眠らない男
孫二娘でございま〜す。
蒙汗薬は効いたよォ。
役人二人は、ちゃんと眠った。
盃を空けて、卓へ突っ伏して、深い息をしている。
だから、薬が悪かったわけじゃない。
悪かったのは、相手だ。
倒れたはずの罪人。
眠ったはずの男。
もう動けないはずの獲物。
その目が開いた瞬間、アタイは分かった。
これは客じゃない。
罪人でもない。
十字坡で食える相手でもない。
眠ったふりをして、こちらを待っていた男だ。
父ちゃんに教わった外し方も、刃へ伸びる手も、噛みつこうとする意地も、全部先に潰される。
しかも、ここはアタイの店だ。
アタイの床だ。
アタイが主の十字坡だ。
その真ん中で、アタイは手首を押さえられる。
怖いのか?
悔しいのか?
それとも、もっと別の何かなのか?
そんなことを考えている場合じゃないねェ。
床に転がっていても、主は主だ。
押さえられていても、店を回す。
母夜叉のやり方が通じない男を前に、アタイはまだ十字坡の主でいられるのか?
眠らない男が、アタイを見下ろしているよォ。
手首を掴まれた瞬間、指先の感覚が消えた。
痛い、じゃない……
逃げ道を塞がれた……
そう分かった。
アタイは反射で腰を落とした。
掴まれた手を引かず、逆に押し込む。
父ちゃんに何度も叩き込まれた外し方だ。
手を取られたら、力比べをするな。
骨の向きを変えろ。
相手の肘へ入れ。
分かっている。
身体も覚えている。
なのに、外れなかった。
男は伏せていた姿勢から、もう起き上がっていた。
手枷の鎖が鳴る。
その音が、さっきまで眠っていたはずの男には似合わないほど澄んでいた。
「酒は飲んでないねェ」
アタイが笑うと、男は低く言った。
「床にくれてやった」
やっぱりか――
盃を傾けたように見せて、口へ入れていない。
役人二人は卓に突っ伏している。
蒙汗薬は効いた。
効かなかったのは、この男だけだ。
「うちの床は酒好きでねェ」
「客も食うのか?」
「客じゃないって言ったのは、そっちだろォ」
返した直後、腕を引かれた。
近い――
肩がぶつかりそうになる。
アタイは膝を入れた。
狙いは脛だ。
まともに当たれば、どんな大男でも足が止まる。
男は半歩ずれた。
避けた、というより、そこにいなかった。
足首を払われる。
床が斜めになった。
倒れる前に袖を掴む。
引きずり落とすつもりだった。
相手が大きいなら、下へ落とせばいい。
父ちゃんはそう言っていた。
だが、男は落ちない。
アタイだけが床へ叩きつけられた。
息が詰まる。
次の瞬間、腕が押さえられていた。
刃へ伸びる道も、立ち上がる間もない。
「二娘!」
奥で女中が叫んだ。
「来るな!」
アタイは怒鳴った。
男も店の奥を見た。
それだけで、女中の足が止まる。
声を荒げたわけじゃない。
刃を向けたわけでもない。
ただ、見た。
それで人が止まる。
嫌な男だ。
怖い、では足りない。
強い、とも違う。
相手の動く前の気配を、先に踏んでくる。
これは武芸か――
勘か――
それとも、獣の方の才能か――
アタイは空いた膝を跳ね上げ、腹を狙う。
男は体をずらし、膝は衣をかすめただけで流れた。
だったら噛む。
近いなら歯が届く。
綺麗に勝つ必要なんてない。
十字坡で生きるには、上品な負け方より汚い勝ち方だ。
顎を動かそうとしたところで、男の手が先に来た。
「獣か?」
「今さら気づいたのかい?」
言葉は出た。
けれど、顎は外せない。
腹が立つ。
ここはアタイの店だ。
父ちゃんの椅子を継いだ。
鍵束も帳面も、血の匂いも、客の嘘も、全部アタイのものだ。
その床の上で、アタイは動けない。
髪紐が切れ、ほどけた髪が頬へ落ちる。
襟がずれ、熱い息が喉元をかすめた。
近すぎる。
男の膝が逃げ道を塞いでいる。
手枷の鉄が腕の横で冷たく鳴った。
押さえられているだけだ。
それだけのはずだ。
なのに、店の音が遠くなる。
嫌だ――
怖い。
悔しい。
それだけなら分かる。
でも、身体が先に強張り、頭が遅れて理由を探している。
拒否反応か……
それとも、もっと始末の悪い何かか……
分からない。
分かりたくもない。
「暴れるな」
低い声が耳の近くへ落ちた。
命令されたことより、その距離に腹が立った。
「誰に言ってるんだい?」
笑ったつもりだった。
声は掠れた。
男の目が細くなる。
見透かすな。
そう思った瞬間、鍵束が床に当たった。
鈍い音だった。
父ちゃんの鍵だ。
アタイは奥歯を噛んだ。
「放しな」
「先に薬を盛ったのは、お前だ」
「客を見て決めたんだよォ」
「見誤ったな」
その一言で、胸の奥が痛んだ。
見誤った――
父ちゃんなら、どう言う。
できなきゃ死ぬ。
たぶん、それだけだ。
アタイは笑った。
「まだ死んでないよォ」
男の眉がわずかに動く。
今だ――
押さえられた腕じゃなく、肩を逃がす。
床に散った髪が頬へ張りついた。
裾が乱れ、膝が出るなんて構わない。
刃を抜ければいい。
指先が柄に触れた。
