母夜叉
孫二娘でございま〜す。
黒松寨から来た連中は、昨日まとめて片づけた。
これで少しくらい休めると思うだろォ?
アタイもそう思ったよ。
ところが父ちゃんは、脇腹から血を滲ませたまま朴刀を持って、
「夜明けに出る」
だってさ。
しかも行き先は黒松寨。
怪我人を寝かせる方法を心理学で習った記憶はないんだけどねェ。
仕方ない。
向こうから三十二人も寄越してくれたんだから――
今度はアタイたちがお邪魔するとしようかィ。
人を殺すのは、もう怖くなかった。
父ちゃんが血を滲ませたまま歩いている方が、よほど怖い。
夜明け前、十字坡の表には父ちゃんとアタイ、大娘、張青、それから渡しの周と舟子、炭焼き兄弟が揃っていた。
宿場の亭主たちには店を任せ、昨日捕らえた黒松寨の男は柱へ縛ったままにしてある。
父ちゃんの脇腹には新しい布が巻かれているが、白かったはずの布にはもう赤いものが滲み始めていた。
それでも本人は、いつもの朴刀を持って何事もなかったように立っている。
「歩けるのかい?」
「歩いてる」
「そういう意味じゃないよォ」
「同じだ」
「同じじゃないよ、父ちゃん。倒れたら担いで帰るの、あたいたちなんだからね」
大娘まで加勢したが、父ちゃんは聞こえなかった顔をして歩き出す。
朝からこれだ。
昨日、自分で「前には出ねえ」と言った男とは思えない。
張青が十二人から剥いだ黒い布を持ってきて、全員へ一本ずつ配った。
周は受け取った布を嫌そうにつまみ、腕へ巻く前に何度か裏返している。
「これを巻いて近づくんですか?」
「ああ、寨の連中に化ける必要はねえ」
父ちゃんも一本を腕へ巻いた。
背丈も得物も違うのだから、近くで見れば別人だと分かる。
ただ、夜明け前の薄暗い山道で黒い布だけが先に目へ入れば、見張りは一息くらい迷うだろう。
その一息を、父ちゃんは買うつもりらしい。
「二娘お嬢、俺のだけ少し短くねぇか?」
張青が腕へ巻いた布を引っ張った。
「腕が太いんじゃないかい?」
「親父さんのは余ってるぞ」
「比べるところが違うだろォ」
「二娘、張青の腕より父ちゃんの腹を見てな」
「姉ちゃん、それ本人の前で言う?」
父ちゃんが振り返った。
「置いていくぞ」
「怪我人が一番先に行くなって言ってるんだよォ!」
張青が慌てて布を結び、大娘は呆れた顔のまま父ちゃんを追う。
こういう時でも、全員いつも通りだった。
昨日だけで黒松寨は三十二人を十字坡周辺へ出している。
その大半が戻らなかった以上、寨に残っている人数はそう多くないはずだった。
立て直す時間を与える前に叩くなら、今しかない。
問題は、こちらも無傷ではないことだ。
黒松寨は枯れ沢からさらに山へ入った尾根の上にあり、淮西筋から流れてきた梁牙の一党が十字坡近くへ築いた新しい巣だった。
斜面には丸太が並び、正面には高い柵が立っているうえ、裏手は崖に近い。
まともに攻めれば一本道を上がるしかなく、梁牙もそう思っているはずだった。
尾根の手前まで来ると、父ちゃんが足を止める。
「周、舟子を連れて表へ回れ。大娘、お前も来い」
「あたいは父ちゃんの見張り?」
「誰が見張られるか」
「昨日、前には出ないって言った人」
「俺は指図するだけだ」
大娘が正面の柵を見る。
「父ちゃん……あれのどこが後ろなの?」
「うるせえ」
やっぱり信用できない。
父ちゃんは今度はアタイへ顔を向けた。
「二娘、張青と炭焼きを連れて裏へ回れ」
「裏って崖だろォ?」
「水場は北だ」
「黒松寨へ入ったことがあるのかい?」
「ねえ」
「じゃあ道があるか分からないじゃないか」
