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俺が死んだら

孫二娘でございま〜す。

父ちゃんが目を覚ました。

それだけなら、少しは安心してもよさそうなものだけれどねェ。

口を開いた父ちゃんは、まず黒松寨の始末を聞き、帳面の話を始めた。

傷口から血を流しているくせに、米だの銭だの人だの、そんなことばかり気にしている。

まったく、倒れても父ちゃんは父ちゃんだよォ。

けれど、その次に出てきた言葉は、笑って流せるものじゃなかった。

俺が死んだら――

聞きたくない……

けれど、聞かなきゃいけない。

十字坡のこと。

張青のこと。

周や舟子たちのこと。

そして、アタイが何を背負うのか。

母夜叉なんて呼ばれたばかりのアタイには、まだ早すぎる話だったよォ。

「俺が死んだら――」

その言葉だけで、部屋の空気が止まった。

火の爆ぜる音も、外で梁牙の骸を運ぶ足音も、急に遠くなる。

アタイは父ちゃんの手を握ったまま、息を吸うのを忘れていた。

「やめなよォ」

声が出た。

思ったより低い声だった。

「まだ死ぬと決まったわけじゃないだろ」

父ちゃんはアタイを見た。

熱のせいか、目の奥が濁っている。

それでも、逸らせない目だった。

「決まってからでは遅い」

「今する話じゃない」

「今しかできねぇ話だ」

張青が膝をついたまま、唇を噛んでいる。

あの張青が、何も言わない。

それが、嫌だった。

「二娘」

「聞きたくないよォ」

「聞け」

父ちゃんの指が、ほんの少しだけ強くなった。

弱い……

こんなに弱い力で掴まれているのに、振りほどけなかった。

「俺が死んだら、十字坡はお前が持て」

喉の奥が詰まった。

「嫌だ」

「返事じゃねぇ」

「嫌だって言ってるだろォ」

「店は嫌で済まねぇ」

父ちゃんの息が荒くなる。

張青が身を乗り出した。

「親父さん、喋るのは」

父ちゃんの目だけが張青へ向く。

張青は黙った。

父ちゃんの目には余計な言葉を止める力があった。

それは、いつもと変わらないらしい。

「張青」

「はい」

「二娘の前に立つな」

張青の顔が強張る。

「前に、でございますか」

「そうだ」

父ちゃんは短く息を吸った。

「主みてぇな顔をするな。代わりに決めるな。お前の店にするな」

「そんなことは」

「言う前から分かってる。だから今言う」

張青は口を閉じた。

父ちゃんは続ける。

「後ろにも立つな」

「後ろにも、ですか」

「守っているつもりで隠すな。二娘を子供扱いするな。刃が来たら並んで受けろ」

張青の喉が鳴った。

「隣に立て」

その言葉だけ、部屋の中に重く落ちた。

隣――

夫でもない。

主人でもない。

父ちゃんの代わりでもない。

ただ、隣……

張青は額を床へつけた。

「承知しました」

「死ぬなよ」

張青が顔を上げる。

「命に替えても、お嬢を」

「違う」

父ちゃんの声が、少しだけ鋭くなった。

「死んで守ったつもりになるな。生きて支えろ。死んだら飯の種にもならねぇ」

こんな時に、そういう言い方をする。

張青は一瞬だけ目を伏せ、それから深く頷いた。

「生きて、支えます」

父ちゃんは今度はアタイを見る。

「二娘」

「何だい」

「張青を使え」

「物みたいに言うねェ」

「人を使えねぇ者は、人に潰される」

言い返せなかった。

「周も、舟子も、炭焼きも、亭主どもも同じだ。情で抱えすぎるな。だが、恩を忘れるな」

「難しいこと言うねェ」

「簡単な店なら、とっくに潰れてる」

父ちゃんの息が乱れる。

アタイは水を含ませた布を口元へ近づけた。

父ちゃんは少しだけ唇を濡らし、すぐ顔を背けた。

「帳面を見ろ」

また帳面か。

そう思ったのが顔に出たらしい。

父ちゃんの眉が動いた。

「不満か」

「今は傷を見る方が先だろォ」

「傷は張青が押さえてる。お前は聞け」

