知らないねェ
孫二娘でございま〜す。
昨日、人の肉を普通に切ってたことに気づいて、さすがにアタイも落ち込んだんだよォ。
でも店は休んでくれない。
朝になれば客は来るし、水も酒も出さなきゃならない。
そんな昼前、飯も頼まずに水だけ欲しいって男がやって来た。
どう見ても、腹を満たしに来た客じゃない。
しかも聞かれたのは、行方の分からない旅人のこと。
知ってる。
たぶん、アタイは知ってる。
問題は――
知らないふりなんて、今のアタイにできるのかねェ?
昼前の店は、朝の客が引いて少しだけ静かになっていた。
粥を食べ終えた旅人はもう道へ戻り、泊まり客も荷をまとめている。
父ちゃんは厨房で蒸籠を片づけ、張青は戸口の脇で預かった馬の轡を確かめていた。
アタイは卓を拭き終え、盃を一つずつ布で磨いていた。
昨日のことを考えないようにしていたわけじゃない。
考えないようにする必要すらなかった。
それが、たぶん一番まずい。
包丁の柄を握った感触も、脂のついた刃を拭ったことも覚えている。
人の肉だったことだって忘れていないのに、思い出す時に一番先へ出てくるのは、筋の向きや火の通り方だった。
人肉――
そう言葉にすると胃の奥が重くなる。
でも店へ出れば、客が使った盃を洗い、水を替え、銭を数える。
昨日までと何も変わらない。
いや――変わっているのは、たぶんアタイだけだ。
「お嬢」
戸口で張青が顔を上げた。
道の向こうから、一人の男が歩いてくる。
旅装はきちんとしている。
着物も草鞋もひどく傷んではいないし、腰には旅に必要な程度の荷がある。盗賊には見えない。
でも、腹を空かせた客の歩き方じゃなかった。
店を見つけて喜んだ顔でもない。
何かを探している。
アタイは盃を拭く手を止めなかった。
男は戸口まで来ると、張青を見てから店の中を覗いた。
「やってるか?」
「見りゃ分かるだろォ」
いつもの調子で返すと、男は少しだけ頭を下げた。
「水をもらえるか」
酒でも飯でもなく、最初に水。
別に珍しくない。
そう思う一方で、アタイの目は男の口元を見ていた。
唇はそこまで乾いていない。
喉が渇いて仕方がないというより、何かを話す前に一息入れたい人間に見える。
……いつからアタイは、客が何を注文する前からそこまで見るようになったんだろうねェ。
もう考えたって仕方ない。
「水ならすぐ出すよォ。座りな」
椀へ水を入れ、戸口に近い卓へ置く。
男は座らなかった。
立ったまま椀を取り、一口だけ飲む。
嫌な感じがした。
飯を食うつもりなら座る。
酒を飲むつもりでも座る。
泊まるつもりなら、まず荷を下ろす。
この男は、まだ客になるつもりがない。
「立ったまま話す店じゃないよォ」
「すぐ済む」
やっぱり。
男は椀を卓へ戻した。
「この辺りで、人を見なかったか?」
布を持つ指へ、少しだけ力が入った。
厨房の物音が止まった。
ほんの一瞬だけだった。
すぐに父ちゃんが何かを動かす音が戻る。
張青も馬具を触っている。
誰もこちらを見ない。
なのに、全員が聞いている。
「どんな人だい?」
アタイは聞いた。
自分から。
そのことに少し遅れて気づいた。
知らないと言って終わらせればよかったのに、まず特徴を確認した。
これも仕事か?
