元締め
孫二娘でございま〜す。
今回は、父ちゃんの隠し事が、向こうから押しかけてくる話だよォ。
元締めだの縄張りだの、聞いてないことばかり。
しかも驚く暇もなく、身体だけが先に動いた。
心理学っぽく言えば、闘争・逃走反応ってやつかねェ――
十字坡じゃ、もっと短い。
朴刀を取れ。
それだけなのさ。
その朝、父ちゃんは朴刀の置き場所を変えた。
いつもは裏手の壁際に立てかけてある。
それを厨房の戸の脇へ移し、柄を客前へ向けた。
「何でそこなんだい?」
父ちゃんは刃を布で拭きながら答えた。
「手が届く」
「見りゃ分かるよォ」
「なら覚えとけ」
それだけだった。
嫌な言い方だ……
何かあると分かっていて、アタイだけ知らされていない時の声だった。
張青も朴刀を見た。
戸口で馬具を直す手が、一度だけ止まる。
けれど、何も聞かない。
父ちゃんは朝から、戸口へ背を向けなかった。
普段なら火を見たり、蒸籠を確かめたりするのに、その日は卓と戸口の間から動かない。
誰かが来る――
そう気づいたのは、昼を過ぎてからだった。
五人の男が入ってきた。
旅人にしては荷が少ない。
三人は卓についたが、饅頭へ手を伸ばさない。
残りの二人は入口の近くに立ったまま、酒を舐めるように飲んでいる。
腹が減った顔ではなかった。
五人とも、同じところから来たようには見えない。
着物の色も、履いている草鞋も違う。
ただ、腰に差した短刀だけがよく似ていた。
柄へ巻いた黒い布まで同じだった。
寄せ集めに見せている。
けれど、動く時は揃う。
そのことに気づいて、アタイは父ちゃんを見た。
父ちゃんも男たちの腰を見ていた。
目が合うと、ほんの少しだけ顎を引く。
気づいている。
朝から、たぶん知っていた。
なのに、アタイへは何も言わない。
腹が立った。
同時に、朴刀の柄がこちらへ向けてあったことを思い出した。
見る場所もおかしい。
銭箱と厨房。
裏へ続く戸。
父ちゃんの手。
張青の立ち位置。
アタイを見る目だけは、普通の男と同じだった。
だから余計に気味が悪い。
「飯は食わないのかい」
一人が笑った。
「あとでいただく」
「冷めるよォ」
「構わねぇ」
構うだろう、普通……
飯を食いに来たなら……
アタイが水差しを置いた時、戸口の男が後ろ手に戸を閉めた。
閂が落ちる。
乾いた音だった。
張青が立ち上がる。
「何の真似だ」
返事の代わりに、男は短刀を抜いた。
卓についていた三人も腰を上げる。
椅子が床を擦った。
父ちゃんは動かない。
一番奥にいた男が、父ちゃんへ顎を上げた。
「孫元だな」
父ちゃんの名を知っている。
「そうなら何だ」
「この辺りの道を仕切ってる元締めは、てめぇだろ」
元締め――
意味は分かる。
人と銭と場所をまとめる者。
表へ出ず、周りを動かす者。
けれど、それが父ちゃんだとは知らなかった。
十字坡の店を持つ男。
客を見て、帰すか残すか決める男。
近くの宿や渡しのことまで、妙に詳しい男。
ばらばらだったものが、嫌な形でつながる。
男は短刀の先を父ちゃんへ向けた。
「首をもらう。今日から、この道も店も俺たちのもんだ」
銭を奪いに来たんじゃない。
父ちゃんを殺して、ここへ座るつもりだ。
しかも、アタイの目の前で、今まで知らなかったことまで開示してくる。
順番が雑すぎる。
「どこの者だ」
父ちゃんが聞く。
「西から流れてきた」
「名は」
「死ぬ奴が聞いてどうする」
男が踏み込んだ。
張青が横から腕を払おうとした。
だが、相手の方が速い。
拳が張青の頬へ入る。
張青の身体が卓へぶつかり、椀が落ちた。
思ったより、張青は押されている。
そう思った自分に驚いた。
