罪人の姿をした虎
孫二娘でございま〜す。
父ちゃんが死んでも、十字坡は潰れなかったよォ。
潰れないどころか、客は増えた。
山夜叉の娘が店を継いだ。
母夜叉が饅頭を出している。
そんな噂を聞いて、物好きどもが暖簾をくぐる。
笑える話だねェ。
けれど、店に入った時と出る時で、顔つきが変わる客もいる。
十字坡は、そういう場所だ。
アタイは父ちゃんの椅子に座り、帳面を開き、鍵束を腰に下げている。
張青は隣に立つ男になった。
周は渡しを見て、店の者たちはアタイの返事を待つ。
父ちゃんのいない十字坡は、もう父ちゃんの店じゃない。
アタイの店だ。
そんな日に、護送役人がやって来る。
連れていたのは、大きな罪人。
手枷をはめられているのに、捕らえられているように見えない男だった。
罪人なら、罪人らしくしていればいいものを……
その男は、店を見た。
人を見た。
出口を見た。
そして、アタイを見た。
食える客か。
食えない客か。
母夜叉の店に、罪人の姿をした虎が入ってくるよォ。
父ちゃんが死んでから、十字坡は一度も潰れなかった。
それどころか、客は増えた。
物好きはどこにでもいる。
山夜叉の娘が店を継いだと聞いて、顔を見に来る者がいた。
母夜叉が出す饅頭を食ってみたいと、笑いながら暖簾をくぐる者もいた。
そういう客ほど、帰り道では口数が減る。
理由は簡単だ。
アタイが笑っているからだよォ。
「二娘、南から荷が入りました」
店の若い者が、土間の端で声をかけた。
アタイは父ちゃんの椅子に座ったまま、帳面を閉じた。
「中身は」
「塩でございます」
「袋は開けたかい」
「まだでございます」
「じゃあ、周に見せてから蔵へ入れな。湿っている袋は奥へ回すんじゃないよォ」
「承知しました」
若い者は頭を下げ、すぐに動く。
昔なら、父ちゃんを見るところだった。
今は違う。
皆、アタイを見る。
最初は嫌だった。
今も、少し嫌だ。
でも、嫌だからといって椅子を空ければ、十字坡は食われる。
食うか、食われるか。
ひどい言い方だねェ。
けれど、この街道では、それが一番分かりやすい。
張青は朝から出ていた。
肉饅頭を売りに行ったのと、渡しの周へ話を通すためだ。
表の道で妙な客を見た者がいると聞いて、ついでに探ると言っていた。
「夕方までには戻る」
そう言って出た。
戻る時刻を口にするようになったのは、父ちゃんが死んでからだ。
前はふらりと出て、ふらりと帰ってきた。
今は違う。
隣に立つ男が、黙って消えるわけにはいかない。
本人も、たぶん分かっている。
「お嬢、今日は店が静かですね」
女中の一人が言った。
「静かな日は、だいたい後で面倒が来るよォ」
「縁起でもないことを」
「十字坡で縁起を気にしてどうするんだい」
女中は小さく笑った。
その笑い方も、昔とは違う。
父ちゃんがいた頃、店の者は父ちゃんの顔色を見ていた。
アタイが主になってからは、笑う時に少し息を抜くようになった。
良いことなのか、悪いことなのかは分からない。
ただ、店は回っている。
朝には仕込みをし、昼には客を入れ、夕方には道の様子を聞く。
怪しい者は泊めない。
使える者は使う。
使えない嘘は、笑って捨てる。
父ちゃんが死んだ夜、開けた戸は、そのまま閉じなかった。
「二娘」
表から周の声がした。
暖簾が揺れる。
周は店の中へ入るなり、いつもより少しだけ顔を硬くした。
「何だい」
「役人が来ます」
「役人?」
「護送の役人でございます。罪人を一人連れております」
土間の空気が少し変わった。
客の中には、役人を嫌う者もいる。
罪人を嫌う者もいる。
そのどちらにも近づきたい者もいる。
厄介ごとは、たいてい足音より先に匂いが来る。
「張青は」
「まだ戻っておりません」
「そう」
アタイは椅子から立った。
鍵束が腰で小さく鳴る。
父ちゃんが死んだ夜から、ずっと持っている。
寝る時も、遠くへ置かない。
言われた通りにしているのが少し悔しい。
「通しな」
「よろしいので」
「追い返した方が目立つよォ」
周は頷き、外へ出た。
しばらくして、三人の影が暖簾の向こうに立つ。
先に入ってきたのは、護送役の男二人だった。
疲れている。
腹も減っている。
目だけは、店の奥を落ち着きなく見ていた。
