面白そうな女がいた
孫二娘でございま〜す。
とうとう、十字坡を出る時が来たよォ。
武松が帰った夜、休み小屋の手下が転がり込んできた。
客に盛った薬は、蒙汗薬。
封じたはずの古い手口が、まだ外れで息をしていたわけだ。
父ちゃんは、店を開けろと言った。
アタイは開けた。 開け続けた。
けれど、店を守ることと、過去に縛られることは違う。
張青も、潘巧雲も、迎児もいる。
一緒に行くヤツは、もう決まっている。
今回は、十字坡を離れる話だよォ。
そして最後に、別の物語へつながる女が現れる。
二振りの刀を帯びた、目の逃げない女。
面白そうな女がいた。
アタイは笑うのをやめた。
土間に膝をついた手下は、額を床につけたまま震えている。
片袖は裂け、頬には血がついていた。 自分の血だけじゃないねェ。
そういう血は、乾き方が違う。
「誰に盛った?」
男の喉が鳴った。
「商人です。連れが二人……」
「死んだのかい?」
「死んでは、おりません」
張青が息を吐いた。
安心した音じゃない。
まだ最悪じゃなかった、というだけの音だ。
「逃げたのかい」
男は頷いた。
「孟州の方へ」
「役人のところだね」
返事はなかった。
けれど、肩が跳ねた。
答えとしては十分だった。
迎児が戸口の柱に手を置く。
潘巧雲は帳面を開かない。
閉じた帳面の上に、指だけを添えていた。
いい判断だよォ。
今ここで書けば、それは記録じゃない。
縄になる。
「名は出したのかい?」
男は、さらに深く頭を下げた。
「十字坡の、孫二娘様と張青様の名を……」
張青が一歩前へ出た。
「てめえ」
「張青」
アタイが呼ぶと、張青は歯を食いしばって止まった。
怒るのは簡単だ。
怒鳴るのも、殴るのも、殺すのも簡単だ。
でも、簡単なことはだいたい後で高くつく。
危機対応は初動が九割。
そんな言葉を、現代のどこかで聞いた気がする。
講義だったか、本だったか
バイトの研修だったか。
まあ、今さら出典なんてどうでもいい。
まず事実。
次に被害。
最後に逃げ道。
「なぜ使った?」
「近頃、休み小屋の入りが悪く……」
「悪くないよォ」
男が顔を上げた。
「帳面では、前より残ってる。飯と酒と宿で銭を取れば、逃げた客を追わなくて済む」
「ですが、昔から」
「昔から、何だい」
男は黙った。
その沈黙だけで、全部分かる。
昔から、そうしていた。
父ちゃんの頃から、そうだった。
道の者は綺麗な飯だけでは食えない。
言い訳は、いくらでも作れる。
人間は自分の悪事に物語をつけるのが得意だからねェ。
サンクコストという言葉が頭に浮かんだ。
今まで費やしたものが惜しくて、間違った場所から降りられなくなる。
十字坡も同じだ。
父ちゃんに言われた。
店を開けろ、と……
だから開けた。
開け続けた。
血の匂いが染みても、薬の噂が流れても、ここを守ることが父ちゃんの言葉を守ることだと思っていた。
でもねェ――
店を守ることと、古い手口にしがみつくことは違う。
「張青」
「へい」
「休み小屋に残ってる者を集めな。蒙汗薬は全部捨てる。逆らう者は置いていく」
張青の顔色が変わった。
「置いていくってのは」
「十字坡を出る」
迎児が息を呑んだ。
潘巧雲の指が、帳面の上で一度だけ止まった。
張青は黙っていた。
驚かなかったわけじゃない。
ただ、この男は臆病なぶん、危ない時の匂いには鋭い。
「二龍山ですか」
潘巧雲が静かに聞いた。
「そうだよォ。武松が道を置いていった。魯智深のところなら、追われた女をすぐ売るような真似はしないだろうさ」
「店は?」
迎児の声は細い。
アタイは店の中を見た。
卓、酒壺、厨房の火、梁に染みた煙……
父ちゃんが立っていた戸口……
寂しくないと言えば嘘になる。
腹の底を掴まれるような気もする。
けれど、ここで役人を待って捕まれば、十字坡はただの罪の場所になる。 ここで休み小屋の手下を斬れば、昔と同じ穴に戻る。
どちらも御免だねェ……
「表の店は閉めない」
張青がこちらを見る。
「残る者には残らせる。飯と酒で食う気がある者だけだ。休み小屋は潰す。薬で銭を取る連中は、もうアタイの者じゃない」
「役人が来ます」
潘巧雲が言った。
「来るだろうねェ」
「古い帳面は?」
「燃やす」
「今の帳面は?」
「アンタが持ちな。これから先、アタイたちが何で食っていたかの証になる」
潘巧雲は少しだけ目を伏せた。
「承知しました」
この女は、書くものと書かないものを選べる。
だから持たせられる。
「迎児」
呼ぶと、迎児の肩が揺れた。
「はい」
「一緒に来るかい?」
迎児は、すぐには答えなかった。
潘巧雲の顔を見る。
張青を見る。
最後に、自分の足元を見た。
前なら、潘巧雲の後ろに隠れていた。 今は考えている。
