死んでいても
孫二娘でございま〜す。
今回は、父ちゃんが死んでいるかもしれないところから始まるよォ。
普通なら、確かめるために真っすぐ駆け込むんだろうねェ。
でも、待っている相手がいるなら、それは一番やっちゃいけない。
悲しい。
怖い。
今すぐ戻りたい。
そういう気持ちは、いったん脇へ置く。
心理学っぽく言えば、感情の隔離ってやつかねェ。
父ちゃんが生きていても、死んでいても――
先に敵の逃げ道を塞ぐのさ。
父ちゃんが死んでいても、やることは変わらない。
そう考えた自分に、アタイが一番驚いた。
十字坡の前には、黒い布を腕へ巻いた男が立っている。
そいつの足元には、父ちゃんがいつも使っていた朴刀……
店の戸は左右へ開かれたままだった。
中は灯りが消え、父ちゃんの姿は見えない。
「お嬢、下りるぞ」
張青が立ち上がる。
「待ちな」
「待てるか。親父さんが――」
「正面から走ったら、あいつの思う壺だよォ」
入口の男は、こちらへ見せつけるように朴刀を投げた。
奪った武器を捨てる理由なんてない。
見せたかったのだ。
父ちゃんがやられた。
早く戻ってこい。
頭に血を上らせて、真っすぐ店へ飛び込んでこい。
「でも、親父さんが中にいるんだぞ」
「生きてるなら、父ちゃんは持ちこたえる」
「死んでたらどうする」
張青の声が低くなる。
答える前に、胸の奥が痛んだ。
父ちゃんが死んでいる……
考えたくない。
確認したくない。
けれど、確認するために敵の前へ飛び出せば、張青もアタイも殺される。
アタイまで死ねば、その後は誰が残る。
「死んでるなら、急いだって生き返らないよォ」
張青の顔が固まった。
「お嬢」
「だったら、父ちゃんを殺した奴を一人も帰さない」
口から出た声は、妙に落ち着いていた。
悲しいかどうかは、後で決めればいい。
泣くのも、怒るのも、死体を見てからで間に合う。
今は人数。
出入口。
逃げ道。
感情の隔離。
たしか、そんな言葉があった。
気持ちが消えたわけじゃない。
邪魔にならない場所へ、いったん置いただけだ。
置けてしまったことの方が、怖かった。
「炭焼きの兄ちゃんには、あの十二人を見させる」
アタイは斜面の下を指した。
「アタイたちは沢を下りる。正面には出ない」
「二人だけで入る気か」
「渡しを止めたんだ。周たちが近くにいるはずだよォ」
張青はまだ何か言いたそうだった。
「行くよ」
今度は命令だと言わなかった。
それでも張青は頷いた。
岩陰を離れ、古道とは反対側の斜面へ入る。
枯れた沢は急で、濡れた石が何度も足の下で滑った。
朴刀の石突きを地面へ突き、身体を支える。
急ぎたい。
けれど、枝を折れば音が出る。
一歩ずつ下りる間も、店の戸は開いたままだった。
黒布の男は入口から動かない。
時折、山を見上げる。
アタイたちが正面から来るのを待っている。
「お嬢」
張青が足を止めた。
下の藪から人影が三つ現れる。
反射的に朴刀を構えたが、先頭は渡しの周だった。
後ろに若い舟子を二人連れている。
「二娘」
周は息を整えながら頭を下げた。
「仰せの通り、舟は上げました。向こう岸にも一艘も残しておりません」
「店の様子は?」
「裏へ回る途中で、戸が開きました。黒松寨の者は、表に三人。裏手に二人おります」
「中は」
「分かりませぬ」
「入っていった人数は見た?」
周の後ろにいた舟子が答える。
「六人ほど。元締めは一人で中へ戻られました」
「戻った?」
「襲われる前から、店の外におられました。裏庭を見ておられたところへ奴らが来て、元締めは自ら店へ入りました」
父ちゃんは、逃げ込んだんじゃない。
自分から入った。
長い朴刀を入口へ残して……
その意味を考える。
店の中は狭い。
卓と柱があり、廊下では長い柄が邪魔になる。
父ちゃんが朴刀を手放したのは、奪われたからとは限らない。
それでも、生きているとは決まらなかった。
