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父ちゃん

孫二娘でございま〜す。

母夜叉なんて呼ばれたところで、父ちゃんが倒れちまえば、アタイはただの娘だったよォ。

梁牙を斬った時は、手が止まらなかった。

黒松寨の者たちへ命じる声も、思ったよりよく通った。

けれど、父ちゃんの血が土に広がった瞬間、何をすればいいのか分からなくなった。

人を殺すより、人が死にかけるのを見る方が怖い。

まして、それが父ちゃんならなおさらだねェ。

張青がふざけない。

周も舟子も黙って動く。

十字坡へ戻る道が、やけに長い。

母夜叉と呼ばれたばかりのアタイは、父ちゃんの手を握ったまま、ただ息が止まらないことだけを願っていたよォ。

父ちゃんの血は、黒松寨の土へすぐには吸われなかった。

赤いまま、足元へ広がっている。

さっきまで梁牙の血を見ても、手は止まらなかった。

首を掴まれても、怖いとは思わなかった。

斬れば終わる。

殺せば進める。

そう分かっていた。

なのに、父ちゃんが倒れた途端、身体の動かし方が分からなくなった。

「父ちゃん?」

自分の声が、やけに遠い。

誰かが後ろで息を呑む。

「母夜叉……」

まだ、その名を呼ぶ者がいた。

うるさい……

そう言おうとしたのに、喉が動かない。

アタイは膝をつき、父ちゃんの肩を抱いた。

重い……

さっきまで歩いていた人間の重さじゃない。

力が抜けると、身体はこんなに重くなるのかと思った。

「親父さん!」

張青が駆け寄る。

いつもの間の抜けた声ではなかった。

「お嬢、布だ。傷を押さえろ」

言われて、やっと手が動いた。

脇腹の布は真っ赤に濡れていた。

ほどこうとすると、指が滑る。

「違う、上から押さえろ!」

張青が自分の袖を裂き、丸めて傷へ当てた。

父ちゃんの口から、低い息が漏れる。

生きている……

そのことだけで、胸の奥が少し戻った。

「周!」

張青が叫ぶ。

「戸板を外せ! 担いで下りる!」

「承知!」

周と舟子が走った。

アタイは父ちゃんの顔を見る。

目は閉じている。

眉間にしわが寄っていた。

痛いのか。

苦しいのか。

怒っているのか。

分からない。

いつもの顔と似ているせいで、余計に分からなかった。

「父ちゃん、聞こえるかい」

返事はない。

「聞こえるなら、何か言いなよォ」

返事は、やっぱりなかった。

怖い……

人を殺すより、ずっと怖い。

これがパニックというやつかもしれない。

頭のどこかで、そんな言葉が浮かぶ。

けれど、そんな名前をつけたところで、手の震えは止まらなかった。

張青がアタイの肩を掴んだ。

「お嬢。こっちを見ろ」

張青の顔が近い。

「親父さんはまだ息がある。だから運ぶ。泣くのは後だ」

「泣いてないよォ」

「そうか。なら動けるな」

ずるい言い方だ。

でも、効いた。

アタイは唇を噛み、傷口を押さえ直した。

「降った奴らは?」

「武器を捨てた者は、一か所へ集めております」

炭焼きの兄が答える。

「縛るな。手を頭の上へ置かせて座らせな」

声が震えていないか、自分では分からない。

「逃げたら」

「斬る」

炭焼きの兄は頷いた。

「黒松寨は?」

「火をかけますか」

周が戻ってきて尋ねる。

アタイは首を振った。

「いらない。燃やせば煙で人が来る。柵を壊して、水甕を割りな。ここに戻っても籠もれないようにする」

「米と銭は」

「運べる分だけ持っていく。武器もだ。余るなら刃を欠けさせな」

周が一瞬だけアタイを見た。

父ちゃんではなく、アタイを見た。

その目に、迷いはなかった。

「承知しました」

言葉が落ちる。

この場の返事が、父ちゃんではなくアタイへ向いた。

母夜叉――

誰かが小さく呟く。

今は、どうでもいい。

