二娘に従え
孫二娘でございま〜す。
昨日まで、父ちゃんが街道沿いの元締めだってことすら知らなかったんだよォ。
ところが今日は、その手下だという人たちが十字坡へぞろぞろ集まってきた。
顔を見れば、魚を持ってきた人、馬を貸してた人、宿の人――みんな普通の商売相手だと思ってた連中ばかり。
知らなかったの、アタイだけ?
しかも父ちゃん、そんな人たちを前にして、とんでもないことを言い出した。
自分に何かあったら、アタイに従えって。
……父ちゃん。
そういう人生の重要事項、本人への事前説明って必要じゃないのかねェ?
店は、今日も戸を閉めている。
昨日と違うのは、表から客が入らない代わりに、朝から裏口が何度も開くことだった。
最初に来たのは渡し場を預かる周で、その後も街道沿いの宿の主人、馬を貸す老人と息子、荷運びを仕切る肩の太い女、山で炭を焼く兄弟と続き、昼前には客席の半分が埋まった。
顔を知っている者も少なくない。
魚や酒を届けに来た者もいれば、店先で父ちゃんと短く言葉を交わして帰った者もいるし、前にアタイへ銭を握らせようとして父ちゃんに睨まれた男までいた。
今まで、ただの商売相手だと思っていた連中が、全員父ちゃんの手下だったらしい。
アタイは卓へ水を置いて回った。
「二娘、手伝います」
荷運びの女が立とうとしたので、手で座るように押し戻す。
「いいよォ。水を出すくらい店の仕事だろ」
「今日は客ではございません」
「座って水を飲むなら似たようなもんさ」
女は困ったように父ちゃんを見たが、父ちゃんは奥の卓に座ったまま何も言わない。
姉ちゃんも隣で腕を組んでいた。
嫁ぎ先へ戻るどころか、昨夜もアタイと布団を並べて寝ているので、完全に泊まり込みだ。
張青は戸口に立っていた。
頬の腫れはまだ残っているが、昨日より口は開くらしく、ときどきあくびを噛み殺している。
「寝てないのかい?」
そばへ寄って声を抑えると、張青が眉を上げた。
「見張りしてたからな」
「役に立った?」
「誰も来なかった」
「それは良かったねェ?」
「俺が立ってたからだ」
「そういうことにしておくよォ」
睨まれた。
少し前なら、大勢の前でこんなやり取りはしなかったと思う。
けれど今は、何人かがこちらを見ていた。
その目は、店の看板娘を見る時のものじゃない。
昨日のことを、もう聞いているのだろう。
最後に、白い髭を短く整えた男が裏口から入ってきた。
父ちゃんと同じくらいの歳に見え、腰には刀を差していたが、戸をくぐる前に鞘ごと張青へ預ける。
「遅くなりました」
「座れ」
男は父ちゃんへ頭を下げ、空いている席を見てからアタイへ目を向けた。
「二娘も、こちらへ」
「アタイは水を出してるんだけど」
「それは後でよろしいでしょう」
「勝手に決めないでおくれよォ」
父ちゃんが卓を指で叩く。
「二娘、座れ」
嫌な予感しかしない。
水差しを置いて父ちゃんから少し離れた席へ腰を下ろすと、父ちゃんは懐から黒い布を取り出した。
昨日の五人が持っていたものの一枚だ。
「黒松寨の印だ」
卓へ置かれた途端、何人かの顔が強張った。
白髭の男が布を手に取る。
「梁牙が動きましたか?」
「昨日、五人来た」
「五人だけで?」
「俺の首を取りにな」
宿の男の顔が険しくなる。
「店へ入ったので?」
「客のふりをしてな」
父ちゃんの調子はいつもと変わらない。
五人が押し入り、夜のうちに死んで、今朝には人の形を失ったことまで、全部ただの報告らしい。
「五人は、いかがなされました」
父ちゃんは黒布を見た。
「四枚は返した」
それだけで通じた。
誰も五人の行方を聞かない。
宿の男だけが一度厨房を見たが、そこからでは何も見えないはずなのに、それ以上は口にしなかった。
「今日から見張りを増やす。渡しは顔を知る者だけ通せ。宿へ入れた客の名と荷を残し、馬を貸す時も同じだ。必ず二人以上で動いて、黒布を持つ奴を見つけても勝手に仕掛けるな」