「周、表へ二人回して」
「打って出ますか」
「まだだよォ。西の道と正面を塞いで。誰も逃がすんじゃない」
「へい」
「舟子の一人は馬小屋へ回りな。裏の二人が動いたら、声を上げて石を投げる。戦わなくていい」
若い舟子が頷く。
「もう一人は周と一緒に表へ。入口の三人に姿だけ見せな。近づきすぎるんじゃないよ」
「二娘は、いかがなされます」
「裏から入る」
周の眉が動いた。
「危のうございます」
「父ちゃんが死んでたら、アタイが決めるんだろォ」
声に出してから、腹の底が冷えた。
父ちゃんが今朝言ったばかりの言葉を、もう使っている。
俺に何かあった時は、二娘に従え……
何かあったかどうかも分からないのに……
周は一度だけ張青を見る。
張青は首を横へ振らなかった。
「承知しました」
周たちが藪の向こうへ消える。
アタイと張青は沢を下り、店の裏手へ回った。
肉を処理する作業場の壁が見える。
戸は閉じている。
裏庭には黒布の男が二人いた。
一人は勝手口を見張り、もう一人は物置を探っている。
馬小屋の方で石が壁へ当たった。
乾いた音に、二人が同時に振り返る。
「誰だ!」
見張りが馬小屋へ向かう。
残った男も、物置から顔を出した。
張青がアタイを見る。
アタイは人差し指を一本立て、地面を指した。
一人を倒せ。
声を出させるな。
張青が短刀を抜き、壁沿いに進む。
物置の男が背を向けた瞬間、張青が後ろから腕を取った。
口を塞ぎ、足を払う。
男の身体が土へ落ちる。
鈍い音だけがした。
アタイは勝手口へ走った。
扉へ手をかける。
開かない。
内側から閂が下りている。
「張青」
「分かってる」
張青が倒した男の腰を探り、小さな鉈を抜いた。
扉の隙間へ差し込み、閂を少しずつ押し上げる。
馬小屋へ向かった男の怒鳴り声が近づいてきた。
「誰もおらぬぞ!」
時間がない。
閂が外れる。
アタイは戸を引いた。
細い隙間ができる。
中から、血の匂いが流れてきた。
昨日まで何度も嗅いだ匂いだ。
でも、今は誰の血か分からない。
厨房は暗かった。
床に男が一人倒れている。
腕に黒い布が巻かれていた。
その先にも、もう一人。
父ちゃんではない。
安心しかけて、すぐに止める。
二人倒れているなら、残りは警戒している。
アタイは朴刀を横へ寝かせ、厨房へ入った。
張青が続く。
表から声が上がった。
「何者だ!」
周たちを見つけたらしい。
入口の敵が表へ意識を向ける。
アタイたちは奥へ進んだ。
卓が倒れている。
椀が割れ、酒が床へ広がっていた。
柱に血がついている。
父ちゃんの姿はない。
廊下の向こうから、低い声が聞こえた。
「娘は戻ったか」
「まだだ」
「山へ上がったままだろう」
「なら、あの十二人に任せればよい」
梁牙ではない。
昨日来た五人より上の立場らしい男が、父ちゃんの部屋の前に立っている。
手には刀。
その周りに三人。
「孫元はどうした」
一人が聞く。
「奥で息絶えておろう」
張青の身体が前へ出かけた。
アタイは腕を掴む。
父ちゃんが死んだ。
そう言っただけだ。
死体は見ていない。
でも、本当でも嘘でも、やることは変わらない。
アタイは廊下へ朴刀の柄を打ちつけた。
四人が振り返る。
「探してるのは、アタイかい」
自分でも驚くほど明るい声が出た。
店で客を迎える時の声だった。
男たちが刀を構える。
中央の男だけが笑った。
「自ら戻ったか。孫元の娘」
「戸を開けっ放しにする客は嫌いなんだよねェ」
「父親の死を聞いても、泣かぬか」
「死んでるなら、後で泣くよォ」
朴刀の刃先を男へ向ける。
「その前に、あんたたちを片づけないとねェ」
後ろで張青が息を呑んだ。
男の笑みが消える。
「二人で何ができる」
「二人じゃないよ」
表で怒鳴り声が上がった。
周たちが入口を塞いだ。
続いて、馬小屋側から石の割れる音。
