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逃げ道は、もうないよォ

孫二娘でございま〜す。


父ちゃんの昔の異名が「山夜叉」だったらしい。

へえ、そうなんだ――で終わればよかったんだけどねェ。


今夜、黒松寨から十二人が十字坡へ来る。

しかも向こうは、アタイと張青が店の中にいると思い込んでるんだよォ。


だったら、そのまま信じてもらおうじゃないか。

逃げる道を先に塞いで、分かれたところを順番に潰す。


……あれ?

これ、父ちゃんが昔やってたことと同じじゃないかィ?


人は環境に適応する――

教授時代は平気な顔で教えてたけど――自分で実演するとは思わなかったよォ。

「アタイと張青は、店にいることにするよォ」

そう言ったものの、本当に店へ籠もるつもりはない。

梁牙が欲しがっているのは、十字坡そのものだ。

火を放たず、表と裏から入り、馬小屋と渡しへの道まで押さえる。

そこまで段取りを決めているなら、向こうはもう勝った後のことまで考えている。

だったら、その気分のまま来てもらえばいい。

店から抜ける前、父ちゃんは奥の椅子に座っていた。

脇腹へ巻いた布は赤く滲み、大娘が新しい布を持ってくるたびに露骨に嫌そうな顔をしている。

「動くなって言ってるだろ、父ちゃん」

「動いてねえ」

「朴刀を見てる」

「見るくらいいいだろうが?」

「あたいが隠した方がいい?」

「大娘、お前まで二娘の味方すんな」

怪我人のくせに、元気なのは口だけだ。

「十二だ」

「分かってる」

「一人も帰すな」

「それも分かってるよォ」

父ちゃんはもう何も言わなかった。

アタイは大娘へ目を向ける。

「姉ちゃんは裏手。沢から来る道じゃなくて、店から山へ戻る獣道を押さえて」

「あたいは二娘と一緒じゃなくていいの?」

「姉ちゃんが見つかったら、向こうだって何かあるって気づくだろォ。今日は隠れてる方が怖いんだよ」

「なるほどね」

大娘は嬉しそうに笑った。

……なんで嬉しそうなんだろう。

「大娘お嬢、加減してくれよ」

「張青、あたいを何だと思ってる?」

「二娘お嬢より加減を知ってる人」

「比較対象がおかしいよ!」

誰も否定しなかった。

周と舟子は渡しへ通じる坂の下、炭焼き兄弟は古道側へ置き、宿場の亭主と馬貸し、それから荷運びの女には馬小屋の向こうへ回ってもらった。

白髭の老人だけは店に残し、灯りを絶やさず普段通りにしてもらう。

全員を置き終えたところで、昼間に聞いた父ちゃんの昔話が頭を掠めた。

逃げる先を先に決め、そこへ人を置く。

山へ逃げた相手を夜のうちに追い詰め、道を塞いで朝までに片づけたという「山夜叉」のやり方と、出来上がった配置が妙によく似ている。

「……やだねェ」

「何がだ?」

「なんでもないよォ」

誰にも教わっていないつもりだった。

なのに自分で考えた結果が父ちゃんと同じになる。

人は環境に適応する。

教壇で何度も口にした言葉が、最近は笑えない。

そうしてアタイは、日が落ちる前に十字坡を出た。

裏口からではない。

古道からでもない。

渡しの周が、葦の陰へ平底舟を寄せている。

店の裏手は川岸が抉れていて、表から水面は見えない。

舟子が棹を差すと、舟は泥色の流れへ滑り出した。

「灯りは消すなよォ?」

岸に残る周へ声を抑えて伝える。

「飯を食って、傷の手当てをして、いつも通りにしてな。向こうが勝手に見たいものを見る」

「承知しました」

「戸だけは開けるんじゃないよォ」

張青が先に舟へ乗る。

舟子が棹を返すと、屋根は葦の向こうへ隠れ、ほどなく見えなくなった。

梁牙は、アタイが父ちゃんを置いて動けず、張青も傍を離れないと決めている。

戸が閉まり、灯りが点き、中で誰かが動いている。

入った姿は見ても、出たところを見ていないのだから、それだけで向こうは「まだ中にいる」と勝手に辻褄を合わせてくれる。

講義で言ったら学生に怒られそうだけど、今夜のアタイは教授じゃない。

居酒屋の娘だ。

舟は上流へ進み、枯れ沢より手前の浅瀬へ寄った。

アタイと張青が降りると舟子は棹を返し、足跡を残さないよう、しばらく水の中を歩いた。

冷たい。

裾が水を吸って足へ絡む。

石が鳴るたび、張青が振り返った。

「震えてるのかい?」

「水が冷てぇだけだ」

「そういうことにしとくよォ」

「二娘お嬢こそ、歯が鳴ってるぞ?」

「聞こえないねェ」

岸へ上がって裾を絞ると、木々の下にはもう夜が溜まり始めている。

張青が藪の向こうを指した。

