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夜を越せるか

孫二娘でございま〜す。

父ちゃんが倒れた。

黒松寨では、梁牙を斬っても手は止まらなかった。

けれど、父ちゃんの息が細くなった途端、アタイの足は動かなくなったよォ。

今夜を越せるかどうか……

そんなことを言われても、何をすればいいのか分からない。

父ちゃんの手を握って、ただ息が続くのを見ていたかった。

でも、十字坡は待ってくれない。

帳面が開かれ、梁牙の骸は裏へ運ばれていく。

捕らえた男が口を開けば、外から十字坡を見ていた者の影までちらついてくる。

父ちゃんのそばへ戻りたい。

戻りたいのに、皆がアタイの返事を待っている。

母夜叉と呼ばれた女が、初めて父ちゃんの椅子に座る夜だよォ。

夜は、まだ来ていなかった。

それなのに、十字坡の中はもう暗かった。

「今夜を越せるかどうかでございます」

痩せた老人がそう言った時、アタイは父ちゃんの顔を見ていた。

目は閉じている。

息はある。

胸が、ほんの少しだけ上下している。

けれど、さっきまでアタイを睨んでいた目は、今は開かない。

「どうすればいいんだい?」

自分の声が、ひどく掠れていた。

老人は薬箱を開け、床へ膝をつく。

「傷を洗い、血を止めます。熱が上がれば、湯を替え、布を替える。あとは……」

「あとは?」

老人は答えなかった。

その沈黙が、一番嫌だった。

「お嬢……」

張青が横から声をかける。

「外へ出ろ」

「嫌だよォ」

「ここにいても、親父さんの息は増えねぇ」

「張青……」

「邪魔になる」

胸の奥で、何かが跳ねた。

怒りか、恐怖か、よく分からない。

「アタイが邪魔だって言うのかい?」

張青は逃げなかった。

「今はな」

老人が父ちゃんの布を切り、傷へ水をかける。

父ちゃんの眉が、かすかに動いた。

アタイは反射的に身を乗り出す。

張青が肩を掴んだ。

「離しな」

「離さねぇ」

「張青!」

「親父さんに言われただろ。聞けと」

言葉が刺さる。

十字坡の主は二娘だ。

さっき父ちゃんが、皆の前で言った。

聞かなかったことにはできない。

でも、受け入れたくもない。

これは何だろう。

拒否反応、というやつかもしれない。

頭では分かっているのに、身体が動かない。

アタイは父ちゃんの手を、もう一度だけ握った。

冷たかった……

「すぐ戻るよォ……」

何も返ってこない……

奥の部屋を出ると、店の空気が違っていた。

誰も大声を出していない。

卓はどかされ、床には水桶と布が並ぶ。

表の戸は閉められているのに、人の気配だけは濃い。

梁牙の骸は裏へ運ばれていた。

黒松寨から持ち帰ったものは、土間の端へ寄せられている。

俵の口は縛られ、銭袋には手がつけられていない。

使える刃物だけが、折れたものと離して置かれていた。

柱には、捕らえた男が縛られている。

あの男は、こちらを見るなり顔を伏せた。

「お嬢」

周が近づいてくる。

「黒松寨から運んだものは、元締めのお言いつけ通り分けております。俵は土間の奥へ積み、銭袋は封を切らずに置きました。刃物は、使えるものだけ内へ入れております」

「折れた刃は?」

「外へ」

「いい……後で父ちゃんの帳面へ書く」

「すでに、張青殿が」

周が目を向ける。

張青が帳面を抱えていた。

父ちゃんの帳面だ。

黒い表紙で、角は擦り切れている。

父ちゃんが帳場につく時、いつも手元に置いていたもの。

「お嬢」

「何だい?」

「座れ」

「命令かい?」

「頼みだ」

張青は帳面を差し出した。

「今、書かなきゃ混ざる」

嫌だった。

父ちゃんの部屋へ戻りたい。

息を見ていたい。

手を握っていたい。

けれど、土間の俵も、銭袋も、梁牙の骸も、捕虜も、全員がアタイの返事を待っている。

母夜叉――

誰かがそう呼んだ。

その名はどうでもいい。

でも、返事をしない女を、十字坡の者は主とは呼ばない。

アタイは奥を一度だけ見た。

戸は閉まっている。

「椅子を出しな」

自分で言ってから、胸が詰まった。

父ちゃんの椅子が運ばれてくる。

背もたれの低い、古い椅子だ。

座面の端には刃物の傷がある。

昔、怒った客の小刀を父ちゃんが叩き落とした時についた傷だと、周から聞いた。

そこへ座る。

高くもない椅子なのに、足元が遠くなった。

「書くよォ」

張青が筆を取ろうとする。

「アタイが書く」

「手が震えてる」

「震えてても字は書ける」

張青は黙って筆を渡した。

まず、黒松寨から運んだ俵の数を書く。

銭袋は封を切らず、張青に重さを確かめさせる。

刃物は一本ずつ手に取らせ、使えるものだけを残した。

欠けた刃を炭焼きの兄が外へ運んでいく。

字が少し歪む。

父ちゃんなら、きっと眉を動かす。

「逃がした者は?」

アタイが聞くと、炭焼きの兄が前へ出た。

「覚えている者を呼びます」

「名は?」

「多くは名乗っておりません」

「なら、顔を思い出させな。喋り方でも、歩き方でもいい。次に戻ってきた時、分からないじゃ済まないよォ」

炭焼きの兄は頷き、何人かを連れてきた。

一人ずつ言わせる。

誰の目の下に傷があったか?

誰が足を引きずっていたか?

どの男が南の訛りで喚いていたか?

逃げた時、どちらの斜面へ下りたか?

