第五話 数えていない欄
一枚目は、軽傷一。任務継続。
二枚目、なし。三枚目も、なし。
エナは負傷者の欄だけを追って、記録をめくっていった。
討伐数を数えたときよりずっと早い。見る欄は一つだけで、数字を足す必要もない。指で欄をなぞって、次の頁へ行く。それだけの作業だ。
ただ、なしを一つ拾うたびに、指先がほんの少しずつ重くなっていく気がした。
なし。軽傷二。なし。なし。
几帳面な字は、何もないときでも律儀になしと書いていた。空欄で済ませればいいものを、毎回、同じ大きさの同じ二文字で。
十四件を最後までめくって、エナは別紙に目を落とした。
「何だった」
ダインが訊いた。
「少し待ってください」
「もう数えただろ」
「数えたので、確かめています」
「同じじゃないのか」
「違います」
どう違うのかを説明すると長くなるので、エナは黙って、もう一度頭から見直した。
数字は変わらなかった。
この一年で、戦闘のあった依頼が十四件。死亡者はゼロ。重傷者は、二人。
そのうちの一人の欄で、エナの指が止まった。
見覚えのある頁だった。数字が斜めに傾いて、桁がまるで揃っていない。討伐数を足していたときに桁をずらされた、あの字の汚い三枚のうちの一枚だ。
エナは残りの二枚も抜き出して、三枚を机の上に並べた。
「これ、どなたが書いたものですか」
「知らん」
ダインが一枚を指で引き寄せた。
「たぶんケインだろ。あいつ、字が汚いから」
「俺じゃないのは確かだ」
トールが言った。
「それは見れば分かります」
「ひどいな」
「褒めてます」
「そうか?」
「字は」
トールが黙った。
三枚とも、記録者の署名欄にはケイン・バースとある。ダインの言うとおりだった。
隊員の欄に指を移す。ダイン、ミルザ、ケイン、セラ。名前はそこで終わっていた。
ほかの頁では一番最後にあった名前が、この三枚にだけない。
「トールさん」
「何だ」
「この三件、参加していませんね」
「ああ」
「理由は」
「一件は熱。一件は装備の修理。もう一件は」
トールは少し考えた。
「腹を壊した」
「それは覚えてる」
ダインが言った。
「お前、出発前に絶対行けるって二回言って、そのあと吐いただろ」
「吐いたら無理だった」
「最初から無理だったんだよ」
「その話、記録に要りますか」
「要らない」
「では戻します」
エナは三枚に目を落とした。
負傷者の欄は、重傷一、軽傷二、なし。
十四件のうち、トールが同行していないのが三件。重傷者が出たのは、そのうちの一件。
残りの十一件を、もう一度だけ確かめる。軽傷はいくつかある。重傷は。
「トールさんが同行した十一件では、重傷者は一人です」
ダインの顔が、わずかに動いた。
「……一人?」
「はい」
「誰だ」
「去年の秋の岩角猪。ケインさんです」
「ああ」
先に反応したのはトールだった。
「左腕だ」
「折れたやつか」
「折れてない。ひびだ」
「お前、そこまで訂正するのか」
「折れたのとひびは違う」
エナは記録を確かめた。
左前腕骨亀裂。治療院へ搬送
「ひびですね」
「お前もいい」
ダインが、払うように手を振った。
エナは下書きに戻った。二行目の十四件に、細い線を一本引く。
トールがいなかった三件の備考欄は、どれも白かった。いない人間は、撤退を提案できない。
線の横に、一行を書き直した。
直近一年の同行戦闘十一件中、撤退提案 七回
「おい」
ダインが覗き込んだ。
「増えてるじゃねえか。割合が」
「分母を直しました」
「十一件のうち七回なら、半分より多いぞ」
「はい」
トールは何も言わなかった。自分に不利なほうへ直された一行を、黙って見ていた。
エナは十一件を揃えて、その端を指で押さえたまま考えた。
一年分だけでは、何とも言えない。たまたま運のいい一年だったのかもしれないし、楽な依頼ばかりだったのかもしれない。比べる相手がいない数字は、ただ並んでいるだけだ。
「トールさんが銀狼の牙に入ったのは、いつですか」
「去年の夏の頭だ」
ダインが答えた。
「正確には」
「覚えてない」
「六月十二日」
トールが言った。
ダインが横を向く。
「そういうのは覚えてるんだな」
「契約した日だからな」
エナは壁の時計を見た。十六時四十四分。
それから、記録箱を見た。
ダインが、嫌なものを察したような顔をした。
「何だ」
「加入前の記録も見ます」
「まだ見るのか」
「比べるものがないので」
「何と何を比べるんだよ」
エナは椅子から立ち上がった。
「まだ決めていません」
「またそれか」
古い記録は地下にあった。
階段を駆け下り、一つ前の年の棚から銀狼の牙の箱を抜き出し、抱えて駆け上がる。上りの途中で後悔した。過去というのは、物理的にも重いものらしい。
