20.さよならとありがとう
「もう荷物は魔塔に運んであるよ。」
「そう。」
レイの言葉に、ディアナは短く返した。
かつての屋敷はすでに空っぽだった。
装飾も、思い出も、必要最低限を残して全て片付けられている。
「何かやり残したことはない?」
「やり残したことって何よ?」
ディアナはレイを睨む。
「ごめんごめん、言葉のあや。」
レイは慌てて手を振った。
「ちょっと待って。」
ディアナが足を止める。
「最後に会っておきたい人がいるの。」
「その人って誰?」
ディアナからその名を聞いた時、レイは目を見開いた。
そして――空間が裂けた。
場所は変わり、王都郊外の建築現場。
かつて王太子だったアイルは、今は元側近達と共に汗を流していた。
重い丸太を担ぎ上げる。
手の皮はもうボロボロだ。
それでも誰も文句は言わない。
それが“平民”という立場だった。
「・・・っ、重いなこれ。」
息を吐いた瞬間。
目の前の空間が歪んだ。
「え?」
裂けるように開いた空間から、ディアナが現れる。
作業場の空気が一瞬で止まった。
「・・・何の用、ですか。」
アイルは唇を噛みしめる。
もう自分は王太子ではない。
貴族でもない。
ただの労働者だ。
だから敬語を使うしかない現実が、余計に胸を締め付けた。
「言いたいことがあるの。」
ディアナは真っ直ぐアイルを見た。
その視線に、アイルは思わず肩を強張らせる。
「たくさん迷惑かけてごめんなさい。」
「・・・は?」
アイルは間の抜けた声を出した。
「魅了にかかっていたとはいえ、貴方をたくさん困らせていたのを思い出したの。だから、ごめんなさい。」
アイルの口がハクハクと動く。
「な、なんで謝るんだ? 魅了にかかったのは母上のせいで、僕のせいでもあるんだぞ!」
声が震える。
自分の責任を主張したい訳じゃない。
ただ、彼女が謝る理由が分からなかった。
ディアナは一瞬だけ視線を落とす。
「確かに魅了にかけられたのは許せない。」
ダイアナは静かに言う。
「だけど、嫌がる貴方を追い回したり、勉強の邪魔をしたり、夜這いまでした。」
現場の空気が凍る。
「それに、シャーロットさんを殺そうとした。」
アイルの拳が震える。
「だから謝りたかったの。」
ディアナは続ける。
「魅了で人生はめちゃくちゃになったけど・・・半分は許してあげようと思う。」
アイルの目が見開かれる。
「側妃様も厳重な場所から一生外に出られないって聞いたしね。」
その言葉に、アイルの目から涙が零れた。
「・・・なんで、許せるんだ。」
声が涙声になる。
「おかしいだろ・・・そんなの。」
ディアナは少しだけ困ったように笑った。
「おかしいのは、変な魔塔主と一緒にいたからかも。」
その言葉に、ほんのわずかな沈黙が落ちる。
アイルは深く息を吸った。
そして、ゆっくりと頭を下げた。
「ごめんなさい・・・そして、ありがとう。」
涙が落ちる。
ぽた、ぽた、と土に染み込んだ。
「半分でも許してくれて、ありがとう。」
「ふふ。」
ディアナは小さく笑う。
その笑顔は、昔の彼女とは少し違っていた。
でも確かに、穏やかだった。
「じゃあ、さようなら。」
「ああ、さようならだ。」
その言葉を最後に。
二人の距離は、もう二度と交わることはなかった。
現れた空間の裂け目にディアナは消えていった。
「ねぇディアナさんいたよね!」
建築現場に、場違いな明るい声が響いた。
シャーロットだった。
周囲の空気とはまるで噛み合っていない。
「魔塔主様は?魔塔主様は私を助けにきた?」
無邪気な笑顔で周囲を見回す。
だが、そこにいる誰もが反応しなかった。
アイルは一瞬だけ視線を向ける。
それだけだった。
元側近達も同じように、無言で作業へ戻る。
冷たいというより、関心がない。
「僕は仕事に戻るとするよ。」
アイルは短く言うと、再び丸太を持ち上げた。
重さは相変わらずだ。
だが、もう文句を言う者はいない。
それが今の生活だった。
「あーあ、魔塔主様早く迎えに来ないかなぁ。」
シャーロットは空を見上げながら呟く。
まるで夢の中にいるような声だった。
そのたびに現場監督が怒鳴る。
「おい!遊んでる暇はねぇぞ!」
「はーい。」
返事だけは元気だ。
だが手は動かない。
周囲の視線は冷たい。
誰も彼女に関わろうとしない。
最初は同情もあった。
だが今はそれすら薄れていた。
ただの“扱いづらい人間”。
それ以上でも以下でもなかった。
数年後。
アイルは現場での働きを評価され、少しずつ給料が上がっていた。
元側近達もそれぞれの道を歩き始めている。
真面目に働き、家族を持つ者もいた。
汗と努力で積み上げた、ささやかな生活。
それでも確かに“自分の人生”だった。
その一方で。
シャーロットは変わらなかった。
「あ、魔塔主様だ!」
誰もいない空を指さして笑う。
誰も振り返らない。
誰も答えない。
彼女の声だけが、現場に虚しく響く。
やがてその言葉に反応する者もいなくなった。
呼びかけても。笑っても。泣いても。
そこに“関係する人間”は、もう誰もいなかった。
それが彼女だった。




