膝をつく男
孫二娘でございま〜す。
張青が膝をついた。
あの張青が、だよォ。
飯の数を数える方が早くて、余計なことばかり言って、父ちゃんに叱られてもどこか抜けた顔をしていた男が、アタイの前で膝をついた。
情けない?
そう見えるかもしれないねェ。
でも、あの場で張青が飛びかかっていたら、アタイの腕は折られていた。
店の者が動けば、血が流れていた。
役人が目を覚ませば、十字坡は終わっていた。
張青は、全部読んでいたんだろう。
アタイの怒りも。
店の危うさも。
相手が食えない男だということも。
父ちゃんは言った。
前に立つな。
後ろに隠すな。
隣に立て。
でも、隣に戻るために膝をつくなんて、アタイは聞いていないよォ。
母夜叉の店で、母夜叉が押さえ込まれている。
その前で、張青は命に替えてとは言わなかった。
死んで守るんじゃない。
生きて支える。
嫌になるくらい、父ちゃんの言いつけ通りだった。
眠らない男の前で、張青が頭を下げる。
その膝が、十字坡をまだ終わらせないよォ。
張青の膝が、床へ落ちた。
乾いた音だった。
アタイは一瞬、何を見たのか分からなかった。
張青が膝をついている。
あの張青が……
飯のことになると目の色を変えて、荷を運ぶより饅頭の数を先に数える男が……
父ちゃんに叱られても、どこか抜けた顔をしていた男が……
今、アタイの前で膝をついている。
「張青」
声が鋭くなった。
「勝手に何をしてるんだい」
張青は顔を上げない。
床に両手をつき、額はまだ落としていなかった。
けれど、もう十分だ。
男は、アタイの手首を押さえたまま張青を見ている。
「この店の者か?」
「はい」
張青は短く答えた。
「名は?」
「張青でございます」
「この女の何だ?」
その問いに、店の空気が止まった。
夫でもなく、恋人でもない。
主でもなく、父ちゃんの代わりでもない。
そんなことは、張青も分かっている。
分かっていなければ、父ちゃんの死んだ夜に追い出していた。
張青は床を見たまま答える。
「この店の者でございます」
男の目が細くなった。
「亭主ではないのか?」
「違います」
「ならば、なぜ膝をつく?」
「店の者が、客を見誤ったからでございます」
胸の奥がまた痛んだ。
見誤った――
さっき男に言われた言葉が、張青の口からも出た。
腹が立つ。
分かっていることを他人の口から聞くのは嫌だ。
しかも、張青から聞くのはもっと嫌だった。
「客だって?」
アタイは笑った。
「そいつは罪人だよォ。役人に連れられて来た。客じゃないって自分で言った男だ」
「お嬢」
「何だい?」
「今は、言い分を並べる時ではありません」
床に押さえられていなければ、蹴っていた。
たぶん本気で蹴っていた。
「アタイに説教する気かい?」
「違います」
張青の声は、いつもより硬かった。
「生き残る話をしております」
男の手に、ほんの少し力が入る。
アタイの手首が痛んだ。
でも、それより張青の言葉の方が刺さった。
生き残る――
父ちゃんが言っていた。
死んで守ったつもりになるな。
生きて支えろ。
あの夜の声が、床の底から戻ってくる。
「お前」
男が言った。
「この女の命乞いをするのか?」
「いたします」
張青は迷わなかった。
「ただし、命に替えてとは申しません」
男の眉が動く。
「ほう」
「私が死ねば、この店はさらに乱れます。役人方も目を覚まされましょう。外にも人がいます。ここで血を流せば、十字坡は騒ぎになります」
張青は、床へ置いた手を動かさない。
「この店は、お客様を見誤りました。その非はございます。ですが、ここで殺し合えば、そちら様にも余計な手間が増えます」
「罪人の身を案じるか?」
「道中の面倒を案じております」
こんな時に、よくそんなことが言える。
アタイは張青を睨んだ。
こいつは弱いから頭を下げているんじゃない。
数えている。
役人が起きるまでの間。
女中が動いた時の危うさ。
外へ漏れた時の騒ぎ。
床にこぼれた酒の言い訳。
それから、アタイの命。
全部を見て、膝をついている。
嫌な男だねェ。
父ちゃんが残した理由が、こういう時に分かるのが腹立たしい。
「店の者が見誤ったと言ったな」
男が言う。
「はい」
「薬を盛ったのは、この女だ」
「承知しております」
「俺がこの場で腕を折っても、文句はあるまい?」
「筋は通ります」
「張青!」
アタイの声が出た。
張青はようやく少しだけ顔を上げた。
目が合う。
その目は、謝っていなかった。
泣いているわけでも、焦っているわけでもない。
ただ、こっちを見ている。
お嬢、黙っていてくれ……
そう言っていた。
本当に腹が立つ。
