したくなるのが十字坡だ。
アタイは笑った。
「泊まりかい?」
「休むだけだ。孟州牢城へ送る途中だ」
孟州牢城――
もう一度、罪人を見る。
男もこちらを見ている。
目が合った瞬間、背中を冷たいものが走った。
魯智深とは違う。
あの和尚は危険だと分かりやすかった。
禅杖を持って、酒臭くて、声がでかくて、最終的には卓まで飛んだ。
ところが、この男はまだ何もしていないのに、嫌な感じだけが消えない。
前世で男子学生に人気があった頃、視線にはずいぶん慣れていた。
講義中にこちらを見る目も、廊下ですれ違った時に妙に逸らされる目も、だいたい何を考えているか想像できた。
この男の目は読めない。
だから余計に腹が立つ。
「罪人にも酒を?」
「飲ませる。逃げられん」
役人が笑い、それから罪人の手元へ目をやった。
「そのままじゃ食いにくいか」
腰から鍵を取り出し、手枷を外す。
がちゃり、と鉄が卓へ置かれた。
「妙な真似をするなよ」
男は返事をしなかった。
アタイは卓の上に置かれた手枷を見る。
……それ、外して大丈夫なのかねェ。
役人二人は気にしていない。
二人がかりで見張っている以上、罪人一人ならどうにでもなると思っているらしい。
その自信、あとで後悔しないといいけどねェ……
「名は?」
アタイが訊くと、役人が眉を寄せる。
「罪人の名など要るか?」
「勘定につけにくいんだよォ」
もう一人の役人が口を開いた。
「武――」
男がそちらを見る。
それだけだった。
役人は一瞬口をつぐみ、舌打ちする。
「……まあ、名などどうでもいい」
今の何だ?
脅したわけでも、声を出したわけでもない。
それなのに、役人から話す気だけを削いだ。
「まあいいさ。座りな」
役人二人が腰を下ろし、男も少し遅れて卓についた。
卓の端には、さっきまで男の両手を縛っていた手枷が置かれている。
なぜだろうねェ?
外す前より、そっちの方が嫌な感じがした。
女中へ目くばせする。
役人たちは腹が減っていそうだから、饅頭は多めに出す。
罪人には少し熱いものを持ってこさせた。
卓へ置くと、役人はすぐに手を伸ばした。
罪人だけは動かない。
「食わないのか?」
役人が言う。
男はようやく饅頭を一つ取り、半分に割った。
餡を確かめ、匂いを嗅いだところで手が止まる。
「どうした。毒でも入っていると思うか?」
男は饅頭を見たまま訊いた。
「これは、人の肉か?」
店の音が消えた。
奥で女中が息を飲み、役人二人の手まで止まる。
アタイは笑った。
笑えている。
たぶん……
「嫌だねェ。昼間からそんな物騒なことを言う客があるかい」
「客ではない。罪人だ」
「だったら罪人の口には合わないのかねェ?」
男は餡をもう一度見た。
「犬でもなさそうだ」
「天下泰平のこのご時世に、人だの犬だの、ひどいことを言うねェ。うちは牛だよォ」
嘘だ。
今日の餡は牛じゃない。
役人が安心したように笑った。
「ほら見ろ。妙なことを言うからだ」
男は一口食べ、ゆっくり噛んだ。
その目が、またこちらへ戻る。
……気づいてる?