「あの先が枯れ沢だ」

「十二人は?」

「沢底に伏せてるなら、上からは見えねぇ」

「なら、見に行かない」

「居場所を確かめねぇのか?」

「覗き込んで気づかれたら、舟で回った意味がないだろォ」

アタイたちは枯れ沢から十字坡へ戻る道の脇へ入った。

道は一度細くなり、その先で四つに分かれる。

捕虜が吐いた通りなら、ここから表へ四人、裏へ四人、馬小屋へ二人、渡しへ二人。

分かれた先には、もうこちらの人間がいる。

包囲するつもりで来た連中ほど、自分が包囲されているとは思わない。

「最初は馬小屋へ行く二人だよォ」

「なぜだ?」

「合図を返す役だからさ。あそこが黙ったら、全員止まる」

「出て来なかったら?」

「その時は考え直す」

「そこまでは決めていねえのか?」

「先の先まで全部分かるなら、こんな所で濡れてないよォ」

張青が喉の奥で笑った。

それきり二人とも黙った。

日が沈むと、枯れ沢の方から石を踏む音が近づいてきた。

やがて黒い影が道へ浮かび上がり、数えてみれば十二人いる。

誰も喋らず、互いの背だけを追うように暗い坂を下ってきた。

先頭の男が手を上げると、四人が店の表へ、四人が裏手へ消え、二人は渡しへ向かった。

最後の二人が馬小屋への低地へ入る。

アタイと張青は、その後ろについた。

枯れ草が足首を擦る。

前の二人は振り返らない。

店には灯りが点いているはずだ。

孫二娘と張青は、その中にいる。

そう信じている人間には、背後の気配まで仲間のものに思えるらしい。

一人が立ち止まったので、アタイもその場で足を止める。

男は暗がりへ耳を澄ませたものの、何も見つけられなかったらしく、やがてまた歩き出した。

張青の気配が右へずれた次の瞬間、後ろの男の口が塞がれ、草が短く鳴る。

その身体が沈むのを見て、前の男が振り返った。

「どうした」

アタイは一歩で間を詰め、声になる前に刃を喉へ滑らせた。

男は膝から崩れた。

張青が二つの身体を藪へ引く。

「二人」

「数えなくても分かるよォ」

馬小屋へ着くはずだった者はもういない。

残りの十人は、それを知らない。

店の裏へ回ると、木々の間から十字坡の灯りが見えた。

窓の前を人影が横切り、塀の陰へ伏せた四人のうち一人が呟く。

「娘だ」

灯りを遮った影しかないのに、そこへ勝手にアタイを作っている。

張青が刀へ手を掛けたので、首を振った。

まだだ。

やがて店の表から、カラスの声が三度響いた。

妙によく似ているが、本物より間が揃いすぎている。

こんな時間に三回きっちり鳴くカラスがいたら、そっちの方が怖い。

馬小屋の側から、返しが一度必要になる。

答えがなければ、二人が消えたと気づかれる。

アタイは口元へ手を添えた。

短く、一度。

カラスの鳴き声を返す。

裏の四人が立ち上がった。

合図が返った。

それだけで、見てもいない仲間が持ち場にいることになる。

四人が塀へ走った。

その時、山側の闇で何かが動いた。

最後尾の男が振り向く。

「誰だ!」

返事の代わりに、大娘の刀が閃いた。

男が倒れる。

「姉ちゃん、早いって!」

「もう塀へ入るところだったろ!」

「合図する予定だったんだけどォ!」

「聞いてないよ!」

「言ってないからねェ!」

残る三人が散った。

一人は山へ戻ろうとしたが、大娘が獣道へ立ちはだかる。

男は方向を変えて古道へ走ったものの、その先には炭焼き兄弟が待っていた。

挟まれた男は数合も持たず、地面へ叩き伏せられる。

もう一人は馬小屋へ走り、待ち構えていた荷運びの女と馬貸しに捕まった。

最後の一人だけが店の裏口へ突っ込もうとした。

アタイがその前へ回ると、男の顔が引きつった。

「孫二娘……! 店の中にいるはずだ!」

「いるよォ」

「何を――」

「そっちが勝手にねェ」

刃を受け流し、懐へ潜る。

肘で顎を跳ね上げると、男の身体が思った以上に浮いた。

……あ。

まただ。

慌てて力を抜いたが遅かった。

男は背中から地面へ落ち、そのまま動かなくなった。

大娘がちらりと見る。

「二娘、それ刀いらないんじゃない?」

「いるよ!」

「殴った方が早いだろ」

「人を武器みたいに言わないでくれる!?」

闇の向こうで短い悲鳴が上がった。

馬小屋へ逃げた男も片づいたらしい。

その直後、表で戸板を押す音が始まった。

「押せ!」

「中におるぞ!」

「裏はどうした!」

四人の声が重なる。

誰も自分たちの後ろを見ていない。

中にいるはずの獲物へ、意識を吸い寄せられている。