「梁牙は?」

張青が聞いた。

梁牙の骸は、倉の裏で仰向けに倒れていた。

胸から流れた血が、毛皮の肩掛けを黒く染めている。

アタイは見た。

さっき斬った男。

十字坡を呑み込もうとした男。

父ちゃんの傷を広げた男。

「縄をかけて運びな。十字坡へ持って帰る」

降った者たちがざわめいた。

「首を飾るのではないのか」

誰かが言った。

アタイはそちらを向く。

声を上げた男は、すぐに目を伏せた。

「飾らないよォ」

アタイは父ちゃんの血で濡れた手を見た。

「肉は店で使う」

それで、寨の中の音が消えた。

息をする音まで小さくなる。

下働きの若い女が口を押さえ、老人は床へ額をつけた。

降った男たちは、目だけを動かして梁牙を見る。

黒松寨の頭目だった男が、十字坡の肉になる。

その意味は、言わなくても伝わった。

「武器を捨てた者は山を下りな」

アタイは続けた。

「戻ってくれば、今度は斬る。梁牙の後を追いたいなら好きにしな」

誰も動かない。

「聞こえなかったのかい」

一人が立ち上がり、よろめきながら門へ向かった。

二人目。

三人目。

やがて降った男たちは、武器を残して山道へ消えていった。

背中は小さく、さっきまで山賊だったとは思えなかった。

父ちゃんが見ていたら、何と言っただろう。

甘い。

遅い。

それとも、何も言わないか。

たぶん、何も言わない。

戸板が外され、即席の担架が作られた。

父ちゃんを乗せる時、また血がにじんだ。

アタイは歯を食いしばる。

「ゆっくり」

「分かってる」

張青が短く返す。

粥のことを言わない張青は、少し怖かった。

周が先頭に立ち、舟子たちが左右を固める。

炭焼きの兄弟は米俵と武器を背負った。

梁牙の骸は縄で巻かれ、別の戸板に乗せられている。

山を下り始める。

登る時より、道は長かった。

朝の光はもう濃くなっている。

黒い松の間から、白い空が見えた。

担架が揺れるたび、父ちゃんの顔が少し歪む。

「痛いなら怒りなよォ」

小さく言う。

返事はない。

「いつもみたいに、遅いとか、甘いとか、何か言えばいいじゃないか」

やっぱり、何もない。

張青がちらりとこちらを見た。

「お嬢」

「分かってる」

何が分かっているのか、自分でも分からない。

ただ、喋っていないと、父ちゃんの息が止まる気がした。

枯れ沢まで下りたところで、周が一度止まった。

「休ませますか」

「駄目だ」

張青が即答する。

「血が冷える。店まで運ぶ」

「お前、詳しいねェ」

「昔、刺された奴を運んだ」

「助かったのかい」

張青は答えなかった。

聞くんじゃなかった。

アタイは担架の横へ回り、父ちゃんの手を取った。

冷たい。

「父ちゃん」

指が、かすかに動いた。

本当に動いたのか、アタイがそう思いたかっただけなのか分からない。

でも、握り返した。

「もう少しだよォ」

十字坡が見えた時、店の前には人が出ていた。

亭主たち。

女中。

近くの渡しの者。

それから、柱に縛られた捕虜を見張っていた男。

最初に梁牙の骸を見て、何人かが息を呑んだ。

次に父ちゃんを見て、顔色が変わる。

「元締め!」

「奥へ運びな!」

アタイの声で、店の中が動いた。

戸が開く。

卓がどかされる。

寝台が用意される。

父ちゃんは奥の部屋へ運ばれた。

その部屋は、昨日までアタイが入るたびに背筋を伸ばしていた場所だった。

帳面があり、古い刀があり、父ちゃんの椅子がある。

今は、血の匂いしかない。

張青が水を持ってこさせた。

周が傷を診られる者を呼びに走った。

舟子の一人が火を起こす。

誰も粥の話をしない。

誰も冗談を言わない。

それが、いちばん嫌だった。

父ちゃんの布を切る。

傷は深かった。

前の傷が開いただけではない。

梁牙に押し込まれた時、さらに裂けている。