でも、その目を見た瞬間、アタイは口を閉じた。
アタイが怒鳴れば、店が割れる。
女中が動き、男が腕を折り、役人が起きる。
分かってしまった……
分かってしまったから、なおさら腹が立つ。
「ただ」
張青は男へ視線を戻した。
「お嬢は、この店の主でございます。主を失えば、十字坡は荒れます。荒れれば、この道を通る者にも面倒が増えましょう」
「盗人宿が道を案じるか……」
「道が荒れれば、盗人宿も食えませぬ」
男が少し黙った。
アタイは床から男を見上げる。
近い……
まだ近い。
髪は頬に張りつき、襟元は直せない。
裾も戻しきれていない。
張青に見られた。
そう思った瞬間、顔が熱くなった。
嫌だ――
恥ずかしいわけじゃない。
いや、少しはそうかもしれない。
自分でも認めたくない感情が、後ろから足を引く。
心理学の講義なら、この手の反応に名前を付けるのかもしれない。
でも、ここで名前を付けたところで何になる。
目の前の男は動かない。
張青は膝をついている。
店は息を殺している。
それが全部だ。
「お前は、前に出ないのだな」
男が言った。
張青は答えるまで、ほんの一拍置いた。
「出れば、お嬢を盾にされます」
「後ろへ隠しもしない」
「隠せる相手ではございません」
「ならば」
男は言葉を切った。
「何をしている」
張青の額が、床へ近づいた。
「隣へ戻していただくために、頭を下げております」
息が止まった。
隣――
父ちゃんの声が、耳の奥で鳴る。
前に立つな。
後ろに隠すな。
隣に立て。
張青は今、隣にいない。
膝をついている。
なのに、これは隣へ戻すための土下座だ。
分かる。
分かってしまう。
嫌だねェ。
本当に嫌だ。
「お嬢をお放しください」
張青は続けた。
「役人方には醒ましを飲ませます。酒の件は、旅疲れに酔われたことにいたします。食事も出します。道中に差し支えぬよう、こちらで整えます」
「ずいぶん手慣れている」
「店でございますので」
「人を食う店が、もてなしを語るか」
「食う相手と、もてなす相手を見分けるのが店でございます」
男の口元が動いた。
今度は、確かに笑った。
「では、俺はどちらだ」
張青はそこで初めて顔を上げた。
そして、男をまっすぐ見た。
「食えぬ方でございます」
店の中で、誰かが小さく息を漏らした。
アタイは笑いそうになった。
笑える状況じゃない。
それでも、腹の底で何かが揺れた。
食えぬ方――
言い方が張青らしい。
男の手が、少し緩んだ。
ほんの少しだ。
けれど、血が指先へ戻ってくる。
「お嬢」
張青が言った。
「動かれませぬよう」
「命令するんじゃないよォ」
「お願いしております」
またそれか。
アタイは舌打ちした。
男はアタイを見た。
「よく吠える主だ」
「よく寝たふりをする罪人だねェ」
「まだ言うか」
「口まで押さえられてないからねェ」
男の目が近い。
怖いし、悔しい。
何より腹が立つ。
それでも、さっきより息ができる。
張青が膝をついてから、場の重さが少しだけ変わった。
負けている。
それは変わらない。
でも、店が死ぬ流れじゃなくなった。
「役人が起きます」
張青が低く言った。
卓に伏していた男の一人が、また呻いた。
女中が盃を片づけ、床を拭いている。
手が震えていた。
それでも動いている。
「醒ましを」
張青が命じると、女中が奥へ走った。
男は止めなかった。
「勝手に決めるな」
アタイが言うと、張青は短く返した。
「後で叱られます」
「今叱ってるんだよォ」
「後ほど、まとめて承ります」
この男――
本当に腹が立つ。
男が低く笑った。
「面白い店だ」
「面白がるなよォ」
「面白い女だ」
「そっちはもっと腹が立つねェ」
「名を聞いていなかったな」
男が言った。
アタイは目を細める。
「アタイは孫二娘だよォ」
「知っている。母夜叉」
「その呼び方は好きじゃないねェ」
「呼ばれて困る名ではあるまい」
困るかどうかではない。
それを言ったのは、父ちゃんじゃない。
周でも、張青でもない。
店の者でもない。
目の前の男だ。
アタイを床に押さえ、手首を掴み、襟を乱したまま、その名を呼ぶ。
そのせいで、呼び名の形が少し変わった気がした。
嫌だ――
やっぱり嫌だ。
「そっちは?」
アタイは訊いた。
「名を言いなよォ」
男はすぐには答えなかった。
さっき、役人が言いかけた。
武、と――
聞いていたのはアタイだ。
張青はその場にいなかった。
それでも、張青の顔がわずかに強張った。
「武……」
張青が低く呟く。
「孟州牢城へ送られる大男。手枷をつけてなお、この気配……」
張青はそこで、ようやく顔を上げた。
「景陽岡で虎を打った武松様でございますか?」
