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母夜叉

孫二娘でございま〜す。

人を殺すのは、もう怖くなくなっちまったよォ。

我ながら、嫌な言い方だねェ。

けれど、刃を向けられれば斬る。

十字坡へ手を出すなら、戻れないようにする。

そうしなければ、今度はこちらが潰される。

梁牙は淮西筋から流れてきた男だった。

黒松寨を築き、十字坡まで呑み込むつもりだったらしい。

なら、こちらから出向くしかない。

父ちゃんは血を滲ませたまま朴刀を持ち、張青は相変わらず妙なところで役に立つ。

アタイも、もう後ろで見ているだけじゃいられない。

山夜叉の娘としてではなく――

孫二娘としてねェ……

人を殺すのは、もう怖くなかった。

父ちゃんが血を滲ませたまま歩いている方が、よほど怖い。

夜明け前、十字坡の表には八人が揃っていた。

父ちゃん。

アタイと張青。

渡しの周と舟子が二人。

炭焼きの兄弟。

宿場の亭主たちには店を任せた。

捕らえた男は、柱へ縛ったままだ。

父ちゃんは脇腹へ新しい布を巻き、いつもの朴刀を持っている。

血は止まり切っていない。

それでも、置いていけと言える顔ではなかった。

「歩けるのかい」

「歩いてる」

「そういう意味じゃないよォ」

「同じだ」

朝からこれだ。

張青が、十二人から剥いだ黒い布を配った。

「腕に巻くのか」

周が嫌そうに眺める。

「近くまで寄るためだ」

父ちゃんは自分の腕にも一本巻いた。

黒松寨の者に化けられるとは思っていない。

背丈も得物も違う。

けれど、薄暗い山道で黒い布が見えれば、見張りは一息だけ迷う。

その一息を、父ちゃんは買うつもりだった。

「お嬢、俺のは少し短くねぇか」

張青が布を引っ張る。

「腕が太いんじゃないかい」

「親父さんのは余ってるぞ」

「比べるところが違うだろォ」

父ちゃんが歩き出す。

「置いていくぞ」

張青は慌てて布を結び、後を追った。

こういう時でも、張青は張青だった。

緊張しているのかいないのか、たぶん本人にも分かっていない。

黒松寨は、枯れ沢からさらに山へ入った尾根の上にある。

淮西筋から流れてきた梁牙の一党が、十字坡近くへ築いた新しい巣だ。

斜面へ丸太を並べ、正面には高い柵。

裏手は崖に近い。

攻めるなら一本道を上がるしかない。

梁牙は、そう考えているはずだった。

尾根の手前で、父ちゃんが足を止めた。

「周。舟子を連れて表へ回れ」

「元締めは」

「俺も行く」

「傷が開きます」

「もう開いてる」

布の端から血が浮いている。

誰も言い返せなかった。

父ちゃんはアタイを見る。

「二娘。張青と炭焼きを連れ、裏へ回れ」

「崖だろォ」

「水場は北だ」

「黒松寨へ入ったことがあるのかい」

「ない」

「じゃあ、道があるか分からないじゃないか」

「水と薪を運ばずに、人は山へ籠もれねぇ」

父ちゃんは朴刀を肩へ担いだ。

「表を塞げば、裏の道を使う者が出る。見つけろ」

「見つけた後は?」

「中へ入れ」

「その後は」

「自分で決めろ」

それだけ言うと、周たちを連れて正面へ消えた。

また、それだ。

教えない。

細かく命じない。

失敗すれば死ぬ場所で、急にアタイへ渡してくる。

昨日までなら腹が立ったかもしれない。

今は、何を見ればいいかを先に考えている。

アタイは張青と炭焼きの兄弟を連れ、斜面を横へ進んだ。

黒い松が密集し、朝の光を遮っている。

土は湿り、根がむき出しになっていた。

崖へ近づくほど、道らしいものは消える。

炭焼きの兄が地面へ手を触れた。

「薪を引いた跡がございます」

落ち葉の下に、細い轍がある。

「上へ続いてるねェ」

「されど、急でございます」

「正面よりはましさ」

張青が鼻を鳴らした。

「飯の匂いがする」

「今それかい」

「違ぇ。上からだ」

立ち止まって息を吸う。

湿った土と松脂の中に、焦げた粟の匂いが混じっていた。

張青は轍を外れ、岩の脇へ顔を突っ込む。