「水と薪を運ばずに、人は山へ籠もれねぇ。表を塞げば、裏の道を使う奴が出る。それを見つけろ」
「見つけた後は?」
「中へ入れ」
「その後は?」
父ちゃんは一度だけアタイを見た。
「自分で決めろ」
それだけ言うと、大娘たちを連れて正面へ向かった。
また、それだ……
細かく教えず、何を斬れとも誰を残せとも言わない。
失敗すれば死ぬような場所で、父ちゃんは急にその先をアタイへ放り投げてくる。
以前なら腹を立てていたかもしれないのに、今は何を見ればいいのかを先に考えている自分がいて、そのことに気づくと別の意味で腹が立った。
「……教育方針が雑すぎるんだよォ」
「何か言ったか?」
「父ちゃんの悪口」
「聞こえてるぞ!」
元気じゃないか。
アタイは張青と炭焼き兄弟を連れて斜面を横へ進んだ。
黒い松が密集して朝の光を遮り、湿った土からは太い根が何本も浮き上がっている。
崖へ近づくほど道らしいものは消えたが、炭焼きの兄が落ち葉を掻き分けて地面へ触れた。
「薪を引いた跡がございます」
薄い轍が斜面を上へ続いている。
「やっぱりあるねェ」
「されど、かなり急でございます」
「正面から柵へ突っ込むよりはましさ」
その時、張青が鼻を動かした。
「飯の匂いがする」
「今それかい?」
「違ぇよ。上からだ」
立ち止まって息を吸うと、湿った土と松ヤニの匂いに、焦げた粟の匂いが混じっている。
張青は轍を外れ、岩の脇へ顔を突っ込んだ。
「こっちだ」
「腹で道を見つけたねェ」
「鼻だ!」
「大して変わらないよォ」
岩陰には人一人が通れる窪みがあり、上から灰や野菜屑が落ちている。
どうやら炊事場からごみを捨てるための道らしい。
四人で身を低くして岩の間を登ると、やがて木の柵が見えてきた。
正面ほど高くはなく、脇には小さな戸があるものの、内側から閂が掛かっている。
戸の向こうで桶が鳴った。
張青が刀へ手を掛けたので、アタイは腕を掴んで止める。
少し待つ。
やがて戸が開き、眠そうな男が灰桶を抱えて出てきた。
腕には昨日見たものと同じ黒い布が巻かれている。
男はアタイたちを見ると、最初に腕の布へ目を向け、それから顔を見た。
迷った。
その一瞬で十分だった。
張青が後ろから口を塞ぎ、アタイは男の懐へ入って胸へ刃を滑らせた。
力が抜けた身体を二人で受け止め、音を立てないよう地面へ下ろす。
血は温かい。
喉の奥で、空気が漏れるような音がした。
それでも身体は止まらなかった。
怖くない。
戸の内側から別の声がした。
「遅いぞ」
顔を出した二人目の首へ炭焼きの弟が腕を回し、兄の短刀が腹へ入った。
男は声を出すこともできずに崩れた。
二人――
そう数えかけて、やめる。
今日は十二まで数えれば終わる仕事じゃない。
炊事場には大鍋が三つ並び、粟粥の湯気が天井の梁へ溜まっていた。
飯をよそっていた下働きの老人と若い女が壁際で固まっているが、どちらも武器は持っていない。
「そこへ伏せてな。立たなきゃ斬らないよォ」
二人はほとんど同時に床へ這いつくばった。
その横で張青が鍋を覗き込む。
「食っていいか?」
「黒松寨を片づけてからにしな」
「冷めるぞ」
「命と粥、どっちが大事だい?」
張青は本気で考え始めた。
放っておくことにした。
炊事場の先には寨の内側へ出る細い通路があり、その向こうから怒鳴り声が聞こえている。
見張りの多くは正面へ集まったらしい。
父ちゃんたちが、わざと姿を見せたのだろう。
「古道の者どもか!」
「合図を申せ!」
柵の向こうから声が飛び、すぐに周が答えた。