それとも、ただ知りたかっただけか。
男は懐から小さな布切れを取り出した。
「三十を少し越えた男だ。俺より少し低くて、右の眉の上に古い傷がある。笛を持っていた」
笛。
胸の奥が、きゅっと縮んだ。
覚えている。
何日か前に来た男だ。
酒を二杯飲んで、肉を頼み、妙に店の奥を気にしていた。
帰さない――
そう判断したのは父ちゃんだったか、アタイだったか。
そこだけが、すぐには思い出せない。
でも笛は覚えている。
腰から下げた細い笛。
酔って卓へ肘をついた時、紐が外れて床へ落ちた。
父ちゃんが拾った。
それから先は――
知らない。
いや、知っている。
知っているけど、そこから先を順番に思い出したくない。
「連れと落ち合うことになってたんだ」
男は続けた。
「先にこっちを通るはずだった。それから何日も戻らない。馬も荷も見つからない」
探している。
ただ、それだけだった。
怒鳴り込んできたわけでもない。
十字坡を疑って刀を抜いているわけでもない。
いなくなった人間を探して、通ったかもしれない店へ一軒ずつ聞いている。
前世なら、人が行方不明になれば警察へ連絡しろと言って終わる話だ。
宋代の街道で、それがどこまで通用するのかは知らない。
そして何より――
いなくなった理由を、アタイは知っている。
「知らないねェ」
するりと出た。
あまりにも普通の声だった。
自分でも驚いた。
男がアタイを見る。
「本当に?」
「この店には毎日いろんな客が来るんだよォ。いちいち眉の傷まで覚えてられないねェ」
嘘だ。
笛を覚えている。
顔も、だいたい覚えている。
ただ、眉の傷は覚えていなかった。
だから全部が嘘というわけじゃない。
そう考えた瞬間、自分の頭の中で何かが勝手に帳尻を合わせた。
違う。
嘘は嘘だ。
一部分だけ本当なら、残りまで本当になるわけじゃない。
そんなこと、心理学者じゃなくても分かる。
なのに、頭は勝手に逃げ道を作る。
「笛を持っていたんだ」
男は食い下がった。
「腰に下げていた。小さな竹の笛だ」
「笛を持つ客なんて珍しくないよォ」
「一人だったはずだ」
「一人の客だって珍しくない」
今度は少しだけ言葉が早くなった。
まずいと思った。
早口になることが嘘の証拠になるわけじゃない。
視線を逸らしたから嘘、手を動かしたから嘘なんて、そんな単純な判定はできない。
前世なら学生にそう教えていたはずだ。
それなのに今のアタイは、自分の声が変わっていないか、指が震えていないかを気にしている。
心理学助教が自分の嘘を素人の嘘発見法で点検してどうするんだよォ。
笑えない。
男の目が店の奥へ向いた。
アタイの身体が少しだけ前へ動いた。
無意識だった。
厨房への視線を遮るほどじゃない。
でも、奥を見やすい位置から少しだけずらした。
「探し人なら役人に聞いた方がいい」
張青が言った。
男が振り向く。
「この辺りで消えたんだ」
「この辺りってのは広いぞ。山道もあるし、渡しもある。野盗だっている」
「それでも、この店に寄ったかもしれない」
「かもしれない客を、全部覚えてる店なんかねぇよ」
張青はそこで馬具へ目を戻した。
うまい。
そう思ってしまった。
「覚えていない」とは言っていない。
全部は覚えていない。
それだけだ。
言葉の隙間へ、自分の知っていることを押し込めている。
そのやり方を見て、アタイは感心してしまった。
最悪だ。
十字坡、いつから嘘の実地研修まで始めたんだ。
受講料を返せ。
いや、払ってないけど……
男は再びアタイを見た。
「女将さん」
「アタイは女将じゃないよォ」
反射で返した。
男が少し困った顔になる。
「じゃあ……二娘さん」
名前を知っている。
道で聞いてきたのだろう。
十字坡へ行けば、若い二娘という女が店にいる。
そんな話が、この辺りではもう普通に通じるらしい。
「本当に知らないか?」
まっすぐ聞かれた。
今度は逃げられない。
知らないふりをするなら、ここだ。
いや、もうしている。
でも、この一言は違う。
相手が知りたいことを分かったうえで、正面から答える。
アタイは卓の椀を取った。
水が少し減っている。
水差しを傾けて足した。
「知らないねェ」
二度目だった。
一度目より簡単だった。
そのことに気づいた瞬間、背中が冷えた。
男は黙った。
怒るかと思った。
疑うかと思った。
奥を見せろと言われたらどうするかまで、頭の中で勝手に考えていた。