その後ろから、罪人が入ってきた。
大きな男だった。
手枷がある。
足取りは重くない。
顔には旅の疲れがあるのに、背は曲がっていない。
罪人は普通、店へ入る時に二つの顔をする。
諦めた顔か、媚びる顔だ。
この男は、どちらでもなかった。
ただ、立っている。
それだけなのに、店の中が少し狭くなった気がした。
何だろうねェ、これ。
威圧感、というやつかもしれない。
いや、そんな軽いものじゃない。
山の中で獣と目が合った時の、あの感じに近い。
「店の者」
護送役の一人が言った。
「飯を出せ。酒もだ」
「泊まりかい?」
「いや、休むだけだ。孟州牢城へ送る」
孟州牢城――
アタイは罪人の男を見る。
男も、こちらを見た。
目が合う。
その瞬間、胸の奥が少し冷えた。
罪人の目じゃない。
殺されるのを待つ目でも、逃げる隙を探す目でもない。
これは、見ている目だ。
店を、人を、出口を、アタイを……
全部、静かに測っている。
「罪人に酒を飲ませるのかい」
アタイが言うと、役人は鼻で笑った。
「こいつは逃げられん。手枷もある。腹が減って歩けぬ方が困る」
「へえ」
男は黙っている。
「名は」
「罪人に名など要らん」
役人が答えた。
アタイは笑った。
「名がないと、勘定につけにくいんだよォ」
「武……」
もう一人の役人が言いかけたところで、罪人の男がそちらを見た。
役人は口を閉じた。
今のは何だ。
名を隠したんじゃない。
言わせなかった。
それも、声ではなく目で。
この男は罪人か……
それとも、罪人の姿をしているだけか……
「まあいいさ……座りな」
アタイは女中に目で合図した。
役人二人はすぐ腰を下ろした。
罪人の男は、少し遅れて座る。
卓の下で、手枷の鎖がかすかに鳴った。
その音が嫌に澄んでいた。
「饅頭と酒だねェ」
「早くしろ」
「はいはい」
アタイは奥へ入る。
甕の蓋を開けると、酒の匂いが立った。
女中が饅頭を蒸籠から出す。
「二娘」
女中が声を潜めた。
「あの罪人、何者でしょう」
「知らないよォ」
「目つきが、恐ろしゅうございます」
「見るな」
「はい」
「役人に先に出しな。罪人には、少し熱いのを持っていく」
女中は頷いた。
アタイは饅頭の皿を受け取り、表へ戻る。
役人は饅頭を見るなり、すぐ手を伸ばした。
罪人の男は、しばらく皿を見ていた。
それから、一つ取る。
割った。
中の餡を見た。
匂いを嗅ぐ。
食わない。
役人の一人が笑った。
「どうした。毒でも入っていると思うか」
罪人の男は、饅頭を見たまま言った。
「これは、人の肉か」
店の中の音が消えた。
役人二人の手も止まる。
女中が息を飲む気配がした。
アタイは笑った。
「嫌だねェ。そんな物騒なことを言う客があるかい」
「客ではない。罪人だ」
「じゃあ、罪人の口には合わないかねェ」
男は顔を上げた。
「犬の肉でもなさそうだ」
言い方は静かだった。
からかっているのか、本気で言っているのか分からない。
ただ、その目は笑っていない。
アタイの中で、何かが切り替わった。
この男は、普通の罪人じゃない。
饅頭を疑う客はいる。
肉の正体を当てに来る物好きもいる。
だが、そういう連中は目が濁る。
怖いものを覗きたいだけだからだ。
この男は違う。
見えたものを、そのまま口にしている。
「天下泰平のこのご時世に、人の肉だの犬の肉だの、嫌なことを言うねェ」
アタイは卓に肘をついた。
「うちは牛だよォ。れっきとした牛肉さ」
役人がほっとしたように笑う。
「ほら見ろ。罪人のくせに、余計なことを言うからだ」
男は饅頭を少しだけ口へ運んだ。
食べた。
よく噛んでいる。
その動きにも隙がない。
食っているのに、見ている。
座っているのに、立っているように見える。
ああ、嫌だ。
これはダメなやつだ。
第一印象で関わるな案件……
でも、ここは十字坡だ。
関わらずに済ませる場所じゃない。
危ない客は、先に潰す。
父ちゃんの声が、どこかで鳴った気がした。
「酒は」
役人が盃を持ち上げた。
「すぐ出すよォ」
アタイは奥へ戻る。
普通の酒で済ませるか。
濁り酒を出すか。
迷う時間は短かった。
危ないなら、なおさら早い方がいい。
張青はいない。
周は外を見ている。
