何人分食うんだよォ
孫二娘でございま〜す。
蒙汗薬で眠らせた大和尚を、姉ちゃんがわざわざ起こしてくれた。
そこまではいい。
問題は、起きた本人が全然よくなかったことだねェ。
禅杖は振り回す、卓は飛ばす、柱まで削る。
こっちは父ちゃんから店を継いだばっかりなんだよォ。
修繕費まで一緒に継いだ覚えはない。
しかも、この大和尚。
暴れるだけ暴れたくせに、なぜかそのまま居ついた。
……ねえ、坊さん。
一人で何人分食う気だい?
「今度は、わしの番でいいな?」
何の番なのか聞き返すより先に、大和尚が禅杖を持ち上げた。
さっき姉ちゃんに起こされたばかりとは思えない動きだった。
太い腕が振られ、長い鉄の塊が横へ走る。
アタイは反射で朴刀へ手をかけたけれど、狙われたのはこっちじゃない。
目の前の卓が吹っ飛んだ。
隣の卓へぶつかり、二つまとめてひっくり返る。
皿が割れ、女中が悲鳴を上げた。
「ちょっと待ちな! ここ父ちゃんの店!」
「わしを薬で眠らせた店だろうが!」
「店に罪はないだろォ!」
「薬を盛ったのは店の女ではないか!」
「アタイだよ!」
言ってから後悔した。
大和尚がこっちを見る。
「なら、お前が来い!」
「何で正直に名乗ったんだアタイ!」
「二娘! 今そこ反省するところかい!」
姉ちゃんが怒鳴った時には、大和尚がもう踏み込んでいた。
禅杖が横から来る。
アタイは朴刀を抜き、刃を返して受けた。
腕から肩まで、一度に痺れた。
梁牙とは違う。
技がどうとか以前に、一撃そのものが重すぎる。
足が土間を滑り、そのまま二歩押し戻された。
「坊さん、それ人に向ける重さじゃないだろォ!」
「禅杖とはこういうものだ!」
「坊主の説明として絶対おかしいよ!」
腕は痺れているけれど、折れてはいない。
なんとか受けられた。
そのことに少しだけ嬉しくなり、直後に自分で嫌になった。
何を成長確認してるんだよォ。
「二娘、刃を向けるんじゃないよ!」
姉ちゃんが横から怒鳴る。
「向こうが禅杖を振ってるだろォ!」
「だから殺し合いにするなって言ってるんだ!」
「アタイだけ難易度高くない!?」
大和尚が再び禅杖を振る。
今度は受けずに身体をひねった。
鉄の先が肩をかすめ、そのまま柱の横へ当たる。
ごっ、と嫌な音がした。
柱の表面が欠けている。
怖い。
でも、それ以上に腹が立った。
「坊さん」
「何だ!」
「人は殴ってもいいけど、店は壊すな!」
姉ちゃんがこっちを見る。
「二娘、それ順番が逆だよ」
「人は治ることもあるだろォ! 柱は勝手に治らないんだよ!」
「人だって勝手には治らないよ!」
父ちゃんが死んでから、屋根も戸も蔵も全部アタイの勘定になった。
壊れれば直すし、直すには銭がいる。
つまり、この坊主が禅杖を一度振るたびに修繕費が増える。
助教だった頃なら、危険を前にした身体の反応を闘争・逃走反応だとか学生へ説明していたかもしれない。
男子学生が妙に真剣な顔でアタイの講義を聞いていた頃には、まさか自分が本物の闘争反応を経験するとは思っていなかった。
今なら、もっと具体的に説明できる。
柱一本、いくらだ。
「おお!」
大和尚が禅杖を振り下ろした。
アタイは横へ逃がし、そのまま床を蹴って懐へ入る。
長い武器は近づけば扱いにくい。
父ちゃんに何度も教えられた。
朴刀の柄を脇腹へ入れようとした瞬間、大和尚の手が伸びてきた。
襟を掴まれる。
身体が浮いた。
「うわっ!」
足が床から離れている。
片手で持ち上げられていた。
元・妖艶なお姐さん助教が、酒臭い坊主に襟首を掴まれて宙吊りになっている。
人生、何が起きるか本当に分からないねェ……
「姉ちゃん!」
「何であたいに助け求めるんだよ!」
「姉だろォ!」
「都合のいい時だけ姉を使うな!」
文句を言いながら、姉ちゃんはすぐに動いた。
大和尚の横へ回り、足を払う。
ところが大和尚はアタイを持ったまま半歩ずれただけでかわした。
「お前もか!」
「妹を下ろしな!」
「こいつが先に薬を盛った!」
「それは知ってる!」
「なら止めろ!」
「薬を盛る前に来てたら止めたよ! 今はあんたを止めてるんだ!」
大和尚が姉ちゃんを見る。
「筋が通っておるな」
「そこで納得するの!?」
「二娘も見習いな!」
「アタイまだ吊られてるんだけどォ!」
大和尚の顔が近い。
ただし色気なんてものは欠片もない。
酒臭い……
ものすごく酒臭い……
「まだやるか?」
「まず下ろしてから聞きなよォ」
「逃げるだろう?」
「逃げないよ!」
「薬を盛る女の言葉を信じると思うか?」
正論で殴ってくるのやめてくれない?