それだけで十分だ。
「私が、決めてよろしいのですか?」
「当たり前だろォ。あんたの足だ」
迎児は、ゆっくり息を吸った。
「行きます」
「決まりだねェ」
アタイは手下へ目を戻した。
「お前は残れ」
男の顔から血の気が引いた。
「お許しを」
「許す許さないの話じゃない。お前は役人に名を出した。連れていけば道中で追っ手を呼ぶ。残れば、役人はお前から聞く」
「そんな」
「自分で薬を盛ったんだろォ」
男は何も言えなかった。
ここで斬れば、早い。
けれど、早いだけだ。
早いだけの答えを選び続けた結果が、今の十字坡だった。
その夜、誰も眠らなかった。
張青は休み小屋へ走り、戻る者と戻らない者を分けた。
潘巧雲は銭と帳面を包み、迎児は衣と乾いた飯をまとめた。
アタイは古い帳面を竈へ放り込んだ。
紙は軽い音を立てて燃えた。
人ひとり分の重さが書かれていても、火に入れば灰になる。
だから、怖い。
燃やせば消えるわけじゃない。
ただ、誰かに読まれなくなるだけだ。
夜明け前、店の戸を開けた。
客はいない。
道はまだ白くけぶっている。
父ちゃん――
アタイは声に出さずに呼んだ。
店は開けたよォ。
開け続けた。
でも、ここで腐るために開けたんじゃない。
張青が荷を背負って立っている。
潘巧雲は帳面を胸に抱え、迎児は小さな包みを両手で持っていた。
「行くよォ」
誰も振り返れとは言わなかった。
それでも、アタイは一度だけ振り返った。
十字坡の看板が、朝靄の中に沈んでいる。
あそこには、アタイの嫌なものがたくさん残っている。
でも、全部が嫌だったわけじゃない。
父ちゃんの声も……
張青の間抜けな咳も……
潘巧雲が初めて帳面を開いた夜も……
迎児が盆を持って半歩下がれた日も……
置いていくものは、憎いものだけじゃない。
だからこそ、足が重い。
怖いかと聞かれたら、怖い。
寂しいかと聞かれたら、寂しい。
でも、怖いまま歩くやり方は、もう知っている。
二龍山へ着くまでの話は、面倒だから飛ばすよォ。
山道はきつい。
張青は何度も泣き言を言った。
迎児は足を痛めたが、途中で戻るとは言わなかった。
潘巧雲は疲れた顔で、休む場所と水の残りを数えていた。
魯智深は声がでかかった。
楊志は眉間に皺を寄せていた。
武松は、アタイたちを見ても驚かなかった。
「来たか」
それだけだった。
腹が立つほど、武松らしいねェ。
二龍山では、潘巧雲がすぐに居場所を見つけた。
倉の出入りを見て、厨房の無駄を見て、誰が口だけで働かないかまで見抜いた。
迎児は火の前で手を動かし、張青は誰より早く逃げ道と倉の位置を覚えた。
アタイは酒を出す場所が山に変わっただけだと思うことにした。
しばらくして、青州の山々が一つになる日が来た。
桃花山、二龍山、白虎山。
それぞれに癖のある者たちが集まり、梁山泊へ向かう話が進んでいた。
人が増えれば、空気も変わる。
武器の油、馬の汗、炊き出しの湯気。 十字坡とは違う騒がしさが、山の上まで満ちていた。
その中に、女がいた。
腰に二振りの刀を帯びている。
派手に構えているわけじゃない。
それなのに、近づけば斬られると分かる立ち方だった。
綺麗な顔をしているくせに、目が逃げていない。
若い――
けれど、ただの若い娘じゃない。
戦場の匂いを知っている女だ。
向こうも、アタイを見た。
警戒している。
でも怯えてはいない。 面倒な女を見つけた、という顔をしている。
いいねェ――
アタイは笑った。
「アンタが、扈三娘かい?」
女は少しだけ眉を動かした。
「あなたが、孫二娘?」
声に棘がある。
綺麗な顔に似合わない目つきだ。
なおさら気に入った。
「そうだよォ」
アタイは一歩近づいた。
「面白そうな女だねェ」
扈三娘の目が、細くなった。
その瞬間、十字坡の道が、ようやく別の物語へつながった気がした。
孫二娘でございますよォ。
十字坡を出た。
父ちゃんの声も、古い帳面も、薬の匂いも、全部背中に残してきた。
軽くなったかって?
そんなわけないだろォ。
捨てるものが重いから、人はなかなか歩き出せないんだ。
けれど、アタイは一人じゃなかった。
張青は泣き言を言いながらついて来た。
潘巧雲は帳面を抱えていた。
迎児は、自分で行くと決めた。
それで十分だよォ。
店を開けろと言われた娘は、店に縛られた女にはならなかった。
そして、二龍山の先で出会った。
二振りの刀を帯びた、目の逃げない女。
扈三娘――
あの女も、ずいぶん面倒な道を歩いてきた顔をしていたねェ。
アタイの十字坡の話は、ここまでだよォ。
けれど、水滸の道は終わらない。
面白そうな女がいるところには、だいたい厄介ごとも一緒に来るものさァ。