張青は戸口を見る目が早い。
客の顔も覚える。
人の気配にもよく気づく。
けれど、腕っ節まで父ちゃんと同じではない。
入口の男が張青の襟を掴む。
張青は肘を入れようとしたが、腕を取られて床へ落とされた。
父ちゃんの声が飛ぶ。
「二娘、朴刀!」
身体が先に動いた。
厨房の戸へ走り、柄を掴む。
朝に向きを変えてあったから、引けばそのまま抜けた。
必要な時に探すな。
父ちゃんが置き場所を変えた理由が、今になって分かる。
朴刀は重い。
けれど、持てないほどじゃない。
店へ戻ると、一人が父ちゃんの背後へ回っていた。
別の男は、床の張青へ短刀を向けている。
どちらを見る。
考えるより早く、足が決めた。
張青の方だ。
朴刀を大きく振らない。
柄を前へ滑らせ、短刀を持つ腕の内側へ差し込む。
手首を押し上げた。
刃先が張青の喉から外れる。
男がこちらを向いた。
その瞬間、柄尻を胸へ突き込む。
男の息が潰れ、二歩下がった。
刃を返すより、もう一度柄を使う。
顎の下へ当て、押し上げた。
男は卓へ背中をぶつけ、そのまま崩れた。
頭が追いついたのは、その後だった。
倒せると思ったわけじゃない。
倒れる方向が見えた。
そこへ朴刀を置いただけだ。
「お嬢……」
張青が床から顔を上げる。
「寝てる場合かい」
「寝てねぇ」
「なら立ちなァ」
口は普通に動いた。
手も震えていない。
闘争・逃走反応……
アドレナリン……
知っている言葉はいくつか浮かぶ。
でも、もっと簡単だった。
身体が、戦う方を選んだ。
背後から足音が来る。
振り向く前に、右へずれた。
短刀が袖を掠める。
アタイは朴刀の柄を横へ払った。
男の手首に当たり、短刀が落ちる。
落ちた刃を見ず、次の奴を見た。
父ちゃんの声が飛ぶ。
「止まるな」
分かってるよォ。
言い返す余裕はなかった。
男が肩からぶつかってくる。
朴刀の長さが邪魔になる距離だった。
柄を引き、刃を背へ逃がす。
空いた左手で相手の肩を押さえ、半歩ずれる。
勢いだけが前へ流れた。
男の足が交差する。
今だ――
柄を膝裏へ当てて引く。
男が床へ落ちた。
男が離れ際に、アタイの髪へ手を伸ばした。
反射で頭を下げる。
その腕の下へ入り、朴刀の柄を脇腹へ押し込んだ。
男の身体が折れたところへ、肩を当てる。
床へ落ちた男の顔が、すぐ近くにあった。
目が合えば、やはり怖い。
でも、目を逸らしたら起き上がる。
アタイは刃先を頬の横へ落とした。
板へ当たった音に、男の身体が固まる。
「そのまま寝てなァ」
自分の声が、ひどく明るかった。
笑いそうになった。
面白いわけじゃない。
怖さが、変なところから抜けただけだ。
「小娘が!」
床の男が脚へ掴みかかる。
「しつこいねェ」
朴刀の柄で指を払う。
刃先を喉元へ置いた。
「次は止めないよォ」
声は明るく出た。
客前で酒を勧める時と同じくらいに。
男の顔が固まる。
笑っていれば、向こうが迷う。
怖がっていないように見える。
本当は喉が乾いていても、関係ない。
これも店で覚えた顔だ。
張青がようやく立ち上がった。
頬が腫れ、口元に血がついている。
別の男が張青へ飛び込む。
張青は受け止めたが、押し負けた。
二人でもつれ、柱へぶつかる。
やっぱり、張青はアタイより弱い。
嫌な確信だった。
でも、今は役に立つ。
アタイは男の脇へ回り、朴刀の柄を腰へ入れた。
押し出すと、張青から身体が離れる。
張青が息を整え、男の腕を掴んだ。
「押さえときなァ」
「命令か」
「今それ以外に聞こえたかい」
「聞こえねぇな」
張青は両腕で男を押さえる。
力は足りない。
それでも、一息あればいい。
アタイは男の足首を柄で払った。
