店を開けろ
孫二娘でございま〜す。
鍵束は、ただの鍵じゃなかったよォ。
父ちゃんでなければ開けられなかった場所。
父ちゃんでなければ触れなかった帳箱。
父ちゃんでなければ決められなかった十字坡の奥。
それを渡された瞬間、アタイはもう逃げられなくなった。
父ちゃんが呼んでいる。
行かなきゃいけない。
でも、足が動かない。
見たくないものを見ないために、身体が止まる。
拒否反応、というやつかもしれないねェ。
けれど、張青は隣に立っている。
前でも後ろでもなく、父ちゃんに言われた通りに。
アタイは鍵束を握って、奥の部屋へ入る。
父ちゃんの声を聞くために……
その声を、最後まで聞くために……
店を開けろ――
その言葉が、アタイを十字坡の主にする夜だよォ。
鍵束は、思ったより重かった。
張青の手から受け取った瞬間、鉄の冷たさが掌へ食い込む。
父ちゃんでなければ開けられなかった場所が、その中に詰まっている。
帳箱も、蔵も、奥の部屋も、全部だ。
鍵なんて、ただの道具だと思っていた。
開けるためのもの。
閉めるためのもの。
それだけのはずだった。
けれど今は違う。
これは、逃げ道を塞ぐ音だ。
「二娘様。急がれませ」
痩せた老人の声が、奥から届く。
張青が隣に立っていた。
前でも後ろでもない。
父ちゃんに言われた通り、隣だった。
「行け、お嬢」
「言われなくても行くよォ」
声は出た。
けれど、足はすぐに動かなかった。
拒否反応、という言葉が頭の奥に浮かぶ。
見たくないものを見ないために、身体が勝手に止まる。
大学の講義で聞いたような、聞かなかったような話だ。
こんな時に思い出すなよ。
自分に腹が立った。
アタイは鍵束を握り直し、奥の部屋へ入った。
灯りは一つだけだった。
父ちゃんは床に寝かされていた。
傷には新しい布が当てられている。
けれど、その布の下から、まだ赤いものが滲んでいた。
顔色は悪く、唇も乾いている。
それでも、目は開いていた。
さっきまで閉じていた目が、アタイを見ている。
「来たか」
声は細かった。
なのに、父ちゃんの声だった。
「来たよォ」
アタイは膝をつく。
痩せた老人が少し下がった。
張青は戸口の近くで止まる。
入ってこない。
父ちゃんの目が、アタイの手元へ落ちた。
「持ったな」
「……うん」
「落とすな」
「落とさないよォ」
「寝る時も、遠くへ置くな」
「分かった」
「帳箱は、気分で開けるな。開けたら書け。書けねぇ時は、開けるな」
こんな時まで帳面の話か。
そう思った。
でも、もう笑えなかった。
「蔵は、一人で入るな。周か張青を連れていけ」
「うん」
「裏の部屋は、客に見せるな」
「分かってるよォ」
父ちゃんの息が一度詰まった。
老人が身を乗り出す。
父ちゃんは、目だけでそれを止めた。
まだ喋る気だ。
この人は、死にかけても命令する。
「龐は」
「渡しで見張らせる。顔だけ確かめる。すぐには捕らえない」
父ちゃんの目が、かすかに細くなった。
それが、褒めたのか、足りないと言っているのか、分からない。
「梁牙で終わりじゃねぇ」
「分かってる」
「分かってねぇ」
父ちゃんは、すぐ言った。
胸が少しだけ痛む。
「道を売る奴がいる。話を運ぶ奴がいる。怪我を嗅ぎつける奴がいる。刃を持った奴だけが敵じゃねぇ」
「……うん」
「店は、外から見られている」
「うん」
「見られていると知って、開けろ」
それは、怖い言葉だった。
隠れろじゃない。
閉めろでもない。
開けろ。
見られていると知ったうえで、店を開けろと言っている。
「父ちゃん」
「何だ」
「今日だけは閉めたよォ」
父ちゃんの目が、少し動いた。
「知ってる」
「怒る?」
「怒る」
やっぱり――
喉の奥が変に熱くなった。
「でも、明日も閉めるなら殴る」
