俺が死んだら
孫二娘でございま〜す。
黒松寨は潰したし、梁牙も倒した。
だから勝った――と言いたいところなんだけどねェ。
父ちゃんが、その場で倒れた。
人を斬る時は手が止まらなかったのに、父ちゃんの血を見た途端、何をすればいいのか分からなくなったよォ。
それでも黒松寨の後始末は残ってる。 米も銭も武器もあるし、降った連中もいる。
……こういう時くらい、全部放り出して娘でいさせてくれないかねェ。
ところが周たちは、もうアタイの指示を待っている。
父ちゃん――
「俺に何かあったら、二娘に従え」って――
こんなところで効かせなくてもいいだろォ?
父ちゃんの血は、黒松寨の土へすぐには吸われなかった。
朝の光の下で赤いまま広がり、倒れた身体の下からアタイたちの足元まで流れてくる。
さっきまで梁牙の血を見ても手は止まらず、首を掴まれても怖いとは思わなかった。
斬れば終わり、殺せば進める。
それが分かっていたのに、父ちゃんが倒れた途端、身体の動かし方が分からなくなった。
「父ちゃん?」
自分の声が、やけに遠く聞こえる。
後ろでは武器を捨てた黒松寨の男たちが息を呑み、その中から「母夜叉……」という囁きまで聞こえてきた。
うるさい。
今はそんな渾名、どうでもいい。
そう言いたいのに喉が動かず、膝をついたアタイより先に姉ちゃんが父ちゃんの身体を抱き起こした。
「二娘、ぼさっとするな! 肩を持って!」
「……う、うん」
返事をしたつもりなのに、ちゃんと声になったか分からない。
父ちゃんの身体を支えると、思っていた以上に重かった。
さっきまで自分の足で歩き、梁牙の大刀まで受け止めていた人間と同じ身体には思えない。
「親父さん!」
張青も駆け寄り、脇腹を見るなり顔色を変えた。
「大娘お嬢、そのまま支えてろ。二娘お嬢は傷を押さえろ!」
言われて、ようやく手が動く。
脇腹へ巻かれた布は真っ赤に濡れていた。
ほどこうとした指を張青が止め、自分の袖を引き裂いて丸める。
「外すな、上から押さえろ!」
「分かってるよォ!」
分かっていなかった。
でも、そう言わないと本当に何もできなくなりそうだった。
姉ちゃんが父ちゃんの顔を覗き込む。
「父ちゃん、聞こえる?」
返事はない。
「聞こえてるなら怒鳴りなよ。あたいらが勝手なことしてるぞ」
それでも目は閉じたままだった。
痛いのか、苦しいのか、それとも怒っているのか。
いつもの不機嫌そうな顔と似ているせいで、余計に分からない。
怖い――
人を殺すより、ずっと怖い。
これがパニックというものかもしれない。
頭のどこかに昔の講義で使った言葉が浮かぶけれど、名前をつけたところで指の震えは止まらなかった。
張青がアタイの肩を掴む。
「二娘お嬢、俺を見ろ」
顔を上げると、いつもの少し頼りない男が目の前にいる。
「親父さんはまだ息がある。だから運ぶ。泣くのは後だ」
「泣いてないよォ」
「そうか……なら動けるな」
ずるい言い方だ。
でも、効いた。
「周!」
今度はアタイが叫んだ。
「戸板を外して担架を作りな! 舟子も手伝って!」
「承知しました!」
周と舟子が走り、姉ちゃんは父ちゃんを支えたままアタイを見る。
「二娘、こっちは任せな。まだ終わってないだろ?」
その言葉で、ようやく黒松寨の中が目に入った。
武器を捨てた男たちは広場の端へ集まり、炭焼き兄弟が見張っている。
梁牙の骸は倉の裏に転がったままで、寨には米も銭も武器も残っていた。
父ちゃんが倒れたからといって、全部を放り出すわけにはいかない。
そう判断できた自分に、少しぞっとする。
娘のアタイは父ちゃんのそばから一歩も離れたくないのに、もう一人のアタイは黒松寨の後始末を考えている。
「降った奴らは一か所へ座らせな。縛らなくていいけど、手は頭の上だよォ」