店の中から、ひゅっと息を飲む音がした。
武松――
その名は、十字坡にも届いていた。
景陽岡で虎を打ち殺した男。
十八碗の酒を飲み、山へ入り、素手で虎を伏せた男。
馬鹿みたいな話だと思っていた。
半分は嘘だと思っていた。
目の前で押さえつけられている今なら分かる。
嘘の方が、まだ優しい。
男は答えない。
答えないまま、アタイを見る。
沈黙が、名乗りの代わりになった。
「……なるほどねェ」
アタイは笑った。
「罪人の姿をした虎ってわけだ」
武松の手が、ようやく離れた。
一気に逃げたい衝動が来る。
でも、動かなかった。
ここで跳ねれば、また押さえられる。
それは分かる。
アタイはゆっくりと身体を起こした。
手首が痛い。
髪が邪魔だ。
襟を直そうとして、自分の指が少し震えていることに気づいた。
腹が立った。
震えるな……
震えるなら、後にしろ。
アタイは髪を払い、乱れた裾を戻した。
それから、床に落ちた鍵束を拾う。
父ちゃんの鍵は、まだそこにあった。
張青は膝をついたまま動かない。
「張青」
「はい」
「立ちな」
「まだでございます」
「主が言ってるんだよォ」
「この場が済むまで、立てませぬ」
武松が張青を見た。
「お前は、女の言うことを聞かぬのか」
「主の命には従います」
「ならば立て」
「それで場が乱れるなら、従えませぬ」
張青は静かに言い切った。
アタイは息を吐いた。
嫌な男だよォ。
主の命を聞かないくせに、主を守っている顔をする。
しかも、たぶん間違っていない。
女中が醒ましを持って戻ってきた。
張青が受け取り、武松へ視線で許しを請う。
武松は何も言わない。
張青は役人のそばへ進み、薬を飲ませた。
役人が咳き込み、目を開く。
「う……」
「旅疲れでお倒れになりました」
張青はさらりと言った。
「酒が強すぎたようでございます。すぐ湯もお持ちします」
役人はぼんやりした顔で周囲を見た。
アタイは椅子へ戻っていない。
武松は卓のそばに立っている。
女中は床を拭いている。
張青は膝の埃も払わず、役人を支えている。
危うい――
どこか一つ言い間違えれば、全部ダメになる。
もう一人の役人も呻いた。
その時、武松が口を開いた。
「騒ぐな」
役人二人の肩が跳ねた。
「先へ進む。飯を食わせろ」
その一言で、場が決まった。
役人は混乱したまま頷く。
女中が急いで奥へ下がる。
張青は深く頭を下げた。
アタイは武松を見た。
武松も、こちらを見ている。
「母夜叉」
「その呼び方、やっぱり腹が立つねェ」
「ならば、孫二娘」
初めて、名を呼ばれた。
ぞくりとした。
嫌な感じだ。
でも、嫌だけでは済まない。
「この店は」
武松は静かに言った。
「まだ俺を食う気か」
アタイは答えなかった。
答えなかったのではない。
答える前に、張青がまた額を床へつけた。
孫二娘でございますよォ。
武松――
その名を聞いた時、アタイはようやく分かった。
あれは罪人じゃない。
役人に引かれて歩いているだけの男でもない。
虎を討った男だ。
噂は聞いていたよォ。
景陽岡で虎を殺した大男。
十八碗の酒を飲んでも倒れなかった化け物。
そんな話、半分は尾ひれだと思っていた。
でもねェ……
十字坡の床に押さえられて、手首を掴まれて、息の距離まで詰められた後だと、噂の方がまだ優しかった。
髪はほどけ、襟ははだけ、裾は戻しきれない。
ただ押さえられただけ。
そう言えば、それまでだよォ。
けれど、張青が店に入ってきた時、アタイは何も言えなかった。
何を見たのか。
何を思ったのか。
聞くな、と思った。
今は聞くな、と……
母夜叉なんて呼ばれて、ずいぶん図太くなったつもりでいた。
客を見る目も、嘘を嗅ぐ鼻も、危ない相手を先に潰す度胸もあるつもりだった。
でも、武松は違った。
食えるか、食えないか。
それを決める前に、アタイの方が見られていた。
母夜叉、と呼ばれた時は腹が立った。
孫二娘、と呼ばれた時は、もっと嫌だった。
名で呼ぶな。
そんな近さで呼ぶな。
そう思ったのに、声にはならなかったよォ。
この店は、まだ俺を食う気か。
武松はそう訊いた。
答えなきゃいけないのは、アタイだった。
十字坡の主として。
父ちゃんの鍵を拾った女として。
母夜叉と呼ばれる者として。
なのに、答える前に張青がまた額を床へつけた。
あの男は、アタイの代わりに謝ったんじゃない。
アタイが答えるまでの間を、床に作ったんだろうねェ。
嫌な男だよォ。
でも、その間がなければ、アタイはきっと噛みついていた。
さて――
食えない虎を前に、十字坡の主はどう答えるのか。
次は、アタイの番だよォ。




