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山夜叉

孫二娘でございま〜す。

父ちゃんには、アタイの知らない名前があったらしいよォ。

山へ逃げた敵を追い、道を塞ぎ、夜のうちに片をつける。

それでついた渾名が、山夜叉。

何とも物騒な名前だねェ。

けれど、その跡目だと呼ばれたのは、アタイだった。

自分では、まだ酒を運ぶ二娘のつもりなのに、敵の方はもう、その先を見ているらしい。

しかも、逃げたと思っていた十二人との戦いは、まだ終わっていなかった。

さて――

山夜叉の娘は、日が暮れる前に何を考えるんだろうねェ。

「山夜叉の跡目を、先に潰しておけとな」

捕らえた男がそう言った。

店の中から、物音が消えた。

父ちゃんの脇腹には、まだ血が滲んでいる。

張青は倒れた敵の刀を集め、渡しの周と舟子たちは表裏の戸を固めていた。

朝の寄り合いに来た者も、全員残っている。

宿場の亭主。

馬貸し。

荷運びの女。

炭焼きの兄弟。

白髭の老人。

ついさっきまで、皆で黒松寨の連中と戦っていた。

「山夜叉?」

聞き返すと、捕虜が怪訝そうに眉を寄せた。

「知らぬのか」

「知らないから聞いてるんだよォ」

男の喉元には、父ちゃんの短刀が触れている。

それでも、口の端には薄い笑いが残っていた。

「俺だ」

父ちゃんが言った。

「父ちゃんが?」

「昔の呼び名だ」

それだけで終わらせようとする。

張青が刀を足元へ寄せながら鼻を鳴らした。

「山へ逃げた奴を夜のうちに追い詰め、道を塞いで朝までに片をつける。それで山夜叉だ」

「張青」

「隠すほどの話でもねぇだろ、親父さん」

山夜叉――

初めて聞いたのに、妙に引っかかった。

さっきアタイがしたのも、逃げ道を塞ぐことだった。

表と裏へ人を回し、敵を店の中へ閉じ込めた。

教わった覚えはない。

けれど、毎日見ていた。

客をどこへ座らせるか。

いつ戸を閉めるか。

誰を先に酔わせ、誰を奥へ通すか。

父ちゃんが口で教えなくても、やり方は店の中に染みついていたらしい。

山夜叉の娘――

そう呼ばれた覚えはなくても、父ちゃんの手下たちにとって、アタイは昔からそういう存在だったのだろう。

けれど、跡目として見られた覚えはない。

店へ来る客にとって、アタイは酒を運ぶ二娘だった。

アタイ自身だって、それ以上のつもりはなかった。

ところが黒松寨は、アタイより先に、その先を見ている。

呼ばれたことのない名前に、首を掴まれたような気がした。

「梁牙は、いつからアタイを跡目だと見てたんだい」

「三日前には、そう申していた」

今朝より前だ。

父ちゃんが皆の前で告げるより先に、向こうは決めつけていた。

「どうして分かった」

「山夜叉が近頃、娘に人と銭の差配をさせている。己が留守でも店を任せる。ならば次は娘であろうと」

男は吐き捨てるように言った。

「梁牙様は、目のある者なら分かると仰せであった」

店にいる者たちの視線が、父ちゃんからアタイへ移った。

秘密が漏れたわけじゃない。

見られていたのだ。

十字坡には客が来る。

荷が入る。

父ちゃんの手下も出入りする。

隠し事を口にしなくても、誰が帳面を持ち、誰の一言で人が動くかまでは隠せない。

父ちゃんが何を任せたか。

手下たちが誰の言葉で動くようになったか。

アタイが客の前で、どこまで店を仕切るようになったか。

隠しているつもりの変化ほど、外からはよく見える。

「今朝の命は?」

「山夜叉を店へ釘づけにし、娘を古道へ誘い出せと」

「張青がつくことも読んでたんだね」

男の目が動いた。

「梁牙様は、あの男なら娘を一人で出すまいと」

張青の顔が険しくなる。

当たっている。

「アタイが古道を知らないことは?」

「十字坡を離れぬ娘が、あの道を知るはずがないと申された」

そこも、推測だった。

中に裏切り者がいると決めつければ、何でも証拠に見える。

確証バイアス――

今のアタイたちには、一番危ないやつだ。

「最初から話しな。夜明け前、黒松寨で集められたところからだよォ」

「何を申せばよい」

「あんたが見たものと、聞いたことだけ。考えたことはいらない」

男は父ちゃんを見る。

「二娘が聞いてる」

父ちゃんの声に、男の顔が強張った。

夜明け前、黒松寨では二十人ほどが広間へ集められたという。

卓には、古道と十字坡の絵図が広げられていた。

店の表口と裏口。

馬小屋。

肉を処理する作業場。

渡しへ続く道。

古道の先にある枯れ沢。

「絵図は誰が持ってきた」

「我らが入った時には、すでにあった」

「梁牙は?」

「後から参った」

「何て命じた」

「八人は店を探り、山夜叉を動かす。十二人は古道へ出て、娘と張青を誘い込む」

十二人。

さっき古道の奥へ退いた連中だ。

「誘い込んだ後は?」