炭焼きの兄が頷いた。
「逃げた場合は?」
「斬る」
自分の声が震えているかどうかは、もう気にしなかった。
周が外した戸板を持って戻ってくる。
「寨はどうなさいます?」
「燃やさない。煙を見て人が寄ってくるのは面倒だからねェ。柵を壊して水甕を割り、戻ってきても籠もれないようにしな。米と銭は運べる分だけ、武器は余ったら使えないようにしておく」
周は一度だけ父ちゃんを見ると、すぐにアタイへ視線を戻した。
迷いはない。
「承知しました」
その返事が、父ちゃんではなくアタイへ向けられた。
胸の奥が冷える。
父ちゃんが前に言った。
俺に何かあったら、二娘に従え。
あの時は縁起でもないと思っただけだったのに、こんな形で効いてほしくなかった。
「母夜叉……」
また誰かが呟いた。
本当にうるさいねェ。
張青が倉の裏を見た。
「梁牙は?」
「さっき言った通りだよォ。縄をかけて、十字坡へ運びな」
それだけで降った男たちがざわめいた。
誰も、その先を聞こうとはしない。
梁牙が十字坡へ運ばれたあと、何になるのか知っているらしい。
さっきまで頭目だった男の骸を見る目から、敬意も恐怖も消えていく。
ただ、自分たちまで同じ目に遭うのではないかという怯えだけが残っていた。
「武器を捨てた奴は山を下りな。戻ってきたら、次は斬るよォ」
一人が恐る恐る立ち上がった。
アタイが何も言わないでいると、二人、三人と続き、やがて残った男たちは武器を置いたまま門へ向かった。
「本当に……行っていいのか?」
最後の一人が振り返る。
「帰りたいなら帰りな。ここに残りたいなら止めないけど、梁牙と一緒に運ぶことになるよォ」
男はものすごい勢いで山を下りていった。
姉ちゃんがこっちを見る。
「二娘」
「何だよォ?」
「今のは効いたね」
「脅してないよォ?」
「それが一番怖いんだよ」
失礼な。
……いや、否定できないのが嫌だった。
父ちゃんが見ていたら何と言っただろう。
甘いと言うかもしれないし、詰めが遅いと怒るかもしれない。
いや、たぶん何も言わない。
アタイがどうするかを見て、それで終わりだ。
戸板へ父ちゃんを乗せる時、姉ちゃんが片側を支えた。
「ゆっくりだよ。張青、そっち上げすぎ」
「分かってる、大娘お嬢」
「分かってる奴は父ちゃんの傷口を揺らさない」
「今のは石だ!」
「石に言い訳しな!」
こんな時まで姉ちゃんは姉ちゃんだった。
張青も負けずに言い返している。
少しだけ、息ができた。
周と舟子が父ちゃんの戸板を担ぎ、姉ちゃんと張青が左右につく。
炭焼き兄弟は運べる米と武器を背負い、梁牙の骸には縄を掛けた。
「それ、どうやって持って帰るの?」
「引いていくしかねぇだろ」
張青が答える。
「商品なんだけどォ!」
「だったら二娘お嬢が担ぐか?」
「……引いていきな」
結局、炭焼き兄弟には米を少し置かせ、代わりに梁牙の縄を持たせた。
山を下り始めると、登ってきた時より道がずっと長く感じる。
担架が揺れるたび、父ちゃんの眉がわずかに動く。
「痛いなら怒りなよォ」
返事はない。
「いつもみたいに、遅いとか甘いとか言えばいいじゃないか」
やっぱり何もない。
姉ちゃんが反対側から父ちゃんの手を握る。
「父ちゃん、あたいもいるよ。二娘だけに任せたら十字坡がとんでもないことになるから、早く起きな」
「姉ちゃん、それ今言う?」
「返事させようとしてるんだよ」
「悪口で?」
「一番効くだろ?」
父ちゃんの指は動かなかった。
張青まで黙っている。
粥の話をしない張青は、少し怖い。
枯れ沢まで下りたところで、周が振り返った。
「休ませますか?」
「駄目だ」
張青がすぐに答える。
「店まで運ぶ」
「お前、妙に詳しいねェ」
「昔、刺された奴を運んだことがある」