第三会議室に戻ると、ダインが机に肘をついて待っていた。
「何分かかった」
「三分です」
「残りは?」
「訊かないほうがいいと思います」
「訊いた俺が悪かった」
エナもそう思った。
古い箱を机に下ろして、蓋を開ける。
一昨年の十月、銀狼の牙の結成から、去年の六月十一日まで。トールが来る前の八か月分だ。
エナは負傷者の欄だけを拾っていった。軽傷は飛ばして、重傷と死亡だけを別紙へ移す。
一件、二件、三件。
この箱の字は、どれも斜めに傾いていた。
四件、五件。
途中で、指が止まった。
《死亡 一》
エナが記録者の欄に目を移すより先に、向かいから声がした。
「ロイだ」
ダインだった。
記録を覗きこんでもいない。椅子の背に体を預けたまま、天井のほうを見ている。
エナはその頁に小さく印をつけた。何も言わずに、最後までめくる。
「……何人だ」
ダインが訊いた。急かす声ではなかった。
「加入前の八か月で、重傷者が五名」
エナは一度、別紙の数字を確かめた。
「死亡者が、一名です」
誰も喋らなかった。
扉の向こうを台車が通っていく。ごろごろという車輪の音が扉の前を横切り、廊下の奥へ遠ざかって消えてから、ダインが口を開いた。
「それは」
そこで一度止まる。
「俺たちが、まだ慣れてなかった頃だ」
「はい」
「今とは違う。装備も悪かったし、等級も低かった。受ける依頼の選び方だって、今ほど分かってなかった」
「そうですね」
エナは否定しなかった。
結成したばかりの八か月と、その後とでは、経験も装備も、受けた依頼の中身も違う。そこへ一人増えたから数字が変わった、とは決められない。
だから、そうは書かない。
「書くなよ」
ダインが言った。
「あの頃のやり方まで、間違ってたみたいに」
「書きません」
ダインは、それ以上何も言わなかった。
「こいつが入ってからは」
ダインが訊いた。
「全部で一年四か月分です。今の箱が一年分なので、残りの四か月は、こちらの箱の後ろに入っています」
エナは古い箱の頁を先へ送った。
去年の六月十二日。隊員の欄の一番最後に、トール・グレンの名前が初めて出てくる。
そこから字が変わった。斜めだった数字がまっすぐ立ち、桁がきちんと揃い、負傷者の欄に律儀な二文字が並びはじめる。
なし。軽傷一。なし。なし。
加入した日から記録を頭まで見直すと、隊員の欄にトールの名前がないのは、さっき抜き出した三件だけだった。
古い箱の四か月分と、今の箱の一年分を合わせて、エナは別紙に数字を書いた。
トールの加入後、一年四か月。トールが同行した依頼での死亡者、ゼロ。重傷者、一。トールが同行しなかった三件では、重傷者が一。
ペン先が、別紙の上で止まった。
トールのおかげで死者が出なかった、とは書けない。トールが重傷を防いだ、とも書けない。
書けるのは、数えた結果だけだ。
エナは下書きの四行目に書いた。
《加入後一年四か月の同行依頼における死亡者 ゼロ》
ダインが、その一行をじっと見ていた。
「……それも書くのか」
「事実なので」
「ロイのことは」
「別紙に残します」
「重傷者も」
「残します」
「こいつがいなかった三件も」
「残します」
ダインは黙った。
エナは下書きを上から読み直した。討伐数が最下位で、撤退の提案が七回で、苦情が六件で、同行時の死亡者がゼロ。
同じ紙に四行並べると、トール・グレンがどういう人間なのか、さっきよりかえって分からなくなった。
「だから何だ」
ダインが言った。
「はい?」
「死ななかったから何だって言ってる」
声は荒くなかった。むしろ、会議が始まってからいちばん落ち着いていた。
「俺たちは冒険者だ。危ない場所へ行って、魔物を倒して、その分の金をもらう」
ダインの指が、下書きの四行目を軽く叩いた。
「死ななかっただけで優秀だって言うなら、街から一歩も出ない奴が一番優秀だ」
エナは何も言わなかった。言い返すところが見つからなかった。
「それはそうだな」
トールが言った。
今度はダインのほうが、少し驚いた顔で横を向いた。
「お前が言うのかよ」
「間違ってない」
「じゃあ何なんだよ」
「何が」
「お前は、何がしたいんだ」
トールはすぐには答えなかった。
机の下の、会議が始まったときからずっとそこにある旅嚢に、一度だけ目を落とす。
エナは、その視線の行き先を見ていた。
壁の時計は、十六時五十一分を指している。
「トールさん」
エナは訊いた。
「このパーティーに、残りたいですか」
トールが顔を上げた。
「いや」
返事だけは、会議が始まったときと同じくらい早かった。