抜こうとした瞬間、手枷の鎖が落ちた。
鉄と鉄がぶつかり、刃は半分だけ鞘から出て、止まった。
「しつこい女だ」
「褒め言葉かい?」
「命知らずだ」
「それも、褒め言葉だねェ」
男の口元が少し動いた。
笑ったのかもしれない。
だったらなおさら腹が立つ。
アタイは肘をずらした。
腰を返す。
逃げる先を変える。
そのたびに、男は先に道を塞いだ。
力で潰しているんじゃない。
動く先を消している。
現代の講義で聞いた言葉が、場違いに浮かぶ。
学習性無力感。
冗談じゃない。
こんな床で学習してたまるか。
無力感なんて、あとで帳面にでも書いておけばいい。
今は、この男の重さをどける。
「奥の者」
男が言った。
女中の息が止まる。
「近寄れば、この女の腕を折る」
声は静かだった。
脅しじゃない。
ただ、これから起きることを告げただけ……
店の者たちは動けなくなった。
薬で眠った役人は卓に伏している。
盃が一つ転がり、こぼれた酒が床の傷へ染みた。
男の足元だけ、そこを避けるように乾いている。
「……あんた、何者だい」
アタイは訊いた。
男は答えない。
「名を言われるのが嫌なら、罪ぐらい言いなよォ」
「人を殺した」
「何人?」
「数える相手ではなかった」
ぞっとした。
山賊は殺した数を誇る。
役人は殺した理由を飾る。
恨みで刃を取った者は、相手の名を忘れない。
この男は違う。
済んだことを、済んだこととして置いている。
同類じゃない……
アタイは必要だから殺す。
この男は、必要になったら壊す。
そんな気がした。
「母夜叉」
男が言った。
その呼び名が、初めて刃みたいに聞こえた。
「俺をどうする?」
答えられなかった。
食う、と言えば殺される。
逃がす、と言えば店が負ける。
もてなす、と言うには、床に押さえられている格好が悪すぎる。
役人の一人が、小さく呻いた。
薬が浅くなっている。
まずい……
目を覚ませば、場が割れる。
罪人が店の主を押さえ、役人が眠らされている。
どう言い繕っても、綺麗にはならない。
アタイは息を整えた。
主だ――
床に転がっていても、主は主だ。
泣いても飯を出す。
押さえられていても、店を回す。
父ちゃんが聞いたら、笑うかねェ。
「女中」
アタイは奥へ声を投げた。
「役人の盃を片づけな。こぼれた酒は拭け。騒ぐんじゃないよォ」
女中は動けない。
男の目が、こちらを見たままだった。
「命じるか?」
「主だからねェ」
「その格好でか?」
「床にいようが、椅子にいようが、十字坡はアタイの店だよォ」
男の手に力が入る。
痛い――
でも、声は出さない。
女中が一歩出た。
男は止めなかった。
よし――
まだ全部は奪われていない。
アタイは男を睨んだ。
「腕を折るなら折りな。でも、折ったら帳面が書きにくい。勘定が合わなくなるよォ」
「命より帳面か?」
「命が残っても、勘定が狂えば店は死ぬ」
男は黙った。
その沈黙が、さっきまでと少し違う。
外で足音がした。
ひとつじゃない。
けれど、先頭の歩き方は分かる。
張青だ――
帰ってきた。
いつもなら、暖簾をくぐる前に間の抜けた声がする。
腹が減ったとか、饅頭が売れたとか、余計なことを言う。
今日は何も言わなかった。
暖簾が揺れる。
張青が店に入り、卓に伏した役人を見た。
次に、床の盃。
こぼれた酒。
動けずにいる女中。
半分抜けた刃。
切れた髪紐。
最後に、アタイを見た。
乱れた髪。
ずれた襟。
床に押さえられた手首。
そして、その上にいる大きな罪人。
張青の顔から、血の気が引いた。
「お嬢……」
その声は、途中で止まった。
男がゆっくりと張青を見る。
「この店の者か?」
張青は答えなかった。
答える前に、膝が床へ落ちた。
孫二娘でございますよォ。
張青が帰ってきた。
いつもなら、暖簾をくぐる前からうるさい男だ。
腹が減っただの、饅頭が売れただの、余計なことを言う。
でも、その日は何も言わなかった。
言えるはずがないよねェ。
店の中は荒れている。
役人は眠っている。
女中は動けない。
アタイは床に押さえられている。
しかも、髪は崩れ、襟も乱れている。
張青が何を思ったのかは、知らない。
けれど、あの男は飛びかからなかった。
怒鳴りもしなかった。
アタイを隠そうともしなかった。
ただ、見た。
見て、分かったんだと思う。
これは、力で取り返せる場面じゃない。
ここで間違えれば、十字坡ごと終わる。
父ちゃんは、張青に言った。
前に立つな。
後ろに隠すな。
隣に立て。
隣に立つって、横で刃を振ることだけじゃないんだねェ。
時には、膝をつくこともある。
アタイが怒っても、悔しがっても、それで命が残るなら膝をつく。
嫌な男だよォ。
でも、その嫌な判断をできるから、父ちゃんは張青を残したのかもしれない。
眠らない男の前で、張青の膝が床へ落ちた。
さて――
この十字坡を見誤った客に、誰が頭を下げるのか。
次は、張青の番だよォ。