いや、分からない。
肉の正体を当てに来る客ならいる。
怖いもの見たさで聞く奴も、こちらを試して面白がる奴もいた。
でも、この男は違う。
分からないから訊いたんじゃなく、確かめるために訊いた――そんな気がした。
第一印象で関わるな案件。
現代なら、そう判断して距離を取ればいい。
でも、ここは十字坡だ。
危ない客をそのまま街道へ返した方が、あとで面倒になることもある。
父ちゃんの声が頭の隅に残っている。
客を見ろ。
選べ。
見誤るな。
アタイは奥へ入った。
棚には、いつもの小壺がある。
蒙汗薬――
魯智深に使ったばかりなのに、またかよォ。
「二娘」
女中が声を抑えた。
「あの方、恐ろしゅうございます」
「見すぎるんじゃないよ」
「はい」
「役人にも酒を出しな」
「三人ともでございますか?」
一瞬考える。
役人だけ眠らせて罪人を残す意味はない。
「三人とも」
女中の顔が少し固まった。
アタイは小壺を手に取る。
危険そうなら先に眠らせて、落ちた後で調べればいい。
問題がなければ起こし、問題があった時は――その時考える。
以前なら、この発想のどこから突っ込めばいいのか、講義一回分くらい話せたと思う。
今では、その考え方を合理的だとすら思っている。
環境適応って怖いねェ。
三つの盃へ濁り酒を注ぎ、蒙汗薬を落とした。
表へ戻ると、罪人の男はこちらを見ている。
何となく、嫌な予感が強くなった。
「濁り酒だよォ。上等じゃないけど、身体は温まる」
役人の一人が先に盃を取った。
「十分だ」
罪人も手を伸ばす。
その手は卓の端に置かれた手枷の横を通り、盃を掴んだ。
アタイは見ている。
男が酒を口へ運び、盃を傾ける。
飲んだ。
ように見えた。
役人二人は早かった。
一人が卓へ肘をつき、もう一人が何か言おうとして笑う。
「効くな、この――」
最後まで言えず、卓へ伏した。
もう一人もすぐ後を追う。
女中が奥で固まっている。
罪人の男は盃を置いた。
何も言わない。
やがて身体が前へ傾き、そのまま卓へ伏せた。
店の中が静かになる。
「……効いた?」
女中が訊いた。
「役人にはねェ」
「罪人も眠っております」
「そう見える」
口にしてから、自分で嫌になった。
何だ、その言い方。
男は伏せたまま動かない。
卓の端には、外された手枷がさっきと同じ場所に残っている。
役人二人と同じように眠っているはずなのに、どうしても同じには見えなかった。
息の仕方なのか、身体から力が抜けていないのか。
分からない。
ただ、身体のどこかが「近づくな」と言っている。
心理学用語を探すより早く、手が朴刀へ向かった。
「二娘?」
「そこにいな」
卓へ近づく。
一歩目で床板が鳴った。
男は動かない。
もう一歩詰めても、何も起きない。
三歩目で腰を落とし、近くから呼吸を確かめる。
息はある。
けれど、蒙汗薬で落ちた人間にしては整いすぎている。
視界の端に、卓の手枷が入る。
さっきまで、あれがこの男を縛っていた。
今はもう、何も縛っていない。
「……あんた」
声をかけた瞬間、伏せていた男の目が開いた。
まっすぐ、アタイを見ている。
酔っていない。
眠っていない。
しまった――
朴刀へ伸ばした手より早く、男の手が動いた。
孫大娘と孫二娘、二人合わせて孫姉妹で〜す!
「二娘、何でそんな顔してるの?」
「姉ちゃん、人の顔見て第一声がそれ?」
「だって、あんたが本気で嫌そうな顔してる時って、だいたい面倒事だろ」
「否定できないのが腹立つねェ」
姉ちゃんがアタイの手元を見る。
「で、今度は何やった?」
「まだ何もやってないよォ」
「“まだ”って言ったね?」
「細かいな!」
姉ちゃんは笑ったけど、アタイは笑えなかった。
あの男、寝たふりをしていた。
しかも、こっちが確かめに近づくまで待っていた。
「二娘」
「何?」
「さっきから何を見てるの?」
アタイは店の奥から目を離さなかった。
「……まだ何ともないよォ」
「その言い方、何かあるだろ」
「姉ちゃん、勘が良すぎるんだよ」
「……起きてる?」
「たぶんねェ」
いや、あれは最初から――
眠ってないねェ……




