脱人間化
孫二娘でございま〜す。
昨日まで刃物を振っていた男も、朝になれば動かなくなる。
敵、捕虜、死体、肉。
呼び方が変わるだけで、手の動かし方まで変わるもんだねェ。
心理学っぽく言えば、脱人間化ってやつさ。
相手を人間だと思わなくなれば、扱うのはずっと楽になる。
問題はねェ――
楽になったことに、アタイが少し安心してるってことだよォ。
朝になっても、店の戸は閉じたままだった。
外から一度だけ、常連が戸を叩いた。
「今日は休みだ」
父ちゃんが内側から答える。
「珍しいな。病人でも出たか」
「明日来い」
父ちゃんは、それ以上話さなかった。
足音が離れていく。
厨房では、大きな釜の水が沸いていた。
火を入れたのはアタイだ。
何に使うかは聞かなかった。
聞かなくても分かっていた。
昨日、店へ押し入った五人は、夜のうちに死んだ。
いつ死んだのかは知らない。
父ちゃんが物置へ入った音は何度か聞いた。
低い声もした。
何かを引きずる音もした。
アタイは部屋で、枕元に置いた朴刀を見ていた。
眠れたのかも分からない。
朝になり、裏へ出ると、五人は壁際に並べられていた。
昨日まで男だったものが、今は動かない。
頭らしい男。
アタイの髪を掴もうとした男。
張青の喉へ短刀を向けた男。
何度も立ち上がろうとした男。
顔を見れば、どれがどれだか分かる。
アタイが止めた三人もいた。
父ちゃんは五人の前にしゃがみ、懐から出した物を地面へ並べていた。
銭と火打ち石。
小さな刃物。
乾いた餅と黒い布。
印の刻まれた木札。
張青は少し離れたところで短刀を束ねている。
頬の腫れは昨日よりひどかった。
「顔、大きくなったねェ」
「元からだ」
「昨日より横に広いよォ」
「お嬢に言われたくねぇ」
「アタイは小顔だからねェ」
張青は口元を押さえた。
笑うと傷が痛むらしい。
アタイも少しだけ笑った。
足元には五人の死体がある。
それなのに、いつものように張青へ軽口を返した。
笑ってはいけない場面なのかもしれない。
でも、誰が決めるのだろう。
こいつらは父ちゃんの首を取りに来た。
張青の喉へ刃を向けた。
アタイにも短刀を振った。
それでも、死ねば静かになる。
静かな相手を前に、どんな顔をすれば正しいのかは分からなかった。
父ちゃんが木札を一枚持ち上げた。
「黒松寨の印だ」
黒く焼かれた木の表面に、牙のような線が刻まれている。
「全員、同じものを持ってたのかい」
「三人だ」
「残りは?」
「雇われただけだろう」
昨日は五人とも同じ敵に見えた。
死んだ後で、違いが出てくる。
寨から来た者。
銭で雇われた者。
首領。
下っ端。
生きている間は一緒に刃を抜いたのに、死ねば持ち物で分けられる。
カテゴリー化……
頭の端に言葉が浮かんだ。
人をひとまとめにして、扱いやすい形へ分ける。
敵、捕虜、死体。
その次は――
父ちゃんが立ち上がった。
「二娘」
「何さ」
「着物を取れ」
やっぱり、そこへ行く。
アタイは五人を見た。
「全部かい」
「使えるものは残す」
「本人には、もう要らないもんねェ」
父ちゃんは何も返さなかった。
アタイは一番端の男の前へしゃがんだ。
昨日、髪へ手を伸ばした男だった。
頬の横には、朴刀の刃が床へ当たった時についた小さな傷がある。
その時の顔まで思い出せた。
怖がっていた。
アタイを小娘と呼んだくせに、最後には刃先を見て動けなくなった。
紐を解き、上着を脱がせる。
身体が重い。
死んでいるから手伝ってはくれない。
腕を抜かせようとしても、変なところで引っかかる。
張青が近づこうとしたが、父ちゃんが止めた。
「二娘にやらせろ」
「一人じゃ重いだろ」
「昨日、倒したのは二娘だ」
その言葉が、妙に腹へ残った。
倒したなら、その後もやれ。
父ちゃんは、そう言っている。
アタイは男の肩を持ち上げ、着物を引き抜いた。
汗と土と血の匂いが混じっている。
「昨日より重いねェ」
「死んだ人間は重い」
張青が言う。
「知ってたのかい」
「運んだことくらいある」
「何でも少しずつ経験してる男だねェ」
「お嬢ほどじゃねぇ」
嫌みなのか、本気なのか分からなかった。
着物を畳み、使えるものと汚れたものに分ける。
帯の裏から銭が出た。
草鞋の中には、薄い鉄片が隠してあった。
昨日、客として見ていた時には気づかなかった。
「足の裏まで見ないと駄目かねェ」
「次から見ろ」
父ちゃんが言う。
次がある前提だ。
前なら、その言葉だけで胸が沈んだ。
今は違った。
「はいよォ」
返事をして、次の男へ手を伸ばした。
一人目より早く脱がせられた。
三人目になると、どこから紐を緩めれば楽か分かった。
それに気づいた時、少しだけ手が止まる。
学習、反復、効率化……
心理学っぽい名前なら、いくらでもつけられる。
でも、ここではもっと簡単だ。
慣れた。
父ちゃんが五人の顔を布で覆った。
「何で隠すんだい」
「見てると手が遅れる」
「父ちゃんも?」
「昔はな」
昔――
父ちゃんにも、手が止まった頃があったらしい。
そのことを想像しようとしたが、できなかった。
今の父ちゃんは、もう迷わない。
五人を裏の作業場へ運ぶ。
張青が脚を持ち、アタイが肩を持った。