アタイは見た瞬間、胃の奥が縮んだ。

「大丈夫かい」

思わず言った。

張青が答えない。

それが答えだった。

「大丈夫かって聞いてるんだよォ」

「分からねぇ」

張青は水で手を洗いながら言った。

「俺は医者じゃねぇ」

「じゃあ、医者を呼びな」

「周が行った」

「早く」

「もう行った」

苛立ちがぶつかる。

分かっている。

張青に怒っても仕方がない。

周を責めても、父ちゃんの血は戻らない。

それでも、何かに怒っていないと、立っていられなかった。

店の外では、梁牙の骸が運び込まれている。

誰かが低い声で指示を出していた。

どこへ運ぶか。

誰が見張るか。

いつ始末するか。

いつもの十字坡の仕事だ。

なのに今日は、その音が遠い。

梁牙の処理より、父ちゃんの息の方が大事だった。

当たり前だ。

当たり前なのに、胸の奥で何かが割れる。

今朝まで、アタイは十字坡を守るために人を殺していた。

今は、十字坡のすべてを投げ出してでも、父ちゃんを助けたいと思っている。

母夜叉だなんて、誰が言った。

アタイは父ちゃんの手を握ったまま、奥歯を噛んだ。

しばらくして、父ちゃんのまぶたが動いた。

「父ちゃん」

目が、少しだけ開く。

濁った視線が天井を見て、それからアタイへ下りてきた。

「……戻ったか」

声はひどく掠れていた。

「戻ったよォ。黒松寨も潰した。梁牙も運んだ。米と銭と武器も持ってきた」

父ちゃんはわずかに息を吐いた。

笑ったのかもしれない。

違うかもしれない。

「降った者は」

「追い払った。武器は置かせた。戻れば斬ると言ってある」

「寨は」

「水甕を割らせた。柵も壊す。籠もれない」

父ちゃんの目が、ほんの少し細くなった。

褒めるのかと思った。

違った。

「帳面は」

「今それかい」

「帳面だ」

息が苦しいはずなのに、声だけは父ちゃんだった。

「梁牙の分を混ぜるな。武器、銭、米、人。分けて書け」

「人もかい」

「死んだ者も、店に入れば勘定だ」

張青が顔を上げる。

アタイは父ちゃんを見る。

この人は倒れても、まだ十字坡のことを考えている。

「後で書くよォ」

「今、聞け」

「父ちゃん」

「二娘……」

名を呼ばれた。

お嬢でも、娘でもない。

二娘――

父ちゃんの指が、アタイの手をわずかに掴んだ。

「張青を呼べ」

「いるよ」

「近くへ」

張青が膝をつく。

父ちゃんの目が、張青へ動く。

「親父さん」

「聞け」

張青の喉が鳴った。

「はい」

父ちゃんは息を吸った。

それだけで、胸が苦しそうに上下する。

アタイは止めたかった。

もう喋るなと言いたかった。

けれど、父ちゃんの目がそれを許さなかった。

「俺が死んだら――」

その言葉だけで、部屋の空気が止まった。

孫二娘でございますよォ。

父ちゃんは、倒れても父ちゃんだったねェ……

目を覚ましたと思ったら、まず聞くのが黒松寨の始末。

降った者をどうしたか。

寨をどう壊したか。

米と銭と武器をどう運んだか。

そして、帳面。

まったく、傷口から血を流している人間が、最初に気にすることじゃないよォ。

けれど、それが父ちゃんだった。

十字坡という場所は、刃だけで守れるものじゃない。

銭も、米も、人も、死んだ者まで、全部を数えて初めて回る。

父ちゃんは、それをアタイに聞かせようとしていたのかもしれないねェ。

母夜叉と呼ばれても、アタイはまだ何も分かっていなかった。

敵を斬ることと、店を背負うことは違う。

そして父ちゃんは、張青まで近くへ呼んだ。

俺が死んだら――

その先を聞きたいような、聞きたくないような。

でも、もう耳を塞げる立場ではなくなっちまったよォ。

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