「怪我人が何言ってるんだい」
「怪我人でも、殴る時は殴る」
父ちゃんらしすぎて、胸が苦しくなった。
アタイは笑おうとした。
できなかった。
「明日は、開けろ」
「父ちゃんが起きたらねェ」
「俺が起きなくてもだ」
部屋の空気が、そこで止まった。
やめてくれ。
そう言いたかった。
でも、言ったら、この人は怒る。
「二娘」
「いるよォ」
「張青を使え」
戸口で、張青が息を飲む気配がした。
「前に立たせるな。後ろに隠すな。隣に置け」
「分かってる」
「本当に分かってるのか」
「しつこいねェ」
「しつこく言わねぇと、お前は聞かねぇ」
それは否定できなかった。
父ちゃんの指が、床の上で少し動く。
アタイはその手を握った。
冷たい。
でも、まだ力がある。
ほんのわずかに、アタイの指を押し返した。
「泣くなら」
「客の前で泣くな、だろォ」
「そうだ」
「聞き飽きたよォ」
「なら、覚えたな」
覚えた。
覚えてしまった。
嫌になるくらい。
父ちゃんは少し息を吐いた。
「母夜叉」
その呼び方に、アタイは顔を上げた。
「父ちゃんまで、それで呼ぶのかい」
「呼ばれたなら、使え」
「好きで呼ばれたわけじゃないよォ」
「好きか嫌いかで、名は選べねぇ」
「ひどい話だねェ」
「世の中は、だいたいひでぇ」
父ちゃんは目を細めた。
笑ったのかもしれない。
「山夜叉の娘で終わるな」
胸の奥が詰まる。
その言葉だけは、聞きたくなかった。
聞きたくないのに、欲しかった。
「父ちゃん……」
「孫二娘で立て」
アタイは唇を噛んだ。
涙はまだ出ない。
出たら終わる気がした。
「死なないでくれよォ」
ようやく、それだけ言えた。
父ちゃんは答えなかった。
しばらく、息の音だけがあった。
灯りが小さく揺れる。
布の匂いがする。
薬湯の苦い匂いもする。
外では誰かが足音を殺して動いている。
十字坡は、生きている。
父ちゃんだけが、遠くへ行こうとしている。
「二娘」
「いる」
「店を……開けろ」
「うん」
「閉めたままにするな」
「うん」
「客が来たら」
父ちゃんの声が、そこで細くなった。
続きを知っている。
飯を出す。
分かっている。
分かっているから、言わなくていい。
そう思ったのに、アタイは言ってしまった。
「飯を出すよォ」
父ちゃんの指が、ほんの少しだけ動いた。
「……よし」
それが最後の返事だった。
息が、一度止まる。
次が来ると思った。
待った。
胸が動くはずだった。
灯りが揺れた。
父ちゃんの手から、力が抜けた。
「父ちゃん?」
呼んだ。
返事はない。
「父ちゃん」
もう一度呼んだ。
老人が静かに近づく。
アタイは、その手を払いたくなった。
触るな。
まだ決まってない。
まだ息をする。
今、少し止まっただけだ。
そう思った。
思ったのに、老人は父ちゃんの鼻先へ指を近づけた。
長い沈黙のあと、老人は深く頭を下げた。
「元締めは……」
「言うな」
自分の声が低く出た。
老人は口を閉じた。
言わなくても分かる。
言われたら、壊れる。
アタイは父ちゃんの手を握ったまま、動けなかった。
悲しいのか、怖いのか、腹が立っているのか、分からない。
感情が一度に来すぎると、人は固まる。
これも何か名前があるのかもしれない。
でも、名前なんて要らなかった。
父ちゃんが死んだ……
その事実だけで、十分だった……
戸口で、張青が膝をついた音がした。
「親父さん」
それだけだった。
張青は泣かなかった。
泣けなかったのかもしれない。
周が来ると、店の者たちも静かに部屋の外へ集まった。
山へ出ていた者も、川を見ていた者も、誰も大声を出さない。
十字坡の夜は、静かだった。
静かすぎて、腹が立つくらいだった。
「お嬢」
張青が声をかける。
「今は、奥に」