「こっちだ」

「腹で道を見つけたねェ」

「鼻だ」

「大して変わらないよォ」

岩陰には、人一人が通れる窪みがあった。

上から灰と野菜屑が落ちている。

炊事場の裏へ続く捨て道だ。

四人で身を低くし、岩の間を上がった。

やがて木の柵が見える。

正面ほど高くない。

脇に小さな戸があり、内側から閂が掛かっていた。

戸の向こうで桶が鳴る。

張青が刀へ手を掛ける。

アタイは止めた。

しばらく待つ。

戸が開き、眠そうな男が灰桶を抱えて出てきた。

腕には黒い布。

男はアタイたちを見た。

最初に布を見る。

次に顔を見る。

迷った。

その間に、張青が口を塞いだ。

アタイが胸へ刃を入れる。

男の身体を受け止め、音を立てずに下ろした。

怖くない。

血の温かさも、喉の奥で鳴る音も、もう身体を止めなかった。

戸の内側には、もう一人いる。

「遅いぞ」

声と一緒に顔が出る。

炭焼きの弟が首へ腕を回し、兄が腹へ短刀を突き立てた。

二人。

数えかけて、やめた。

今は十二まで数える必要がない。

寨の中に何人いるか、まだ分からないからだ。

炊事場には大鍋が三つ並んでいた。

粟粥が煮え、湯気が天井へ溜まっている。

飯をよそっていた下働きの老人と、若い女が壁際で震えた。

武器は持っていない。

「伏せてな。立たなきゃ斬らないよォ」

二人はすぐ床へ這いつくばった。

張青が鍋を覗く。

「食っていいか」

「黒松寨を片づけてからにしな」

「冷めるぞ」

「命と粥、どっちが大事だい」

張青は本気で悩んだ顔をした。

放っておく。

炊事場の先には、寨の内側へ出る細い通路がある。

見張りは正面へ集まっていた。

父ちゃんたちが、わざと姿を見せたらしい。

柵の向こうから怒鳴り声が聞こえる。

「古道の者どもか!」

「合図を申せ!」

周の声が返った。

「十二人、戻ったぞ!」

嘘としては雑だ。

けれど見張りが柵へ寄った。

アタイは炭焼きの兄弟へ目を向ける。

「裏の戸を開けて、逃げる奴を通すな」

「承知」

「張青はアタイと来な」

「粥は」

「まだ言うかい」

通路を抜ける。

寨の中には小屋が六つ。

中央に広場。

正面の門楼へ、十人ほどが集まっている。

残りは寝起きのまま飛び出してきた。

アタイを見ても、すぐには敵と分からない。

腕の黒布が邪魔をしている。

「何事だ」

「山夜叉だよォ」

答えながら、一人目の首へ刃を入れる。

隣の男が目を見開く。

腹を蹴り、倒れたところへ刀を落とした。

「敵だ!」

ようやく声が上がる。

張青が横から飛び込み、槍を持った男へ体当たりした。

二人で地面を転がり、干してあった衣を巻き込む。

「張青!」

「俺は平気だ!」

衣の山から足だけが出ている。

たぶん平気だろう。

広場へ三人が走ってくる。

アタイは後ろへ下がらない。

先頭の刃を受け、手首を返す。

刀が逸れたところへ肩を入れ、喉を斬る。

二人目の槍が伸びる。

柄を脇へ挟み、引いた。

男の身体が前へ崩れる。

膝で顔を打ち、奪った槍を三人目へ投げた。

胸へ刺さる。

何も感じないわけじゃない。

ただ、怖さが先に出てこない。

目の前に刃があれば避ける。

隙があれば殺す。

それだけになっている。

門の方で、木が裂ける音がした。

父ちゃんの朴刀が閂を断ち、正面の戸が内側へ倒れる。

周と舟子が雪崩れ込んだ。

「武器を捨てな!」

自分でも驚くほど、声が通った。

広場にいた男たちの動きが止まる。

「捨てた者は斬らない! 梁牙だけは逃がすんじゃないよォ!」

誰かに相談したわけじゃない。

父ちゃんの命令でもない。

けれど、全員が動いた。

周は門を押さえ、舟子は小屋の間へ散る。

炭焼きの兄弟が裏から入り、逃げ道を塞いだ。

張青が衣を頭へ被ったまま立ち上がる。

「梁牙はどいつだ!」

「それを先に聞きなよォ!」

武器が次々に地面へ落ちる。

その奥で、一人だけ背を向けた男がいた。

大柄で、毛皮の肩掛けをしている。

梁牙だ。