張青まで倒れそうになったので、襟を掴んで引く。
「危ねぇ!」
「しっかり立ちなよォ」
「俺まで倒す気か」
「邪魔したらねェ」
張青が顔をしかめた。
その向こうで、父ちゃんが首領らしい男の腕を捻り上げていた。
もう一人は壁際で膝をついている。
父ちゃんは強い。
動きに無駄がない。
アタイが三人を倒す間に、父ちゃんは二人を止めていた。
男の首を床へ押さえつけたまま、父ちゃんが言う。
「縄を出せ」
張青が動こうとする。
「張青はそこを押さえときなァ。アタイが取る」
返事を待たず、厨房へ向かった。
縄を取りに立った時、ようやく店の中が見えた。
卓が一つ倒れ、椀が二つ割れている。
酒が床を濡らし、饅頭が土足で踏まれていた。
張青の頬から落ちた血が、そのそばに点々と続いている。
父ちゃんの袖にも、細い切れ目があった。
血は滲んでいるが、本人は見ようともしない。
アタイだけが、ほとんど傷を負っていなかった。
運がよかったのか。
身体が勝手に避けたのか。
考えるのは後だ。
今は、起き上がらせない方が先だった。
縄を持って戻り、五人を縛る。
手首を後ろへ回し、足もまとめる。
父ちゃんの手順を見て、同じように締めた。
戦っている時より、縛る方が気持ち悪かった。
もう勝負はついている。
それでも、逃げられないように力を込める。
相手の手首へ縄が食い込む。
男が呻いても、父ちゃんは緩めない。
アタイも緩めなかった。
首領の男が、床に頬をつけたまま笑う。
「孫元。娘まで仕込んでやがったか」
「黙れ」
「だが、これで終わりじゃねぇぞ」
父ちゃんの指が止まった。
「朝から知ってたのかい」
アタイが聞くと、父ちゃんは縛った縄を引いた。
「渡しから知らせが来た」
「それを先に言いなよォ」
「言えば、何が変わる」
「覚悟くらい決められるだろォ」
「してたら、今みてぇには動けねぇ」
腹が立った。
けれど、言い返せなかった。
父ちゃんは朴刀の置き場所だけを変えた。
あとはアタイの身体へ任せた。
試されたのか。
守られたのか。
その両方なのか。
今は決められなかった。
男は血の混じった唾を吐く。
「黒松寨は、もうこっちへ降りてきてる」
張青の指が、男の腕を押さえたまま止まった。
顔から、さっと血の気が引く。
父ちゃんの目も変わった。
アタイだけが、その名を知らない。
「誰が来る」
父ちゃんが低い声で聞く。
「梁牙だ」
張青が息を呑む。
「親父さん……」
父ちゃんは手を上げ、張青を黙らせた。
男が笑う。
「てめぇの首を取れば、この街道は空く。宿も渡しも、山の連中も、全部うちへ流れる」
元締め。
縄張り。
黒松寨。
梁牙。
父ちゃんと張青には、前からあった話らしい。
アタイは今日、ようやくその中へ入れられた。
「父ちゃん」
父ちゃんは返事をしなかった。
縛った男たちを一人ずつ見て、最後にアタイの朴刀へ目を落とす。
「二娘」
「何さ」
「今夜から、それを枕元へ置け」
冗談にできる声ではなかった。
張青が口元の血を拭う。
「俺が戸口にいます」
父ちゃんは張青を見た。
「お前じゃ足りねぇ」
張青は黙った。
否定できない。
アタイも否定しなかった。
父ちゃんは閉じた戸へ向き直った。
「明日は店を開けるな」
孫二娘でございますよォ。
父ちゃんが元締めだったなんて、娘には後回しらしいねェ。
けど、知らされた時にはもう、アタイも縄張りの外じゃなかった。
怖かった。
それでも身体は動いて、三人倒して、張青まで引っ張り起こした。
心理学っぽく言えば、自己効力感ってやつかねェ――
十字坡じゃ、もっと雑だよ。
アタイ、戦えるじゃないか。
そう気付いた翌日、店は初めて戸を閉めるのさ。