アタイが表へ回ろうとすると、大娘も続こうとした。

「姉ちゃんは山側!」

「まだ要るの?」

「逃げ道を空けたら意味ないだろォ!」

言ってから、足が止まりかけた。

また父ちゃんと同じだ。

追い込んで、出口を消し、最後に残った場所で仕留める。

「山夜叉」という言葉が頭の奥へ貼りついて離れない。

「二娘?」

「……なんでもない。行って!」

大娘が闇へ戻る。

アタイは表へ回った。

最後尾の男の背へ刃を入れると、残る三人が一斉に振り向いた。

「孫二娘!」

驚きが顔へ出る。

「なぜ外に――」

最後まで言わせない。

一人の刀を受け流し、肩口へ斬り込んだ。

二人目が横から踏み込み、刃先が頬を掠める。

熱が走った。

身体を沈めて足を払う。

倒れた男が転がりながら叫んだ。

「退け! 沢へ戻れ!」

ようやく気づいたらしい。

でも、もう遅い。

古道側には炭焼き兄弟。

山側には大娘。

馬小屋にも人がいて、渡しへの坂には周と舟子がいる。

自分たちで四つに分かれた十二人は、いつの間にか出口を全部失っていた。

三人目が山へ走った。

闇の向こうから大娘の声が飛ぶ。

「こっちは駄目だよ!」

男が急停止して、渡しへ向きを変える。

坂の下から周が叫んだ。

「こっちも塞いであります!」

「なんで逃げ道の案内が丁寧なんだよォ!」

思わず突っ込んだ。

敵に親切な包囲網というのも、なかなか怖い。

張青が渡し側から戻ってきた。

左腕に血が滲んでいる。

「二娘お嬢、二人片づけた!」

「怪我してるじゃないか!」

「掠っただけだ」

「今日それ何回目!?」

残った男がアタイたちを見回した。

店の戸は閉じたままで、山には大娘、渡しには張青、古道も馬小屋も塞がっている。

それを見渡した男の顔に、ようやく理解が広がった。

「山夜叉……」

アタイを見る目が、昼間の捕虜と同じものへ変わる。

「山夜叉の娘……」

「だから、それ今日三回目だっての」

男は叫びながら斬りかかってきた。

アタイは刃を外へ逸らし、手首を掴んだ。

力を入れすぎないようにする。

今度はちゃんと加減する。

そう思ったのに、男の身体は半歩ほど地面を離れた。

「え」

男とアタイの声が重なった。

そのまま横へ投げると、男は土の上を転がって動かなくなった。

張青がしばらく黙ってから言う。

「二娘お嬢」

「何?」

「やっぱり刀いらねぇんじゃねぇか?」

「いるって言ってるだろォ!」

大娘まで山側から笑っている。

笑い声が暗い十字坡へ広がった。

足元には黒松寨の男たちが転がっている。

笑える景色じゃないのに、アタイたちは笑っていた。

そのことの方が、少し怖かった。

店へ戻ると、表の戸が内側から開いた。

白髭の老人と宿場の亭主が先に出てくる。

捕虜だけが、床へ転がされたまま顔を上げた。

「十二人は……」

「もう来ないよォ」

父ちゃんは椅子から動いていなかった。

その足元へ、集めた黒い布を落とす。

十二人が身につけていた、黒松寨の印だった。

「全部か?」

「ああ」

「逃げ道は?」

「全部塞いだ」

父ちゃんがこちらを見る。

その目だけで、胸の奥が妙にざわついた。

「そうか」

褒めない。

驚かない。

けれど、それだけで十分だった。

父ちゃんは椅子の脇へ置いていた朴刀を取った。

「父ちゃん、何してんの?」

「支度だ」

「寝る支度に朴刀はいらないよォ?」

「誰が寝ると言った」

父ちゃんはゆっくり立ち上がった。

大娘がすぐ横へ入る。

「父ちゃん、まさか行く気?」

「俺は前には出ねえ」

父ちゃんは朴刀を鞘から抜いた。

灯りを受けた刃が白く光る。

「夜明けに出る」

アタイは嫌な予感しかしなかった。

「どこへ?」

父ちゃんは答えた。

「黒松寨だ」

孫大娘と孫二娘、二人合わせて孫姉妹で〜す!


「二娘、最後の男、ちょっと浮いてたねぇ?」

「姉ちゃん、そこ拾う?」

「だって加減したんだろ?」

「したよォ! した結果が半歩なんだよ!」

「じゃあ本気なら?」

「知らない。知りたくない……」


姉ちゃんが妙に楽しそうに笑っている……


「それより父ちゃんだよ。怪我してるのに、夜明けから黒松寨へ行くってさ」

「前には出ないって言ってたけどねェ?」

「父ちゃんの“前には出ない”ほど信用できない言葉ある?」

「ないねェ……」


姉妹で即答したところで、奥から朴刀を動かす音がした。


……ほらねェ。

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