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最初の指図

孫二娘でございま〜す。

今回は、初めて人に指図する話だよォ。

正しいかどうかなんて、決める時には分からない。

それでも、皆がアタイの言葉を待っている。

心理学っぽく言えば、選択的注意ってやつかねェ――

一つを見れば、別の何かが見えなくなる。

だから人を動かした。

騙されたふりまでさせた。

そして、判断が当たった時にはねェ――

いちばん見ちゃいけない場所が、もう開いていたのさ。

「黒松寨が動いた! 十人余りだ!」

戸の向こうで、男が息を切らしている。

張青がアタイを見る。

答えろと言われたわけじゃない。

それでも、口を開くのを待たれているのは分かった。

ついさっきまでなら、父ちゃんを呼んだ。

今も奥にいる。

大声を出せば、すぐ戻ってくるはずだ。

なのに、張青は動かない。

「どっちへ向かってる」

声が思ったより低く出た。

「古道を東へ。十字坡の方角です」

「走ってるのかい」

「歩いております。十人、いや、十二人ほど」

「隠れてる?」

戸の向こうで、男が一瞬黙った。

「いいえ。松明こそ灯しておりませんが、道の真ん中を進んでおります」

十人を越える賊が、見張りのいる古道を堂々と歩いてくる。

人数だけ聞けば、すぐ応援を出したくなる。

でも、何かがおかしい。

昨日の五人は客のふりまでして、店の中へ入った。

父ちゃんの首を狙う連中が、今日はわざわざ見つかりに来ている。

「張青、戸を開けな」

「入れるのか」

「顔だけ見て、すぐ閉めるんだよォ」

張青が閂を外す。

隙間から滑り込んできたのは、炭焼きの弟だった。

額から汗を流し、片方の草鞋を泥だらけにしている。

「二娘、兄が残って見張っております」

「向こうは、こっちに気づいてる?」

「まだかと」

「なら、兄さんに近づくなって伝えな。数と向きだけ見て、仕掛けるんじゃないよォ」

「へい」

「その後、周を追って渡しへ行って。舟を全部、こちらの岸へ上げさせな」

男が目を瞬いた。

「渡しも、ですか」

「いいから行きな!」

自分でも、どうして渡しまで止めるのか説明し切れていない。

ただ、十人余りが古道へ出たという知らせだけで、父ちゃんの手下が一斉に山へ寄れば、別の場所が空く。

注意を一か所へ集める。

心理学なら、選択的注意とかいう話だったか。

見ているものが増えたんじゃない。

見えない場所が増える。

炭焼きの弟が飛び出していく。

張青が戸を閉めた。

「俺はどうする」

「店に残って――」

言いかけて、止まった。

張青を店へ置けば、父ちゃんの側に人を残せる。

でも、古道を見たことがあるのは張青だ。

アタイ一人では道を間違えるかもしれない。

それに、父ちゃんは張青をアタイにつけると言った。

まさか、こんなに早く使い道を考えることになるとは思わなかった。

「アタイと来な。朴刀を持って」

「お嬢が行くのか」

「見ないで命令できるほど偉くないんだよォ」

奥から足音がした。

父ちゃんが出てくる。

「渡しを止めたのか」

「止めさせた」

「なぜだ」

「古道の連中、見つかり方が早すぎる。昨日は店まで騙して入ったのに、今日は道の真ん中を歩いてる」

「だから?」

「囮かもしれない」

父ちゃんはアタイを見る。

「かもしれねぇで、人を動かすのか」

胸の奥が縮んだ。

間違えたかもしれない。

渡しを止めれば、人も荷も動かなくなる。

父ちゃんの縄張り全体に迷惑がかかる。

でも、確かめてからでは遅い。

「本隊だとしても、舟を止めて困るのは向こうだろ。囮なら、なおさら空けちゃ駄目だよォ」

父ちゃんはしばらく黙っていた。

やがて、壁に立ててあった予備の朴刀を顎で示す。

「持ってけ」

褒めもしない。

正しいとも言わない。

ただ、止めなかった。

アタイは朴刀を取った。

柄を握ると、昨日の感触が戻ってくる。

怖さまで消えたわけじゃない。

けれど、手の中に何もないよりはずっといい。

張青が短刀を腰へ差す。

「行くぞ、お嬢」

「分かってるよォ」

裏口を出た瞬間、冷たい風が頬を打った。

古道までは、店の裏手から斜面を上る。

炭を運ぶ細い道を抜け、枯れた沢沿いを進む。

張青は怪我をしているくせに足が速い。

アタイは朴刀の石突きを土へ当てながら、その後を追った。

「お嬢」

「何さ」

「怖くねぇのか」

「今それを聞く?」

「昨日は、聞く暇がなかった」

「怖いよォ。けど、怖がって止まったら、皆がもっとこっちを見るだろ」

張青が振り返る。

「もう見てる」

「知ってるよ。だから困ってるんじゃないか」

笑うところではないのに、張青の口元が少し動いた。

「頭らしくなったな」

「殴るよォ」

「俺は怪我人だ」

「便利な言葉を覚えたねェ」

斜面の上から、鳥が一斉に飛び立った。

張青が足を止める。

アタイも息を潜めた。

前方の藪が揺れる。

出てきたのは炭焼きの兄だった。