「どこへ知らせれば?」
炭焼きの兄が聞く。
「ここだ」
「十字坡が囲まれた時は?」
「囲ませる前に知らせろ」
誰も言い返さなかった。
父ちゃんは一人ずつ名を呼び、渡しや街道、山道、宿場へ人を振り分けていく。
誰がどこに住み、何人動かせて、どの道なら馬を通せるのかまで全部頭に入っているのを聞いて、本当に元締めだったんだと、今さらながら感心した自分がいた。
白髭の男が黒布を卓へ戻した。
「梁牙は、元締めが動けぬ時を狙いましょう」
父ちゃんは答えず、布を畳んだ。
「俺が動ける間は、俺の指図を聞け」
皆の背筋が伸びる。
「俺に何かあった時は、二娘に従え」
言葉の意味が分かるからこそ、理解したくなかった。
全員の顔がこちらを向く。
「ちょっと待ちなよォ。アタイ、そんな話は聞いてないよ?」
「今、言った」
「そういう問題じゃないだろォ!」
「張青は二娘につけ」
「へい」
「返事するんじゃないよォ!」
張青まで平然と答えたせいで、何人かの口元がわずかに動いた。
笑ったのか困ったのかは知らないけど、そりゃ困るよねェ。
アタイも困ってる。
白髭の男が姉ちゃんを見る。
「大娘では、いかがでしょう。店のことも、この辺りのこともよくご存じだ」
アタイも同意したい。
今の適性だけで選ぶなら、どう考えても姉ちゃんだ。
だが姉ちゃんは肩をすくめた。
「あたいは嫁いだ身だよ。父ちゃんに何かあったからって、亭主も家も放り出して十字坡へ戻るわけにはいかないだろ」
「でも姉ちゃん、もう二晩泊まり込んでるじゃないか」
「今は非常時だからだよ」
「非常時に一番頼れる人が候補から外れるの、制度設計としてどうなの?」
「何の話だい?」
通じなかった。
父ちゃんが白髭の男を見る。
「大娘は手を貸せる。だが、ここの頭には戻せねぇ」
姉ちゃんも否定しない。
「しかし二娘は、まだお若い」
「歳で頭は決まらねぇ」
「縄張りを預けるとなれば、腕だけでは――」
「昨日、押し入った二人を倒した。今朝は、その後始末もやらせた」
誰もこちらを見なくなった。
見ないふりされる方が重いんだけど……
「腕が立つだけでは、人は束ねられませんぜ?」
「だから今から見ろ」
父ちゃんには怒りも焦りもなかった。
アタイの意思なんて、最初から勘定に入っていない。
その瞬間、ここへ来たばかりの頃を思い出した。
知らない天井の下で腹が痛み、喉が渇いているのに、外で床板が鳴るたび布団へ潜った。
覚えたのは扉や水、灯りの場所と、父ちゃんが入ってくる前に聞こえる足音くらいで、ただ逃げたくて、何も食べたくなくて、誰にも触られたくなかった。
あの頃のアタイが、今の自分を見たらどう思うだろう。
店へ押し入った二人を倒し、五人分の肉を切ったうえで、今度は父ちゃんの手下までまとめろと言われている。
冗談にしても悪趣味だ。
役割期待という言葉が浮かんだ。
周囲から「そういう人間だ」と扱われ続ければ、その期待に沿う行動が増え、本人の自己認識まで少しずつ寄っていくことがある。
もちろん、役割を与えられただけで人間が自動的に別人になるわけじゃない。
そんな単純な話なら、前世で学生に説明するのも楽だった。
問題は、環境と自分の行動、それに対する周囲の反応が積み重なることだ。
看板娘として扱われるうちに客へ笑うことを覚え、父ちゃんの娘として暮らすうちに包丁を握るようになった。
そして今度は、「次の頭」という役割まで、まだ何もしていないアタイへ先に被せようとしている。
やめてくれと言いたかったのに、白髭の男がアタイへ向き直った。
「二娘。元締めのお言葉、承りました」
深く頭を下げると、渡しの周も宿の男も、それに続く。
「やめなよォ。父ちゃんは元気だろ? 今すぐ代替わりするわけじゃないんだからさァ」
「だから今決める」
「縁起でもないよ?」
「死んでからじゃ遅い」