「十二人、戻ったぞ!」
嘘としては雑すぎる。
それでも見張りは正面へ寄った。
昨日から思っていたけれど、人間というのは、自分が待っている答えが来ると案外簡単に信じる。
アタイは炭焼き兄弟へ振り返った。
「裏の戸を開けて、逃げる奴を通すんじゃないよォ」
「承知」
「張青はアタイと来な」
「粥は?」
「まだ言うかい!」
通路を抜けると、寨の中には六つほどの小屋が並び、その中央に広場がある。
正面の門楼には十人ほどが集まり、残りも寝起きの格好で小屋から飛び出してきた。
アタイを見ても、すぐには敵だと分からない。
腕の黒い布が、まだ仕事をしている。
「何事だ!」
近づいてきた男へ笑いかける。
「山夜叉のお礼参りだよォ」
答えながら首へ刃を入れた。
隣の男が目を見開いたので、腹を蹴って倒し、そのまま刀を落とす。
ようやく、
「敵だ!」
と声が上がった。
張青が横から槍持ちへ飛び込み、二人でもつれながら地面を転がった。
干してあった衣まで巻き込んだせいで、最後には人間なのか洗濯物なのか分からなくなる。
「張青!」
「俺は平気だ!」
衣の山から足だけが出ている。
たぶん平気だ。
広場へ三人が走ってきたので、先頭の刃を受けて外へ流し、空いた喉を斬る。
続く槍の柄を脇へ挟んで引き寄せると、思ったより簡単に男の身体まで前へ飛び出した。
「あ」
また力が強くなってない?
考える暇もなく膝で顔を打ち、奪った槍を三人目へ投げると、その胸へ深く刺さった。
何も感じないわけじゃない。
ただ、怖さが先に出てこない。
刃が来れば避け、隙ができれば殺す。
それを当たり前のように繰り返している自分を、頭のどこかで別のアタイが見ていた。
正面で大きな音がした。
門の閂が割れ、木戸が内側へ倒れる。
その向こうに父ちゃんがいた。
「前には出ないって誰が言ったんだよォ!」
「門の外には出てねえ!」
「そういう問題かい!」
大娘が横から飛び込み、父ちゃんを狙った男を斬り伏せた。
「あたいもさっき言った!」
「親子喧嘩は後にしろ!」
「原因が言うな!」
そのまま周と舟子が寨へ雪崩れ込み、広場の空気が変わった。
アタイは朴刀を構え直す。
「武器を捨てな!」
自分でも驚くほど声が通った。
「捨てた奴は斬らない! 梁牙だけは逃がすんじゃないよォ!」
誰かに相談したわけではない。
父ちゃんの命令でもない。
それなのに周は門を押さえ、舟子は小屋の間へ走り込み、炭焼き兄弟も裏から入って退路を塞いだ。
大娘まで何も聞かずに山側へ回っている。
張青だけは衣を頭から被ったまま立ち上がった。
「梁牙はどいつだ!」
「それを先に聞きなよォ!」
武器が次々と地面へ落ちる。
その奥で、一人だけ背を向けた男がいた。
大柄で、毛皮の肩掛けをしている。
梁牙だ。
父ちゃんも気づいたらしく、二人が同時に走り出した。
「父ちゃん、走るな!」
「走ってねえ!」
「走ってるよ!」
大娘の怒鳴り声まで飛んだが、父ちゃんは止まらない。
梁牙は中央の小屋へ飛び込むと、内側から戸を閉めた。
「倉だ!」
寨の男が叫ぶ。
父ちゃんが戸を蹴ったが、びくともしない。
その横から張青が顔を出した。
口が動いている。
嫌な予感がする。
「お前、食ったねェ?」
「一口だけだ」
「今かい!」
「それより倉の裏に抜け道があるぞ」
全員が張青を見る。
「何で知ってるの?」
「粥を取りに戻ったら、下働きの爺が教えた」
役に立っている。
ものすごく腹が立つやり方で。
アタイは倉の裏へ回った。
岩壁に沿って細い溝が延び、その先の板壁が内側から外れる。