アタイは襟を掴む手首へ両手をかけた。
力比べはするなと父ちゃんには言われている。
分かっているけれど、ここまで来たら少しくらい試したくなる。
腰をひねり、全身で引いた。
大和尚の腕が少し下がる。
「あ?」
足先が床へ触れた。
さらに体重をかけると、大和尚の身体が半歩だけこちらへ動いた。
たった半歩だった。
姉ちゃんの目が丸くなる。
大和尚まで驚いている。
「お前、力があるな!」
「褒めるなら下ろしな!」
「面白い!」
「その感想、さっきも聞いたよォ!」
ようやく手が離れた。
アタイは床へ着地し、すぐに朴刀を構え直す。
大和尚も禅杖を持ち直した。
まだやるつもりらしい。
「二人とも、いい加減にしな!」
姉ちゃんの一喝で、アタイも大和尚も止まった。
姉ちゃんは倒れた卓を指差した。
「これ、誰が直す?」
大和尚が卓を見る。
アタイも見る。
脚が一本、綺麗に折れていた。
「坊さんだろォ?」
「わしを眠らせたお前だろう?」
「薬と卓は別件だよ!」
「わしが起きねば、卓も飛ばなかった!」
「起こしたの姉ちゃん!」
「二娘!」
姉ちゃんが本気で睨んできた。
女中は奥で口を押さえている。
笑うな……
こっちは責任の所在を確認してるんだよォ?
「半分ずつだね」
姉ちゃんが決めた。
「何で!?」
「誰と誰だ?」
大和尚まで聞いている。
「あんたと二娘」
「姉ちゃん!?」
「わしもか!」
「壊した本人が何で驚くんだよ!」
大和尚はしばらく姉ちゃんの顔を見ていたが、突然、腹を抱えて笑い始めた。
笑い声が店中へ響く。
「気に入った!」
「何をだよォ!」
「お前らだ!」
「勝手に気に入るな!」
ようやく禅杖が下ろされた。
姉ちゃんはまだ警戒したまま訊いた。
「それで、あんた何者なんだい?」
大和尚は胸を張った。
「わしの名は魯智深。人は花和尚と呼ぶ!」
「花和尚?」
思わず全身を見る。
酒臭くて、でかくて、卓を吹き飛ばした坊主が得意そうに立っている。
「……花はどこ?」
「二娘!」
姉ちゃんが止めた時には遅かった。
「刺青だ!」
「そっち!?」
魯智深は鼻を鳴らした。
話を聞けば、しばらく決まった行き先がないらしい。
詳しく聞こうとすると「少し面倒があってな」と言う。
折れた卓と欠けた柱を見れば分かる。
この男の言う「少し」は信用しない方がいい。
結局、その日は酒と飯を出した。
翌朝もいた。
三日目の朝、アタイは帳面を見ながら本気で頭を抱えていた。
「張青」
「何だい、二娘お嬢?」
「坊さん一人って、一人分で計算していいのかねェ?」
張青は厨房の方を見る。
魯智深が朝飯を食べている。
すでに椀が三つ空になっていた。
「食費の話なら、やめた方がいいと思いますぜ」
「最初に見た時は何人分の肉になるか考えたんだよォ?」
「今は?」
「何人分食うのか考えてる」
張青は深く頷いた。
「逆になっちまってますぜ」
「綺麗にまとめるな!」
人は慣れる。
繰り返し刺激を受けても害がなければ、反応は少しずつ弱くなる。
心理学なら馴化と呼ぶ。
一日目、女中たちは魯智深が立つだけで道を空けていた。
二日目には普通に酒を運んだ。
三日目になると、
「和尚様、その米袋を奥へお願いできますか?」
なんて頼んでいた。
適応が早すぎる。
魯智深も頼まれれば運ぶ。
米袋を二つまとめて担ぎ、そのまま蔵へ入ろうとしたので、アタイが慌てて止めた。
「待ちな! 蔵は勝手に入るな!」
「運べと言ったではないか!」
「入口までだよォ!」
父ちゃん――
人間は環境に慣れるらしいけど、この店に来るヤツは、慣れる方向が絶対おかしいよ……