「嫌だ」
「お嬢」
「店を見る」
張青が顔を上げた。
アタイは鍵束を握りしめた。
父ちゃんの手は、もう握り返さない。
だったら、アタイが何かを握っていないと、立てなかった。
「父ちゃんは、店を開けろって言った」
「今すぐじゃねぇ」
「夜が明けたらだよォ」
張青は少し黙った。
それから、頭を下げた。
「承知した」
その返事で、足が動いた。
アタイは立ち上がる。
膝が笑っていた。
身体の芯が抜けたみたいだった。
それでも、倒れなかった。
父ちゃんの横を通る時、もう一度だけ顔を見た。
眠っているようには見えなかった。
死んだ顔だった。
だから、余計に悔しかった。
奥の部屋を出ると、土間の灯りがまだ残っていた。
帳面は閉じられていない。
父ちゃんの椅子も、そのままだ。
アタイは椅子へ戻った。
座らなかった。
背もたれに触れる。
そこには、まだ父ちゃんの気配がある気がした。
「張青」
「おう」
「夜が明けたら、表を開ける」
「おう」
「梁牙の分は、店の分と混ぜない」
「分かってる」
「陶六は逃がさない。龐も見る」
「おう」
「父ちゃんのことは……」
言葉が詰まった。
父ちゃんのこと。
死んだ父ちゃんのことを、どう扱えばいいのか分からない。
帳面に書くのか。
布をかけるのか。
泣くのか。
叫ぶのか。
どれも違う気がした。
張青は、少しだけ声を落とした。
「親父さんは、親父さんとして送る」
「うん」
「店は、店として開ける」
「……うん」
それが、隣に立つということなのだろう。
慰めない。
代わりに決めない。
でも、倒れそうな場所には手を置く。
父ちゃんは、よく見ていた。
嫌になるくらい。
夜は長かった。
誰も眠らなかった。
奥の部屋では、父ちゃんの身体が整えられていく。
土間では、明日の支度が静かに進む。
表の戸の向こうで、風が鳴った。
アタイは鍵束を掌の中で鳴らした。
何度も――
音を確かめるみたいに。
夜明け前、空の端が白み始めた。
アタイは表の戸の前に立った。
張青が隣にいる。
周も少し離れて立っている。
店の者たちは、息を殺して見ていた。
掛け木に手をかける。
開けたくない。
開ければ、父ちゃんが死んだ後の十字坡が始まる。
閉めたままなら、まだ昨日の続きでいられる気がする。
そんなのは錯覚だ。
分かっている。
でも、人は錯覚にすがる。
現実逃避というやつだ。
今だけは、誰かにそう説明してほしかった。
アタイは息を吸った。
父ちゃんの声が耳の奥で鳴る。
店を、開けろ。
掛け木を外した。
木が軋む音が、十字坡に響いた。
朝の空気が入ってくる。
冷たい。
アタイは戸を開けた。
父ちゃんのいない十字坡が、そこにあった。
「開けるよォ」
声は震えなかった。
震えなかったことが、悔しかった。
その日から、十字坡の椅子は空かなかった。
そして数年後――
罪人の姿をした虎が、その戸をくぐる。
孫二娘でございますよォ。
父ちゃんは死んだ。
言葉にすると、それだけだった。
けれど、その一言で十字坡の中身が全部変わっちまった。
父ちゃんの椅子は空いている。
父ちゃんの手は、もう握り返さない。
父ちゃんの声は、もう返ってこない。
それでも、表の戸はそこにある。
泣くのか。
叫ぶのか。
奥へ籠もるのか。
どれも選べなかった。
選べたのは、店を開けることだけだったよォ。
張青は慰めなかった。
代わりに決めもしなかった。
ただ隣に立って、アタイが倒れないだけの場所を空けていた。
父ちゃんは、よく見ていたんだねェ。
夜が明けて、掛け木を外した時、声は震えなかった。
震えなかったことが、悔しかった。
その日から、十字坡の椅子は空かなかった。
そして数年後――
その戸を、罪人の姿をした虎がくぐることになるよォ。