何も返せなかった。
父ちゃんが倒れた後で誰が頭になるか揉めれば、その隙を梁牙に食われる。
組織として後継を決めておくのは正しいと、分かってしまうから腹が立つ。
父ちゃんは白髭の男へ向き直った。
「不服か?」
「元締めのお決めになったことです」
「違う。二娘を見て決めろ」
白髭の男の目が変わった。
「では、お尋ねします。梁牙の者は西から来たと聞きました。見張りを西へ集めるべきでしょうか?」
急に試験を始めないでほしい。
しかも単位を落としたら死人が出るタイプだよ、これ……
昨日の五人を思い返すと、武器より先に足元が浮かんだ。
草鞋には赤い土がつき、裾には炭の粉が残っていたし、乾いた草の種まで絡んでいた。
客の足元を見る癖なんて、いつ身についたんだろうねェ。
「西だけ見ても無駄だよォ」
「何故です」
「昨日の連中、西の道を真っすぐ来た汚れ方じゃなかった。赤土と炭がついてたから、別の道を通ったんじゃない?」
炭焼きの弟が身を乗り出す。
「古道です。昔、木を下ろした道なら、人だけは通れます」
「途中で街道へ出られる?」
「出られます」
「じゃあ、そっちも見な。正面ばっかり固めたら、また店の横まで来られるよォ」
言ってから気づいた。
アタイ、今、普通に指示した?
白髭の男はしばらくアタイを見てから、もう一度頭を下げた。
「承知しました」
父ちゃんがすぐに人員を割り振ると、今度は全員の返事が揃った。
父ちゃんの命令に従っただけだと思いたい。
でも、その命令の元になったのはアタイの言葉だった。
姉ちゃんが横でニヤついている。
「何さ」
「別に?」
「その顔やめな」
「向いてるじゃないか」
「今、一番言われたくない!」
話し合いが終わる頃には、外が暗くなり始めていた。
皆は一人ずつ裏口から帰っていき、父ちゃんへ頭を下げた後、アタイにも同じように礼をする。
昨日までとは違う。
元締めの娘にする挨拶じゃなかった。
最後に白髭の男が残った。
「元締めに何かあった時は、我らをお使いください」
「何もないのが一番だよォ」
「左様ですな。されど何かあれば、我らは二娘を見ます」
裏口が閉まると、店に残ったのは父ちゃんと姉ちゃん、張青とアタイだけになった。
「勝手に決めたねェ」
「ああ」
「アタイが嫌だって言ったら?」
「言ってねぇ」
「今から言うよ」
父ちゃんは立ち上がった。
「言うだけなら勝手にしろ」
「聞く気ないだろ!」
奥へ入っていく背中へ何か投げたくなったが、手近にあったのが水差しだったのでやめた。
店の備品に罪はない。
張青が肩を揺らしている。
「笑ってるねェ?」
「笑ってねぇ」
「顔を見せな」
「嫌だ」
姉ちゃんが真顔で張青を呼ぶ。
「二娘お嬢に従えってさ」
「聞こえてたよ!」
「姉ちゃんまで楽しむなァ!」
追いかけようとした、その時だった。
裏口が強く叩かれた。
三度、間を置いて二度。
さっき決めたばかりの合図だ。
張青が戸へ飛ぶ。
「誰だ!」
「古道の者だ! 黒松寨が動いた! 十人余りだ!」
張青が振り返る。
姉ちゃんも、アタイを見る。
父ちゃんはまだ奥から戻らない。
戸の向こうの男も、戸口の張青も、さっきまで笑っていた姉ちゃんまで、誰も先に答えなかった。
気づけば全員が――アタイの返事を待っていた。
孫大娘と孫二娘、二人合わせて孫姉妹で〜す!
「姉ちゃん、アタイ今日、試験されたんだけど」
「ちゃんと答えられてたじゃないか」
「合格して嬉しい試験じゃない!」
しかも古道へ人を回せって言ったら、みんな普通に返事するし、父ちゃんまでそのまま命令に採用するしさァ。
「向いてるんだよ」
「だからそれを褒めるな!」
で、話が終わったと思ったら黒松寨が十人余り動いたって報せが来た。
「二娘、どうする?」
「姉ちゃんまでアタイを見るなァ!」
……いや本当に。
父ちゃん、こういう時だけ奥へ消えるのやめてくれない?