父ちゃんも気づいた。

二人が同時に走る。

梁牙は中央の小屋へ飛び込み、戸を閉めた。

「倉だ!」

寨の者が叫ぶ。

父ちゃんが戸を蹴る。

開かない。

張青が横から顔を出した。

口に粟の塊を入れている。

「お前、食ったねェ」

「一口だけだ」

「今かい!」

「倉の裏へ抜け道があるぞ」

全員が張青を見る。

「何で知ってる」

「粥を取りに戻ったら、下働きの爺が教えた」

役に立っている。

腹が立つやり方で。

アタイは倉の裏へ回った。

岩壁に沿って細い溝が延びている。

その先の板壁が、内側から外れた。

梁牙が這い出してくる。

目が合った。

「山夜叉の娘!」

「その呼び方は、もう飽きたよォ」

梁牙が大刀を抜く。

刃が横へ走る。

身を沈める。

髪の先が切れた。

踏み込み、脇腹を狙う。

梁牙は柄で受け、アタイの肩を蹴った。

背中が岩へ当たる。

息が詰まった。

「小娘が!」

大刀が振り上がる。

父ちゃんの朴刀が横から噛み合った。

金属音が鳴る。

父ちゃんの足が止まる。

脇腹の布から、一気に血が広がった。

梁牙が笑う。

「山夜叉も老いたな!」

刃を押し込み、父ちゃんの傷へ膝を入れようとする。

アタイは地面の砂を掴み、梁牙の顔へ投げた。

「卑怯な!」

「山賊に言われたくないねェ!」

梁牙が目を閉じた。

父ちゃんが朴刀を引く。

その隙へ入った。

アタイの刃が梁牙の腹を裂く。

まだ倒れない。

梁牙は腕を振り回し、アタイの首を掴んだ。

指が食い込む。

息ができない。

けれど怖くない。

両手で刀を握り直し、下から押し上げた。

刃が胸へ入る。

梁牙の目が大きく開いた。

「山……夜叉……」

「違うよォ」

さらに深く押す。

梁牙の手が首から離れた。

「アタイは孫二娘だ」

大きな身体が、仰向けに倒れた。

寨の中が静かになる。

武器を捨てた者たちが、こちらを見ている。

血に濡れた父ちゃん。

梁牙の胸から刀を抜くアタイ。

誰かが呟いた。

「山夜叉が、二人……」

別の男が首を振る。

「違う」

その声は震えていた。

「あれは女の夜叉だ」

さらに後ろで、誰かが言った。

「母夜叉……」

一度ついた声は、止まらなかった。

「母夜叉だ」

「山夜叉の娘、母夜叉……」

呼ばれるたび、知らない女の名前を聞いているような気がした。

張青が梁牙の骸を見下ろす。

「首はどうする」

「飾らないよォ」

アタイは梁牙から目を離さなかった。

「黒松寨なんていらない。武器と銭と米だけ持っていく」

降った者たちの顔が、少しだけ緩む。

その顔を見てから、アタイは続けた。

「ただし、梁牙は十字坡へ運びな。肉は腐らせるもんじゃない」

誰も声を出さなかった。

母夜叉――

その名が、また小さく広がる。

父ちゃんは何も言わない。

朴刀を握ったまま、アタイを見ている。

「父ちゃん」

「戻るぞ」

いつも通りの声だった。

父ちゃんは背を向ける。

一歩、二歩……

三歩目で、握っていた朴刀が手から落ちた。

「父ちゃん?」

膝が折れ、倒れた身体の下から、黒松寨の土へ血が広がった。

孫二娘でございますよォ。

どうやら、名前というものは、自分で名乗るより先に、他人の口から転がり出るものらしいねェ。

梁牙を斬った時、アタイはただ、孫二娘だと言っただけだった。

山夜叉の娘でも、どこぞの寨を奪う女頭領でもない。

十字坡の孫二娘。

けれど、周りの者たちはそう受け取らなかった。

山夜叉が二人いる。

いや、違う。

あれは女の夜叉だ。

母夜叉だ――

勝手なものだねェ。

でも、その名を否定する暇もなかった。

黒松寨はいらない。

梁牙の首も飾らない。

持って帰るのは、武器と銭と米。

それから、腐らせるには惜しい肉。

そこまで言ったところで、父ちゃんが倒れた。


母夜叉と呼ばれたばかりのアタイは、その瞬間、ただの娘に戻っちまったよォ。

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