父ちゃんは一人で運べる。
「お嬢、そっち上げろ」
「上げてるよォ」
「下が擦ってる」
「そっちが低いんだろ」
「俺は怪我人だ」
「昨日、アタイより弱いって分かったからって、急に弱者ぶるんじゃないよォ」
張青が黙った。
少し言いすぎたかと思った。
でも、次の瞬間には張青が言う。
「否定できねぇのが腹立つな」
「強くなりなァ」
「お嬢が強すぎるんだ」
その言葉に、少しだけ胸が浮いた。
昨日までは、自分が戦えるとは知らなかった。
今日はもう、張青が認めている。
嬉しいと思った。
五人を運んでいる最中なのに。
感情は、場面に合わせて綺麗に並んではくれないらしい。
作業場の戸を閉める。
そこから先は、音が増えた。
水、刃物、桶を動かす音。
そして、父ちゃんの短い指示。
アタイは最初、湯を運んだ。
次に布を洗った。
使い終わった道具を受け取り、汚れを落とす。
父ちゃんが、肉を桶へ移した。
昨日まで人間だった形は、少しずつ消えていった。
顔が布で隠された時。
着物を脱がせた時。
作業場へ運んだ時。
一段ずつ、人間から離れていく。
昨日は敵だった。
夜には捕らえた男だった。
朝には死体になった。
今は、肉だ。
呼び方が変わるたび、触れる時の気持ちも変わる。
脱人間化……
たぶん、こういうことなのだろう。
相手を人間だと思わなくなれば、扱いやすくなる。
でも、アタイは顔を知っている。
声も知っている。
一人は小娘と叫んだ。
一人はアタイの髪へ手を伸ばした。
知らない相手ではない。
それでも、桶の中を見た時に最初に考えたのは、誰だったかではなかった。
多い。
五人分は、多い。
そのことだった。
「父ちゃん」
「何だ」
「これ、どうするんだい」
「分ける」
「全部、店で使うのかい」
「日持ちするものは干す。残りは近くへ回す」
近くへ回す。
宿か、酒場か……
父ちゃんの手下がいる場所か……
昨日、父ちゃんの首を取りに来た者たちが、今度は父ちゃんの縄張りの中へ分けられていく。
死体を返せば、梁牙は五人がどうなったか分かる。
何も返さなければ、消えたとしか分からない。
十字坡は、痕跡ごと飲み込む。
「黒い布は?」
アタイが聞く。
父ちゃんは、地面に置いた五枚の布を見る。
「四枚は返す」
「誰に」
「持たせる奴が来る」
「一枚は残すのかい」
「手下に見せる」
父ちゃんの手下。
明日、集めるのだろう。
昨日、元締めという言葉を初めて聞いた。
今日は、その元締めが敵の身体を処分し、持ち物を警告へ変えている。
店の主人ではなく、人と道を動かし、敵が来れば消し、残った物に意味を持たせる男だ。
父ちゃんが次の桶を指した。
「二娘、切れ」
包丁が置かれる。
前とは違う。
誰の肉か、分からない状態ではない。
昨日、目を見た。
声を聞いた。
自分で倒した。
アタイは包丁を持った。
手は震えなかった。
「厚さは?」
「前と同じだ」
刃を入れる。
肉が離れる。
昨日までの男が、決まった大きさへ変わる。
一枚、二枚、三枚と……
厚さを見て、筋を見て、桶へ入れた時に偏らないよう並べる。
前は、それが嫌だった。
今も気持ちのいいものではない。
けれど、手を止めようとは思わなかった。
こいつらは、父ちゃんを殺しに来た。
張青を傷つけた。
アタイにも刃を向けた。
だから何をしてもいい。
そう考えたわけではない。
ただ、もう戻らない。
戻らないものなら、十字坡では使う。
それだけだった。
「お嬢」
張青が入口から呼ぶ。
「何さ」
「外に、また客だ」
「今日は休みだよォ」
「客じゃねぇ。渡しの周だ」
父ちゃんが手を止めた。
「入れろ」
張青が戻っていく。
アタイは包丁を布で拭いた。
刃に自分の顔が薄く映る。
昨日、三人倒した顔。
今日、五人分を切っている顔。
思ったより、普通だった。
父ちゃんが黒い布をまとめ、立ち上がる。
「二娘」
「何さ」
「残りを頼む」
前なら、父ちゃんが戻るまで待ったかもしれない。
今日は違った。
「はいよォ」
返事をして、次の肉へ刃を入れた。
父ちゃんがいなくても、厚さは揃えられる。
何を残し、どの桶へ分けるかも分かる。
張青が一度だけ振り返り、アタイの手元を見た。
何も言わなかった。
夕方までに、五人はいなくなった。
残ったのは、五振りの短刀と、黒い布。
畳まれた着物と、いつもより重い桶。
父ちゃんは、四枚の黒布を袋へ入れた。
「明日、人を集める」
「父ちゃんの手下を?」
「全員だ」
店は、明日も開かない。
アタイは一枚だけ残った黒布を見た。
昨日まで、父ちゃんの縄張りなんて知らなかった。
今日、その縄張りへ回す五人分の肉を切った。
孫二娘でございますよォ。
昨日は三人倒して、今日は五人分を切った。
父ちゃんに「残りを頼む」と言われて、アタイは「はいよォ」と答えた。
怖くなかったわけじゃない。
嫌じゃなかったわけでもない。
それでも、手を止める理由は見つからなかった。
心理学っぽく言えば、道徳的離脱ってやつかねェ――
十字坡じゃ、もっと簡単だよ。
任された仕事を、最後まで終わらせた。
人を肉にしたことより、それを少し誇らしく思ったことの方が、よほど危ないのさ。




