食えない虎
孫二娘でございま〜す。
この店は、まだ俺を食う気か。
武松はそう訊いたよォ。
食うか、食わないか。
十字坡の主なら、答えなきゃいけない。
でもねェ……
食えないから諦めるのと、食わないと決めるのは違う。
負けは負けだ。
蒙汗薬は見抜かれた。
手首は痛いし、髪も襟も裾も、元通りとは言えない。
それでも、店は動かさなきゃいけない。
湯を出し、飯を出し、床を拭く。
そして、何もなかった顔をする。
何もなかったわけじゃないのにねェ。
武松は食えない虎だった。
けれど、食えないから逃がすんじゃない。
アタイが、食わないと決める。
十字坡の主として、初めて武松の名を帳面につける回だよォ。
張青の額が、床へついた。
その音より、武松の問いの方が重かった。
この店は、まだ俺を食う気か。
店の中で、誰も息をしない。
女中は奥へ下がりかけたまま止まり、役人二人は頭の芯が戻っていない顔で卓に手をついている。
張青は動かない。
額を床につけたまま、アタイの答えを待っている。
腹が立つ。
まただ。
こいつは、アタイが噛みつく前に間を作る。
意地でしくじる前に、床へ頭を下げて時間を稼ぐ。
嫌な男だよォ。
けれど、その間がなかったら、アタイはたぶん笑っていた。
笑って、毒でも刃でもない言葉で武松に噛みついていた。
そんなことをすれば、今度こそ終わる。
アタイは鍵束を握った。
冷たい鉄が、掌に食い込む。
父ちゃんの鍵だ。
逃げ道を塞ぐ音。
店を開けろと言った声。
泣いても飯を出せと言った顔。
全部が、今ここにある。
「張青」
アタイは言った。
「退きな」
張青は額を床につけたまま、動かなかった。
「お嬢」
「退きなって言ってるんだよォ」
「まだ――」
「答えるのはアタイだ」
張青の肩が、わずかに止まる。
武松がこちらを見た。
その目が嫌だった。
怒るか、怯えるか、嘘をつくか。
どれを選ぶか、先に見ている。
アタイはゆっくり息を吸った。
手首は痛み、髪は乱れている。
襟も裾も、直しただけで元通りとは言えない。
張青に見られたことも、腹の底でまだ熱を持っている。
でも、それは後だ。
今は主だ。
十字坡の主として、答えなきゃいけない。
「食わないよォ」
店のどこかで、細い息が漏れた。
武松は瞬きもしない。
「なぜだ?」
「食えないからだよォ」
「そこの男と同じ答えか?」
「似てるけど違うねェ」
アタイは笑った。
声は少し掠れていた。
それでも、笑えた。
「張青は、あんたを食えぬ方だと言った。アタイは、あんたを食わないと決めた」
「違いがあるのか?」
「あるよォ」
アタイは鍵束を腰へ戻し、わざと音を鳴らす。
この店の鍵は、まだアタイが持っている。
「食えないから諦めるのと、食わないと決めるのは違う。前者は負けだ。後者は店の判断だよォ」
張青は顔を上げない。
たぶん、ほっとしている。
でも、まだ動かない。
武松は低い声で言った。
「盗人宿の判断か?」
「そうだよォ。盗人宿にも勘定はある」
「薬を盛っておいて、勘定を語るか」
「盛ったねェ」
アタイはあっさり認めた。
役人二人の顔色が変わる。
張青の背中も固まった。
でも、ここで綺麗な嘘をつく方が危ない。
武松の目が、また獣になる。
「盛った。見誤った。失敗した。そこまでは帳面につけるよォ」
「帳面か」
「父ちゃんの教えでねェ。勘定を消すと、店が腐る」
武松は黙った。
その沈黙に、役人たちの浅い息が混じる。
アタイは卓へ目を向けた。
「女中」
「は、はい」
「役人方へ湯を出しな。飯もだ。腹に入れば、頭も戻る」
女中が慌てて頷き、奥へ消えた。
