10.バロンの傷
第三王子バロン・ヨランドは執務室で新聞を読んでいた。
次の瞬間、その新聞は机へと叩きつけられた。
乾いた音が室内に響く。
「ふざけるな・・・。」
バロンの顔は怒りに歪んでいた。
机の上に広げられた新聞には大きな見出しが躍っている。
【公爵令嬢の悲劇 魅了の悪夢】
内容はディアナ・アレスターを悲劇の令嬢として描いたものだった。
平民の少女シャーロットが王太子妃の座を狙い、後ろ盾を得るためにディアナへ魅了をかけた。
ディアナが邪魔になった側妃も共謀している。
王太子アイルはそれに気付かず利用されていた。
ディアナは禁忌魔法の被害者だった。
そんな内容だ。
「何が魅了だ・・・!」
バロンは吐き捨てた。
「時系列も滅茶苦茶じゃないか!」
新聞を握り潰す。
「シャーロットが現れる前から、ディアナは変わっていた!」
怒りが込み上げる。
誰よりもディアナに傷付けられたのはバロン自身だった。
婚約者だった。
幼い頃から共に育った。
将来を誓い合った相手だった。
だからこそ知っている。
ディアナが少しずつ変わっていく姿を。
冷たくなっていく姿を。
自分を見下すようになった姿を。
そして最後には――。
『お前なんかよりアイル様の方が素敵ですわ。』
『たかが第三王子の分際で図に乗らないでくださる?』
『愛してる?気持ち悪いですわね。』
あの日の言葉は今でも忘れられない。
三年経った今でも。
傷は癒えていない。
今でも胸が痛む。
「今更被害者だと・・・?」
笑わせるな。
そう思った。
だが。
不意に別の光景が脳裏をよぎる。
『バロン様!』
あの日の声だった。
寝巻き姿で。
裸足のまま。
髪を振り乱して。
必死に自分を追いかけてきたディアナ。
『お願い話を聞いて!』
涙でぐしゃぐしゃになった顔。
『バロン様!』
今まで見たことのない姿だった。
誇り高く。
誰よりも気丈だったディアナが。
あんなにも必死な顔をしていた。
あれは演技だったのか。
本心だったのか。
分からない。
分からないが――。
確かに心は揺れた。
ほんの一瞬だけ。
ほんの少しだけ。
昔のディアナを思い出してしまった。
庭園で笑っていた少女を。
一緒に本を読んだ日々を。
未来を語り合った時間を。
思い出してしまった。
「っ・・・。」
バロンは拳を握る。
爪が掌に食い込んだ。
そして湧き上がるのは怒りだった。
自分自身への怒り。
揺らいでしまった事への怒り。
許しそうになった事への怒り。
「駄目だ。」
小さく呟く。
「僕達はもう昔には戻れない。」
ディアナが何を言おうと。
何が真実だろうと。
失われた三年は戻らない。
傷付けられた日々は消えない。
そして何より――。
今の自分には守るべき人がいる。
バロンは机の引き出しを開いた。
そこには婚約者の肖像画が入っていた。
優しく微笑む女性。
彼が心から愛している人。
彼の未来。
彼の幸せ。
もう失いたくないもの。
バロンは静かにその絵に触れた。
「僕はもうすぐ結婚するんだ。」
誰に向けた言葉なのか。
自分でも分からなかった。
「愛する人と。」
だから。
だからもう。
「これ以上・・・。」
震える声が漏れる。
「僕の前に現れないでくれ・・・。」
その表情は苦しみに歪んでいた。
まるで泣くのを必死に堪えているように。
怒っているはずなのに。
憎んでいるはずなのに。
どうしても心のどこかに残っている。
幼い頃に愛した少女の面影が。
だからこそ苦しかった。
忘れたいのに忘れられない。
許せないのに憎み切れない。
そんな矛盾を抱えたまま、バロンは潰れた新聞から目を逸らしたのだった。