奥を見せろと言われたら、父ちゃんが出て張青が戸口を塞ぎ、アタイは他の客を遠ざける――そこまで一瞬で対処の順番を組み立てていた。
来るな。
そんな状況、来るな。
なのに頭だけは、もう次に何をするか分かっている。
しばらくして、男は懐から銭を一枚出した。
卓へ置く。
「水代だ」
「水じゃ銭は取らないよォ」
「聞いた礼だ」
「何の役にも立ってないだろ」
「それでもだ」
男は小さく頭を下げた。
やめてくれ。
礼なんか言うな。
怒ってくれた方がましだった。
嘘つきと言われれば、こっちも構えられる。
でも礼を言われたら、何を返せばいい。
「もし思い出したら――」
「旅人なんて、どこへ行くか分からないもんだよォ」
アタイは男の言葉を途中で切った。
頼まれたくなかった。
見つけたら教えてくれなんて言われたくない。
男は口を閉じる。
「……そうだな」
そして戸口へ向かった。
張青が身体をずらし、道を空ける。
男は外へ出る直前に振り返り、アタイや父ちゃん、張青だけでなく、厨房や階段まで順に見た。
何かを覚えて帰ろうとしている目だった。
また来るかもしれない。
今度は一人じゃないかもしれない。
役人か、仲間か、それとももっと面倒なのを連れてくるかもしれない。
その可能性を考えた時、最初に浮かんだのは――
怖い、ではなかった。
どうする。
だった。
男が道へ出た。
風が入り、正月から残った赤い紙の端を揺らした。
足音が遠ざかる。
店の中へ静けさが戻った。
父ちゃんが厨房から言った。
「二娘」
「何さ」
「水を替えろ」
それだけだった。
知らないと言ったことを褒めない。
顔に出なかったことも褒めない。
男を帰した判断についても何も言わない。
たぶん父ちゃんにとっては、褒めるようなことですらない。
店を守るなら、そうする。
それだけなのだ。
アタイは椀を下げた。
卓には銭が一枚残っている。
水代ではない。
聞いた礼だ。
嘘を教えた相手からもらった礼。
指でつまむと、驚くほど軽かった。
「お嬢」
張青が呼んだ。
「何さ」
「顔に出なかったな」
「出したら終わりだろォ」
答えてから、手が止まった。
出したら終わり。
だから出さない。
今のアタイは、そこまで分かっていた。
怖いから隠したんじゃない。
店を守るために隠した。
父ちゃんを守るためなのか、張青を守るためなのか、自分を守るためなのか。
たぶん全部だ。
そして一番嫌なのは、その中へ十字坡そのものまで入っていることだった。
「さっきの男、また来るかもしれねぇぞ」
張青が言う。
「来たら水を出すよォ」
「それだけか?」
「飯を頼めば飯も出す」
「また聞かれたら?」
アタイは古い水を捨てた。
土へ吸い込まれて、すぐ見えなくなる。
「知らないって言う」
張青は何も返さなかった。
新しい水を桶へ入れる。
水面が揺れた。
そこへ自分の顔が映る。
紅はまだ薄く残っている。
目も普通。
口元も普通。
さっきまで、人を探しに来た男へ嘘をついていた女には見えない。
それなら上手くできたということだ。
そう思った。
思えてしまった。
アタイは手で水面を崩した。
「二娘、客だ」
父ちゃんの声が飛んだ。
道の向こうから二人連れが来る。
一人は腹を押さえている。
もう一人は店を見るなり、酒甕へ目を向けた。
飯と酒。
たぶん普通の客。
その「たぶん」だけで十分だと、もう身体が知っている。
「二娘ちゃん、飯あるかい?」
「あるよォ」
自然に笑えた。
水を置き、注文を聞く。
奥では饅頭が蒸し上がっている。
昨日、自分が切った肉の厚さまで覚えている。
さっきの男が探していた相手と同じなのかは、分からない。
分からないことにできる。
そうすれば店は回る。
客は笑って酒を頼んだ。
アタイも笑って返した。
知らないと言った。
二度も言った。
昨日、人の肉を切っていた時より――
ずっと簡単だった。
それが、一番嫌だった。
孫大娘と孫二娘、二人合わせて孫姉妹で〜す!
「姉ちゃん、アタイ今日、人探しに来た客へ普通に嘘ついた」
「顔に出た?」
「出なかった」
「じゃあ上出来じゃないか」
「その評価やめろォ!」
しかも二回目の「知らないねェ」の方が、一回目より楽だったんだよ。
「慣れたんじゃないか?」
「人肉の次は嘘まで慣れたくない!」
姉ちゃんは笑いながら、酒甕の数を確認している。
「でも店を守ったんだろ?」
「……そこなんだよねェ」
嘘をつけたことより、その理由を自分で分かってたことの方が怖い。
「じゃあ次はもっと自然に――」
「上達させようとするなァ!」