裏へ回った男も、戻れない。
「表も裏も塞いだ」
アタイは一歩前へ出る。
「父ちゃんが生きてるなら、あんたたちはここで死ぬ」
もう一歩、前に出る。
「死んでても、やっぱりここで死ぬ」
最初の男が斬りかかってきた。
身体が勝手に動く。
刃を柄で外し、石突きを脇腹へ入れる。
男が折れたところへ、張青が肩からぶつかった。
二人目の刀が頭上から落ちる。
半歩下がる。
刃が鼻先を通り過ぎた。
怖い……
それでも、どこへ倒れるか分かる。
相手の膝へ柄を当て、押す。
身体が横へ崩れた。
廊下が狭い。
敵は一度に一人しか来られない。
父ちゃんは、それを知って奥へ入った。
アタイたちも同じ場所を使っている。
中央の男が後ろへ下がる。
「囲まれたぞ!」
「誰に言ってるんだい」
三人目を張青が止める。
アタイは中央の男へ踏み込んだ。
刃と刀が当たり、腕が痺れた。
男の方が一撃が重い。
押し返される。
背中が壁へ当たった。
「小娘が!」
「昨日も聞いたよォ!」
柄を短く持ち替え、下から突き上げる。
男の顎が上がった。
その時、頭上の梁が軋んだ。
男が上を見る。
黒い影が落ちてきた。
父ちゃんだった。
片手に短刀を持ち、男の背後へ着地する。
刃が男の喉元へ当たる。
「動くな」
中央の男が固まった。
父ちゃんの脇腹には血が滲んでいる。 それでも立っている。
息もしている。
生きていた……
胸の奥へ押し込めていたものが、一気に戻りかける。
アタイはそれを飲み込んだ。
「生きてるなら、返事くらいしなよォ!」
「裏へ回ったのがばれる」
「娘に死んだと思わせる方が問題だろ!」
父ちゃんは答えず、中央の男の刀を蹴り落とした。
残った一人が裏へ逃げる。
張青が追おうとする。
「行かせな!」
アタイの声で、張青が男の前へ回った。
もう出口はない。
表には周。
裏には舟子。
廊下にはアタイたち。
男は立ち止まり、刀を捨てた。
「降参する!」
「遅いよォ」
「お嬢」
張青がこちらを見る。
殺すか。
生かすか。
判断を待っている。
父ちゃんも何も言わない。
アタイは中央の男へ朴刀を向けた。
「梁牙はどこだい」
男は口を閉じる。
「言わないなら、昨日の五人と同じにするよォ」
顔色が変わった。
厨房に吊るした肉を思い出したらしい。
「梁牙様は、ここにはおられぬ」
「どこにいる」
「知らぬ」
父ちゃんが短刀を少し押し込む。
男の喉が鳴った。
「本当だ! 我らは元締めを店へ釘づけにし、娘を山へ誘えと命じられただけだ!」
アタイを山へ誘う。
父ちゃんではなく。
「何でアタイを?」
男が笑った。
追い詰められているくせに、急に余裕を取り戻したような笑いだった。
「知らぬのか」
「何をさ」
「梁牙様は、今朝の寄り合いより前から知っておられた」
店の中が静かになる。
今朝の寄り合い。
父ちゃんが手下全員の前で、アタイを次の頭にすると告げた。
それより前から……
男はアタイを見た。
「孫元の次が、二娘になるとな」
孫二娘でございますよォ。
父ちゃんは生きていた。
梁の上から降りてきて、何事もなかったみたいな顔をしていたよォ。
脇腹から血を流してるくせにねェ。
けれど、本当に気味が悪かったのは、その後さ。
父ちゃんが皆の前でアタイを次の頭にすると告げる前から、梁牙は知っていた。
アタイ自身がまだ、その役目を受け入れ切ってもいないのに――
敵の方が先に、アタイを後継者として見ていたんだ。
心理学っぽく言えば、役割を外から与えられたってことかねェ。
自分で名乗った覚えはない。
頭らしく振る舞ったつもりもない。
ただ人を動かして、敵を囲んで、逃がさないようにしただけだよォ。
でも、向こうから見れば、それでもう十分だったらしい。
どうやら「次の頭」って名前は、アタイより先に歩き始めていたみたいだねェ。
問題は――
誰が、その名前を梁牙へ教えたかってことさ。