帳面の上で、顔のない連中に少しずつ形がついていく。

書いているうちに、手の震えが少し収まっていた。

嫌なことに、父ちゃんの言った通りだった。

数え始めると、怖さが少し遠ざかる。

人を数字にするのは、よくないことだと思っていた。

でも今は、その数字が十字坡を守っている。

「捕虜を前へ」

柱の男が引きずられてくる。

顔色が悪い。

「名前」

「……陶六」

「梁牙の手下かい」

「下働きに近い者でございます」

「嘘なら舌を切るよォ」

陶六は震えた。

「嘘ではございません。荷を運び、道を調べる役でございました」

道を調べる役。

アタイは筆を止める。

「誰が十字坡への道を教えた」

陶六の喉が動く。

「淮西筋の商人でございます」

「名は」

「龐という男で……薬と塩を扱う者です」

薬と塩。

十字坡を通る商いに、どちらも関わる。

「その龐は、梁牙に何を売った」

「道の話。宿場の話。孫元殿が怪我をしているという噂も……」

部屋の空気が変わった。

張青の手が刀へ伸びる。

「待ちな」

アタイは止めた。

陶六は青ざめて床へ額をつける。

「私は聞いただけでございます!」

「誰から噂が出た」

「分かりませぬ。ただ、十字坡の出入りを見る者がいたと」

まただ――

漏れたんじゃない。

見られていた。

父ちゃんが動けない。

アタイが帳面を持つ。

張青が店にいる。

周が渡しを固める。

そういう毎日が、外から少しずつ拾われていた。

アタイは息を吐いた。

「龐はどこにいる」

「月に二度、南から来ます。次は……三日か四日のうちに」

「周」

「はい」

「渡しで止めな。まだ捕らえるな。顔だけ確かめる」

「承知しました」

「張青」

「おう」

「お前は陶六から淮西筋の道を聞け。どの道で来たか、どの村で泊まったか、飯をどこで食ったか」

「飯もか」

「お前なら分かるだろォ」

張青が一瞬だけ眉を上げた。

「……分かるかもしれねぇ」

こういうところで本当に役に立つから腹が立つ。

アタイは帳面の端へ陶六の名を書いた。

殺さない。

まだ聞くことがある。

見張りを外すな。

父ちゃんが言った通り、使える。

使えると思ってしまった自分に、少し吐き気がした。

でも、筆は止めない。

「梁牙は」

裏から亭主の一人が来た。

「始末の支度は整いました」

その声は低い。

アタイは頷く。

「いつもの分と混ぜるな。梁牙は梁牙で書く。黒松寨分だ」

「承知しました」

「肉は今日の客には出すな」

亭主が顔を上げた。

「よろしいので?」

「噂が立つのが早すぎる。乾かせる分は乾かしな。饅頭に回す分は明日以降。今夜は店を開けない」

そう言うと、土間の全員が一瞬止まった。

十字坡が店を閉める。

父ちゃんがいたら、何と言うだろう。

客は来る。

腹を空かせて来る。

主は、泣いても飯を出す。

その言葉が頭を叩く。

でも、今夜は違う。

「今夜は父ちゃんを生かす夜だよォ」

誰も反論しなかった。

張青だけが、少しだけ目を細めた。

「親父さんなら怒るぞ」

「明日怒られるなら、安いもんだねェ」

「そりゃそうだ」

張青は小さく笑った。

本当に小さな笑いだった。

外が暮れ始め、灯りが一つ、二つと点る。

表の戸には掛け木が下ろされた。

いつもなら客を迎える匂いが広がる時刻なのに、今日は薬湯と血と湿った布の匂いがする。

アタイは帳面を書き続けた。

黒松寨から運んだ分は、いつもの店の分とは別にする。

逃げた者の顔つきは、覚えている者に言わせながら書き足した。

陶六の名には、まだ消さない印をつける。

梁牙の欄を書き終えたところで、筆の先が一度止まった。