張青が少しだけ顔を上げる。
「お嬢」
「まだ立つな」
張青が止まった。
今度はアタイが止めた。
武松の口元が、わずかに動く。
「聞かぬ主と、立たぬ下男か」
「便利だろォ」
「面倒な店だ」
「それはよく言われるねェ」
言ってから、少しだけ息が戻った。
やっと、自分の声が自分のものになってくる。
床に押さえられていた時、アタイの声はどこか遠かった。
怒っているのに、身体の奥が先に固まっていた。
拒否反応。
凍りつき反応。
以前なら、そんな名前をつけるのかもしれない。
でも、今は違う。
指はまだ震え、手首も痛む。
それでも、店の音が戻っている。
奥の鍋、女中の足、役人の咳。
張青が押し殺している息。
十字坡が、まだ動いている。
「おい」
役人の一人が、ようやく口を開いた。
「これは、どういう……」
武松がそちらを見た。
それだけで、役人の声が縮む。
「旅疲れだ」
武松は言った。
「酒が回った。飯を食って、先へ行く」
「し、しかし」
「騒げば遅れる」
役人は口を閉じた。
強い――
声を荒げていない。
理屈を並べてもいない。
ただ、その場の筋を一本にしてしまう。
本来、それは店の主がやることだ。
場を決めるのは、アタイの役目だ。
それを武松に先に取られた。
負けがまた一つ増える。
嫌だねェ……
帳面につけたくない負けほど、よく残る。
女中が湯を運んできた。
手は震えているが、盃は落とさない。
よし――
アタイは短く頷いた。
「饅頭は下げな」
女中の目が、一瞬だけ泳いだ。
武松がこちらを見る。
「食わせぬのか?」
「今のあんたには合わないよォ」
「何の肉だ?」
「聞いて楽しいかい?」
「楽しくはない」
「なら聞くな」
張青が小さく咳をした。
止めたかったのだろう。
けれど、武松は怒らなかった。
「では、何を出す」
「粥だねェ」
アタイは奥へ声を投げた。
「湯を多めに。塩は薄く。役人方の胃を起こす。武松には肉を焼きな。変な細工はするんじゃないよォ」
奥から返事があった。
武松の目が、少しだけ変わる。
「俺には肉か」
「虎を食った男に粥だけ出したら、十字坡の名折れだろォ」
「虎は食っていない」
「そうなのかい?」
「打っただけだ」
「なら今日は肉を食いな。虎じゃないけどねェ」
張青が、また咳をした。
今度は少し笑いを噛んでいた。
この男――
笑ってる場合か……
でも、店の空気が動いた。
固まっていた女中の肩が下がる。
役人が湯を啜る。
床の酒の匂いが、火の匂いに押されて薄くなる。
死ぬ流れじゃない。
それだけは分かる。
武松は卓のそばに座った。
手枷の鎖が、木の端に当たって鳴る。
その音で、また手首が痛んだ気がした。
アタイは椅子へ戻らなかった。
戻れないんじゃない。
戻らない。
今あの椅子へ座れば、さっき床に転がっていた自分を隠すみたいで腹が立つ。
だから、卓の向かいに立った。
武松が見上げる。
「座らぬのか?」
「座れと言われると座りたくなくなる性分でねェ」
「誰も命じていない」
「なら立ってるよォ」
武松は短く笑った。
「しつこい女だ」
「褒め言葉だねェ」
「先ほども聞いた」
「何度でも言うよォ」
張青が、そこで静かに口を挟んだ。
「お嬢」
「何だい?」
「この度のこと、私からも詫びを申し上げます」
「今さらかい?」
「今だからでございます」
張青は武松へ向き直った。
まだ膝はついたままだ。
「武松様……当店の不手際、重ねてお詫び申し上げます。道中の支度は、こちらで整えます。役人方にも差し障りなきよう、話を合わせます」
「話を合わせる?」
「店を守るための口上でございます」