「娘を殺し、張青は生け捕りにせよと」

「逆じゃないのかい」

「張青を縛り、山夜叉の前へ引き出す。娘の骸も添える。そうすれば手下どもは割れると」

父ちゃんを従わせるためじゃない。

父ちゃんの次を消し、残った者を迷わせるためだった。

梁牙が狙っているのは、父ちゃん一人の命じゃない。

十字坡というまとまりそのものだ。

「十二人は逃げたんじゃないね」

男の口元から、笑みが消えた。

張青が一歩近づく。

「答えろ」

男は黙った。

アタイはその前へ膝をつく。

逃げようとする顔を、下から覗き込んだ。

「本当に、逃げたのかい?」

声を張ったつもりはなかった。

さっきまでより低く、柔らかく出る。

男の肩が強張った。

アタイは笑った。

店で酔った客に、もう一杯勧める時と同じ顔で。

「もう一度だけ聞くよォ」

男の頬へ指を添える。

力なんて入れていない。

それでも男は、父ちゃんの短刀よりアタイの手を怖がった。

「古道の十二人は、どこへ行ったんだい?」

「し、知らぬ」

「へえ」

指を顎へ滑らせ、こちらを向かせる。

「知らないなら、仕方ないねェ」

男の目が厨房へ動いた。

昨日の五人を思い出したらしい。

「安心しなよォ。知らないことまで喋れとは言わないさ」

少しだけ顔を寄せる。

「ただし、知ってることを隠したら――」

男の瞳に、アタイの顔が映っている。

「どこまでがあんたの肉か、分からなくなるだけだよォ」

店の中から、息遣いまで消えた。

捕虜だけじゃない。

周も、宿場の亭主も、炭焼きの兄弟も黙っている。

張青まで、上げかけた拳を下ろしていた。

男の唇が震える。

「枯れ沢だ!」

声が裏返った。

「十二人は、古道の先にある枯れ沢へ入った! 日が落ちるまで身を伏せ、夜になれば戻る!」

「戻って、どうする」

「店を囲む」

「どこから」

「四人が表。四人が裏。残りは馬小屋と渡しへの道を押さえる」

朝の絵図にあった場所だ。

「合図は?」

「梟の声を三度。返しが一度あれば、同時に詰める」

「誰が返す」

「最初に馬小屋へ着いた者だ」

「火を放つのかい」

「否。梁牙様は、店を焼くなと」

「どうして」

「十字坡は使える。山夜叉と娘さえ消せば、残った者は従うと」

父ちゃんの脇腹から、血が一筋落ちた。

男はそれを見て、少しだけ勢いを取り戻す。

「山夜叉は傷を負った。娘は父を捨てて出られぬ。張青も娘の傍を離れぬ。ゆえに、夜まで待てば三人とも店に籠もる――梁牙様は、そう仰せであった」

アタイは男の頬から指を離した。

「そう。最初からそれを言いなよォ」

立ち上がっても、誰も口を開かなかった。

やがて、壁際から小さな声が漏れる。

「山夜叉の娘も……夜叉か」

誰が言ったのかは分からない。

父ちゃんだけが、何も言わずにアタイを見ていた。

褒めもしない。

止めもしない。

ただ、アタイの中に何がいるのか、確かめるような目だった。

表の戸が強く叩かれた。

一度。

続けて二度。

外にいた舟子が叫ぶ。

「元締め! 古道の者ども、枯れ沢へ入りました!」

張青が刀を取る。

「今から叩くか」

「駄目だよォ」

「居場所は割れた」

「昼の山で十二人を追えば、向こうの得意な場所に入るだけだ」

「では、戻るのを待つのか」

「そうだねェ」

宿場の亭主が眉をひそめる。

「店を囲ませるので?」

「向こうは、アタイと張青が父ちゃんの傍から離れないと思ってる」

捕虜の顔から血の気が引いた。

言い過ぎたと気づいたらしい。

父ちゃんが短刀を鞘へ収める。

「十二人は、日が落ちれば戻る」

「ああ」

「どうする」

全員の目が、アタイへ集まった。

山夜叉の跡目。

まだ、その名を受け取ったつもりはない。

けれど、梁牙が先にそう呼ぶなら、利用させてもらう。

アタイは窓の外を見る。

日はまだ高い。

山の影が古道へ届くまで、少し時間がある。

「向こうの望み通り――」

振り返ると、捕虜が息を止めた。

「アタイと張青は、店にいることにするよォ」

孫二娘でございますよォ。

秘密が漏れたわけじゃなかった。

誰かが喋ったわけでもない。

ただ、アタイが帳面を持ち、人を動かし、父ちゃんの留守に店を回しているところを見られていただけだった。

隠しているつもりでも、毎日の積み重ねは、案外よく見えるものらしいねェ。

それにしても、捕まえた男に少し優しく聞いただけで、店の中まで静かになっちまった。

声を荒らげたわけでもない。

頬へ触れて、笑っただけさ。

父ちゃんだけは驚かなかった。

褒めもしない。

止めもしない。

ただ、アタイの中に何がいるのか確かめるように見ていたよォ。

どうやら敵より先に、父ちゃんの方が知っていたのかもしれないねェ。

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