姉ちゃんは一度自分の家へ帰り、四日目にまた顔を出した。
暖簾をくぐったところで、魯智深が酒を飲んでいるのを見る。
「……まだいるの?」
「歓待されておる!」
「誰が歓待って言ったんだよォ?」
「四日も飯を出しておいて何を言う!」
それはそうだった……
姉ちゃんは呆れながら座り、持ってきた荷を置いた。
「ちょうどいい。あんた、行くところがないって言ってたね?」
魯智深が盃を止める。
「何かあるのか?」
「昨日、青州から来た商人と話したんだよ。遠いところの話だけどね」
青州――
十字坡から、ちょっとそこまでという距離じゃない。
魯智深は気にした様子もなかった。
「続けろ」
「二龍山って山があるらしい。宝珠寺って寺が山頂にあって、今は鄧龍って男が押さえてるそうだよ」
「坊主か?」
「まともな坊主じゃないって話さ」
魯智深の顔が変わった。
嫌な顔だ……
こういう顔をする男を、アタイは最近よく知っている。
何か面白そうな厄介ごとを見つけた顔だ。
「遠いよォ?」
「歩けば着く」
「そういう問題?」
「道は続いておる!」
「便利な理屈だねェ!」
五日目の朝、魯智深は本当に旅支度を始めた。
禅杖を背負い、戒刀を確かめる。
最初に来た時と同じ姿なのに、店の者はもう逃げない。
女中まで握り飯を渡している。
「食わせすぎじゃない?」
「道中長いですから」
「四日で完全に飼い慣らされてるよォ……」
「どちらがです?」
アタイは聞こえないフリをした。
店の前で、魯智深が振り返る。
「世話になった!」
「卓代、まだ半分残ってるからねェ?」
「細かい女だ!」
「店主だからねェ」
姉ちゃんが横から笑う。
張青は荷の紐を確認していた。
アタイは魯智深を見る。
青州まで遠い。
二龍山がどんなところかも、鄧龍がどんな男かも知らない。
でも、この和尚なら本当に何かやりそうな気がした。
「魯智深」
「何だ?」
「二龍山を取ったら、連絡くれよォ?」
魯智深が目を丸くした。
「取る前提か!」
「行く時の顔がそうだったからねェ?」
「取れなかったらどうする?」
「連絡はいらない」
「縁起でもない女だ!」
魯智深は大笑いした。
「よし! 取ったら知らせてやる!」
「十字坡の孫二娘宛てで頼むよォ?」
「母夜叉で届くだろう!」
「それで届くの嫌なんだけど!」
魯智深は笑いながら街道を歩いていった。
大きな背中が見えなくなるまで見送り、アタイは店へ戻った。
正直、本当に連絡が来るとは思っていなかった。
青州は遠い。
二龍山を取るなんて、もっと遠い話に聞こえた。
ところが――しばらくして。
周が一通の書状を持って、十字坡へ駆け込んできた。
「二娘」
「何だい?」
「青州からでございます」
差出人を見た。
花和尚、魯智深――
アタイはしばらく書状を見つめた。
「……あの坊さん、本当に寄越したよォ……」
孫大娘と孫二娘、二人合わせて孫姉妹で〜す!
「二娘、あの和尚、本当に二龍山へ行く気だね」
「歩けば着くって言ってたよォ?」
「間違ってないけど雑だね」
「姉ちゃんと気が合うんじゃない?」
「誰がだよ!」
姉ちゃんが呆れた顔で街道を見る。
「でも、連絡くれって言ったんだろ?」
「一応ねェ。取ったら、って条件つきで」
「取れなかったら?」
「連絡はいらない」
「縁起悪いな!」
少しして、周が青州からの書状を持ってきた。
姉ちゃんが差出人を覗き込む。
「花和尚、魯智深」
「……本当に寄越したよォ」
「で、開けないのかい?」
「今ちょっと怖いんだよねェ……」