「嘘とは言わぬのか?」
「上手く言わねば、こういう店は続きませぬ」
張青の声は低い。
いつもの間抜けた調子がない。
アタイは少しだけ、知らない男を見るような気持ちになった。
父ちゃんは、これを見ていたのかもしれない。
普段は饅頭の数を数えて、食い意地で動く。
けれど本当に場が割れる時、この男は自分の面子を一番先に捨てられる。
前に立たない。
後ろへ隠さない。
隣へ戻す。
嫌になるくらい、父ちゃんの言葉そのものだ。
「立て」
武松が言った。
張青は動かない。
「まだでございます」
「俺が許す」
「お嬢が許しておりません」
武松がアタイを見る。
アタイは鼻で笑った。
「面倒だろォ」
「面倒だ」
「その面倒で店を回してるんだよォ」
張青がこっちを見た。
少しだけ困っている。
いい気味だ。
「立ちな、張青」
「はい」
今度は素直に立った。
膝に埃がついている。
額にも、床の跡が残っていた。
情けない姿だ。
でも、情けないだけじゃ済まない。
アタイはそれを見ないふりをした。
見たら、礼か怒鳴り声か、どちらかが出る。
今はどちらも要らない。
奥から肉の焼ける匂いが来た。
役人の一人が、それに釣られて腹を鳴らす。
もう一人が気まずそうに咳をした。
張青がすぐに湯を足す。
「ご無理をなさらず。道中はまだ長うございます」
「う、うむ」
さっきまで眠らされていたくせに、もう客の顔をしている。
人間の順応は早い。
嫌になるくらい早い。
現代の講義で聞いた環境適応という言葉が、こんなところで顔を出す。
人は場に慣れ、役割に入る。
客は客になり、店の者は店の者になり、罪人は罪人のまま卓につく。
そしてアタイは、主の顔を戻す。
戻せ――
戻さなきゃいけない。
「武松」
初めて、名を呼んだ。
店の空気が、少しだけ締まる。
武松は黙ってこちらを見る。
「今回は、アタイの負けだよォ」
張青が息を止めた。
奥の女中まで固まった気配がする。
言いたくない。
死ぬほど言いたくない。
でも、言わなきゃ勘定が合わない。
「蒙汗薬を見抜かれた。腕も取られた。店も荒らした。見誤ったのはアタイだ」
武松の目が、じっとこちらに留まる。
「それで?」
「だから、食わない。もてなす。飯を出す。道中の邪魔もしない」
「それだけか?」
「それだけだねェ」
アタイは笑った。
今度は、ちゃんと笑えた。
「ただし、次に来るなら客として来な。罪人のふりをして店を試すのは、趣味が悪いよォ」
役人二人がぎょっとした。
張青も目を閉じた。
武松はしばらく黙る。
そして、低く笑った。
「虎を食わぬ女か?」
「虎は食えないって、うちの者が言っただろォ」
「では、俺は何になる?」
「客だよォ」
アタイは言った。
「今だけはねェ」
武松の前に、焼いた肉が置かれた。
湯気が上がる。
武松はすぐには手を出さない。
「毒は?」
「入れてない」
「なぜ分かる」
アタイは皿から一切れ摘まんで、口へ放り込んだ。
熱い。
腹が立つほど熱い。
でも、飲み込む。
「これでいいかい?」
武松はアタイを見た。
それから、肉を取った。
手枷の鎖が鳴る。
肉が消える。
食べ方は静かだった。
だが、一口で分かった。
この男は、食う時も迷わない。
「悪くない」
武松が言った。
女中が奥で小さく息を吐く。
張青の肩も下がった。
アタイは卓に手を置く。
「そりゃどうも」
「孫二娘」
また名で呼ばれた。
さっきより、少し近さが違う。
でも、やっぱり腹は立つ。
「何だい」
「お前は、俺を食わなかった」
「今さら確認かい」
「次は分からぬな」
「次があればねェ」
武松は肉を飲み込み、静かに言った。