店の中で決めるのは、アタイだ。
奥の棚から小さな壺を取る。
蒙汗薬――
父ちゃんがいた頃から、場所は変えていない。
鍵のかかる場所には入れない。
すぐ使えない薬に意味はない。
壺の蓋を開ける。
指先が、ほんの少しだけ冷えた。
罪人に薬を使うことは、珍しくない。
役人ごと眠らせることもある。
後でどう処理するかは、相手次第だ。
けれど、あの男だけは違う。
眠らせて終わる気がしない。
嫌な予感、という言い方は便利だねェ。
説明できないものを、それで済ませられる。
でも本当は、身体が先に分かっている。
あれは危険だ。
アタイは濁り酒を用意した。
盃に注ぎ、薬を落とす。
酒の濁りに紛れて、白い筋はすぐ消えた。
「二娘」
女中が不安そうに見る。
「下がってな」
「でも」
「下がりな」
声を荒げたわけじゃない。
それでも女中はすぐに引いた。
アタイは盃を盆に載せる。
表へ戻ると、罪人の男はこちらを見ていた。
さっきと同じ目だ。
まるで、アタイが奥で何をしていたか、分かっているみたいに。
「濁っているねェ」
アタイは先に言った。
「いい酒じゃないが、身体は温まるよォ」
役人の一人が笑った。
「濁っている方が効く」
「何に?」
罪人の男が聞いた。
役人は笑い続ける。
アタイも笑った。
「旅の疲れに、決まってるだろォ」
男は盃を見た。
手枷の鎖が、少し鳴る。
その手が盃を取る。
重そうな手だ。
枷があるのに、動きが乱れない。
アタイは見ていた。
男が酒を口へ運ぶ。
傾ける。
飲んだように見えた。
役人二人も盃を空ける。
こちらは早い。
喉が鳴り、顔が緩む。
しばらくして、一人の役人の肩が傾いた。
もう一人が笑おうとして、卓に突っ伏す。
女中が奥で息を殺した。
罪人の男は、盃を置いた。
ゆっくりと……
そして、目を閉じる。
身体が前へ傾く。
卓へ伏せた。
店の中に沈黙が流れる。
効いた――
そう思った。
思ったはずなのに、足がすぐには動かなかった。
「二娘?」
奥から女中が呼ぶ。
「動くな」
アタイは小さく言った。
何かが変だ。
役人二人は薬に落ちた。
呼吸が深い。
腕にも力がない。
罪人の男は、同じように伏せている。
同じように見える。
けれど、同じじゃない。
何だ――
どこが違う。
アタイは卓へ近づいた。
一歩。
床板が鳴る。
男は動かない。
二歩。
手枷の鎖は卓の下で沈んでいる。
三歩。
アタイは腰の刃へ指をかけた。
倒れているなら、今だ。
重くても、動かせばいい。
駄目なら先に腱を切る。
そこまで考えた時、自分で少し嫌になった。
アタイ、ずいぶん十字坡に馴染んだねェ。
笑えない。
笑っている場合じゃない。
男のそばへ屈む。
顔が近い。
息はある。
深すぎない。
浅すぎない。
眠っている人間の息じゃない。
「……あんた」
声をかけた瞬間だった。
伏せていた男の目が、開いた。
まっすぐ、アタイを見ていた。
酔っていない。
眠っていない。
落ちていない。
盃の酒を、飲んでいない。
あ、これ――
ダメなやつだ。
男の手が動いた。
手枷の鎖が跳ねる。
アタイは刃を抜こうとした。
その前に、手首を掴まれた……
孫二娘でございますよォ。
十字坡のやり方は、決まっている。
客を見る。
嘘を見る。
荷を見る。
手を見る。
目を見る。
怪しければ笑う。
危なければ先に動く。
食える相手なら食う。
食えない相手なら、食われる前に潰す。
そうやって、アタイはこの店を回してきた。
父ちゃんの椅子に座ってから、何度も危ない客は来た。
山賊も、役人も、逃げた男も、金を隠した商人もいた。
けれど、蒙汗薬を前にして、眠ったふりをする男はいなかったよォ。
盃を傾けた。
倒れた。
息も乱さない。
目も閉じた。
それなのに、何かが違った。
アタイの身体は、先に分かっていたんだろうねェ。
近づくな、と……
でも、近づかなければ終わらせられない。
十字坡の主が、そこで引くわけにはいかない。
だから近づいた。
顔を覗き込んだ。
その瞬間、男の目が開いた。
酔っていない。
眠っていない。
落ちていない。
そして、アタイの手首が掴まれた。
母夜叉の店で、母夜叉の手が止められた。
ここから先は、十字坡のやり方だけでは済まないよォ。