「助かったのかい?」
張青は答えない。
聞くんじゃなかった。
十字坡が見えた時、店の前には宿場の亭主たちや荷運びの女、馬貸しまで集まっていた。
最初に梁牙の骸を見て顔を強張らせ、次に担架の父ちゃんを見た途端、全員の表情が変わる。
「元締め!」
「奥へ運びな!」
アタイの声で人が動いた。
卓がどかされ、寝台へ布が敷かれる。
姉ちゃんが先に奥へ入り、父ちゃんを寝かせる場所を空けた。
昨日までなら、父ちゃんの部屋へ入るだけで背筋を伸ばしていた。
帳面も、古い刀も、椅子もそのままある。
なのに今は、血の匂いしか感じない。
張青が水を持ってこさせ、周は傷を診られる者を呼びに走った。
舟子が火を起こし、姉ちゃんは父ちゃんの身体を押さえながら濡れた布を切る。
粥の話も冗談も出ない。
それが、いちばん嫌だ。
「二娘」
「何?」
姉ちゃんが傷を見たまま呼ぶ。
前から開いていたところが、さらに裂けている。
胃の奥が縮む。
「大丈夫なのかい?」
誰に聞いたのか、自分でも分からない。
張青は答えなかった。
「大丈夫かって聞いてるんだよォ」
「分からねぇ。俺は医者じゃねぇ」
「じゃあ医者を――」
「周がもう行った!」
怒鳴り返されて、口が止まる。
分かっている。
張青へ怒っても父ちゃんの血は戻らない。
それでも何かに腹を立てていないと、立っていられない。
外では梁牙をどこへ置くのか、持ち帰った米や銭を誰が数えるのかという、いつもの十字坡の仕事が進んでいるのに、今日は全部、遠く聞こえる。
今朝までアタイは十字坡を守るために人を殺していたのに、今なら店も帳面も肉も全部放り出していいから父ちゃんを助けてほしいと思う。
母夜叉だなんて、誰が言った。
アタイは父ちゃんの手を握った。
しばらくして、そのまぶたがわずかに動く。
「父ちゃん」
濁った目が天井を見てから、ゆっくりアタイへ下りてきた。
「……戻ったか?」
掠れた声だった。
「戻ったよォ。黒松寨も潰した。梁牙も持ってきたし、米と銭と武器も取った」
「降った者は?」
「武器を置かせて追い払った。戻れば斬るって言ってある」
「寨は?」
「水甕を割らせて、柵も壊したよォ。もう籠もれない」
父ちゃんの目が少し細くなる。
褒めるのかと思った。
「帳面は?」
「今それかい!」
姉ちゃんまで顔を上げる。
「父ちゃん、死にかけてまで帳面!?」
「混ぜるな……梁牙の分は分けろ。武器、銭、米……人もだ」
「人も?」
「店へ入れば、勘定だ」
倒れても十字坡の親父だ。
こんな時なのに、少し笑いそうになる。
「後で書くよォ」
「今、聞け」
「父ちゃん」
「二娘……」
指がわずかに動き、アタイの手を掴む。
「張青を呼べ」
「いるよォ」
「大娘も……そこにいろ」
姉ちゃんの顔から笑いが消えた。
張青が寝台のそばへ膝をつく。
「親父さん」
「聞け」
「はい」
父ちゃんは息を吸った。
胸が苦しそうに上下する。
もう喋るなと言いたかった。
けれど、その目だけはいつもの父ちゃんだった。
「俺が死んだら――」
孫大娘と孫二娘、二人合わせて孫姉妹で〜す!
「二娘、父ちゃん最後に何て言った?」
「『俺が死んだら――』」
「そこで切るの?」
「アタイに聞くなよォ!」
姉ちゃんが腕を組んだ。
「しかも死にかけてるのに帳面の心配してたね」
「武器、銭、米、人まで分けろってさ」
「父ちゃんらしいけど、今じゃないだろ」
「本当にそれだよォ」
少し黙ると、姉ちゃんがこっちを見る。
「で、母夜叉。次どうする?」
「その呼び方やめな」
「姉夜叉としては従った方がいい?」
「もう定着させる気満々じゃないか!」
奥の部屋から、父ちゃんの咳が聞こえた。
二人とも、同時に振り返る。
「……続き、まだ聞いてないんだよねェ」