最後に、龐という商人の名を残す。

淮西筋から十字坡へ伸びてきた糸の端が、帳面の上に黒く引かれたように見えた。

書けば書くほど、父ちゃんの椅子が重くなる。

途中で、奥の戸が少し開いた。

全員の視線がそちらへ向く。

痩せた老人が顔を出した。

「湯を」

「持っていく」

アタイは立ち上がろうとした。

老人が首を振る。

「手の空いた者で足ります」

「アタイが行く」

「今はお待ちくだされ」

その言い方で、足が止まった。

待つ――

嫌な言葉だ。

何もできない者にだけ許される、ひどい命令だと思った。

張青が湯を持って奥へ入る。

戸が閉まる。

また、アタイだけが外に残された。

「お嬢」

周が低く声をかける。

「渡しへ人を置きました。龐らしき者が来れば、知らせます」

「分かった」

「表の道も見張らせます」

「頼むよォ」

周は去らない。

「何だい?」

「元締めは、二娘様なら座れるとお思いだったのでしょう」

「様はいらない」

「では、二娘殿」

「それも変だねェ……」

周は少し困った顔をした。

「ならば、二娘」

「それでいいよォ」

「元締めは、二娘なら座れるとお思いだったのでしょう」

アタイは帳面を見下ろした。

座れているのか。

ただ落ちないように椅子へしがみついているだけじゃないのか。

「分からないねェ」

「分からぬままでも、先ほどから皆が動いております」

周はそれだけ言い、表へ戻った。

夜が来た。

十字坡の外で虫が鳴いている。

川の音が低く続いている。

アタイは帳面を閉じなかった。

閉じたら、奥の部屋へ走ってしまいそうだった。

張青が戻ってきたのは、夜半近くだった。

顔に血の色がない。

「張青」

椅子から立つ。

足がしびれていた。

「父ちゃんは?」

張青はすぐに答えなかった。

その沈黙だけで、身体が冷える。

「言いなよォ」

張青は唇を結び、アタイの隣まで来た。

父ちゃんに言われた通り、前でも後ろでもない。

隣に立った。

「親父さんが、目を覚ました」

息が戻る。

でも、張青の顔は明るくない。

「呼んでる」

「なら行く」

一歩踏み出す。

張青が低く言った。

「お嬢」

振り返ると、張青の手には父ちゃんの古い鍵束が握られていた。

父ちゃんでなければ開けられなかった場所が、その音の中にいくつも詰まっている。

帳箱も、蔵も、奥の部屋も、全部だ。

「親父さんが、これを渡せって」

灯りの下で、鉄の鍵が鈍く光った。

「……何で、今?」

声が出たのか、自分でも分からなかった。

奥の部屋から、老人の声がした。

「二娘様。急がれませ」

張青の隣で、鍵束が小さく鳴った。

孫二娘でございますよォ。

父ちゃんは、主は泣いても飯を出すと言った。

けれど、この夜だけは店を閉めた。

客を入れない。

今夜は父ちゃんを生かす夜にする。

父ちゃんが起きていたら、きっと怒っただろうねェ。

それでも、アタイは閉めると決めた。

父ちゃんに教わったことを守るために、父ちゃんに逆らう。

変な話だよォ。

でも、主になるっていうのは、言われた通りにすることだけじゃないのかもしれない。

今、何を止めて、何を守るかを決める。

そう思ったところへ、張青が戻ってきた。

父ちゃんが目を覚ました。

そう聞いて息が戻ったのに、張青の手には鍵束があった。

父ちゃんでなければ開けられなかった場所の鍵。

それを渡された瞬間、アタイはようやく気付いたよォ。

これは、ただの鍵じゃない。

十字坡を開けるのも、閉めるのも、お前が決めろという音だった。

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