第七話 役立たずとは
「何だ、これ」
ダインが下書きを見下ろした。
四行しかない。三十分以上かけて調べた結果にしては、紙の白いところのほうがずっと多かった。
「今日、確認できたものです」
「見れば分かる」
「このうち、事実でないものはありますか」
ダインの目が、一行目から順に下りていった。最後の行まで読んで、もう一度上へ戻り、また下りる。
「……ない」
「トールさんは」
「ない」
エナは頷いた。
「では、この四つは残します」
「待て」
ダインの手が、下書きを上から押さえた。
「役立たずもだ」
エナは隣の申請書に目をやった。
戦闘貢献なし。役立たずにつき除名
会議が始まったときから、ずっとそこにある一行だった。
「それは、残せません」
「何でだ。根拠は出しただろ」
「はい。出していただきました」
ダインの指が、下書きの一行目を叩いた。
「討伐数は最下位だ」
「はい」
「撤退も七回」
「はい」
「苦情は六件だぞ」
「はい」
「だったら同じだろ」
「私が確認できたのは、この四つまでです」
「最後のはこいつに有利な数字だろ」
「有利かどうかは、書いていません」
ダインが黙った。
エナは下書きを、自分のほうへ引き戻した。
「この一年、討伐数が隊内で最下位だった。同じ一年、同行した戦闘十一件で、撤退を七回提案した。隊員から苦情の申し立てが六件あった。加入してから同行した依頼で、死亡者がいなかった。ここまでは、署名できます」
「その四つを合わせたら、役立たずってことだろ」
「それは、どなたが決めますか」
「俺だよ。リーダーなんだから」
「でしたら、ダインさんの判断です」
「そうだ」
エナは申請書の一番下を、指先で示した。
記録書記の署名欄。まだ空いている。
「ここに署名するのは、私です」
ダインの口が止まった。
エナも、それ以上は続けなかった。言葉を足している時間は、もうない。
「一つだけ、確認させてください」
「まだあるのかよ」
「これで最後です」
エナは先に、トールのほうを向いた。
「銀狼の牙がこれからも上の等級を目指して、危険度の高い依頼を受け続けるとしたら、残りますか」
「残らない」
即答だった。
次に、ダインのほうを向く。
「トールさんがこれからも撤退や辞退を言い続けるとして、それを認めたうえで、一緒に続けられますか」
「無理だ」
こちらも早かった。
エナは申請用紙の束から、新しい一枚を抜いた。申請区分の合意脱退に丸をつけ、理由欄にペン先を置く。
任務方針の不一致
ダインの眉間に皺が寄った。
「おい」
「お二人に確認しました」
「俺はそれで出してない」
「はい」
「除名で出した」
「それも確認しています」
エナは用紙をくるりと回して、署名欄をダインの正面に向けた。
「変更されるなら、こちらに署名をお願いします」
「変更しないなら」
エナは元の申請書を指した。
「元の理由欄を外して、確認できた三つを除名理由として記載します。四つ目は、調査記録として添付します」
ダインが下書きを見た。四行の中に、自分が最初に書いた言葉は一つもない。
「それで、除名にはできるのか」
「できます」
「なら、それでいい」
エナはペンを取った。
「ただ」
「何だよ」
「次の加入審査では、除名理由と調査記録がそのまま開示されます」
「だから何だ」
「何でもありません。確認です」
ダインが、嫌そうな顔をした。
視線が、もう一度四行を下りていく。
一番下の行で止まった。
それから、元の申請書へ移る。二重になぞられた除名の丸の上で、また止まった。
今度は長かった。
壁の時計の針が、音もなく一つ進んだ。
「……合意脱退にしたら、これは」
「調査記録は、課に残ります。審査には出ません」
「苦情も」
「苦情簿には残ります」
「撤退の七回も」
「戦闘記録には」
「全部残るじゃねえか」
「はい」
「……消すわけじゃないんだな」
「消しません」
ダインが、鼻から長く息を吐いた。
トールは黙っていた。自分の明日がかかっているのに、署名を急かそうともしない。腕も組まず、ただ机の上の記録を見ていた。
ダインがペンを取った。まだ書かない。
「こいつが辞めるのは、変わらないんだな」
「変わりません」
エナがトールを見ると、トールも頷いた。
「変わらない」
ダインは、それ以上何も言わなかった。
ペン先が紙に触れる。ダイン・ローデル。書き終わりの最後の一画だけが、妙に長く伸びた。
エナはすぐに用紙をトールのほうへ回した。
「こちらも」
「ああ」
トールは迷わなかった。ダインの名前の下に、几帳面な字で自分の名前を書く。トール・グレン。
二人の名前が、上下に並んだ。
エナは受付印へ手を伸ばしかけて、そこで止めた。
「トールさん」
「何だ」
さっき、理由なんて何でもいいと言った男が、こちらを見ていた。
エナは署名の並んだ用紙を、一度だけ見下ろした。
「辞めることと、いなかったことにするのは別です」
トールは何も言わなかった。
机の上に広がったままの記録に、目を落とす。斜めに傾いた三枚と、まっすぐな字で埋まった残りの頁に。
しばらくして、
「……そうか」
とだけ言った。
エナは受付印を持ち上げた。壁の時計は、十六時五十九分。
判を押す。乾いた音が、第三会議室に一つ響いた。
受付済
「間に合いました」
ダインが、椅子の背に倒れこんだ。
「二度とお前に書記を頼みたくない」
「担当は選べません」
「最悪だ」
「次回もよろしくお願いします」
「次回があってたまるか」
エナは書類を揃えた。
その横で、トールが足元の旅嚢を持ち上げて、肩に掛けた。
「じゃあな」
ダインが言った。
「ああ」
それだけだった。握手も、謝罪も、仲直りもない。
トールは扉へ向かい、取っ手に手をかけたところで、一度だけ振り返った。
「エナ」
「はい」
「用事、間に合うといいな」
エナの手が止まった。
「……何のことですか」
「机の下で、ずっと靴が扉のほう向いてた」
エナは自分の足元を見た。
会議が始まったときに伸ばした靴の先は、確かにまだ扉のほうを向いていた。
「最初からですか」
「最初からだ」
トールは笑って、扉の向こうへ出ていった。
足音が廊下を遠ざかっていく。
エナは揃えた書類を抱え直して、自分の議事録を開いた。
日付しか書かれていなかった。