張青が何か言いたげにしたが、やっぱり黙った。

「米は腐る。銭は逃げる。人は裏切る。だが、帳面は残る」

「帳面が裏切らないとは限らないよォ」

「書く奴が腐ればな」

父ちゃんらしい返しだった。

少しだけ、いつもの部屋に戻った気がした。

でも、父ちゃんの顔色は戻らない。

「梁牙の分は分けろ。黒松寨から取った米、銭、武器。死んだ者。逃がした者。全部だ」

「逃がした者まで?」

「顔を覚えている者に聞いて書かせろ。戻ってきた時、分からねぇでは済まねぇ」

「面倒だねェ」

「面倒なものが店だ」

外で、梁牙の骸を置く音がした。

ごとり、と低い音。

父ちゃんの目がそちらへ動く。

「梁牙は」

「裏へ運ばせた。まだ始末はしてない」

「急がせろ」

「父ちゃん」

「肉は待たねぇ」

その言葉に、アタイは奥歯を噛んだ。

父ちゃんは死にかけている。

それなのに、梁牙の肉の心配をしている。

冷たいんじゃない。

たぶん、それが父ちゃんの生き方だった。

生きている者は使う。

死んだ者も使う。

店に入ったものは、全部、店を回すものになる。

「嫌な店だねェ」

「そういう店だ」

「知ってるよォ」

「なら忘れるな」

父ちゃんの手が、少し汗ばんでいる。

熱が上がってきたのかもしれない。

傷を診られる者はまだ来ない。

来たところで、何ができるのかも分からない。

不安が胸の奥へ溜まる。

これも不安反応というのかもしれない。

身体は逃げたいのに、逃げる先がない。

だから怒る。

だから喋る。

だから、父ちゃんの手を握り続ける。

名前をつけたら少し楽になるかと思った。

ならなかった。

「二娘」

「何だい」

「客を選べ」

父ちゃんの声がさらに掠れた。

「泊める客、泊めねぇ客、食わせる客、食う客、迷うな」

「全部を見分けろって?」

「見分けられねぇ時は、張青に嗅がせろ」

張青が顔を上げた。

「俺は犬ですか」

「飯の匂いで道を見つける奴は、犬より使える」

こんな時に、張青の口元が少しだけ歪んだ。

笑いかけて、すぐ消える。

「お嬢、聞いたか」

「聞いたよォ。腹で役に立てってさ」

「鼻だ」

「大して変わらないねェ」

父ちゃんが、ほんのわずかに息を吐いた。

笑った。

今度は、そう見えた。

その瞬間だけ、部屋に少し空気が戻った。

けれど、すぐに父ちゃんの顔が歪む。

張青が傷口を押さえる布を替えた。

赤が、また広がる。

「親父さん、もう」

「まだだ」

父ちゃんは低く言った。

「周を呼べ」

「周は傷を診られる者を」

「戻ったら聞かせろ。今は、お前らが聞け」

アタイは頷くしかなかった。

「捕らえた男は」

「柱へ縛ったまま」

「殺すな」

「いいのかい」

「使える」

「梁牙の残りを探らせる?」

「それもある。淮西筋の話も聞け。誰が梁牙に道を教えたか、誰が買ったか、誰が逃げたか」

父ちゃんの目が細くなる。

「黒松寨を潰して終わりと思うな。人が動けば、金も動く。金が動けば、名前が残る」

「つまり、まだ後始末があるんだねェ」

「山ほどある」

本当に嫌な話だった。

梁牙を斬れば終わると思っていた。

黒松寨を潰せば、十字坡は守れると思っていた。

違う――

斬った後の方が長い。

死体より、帳面の方が残る。

この現実感が、じわじわ腹に落ちてくる。

「父ちゃん」

「何だ」

「アタイにできると思ってるのかい」

父ちゃんはすぐには答えなかった。

熱のある目で、アタイを見る。

「できなきゃ死ぬ」

「そういう励まし方しかできないのかい」

「励ましてねぇ」

「知ってるよォ」

少しだけ、声が震えた。

父ちゃんの指が動く。

「お前は梁牙を斬った」

「だから何だい」

「斬れるなら、次は数えろ」

「何を」

「銭、米、人、恨み、恩。全部だ」

胸の奥で、何かが沈んだ。

重い――

でも、逃げられない重さだった。