腰を低くし、片手でこちらを制する。

「この先です」

「何人」

「十二……道を外れず、ゆっくり進んでおります」

「武器は?」

「刀と槍。弓は見えませぬ」

「こっちを探してる様子は」

「ございません」

ますます変だ。

三人で藪の奥へ入る。

古道を見下ろせる岩陰へ腹を伏せた。

下では、男たちが列を作って歩いている。

黒い布を腕へ巻いた者がいる。

数は十二――

隠れる気はない。

声まで聞こえる。

先頭の男が枝を刀で払い、後ろの者が笑った。

歩みも遅い。

戦いに来たというより、見物へ向かっているようだった。

「どう見る」

張青が囁く。

「雑すぎるねェ」

「弱いってことか」

「違うよ」

昨日の五人を思い出す。

目線。

座る位置。

短刀を抜く合図。

全部、揃っていた。

下の十二人は、揃っているようで揃っていない。

先頭は前を見ている。

真ん中は足元。

最後尾の二人だけが、何度も後ろを振り返っていた。

十字坡の方角へ。

「店を見てる」

「何だと」

「あいつら、こっちへ来たいんじゃない。誰かが店を出たか確かめてるんだよォ」

張青の顔から、軽さが消えた。

「俺たちを引き出したのか」

「多分ねェ」

多分――

さっきから、その言葉ばかりだ。

正解を知ってから決められるなら、誰だって困らない。

分からないまま選ぶから、命令になる。

アタイは炭焼きの兄を見る。

「兄ちゃんは、ここに残って見張りな」

「承知しました」

「見つかっても戦うんじゃないよ。逃げて、何人がどっちへ向かったかだけ知らせな」

男が頷き、藪の中へ消える。

張青が腰を上げかけた。

「戻るぞ」

「待ちな」

「囮なら、店が危ねぇ」

「走って戻れば、向こうも動くよォ」

「なら、どうする」

下の十二人を見る。

こちらが慌てるのを待っている。

なら、見せるものを選べばいい。

「張青、古道を少し先へ回って、枝を折りな。大勢が山へ入った跡を作る」

「何のためだ」

「アタイたちが騙されたと思わせるのさ」

「お嬢は」

「ここで見てる」

張青が眉を寄せる。

「一人で残す気はねぇ」

「父ちゃんに、アタイにつけって言われたから?」

「それもある」

「じゃあ命令だよォ。行きな」

口にした瞬間、自分でも驚いた。

命令――

張青も動かなかった。

ほんの一呼吸だけ、目が合う。

それから張青は、小さく頭を下げた。

「へい」

背中が藪へ消える。

胸の中が、変な音を立てた。

人が自分の言葉で動く。

失敗すれば、怪我をする。

死ぬかもしれない。

責任という言葉が、急に重さを持った。

卓の上で聞くのとは違う。

本の中に書いてあるのとも違う。

命令した者には、戻ってくる足音を待つ時間までついてくる。

下の列が止まった。

最後尾の男が、山の斜面を見上げる。

見つかったかと思い、息を殺す。

やがて遠くで、枝の折れる音が続いた。

張青が作っている音だ。

先頭の男が笑った。

「掛かったぞ!」

下から声が上がる。

十二人が一斉に歩みを速めた。

十字坡とは逆へ。

山の奥へ向かっていく。

やっぱり囮だ。

喜ぶより先に、背中が冷えた。

囮だと分かった。

それなら、本命はどこにいる。

渡しか。

宿場か。

十字坡か。

岩陰から身を起こした時、遠くで鳥が騒いだ。

麓――

店のある方角だった。

続いて、乾いた音が響く。

一度……

少し遅れて、もう一度……

戸を叩く音じゃない……

分厚い木を、内側から打ったような音だった。

「張青!」

呼ぶより早く、藪の奥から張青が戻ってくる。

「お嬢、戻るぞ」

「走ったら、下の連中に気づかれるよォ」

「もう遅ぇ」

張青が麓を指した。

木々の隙間から、十字坡の屋根が見える。

煙はない。

火も上がっていない。

店は、昨日から戸を閉めている。

そのはずだった。

けれど、表の戸が開いていた。

風に押されたんじゃない。

左右へ大きく開かれ、入口の前に一人の男が立っている。

腕には、黒い布が巻かれていた。

男がこちらを見上げる。

遠すぎて、顔までは分からない。

それでも、こちらに気づいたのは分かった。

男は大きく手を振ると、持っていたものを入口の前へ放り出した。

地面を転がったのは、父ちゃんがいつも使っている朴刀だった。

孫二娘でございますよォ。

張青に「行きな」と言ったら、本当に頭を下げて行っちまった。

命令ってのは、口から出た瞬間に終わるもんじゃないんだねェ。

相手が戻るまで待つ時間も、怪我をした時の責任も、帰ってこなかった時の後悔も――

全部、言った側についてくる。

心理学っぽく言えば、意思決定の責任ってやつかねェ。

初めての指図は、どうやら間違ってはいなかった。

けれど、山の上から店を見下ろした時、入口に転がっていたのは、父ちゃんの朴刀だった。

命令が当たったからって、守りたいものまで守れるとは限らないらしいよォ。

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