「縁があれば、また道は交わる」
「縁なんて物騒な言葉、ここで使うんじゃないよォ」
「物騒なのはお互いだ」
今度は、アタイが笑いそうになった。
本当に嫌な男だ。
怖い、強い、腹が立つ。
でも、もうただの敵ではない。
それがもっと腹立たしい。
役人たちが粥を啜り終える頃には、店の床は拭かれ、盃も片づき、倒れた椅子も戻っていた。
何もなかったような顔をしている。
何もなかったわけがないのに……
手首はまだ痛い。
裾を戻した感覚も残っている。
張青が最初に見た顔も忘れられない。
けれど、店は戻る。
戻さなければならない。
「張青」
「はい」
「役人方の包みを見な。足りないものがあれば足してやりな」
「承知しました」
「取り過ぎるんじゃないよォ」
「お嬢ではあるまいし」
「何だって?」
「何でもございません」
この男、あとで本当に蹴る。
武松が立ち上がった。
手枷の鎖が、また鳴る。
役人二人も慌てて腰を上げた。
「世話になった」
武松は短く言った。
礼というより、事実を置いただけの声だった。
「代は取るよォ」
「取れ」
張青が一歩前へ出て、頭を下げた。
「道中、お気をつけて」
武松は張青を見た。
「お前は、膝の使いどころを知っている」
張青は顔を伏せた。
「父に教わりました」
父――
その言い方に、胸の奥が少しだけ動いた。
孫元は張青の父じゃない。
でも、そう言った。
アタイは何も言わなかった。
武松が暖簾へ向かう。
その背中は、やはり罪人には見えなかった。
手枷をつけた虎。
役人に引かれているようで、道そのものを従えている男。
暖簾の前で、武松が止まった。
振り返らずに言う。
「孫二娘」
「まだ何かあるのかい?」
「次に俺へ薬を盛るなら」
武松は少しだけ首を動かした。
「もっと上手くやれ」
その瞬間、店の空気が凍った。
アタイは笑った。
笑うしかなかった。
「次があると思ってるのかい?」
武松は振り返った。
その目が、ほんの少しだけ笑っている。
「ある」
そう言って、武松は暖簾をくぐった。
外の光が揺れる。
手枷の鎖の音が遠ざかっていく。
役人の足音も続く。
張青が横に立った。
前でも、後ろでもない。
隣だ。
アタイは戸口を見たまま、静かに言った。
「張青」
「はい」
「あとで蹴る」
「承知しております」
「それと」
声が、少しだけ遅れた。
「……助かったよォ」
張青は何も言わなかった。
何も言わず、ただ隣にいた。
それがまた腹立たしい。
外で、武松の鎖の音が一度だけ止まった。
振り返ったのか。
聞こえたのか。
分からない。
けれど次の瞬間、店の前の道から、低い声が落ちた。
「また会う」
その声だけを残して、食えない虎は道の向こうへ消えていった。
孫二娘でございますよォ。
武松は十字坡を出ていった。
手枷をつけて、役人に連れられているはずなのに、最後まで罪人には見えなかった。
あれは、道を歩く虎だねェ。
飯を食わせ、湯も出し、床も拭いた。 そして、店は元に戻る。
でも、何も元通りじゃない。
手首の痛みは残っている。
張青に見られた顔も、まだ腹の奥に引っかかっている。
それでも、張青は隣に戻った。
前でもなく、後ろでもなく、父ちゃんが言った場所に。
腹が立つよォ。
腹が立つのに、助かったと言ってしまった。
その声が聞こえたのか、武松の鎖の音が外で止まった。
振り返ったのか?
笑ったのか?
分からない。
ただ、あの男は言った。
また会う――
嫌な予言だねェ。
十字坡の帳面に、武松の名が残った。
次にあの虎が暖簾をくぐる時、アタイは何を出すのかねェ。