梁牙が這い出してきた。
目が合う。
「山夜叉の娘!」
「その呼び方、もう飽きたよォ」
梁牙の大刀が横薙ぎに走り、身を沈めた頭上で髪の先が切れた。
すぐに踏み込んで脇腹を狙ったが、柄で受けられたうえ肩を蹴られ、背中から岩へ叩きつけられる。
息が詰まった。
「小娘が!」
大刀が振り上がる。
そこへ父ちゃんの朴刀が横から噛み合った。
「父ちゃん!」
大娘の声が飛ぶ。
父ちゃんは梁牙の刃を止めたものの、脇腹の布には一気に赤いものが広がっていく。
梁牙が笑った。
「山夜叉も老いたな!」
刃を押し込みながら、傷口へ膝を入れようとする。
アタイは地面の砂を掴み、梁牙の顔へ投げつけた。
「卑怯な!」
「山賊に言われたくないねェ!」
梁牙が目を閉じた隙に父ちゃんが朴刀を引く。
その間へ入った。
刃が梁牙の腹を裂いた。
それでも倒れない。
太い腕が伸び、アタイの首を掴んだ。
指が食い込んで息を塞がれる。
けれど怖くない。
両手で刀を握り直して下から押し上げると、刃が梁牙の胸へ入り、その目が大きく見開かれた。
「山……夜叉……」
「違うよォ」
さらに刃を押す。
梁牙の手が首から離れた。
「アタイは孫二娘だ」
大きな身体が仰向けに倒れた。
寨の中から音が消えた。
武器を捨てた者たちが、こちらを見ている。
血に濡れた父ちゃんと、その横に立つ大娘。
そして梁牙の胸から刀を抜いたアタイを見比べ、誰かが呟いた。
「山夜叉が……二人……」
別の男が首を振る。
「あれは違う……女の夜叉だ」
その声は震えていた。
後ろから、別の声が重なった。
「母夜叉……」
一度ついた呼び名は、妙な速さで広がっていった。
「母夜叉だ」
「山夜叉の娘、母夜叉……」
呼ばれるたびに、知らない女の名前を聞いているような気がする。
張青が梁牙の骸を見下ろした。
「首はどうする?」
「飾らないよォ。黒松寨なんか要らないし、武器と銭と米だけ持って帰る」
武器を捨てた者たちの顔が、わずかに緩んだ。
それを見てから続ける。
「ただし、梁牙は十字坡まで運びな」
張青が嫌そうに眉を寄せた。
「埋めるのか?」
「肉は腐らせるもんじゃないだろォ?」
誰も声を出さなかった。
大娘まで一瞬こちらを見る。
……何だよォ。
いつものことじゃないか。
そう思った自分に気づいて、背筋が寒くなった。
「母夜叉……」
また誰かが呟いた。
父ちゃんは何も言わず、朴刀を握ったままアタイを見ている。
「父ちゃん?」
「戻るぞ」
いつも通りだった。
父ちゃんは背を向けて歩き始める。
一歩、二歩。
三歩目で、握っていた朴刀が手から落ちた。
「父ちゃん!」
大娘が真っ先に駆け出した。
アタイも追ったが、間に合わない。
父ちゃんの膝が折れ、その身体が黒松寨の土へ倒れ込む。
広がった血は、朝の光の下でも黒く見えた。
孫大娘と孫二娘、二人合わせて孫姉妹で〜す!
「二娘、母夜叉だって」
「聞こえてたよォ。勝手に付けられたんだけどねェ」
「じゃあ、あたいは姉夜叉?」
「何で姉ちゃんまで増えるのさ」
「姉だから」
「理由が雑すぎる!」
大娘は腕を組んで、妙に真面目な顔をした。
「父ちゃんが山夜叉、二娘が母夜叉。なら姉夜叉がいてもいいだろ?」
「家族構成で異名を決めるなよォ」
「張青だって菜園子があるじゃないか」
「アイツは家族じゃないだろォ!」
そこへ外から声が飛んできた。
「姉夜叉! そっちの荷、頼む!」
姉ちゃんが嬉しそうに振り返る。
「ほら、もう呼ばれてる」
「早すぎるだろォ!」
……たぶん、もう手遅れだねェ。