「数え間違えたら?」

「店が傾く」

「ひどいねェ」

「だから帳面をつける」

父ちゃんは本当に、最後まで帳面の話をするつもりらしい。

「二娘」

「聞いてるよォ」

「泣くなら、客の前で泣くな」

「泣いてない」

「ならいい」

「よくないよォ」

「主は、泣いても飯を出す」

それは、やけに残酷な言葉だった。

でも、十字坡の本当の姿でもあった。

客は来る。

腹を空かせて来る。

こちらの都合など知らずに、戸を叩く。

父ちゃんが死んでも、店は開く。

米を炊く。

肉を刻む。

帳面をつける。

そんな未来が、一瞬見えた。

見たくなかった。

「父ちゃん」

「何だ」

「死なないでくれよォ」

ようやく言えた。

怒鳴りでも、命令でもない。

ただの願いだった。

父ちゃんはアタイを見た。

長い沈黙のあと、掠れた声が落ちる。

「それは、俺が決めることじゃねぇ」

腹が立った。

ものすごく腹が立った。

でも、父ちゃんらしすぎて、何も言えなかった。

その時、表が騒がしくなった。

周の声がする。

「道を開けろ! 診られる者を連れてきた!」

張青が立ち上がりかける。

父ちゃんの手が、アタイの手を引いた。

弱い力なのに、止まった。

「まだ、終わってねぇ」

「何が」

父ちゃんの目が、張青へ動き、それからアタイへ戻る。

「俺が死んだら」

また、その言葉。

今度は遮れなかった。

「十字坡の主は二娘だ」

周の隣には、痩せた老人が立っていた。

薬箱を抱えている。

その後ろで、店の者たちが息を殺している。

全員が聞いていた。

父ちゃんは続けた。

「張青は隣に立て。周は渡しを押さえろ。舟子は川を見る。炭焼きは山を見る。亭主どもは口を閉じろ」

誰も返事をしなかった。

いや、できなかった。

「返事は」

父ちゃんの声が低くなる。

張青が最初に頭を下げた。

「承知しました」

周が続く。

「承知しました」

戸口の向こうで、いくつもの声が重なった。

「承知しました」

アタイだけが言えなかった。

父ちゃんがこちらを見る。

「二娘」

「……嫌だ」

「返事をしろ」

「嫌だよォ」

「二娘」

父ちゃんの指が震える。

アタイは喉の奥を無理やり動かした。

「承知……したよォ」

その瞬間、父ちゃんの手から力が抜けた。

「父ちゃん?」

老人が慌てて近づき、父ちゃんの脈を取る。

張青がアタイを下がらせようとした。

「離しな!」

「お嬢!」

「父ちゃん!」

老人の顔が硬くなる。

部屋の外で、誰かが息を殺した。

老人は傷口を見て、血で濡れた布をめくり、低く言った。

「今夜を越せるかどうかでございます」

父ちゃんの目は、もう閉じていた。

孫二娘でございますよォ。

父ちゃんは、アタイ一人にだけ話していたわけじゃなかった。

張青を呼び、周を呼び、店の者たちに聞かせる。

十字坡の主は二娘だ。

その一言で、逃げ道はなくなった。

嫌だと言っても、聞きたくないと言っても、父ちゃんは許してくれなかった。

返事をしろ、と言われれば、返事をするしかない。

それが父ちゃんの娘で、十字坡の跡目というものらしいねェ。

張青には、前でも後ろでもなく、隣に立てと言った。

夫でも、主でも、父ちゃんの代わりでもない。

けれど、アタイ一人では背負いきれないものを、一緒に見ろということなのかもしれない。

敵を斬るだけなら、刃があれば足りる。

でも、店を持つには、人の返事まで要る。

承知しました、という声が重なった時、十字坡はもう父ちゃんだけの場所ではなくなっていた。

アタイが最後に承知した途端、父ちゃんの手から力が抜けた。

今夜を越せるかどうか――

そんな言葉を聞かされても、まだアタイは、父ちゃんが明日もいつもの椅子に座っている気がしてならないよォ。

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