第六話 それでも、辞めます
「残るつもりはない」
トールはもう一度、今度は言葉を足して言った。
迷った様子はなかった。
「確認します。残留の意思はない、でよろしいですね」
「ない」
「分かりました」
エナは下書きに目を戻した。
四行も調べれば、何か一つくらいは話が変わるものだと思っていた。変わったのは紙の上の行数だけで、本人たちの意思は、会議が始まったときから一歩も動いていない。
「俺も、残ってほしいとは思ってない」
ダインが言った。
トールがそちらを見る。
「分かってる」
「お前がいると、勝てる戦いまで引かされる。そんなんじゃ上に行けない」
「そうだな」
「そこで頷くなよ」
「間違ってないからな」
ダインの眉間に皺が寄った。それでも、さっきのようには声を荒げなかった。
「俺は、もっと上に行きたい。今より強い魔物を狩って、等級を上げて、銀狼の牙をもっと上の隊にする」
「知ってる」
「だったら」
「俺は、全員で帰れる依頼を選びたい」
ダインの口が止まった。
トールは机の上の記録ではなく、ダインの顔を見ていた。
「勝てるかもしれないなら行く、じゃなくて、帰れると思ったら行く。俺はそっちがいい」
「それじゃ上がれない」
「たぶんな」
「俺は上がりたい」
「だから抜ける」
そこで、話が終わった。
エナは二人を交互に見た。どちらも、相手を説得しようとしていない。
三十分以上かけて数字を数え、地下から古い箱まで抱えて上がってきて、ようやく出てきた答えが、最初から二人とも知っていたものだった。
少し腹が立った。
「最初にそれを話していただければ、もう少し早く終わったのでは」
「話した」
ダインが言った。
「何度もな」
「まとまらなかった」
トールが続けた。
「でしょうね」
それはエナにも想像がついた。
危険を取ってでも上へ行きたい男と、帰れる範囲で仕事をしたい男。どちらが正しいのかを決めるのは書記の仕事ではないし、決めたところで、二人がまた同じ隊で歩けるようになるわけでもない。
エナは申請書を引き寄せた。
「でしたら、除名ではなく合意脱退に変更できます」
ダインの目が、申請書に落ちた。
「何が違う」
「除名の記録が残りません。お二人の署名があれば、合意脱退として処理できます」
ダインは答えなかった。
視線が申請区分の欄へ移り、二重になぞった太い丸の上で止まる。
そこから動かなかった。
「ダイン」
トールが言った。
「いい」
「何が」
「除名で」
今度は、エナがトールを見る番だった。
「いいんですか」
「ああ」
「除名の理由は、次の加入審査で開示されます」
「知ってる」
エナの目が、申請書の右端に落ちた。
加入審査時開示
会議が始まってすぐ、ほとんど手癖で押した判だ。とっくに乾いている。
「役立たず、もです」
「それでいい」
返事は早かった。
「本人の同意があっても、理由欄の決まりは変わりません」
「俺はいい」
「規則の話です」
「今日抜けられるなら、理由は何でもいい」
トールが壁の時計を見た。十六時五十三分。
それから屈みこんで、足元の旅嚢の取っ手を、自分のほうへ引き寄せた。
「明日の朝、北門から商隊が出る」
ダインが眉を寄せた。
「商隊?」
「護衛を募集してる。出発の前に、最後の一人を決めるらしい」
「お前が出るのか」
「応募する」
ダインが、何とも言えない顔をした。笑いかけたのでも、怒りかけたのでもない。
「商隊の護衛なんかでいいのか」
「俺には合ってる」
「魔物を倒す仕事じゃないぞ」
「荷物を届ければいいんだろ」
「……まあ、そうだけどよ」
トールは旅嚢から手を離した。
「ただ、今の隊に籍があるうちは応募できない。掛け持ちは駄目なんだと」
エナは、机の下の旅嚢を一度だけ見た。
会議に持ってくるには大きすぎる荷物だと、最初に思ったことを思い出した。
「今日の所属変更は、十七時までです」
「ああ」
「間に合わなければ」
「一人で出す脱退届は、ひと月の予告期間が要る」
知っていた。
「明日の審査は」
「受けられない」
あと七分。
合意脱退に切り替えるなら、申請区分を直して、理由欄を書き換えて、双方から署名をもらう。間に合わない時間ではない。
ダインが首を縦に振れば、の話だった。
「ダインさん」
「俺は除名で出した」
返事は、エナが言い終わる前に来た。
人の話を最後まで聞かずに頷く男は、断るときも早かった。
「変更には、双方の署名が必要です」
「知ってる」
「トールさんは脱退に同意しています」
「それも知ってる」
「でしたら」
「除名でいいって、本人が言ってるだろ」
ダインの指が、申請書の太い丸を上から押さえた。
それ以上は、何も言わなかった。
エナも、それ以上は訊かなかった。
「エナ」
トールに名前を呼ばれた。
「そのままでいい」
「そのまま、とは」
「役立たずで」
会議室が静かになった。
「俺がいいって言ってる。理由なんて何でもいい。今日抜けられないほうが困る」
トールは、もう時計を見ていなかった。エナを見ていた。
エナは申請書に目を落とした。
戦闘貢献なし。役立たずにつき除名
その下には、確認可能な事実のみ、の注意書き。さらにその下に、記録書記の署名欄。
まだ空いている。
ここに名前を書けば、それで済む。本人が了承していて、申請者も望んでいて、追放そのものには誰も異議がない。十七時にも間に合うし、大通りの角の焼き菓子屋にも、たぶん間に合う。
エナはペンを持ち直した。
署名欄の端まで、ペン先を運ぶ。
そこで止まった。
「どうした」
ダインが訊いた。
エナは答えなかった。
申請書の隣には、会議のあいだずっと書き足してきた下書きがある。四行とも、一つずつ確かめた字だった。
その四行の下に役立たずと書けば、今日の会議は終わる。本人まで、それでいいと言っている。
エナは、ペン先を紙から離した。
「……何だよ」
ダインの声に、嫌な予感が混じった。
壁の時計は、十六時五十五分を指している。
エナは下書きを一枚、ダインの前へ滑らせた。




