第八話 次の町まで
翌朝、窓口が開いてすぐに、トール・グレンがまた来た。
エナは顔を上げて、まず相手の足元を見た。
見覚えのある旅嚢が置かれている。口紐は昨日と同じ形に固く結ばれていて、端の長さまできちんと揃っていた。肩には丸めた外套、腰には剣が一本。昨日より、少しだけ遠くへ行く人の格好になっていた。
エナのほうは、昨日と大して変わらない。受付のあとの処理を片づけて外へ出たころには、大通りの角の焼き菓子屋の棚は、もう空になっていた。
「審査は、どうなりましたか」
「これから」
トールは一枚の紙を窓口に置いた。
冒険者活動実績証明書 発行申請
「これを持ってこいって言われた」
「少々お待ちください」
実績証明書なら、本人の申請で発行できる。受けた依頼ごとに、依頼名と結果、負傷者の欄、備考を転記する決まりの書類だ。除名の記録がない以上、理由欄というものはそもそもない。
エナは棚から銀狼の牙の記録を出した。今の箱と、地下から運んだ古い箱の両方を。
討伐数の欄だけは、在籍した期間の通算を書く決まりになっている。加入した日から四か月分を遡っても、トールの数字は一つも増えなかった。
「討伐数も載ります」
「ああ」
「四です」
「知ってる」
「泥蛙を含めて」
「そこは大事だからな」
エナは証明書に転記していった。参加した依頼を古い順に並べて、一件ずつそのまま写す。討伐数のほかは、足したり数えたりはしない。実績証明書は集計表ではないし、昨日のような会議でもない。
どこに何が書いてあるかは全部知っているので、手はずいぶん速かった。
最後に判を押して、窓口越しに渡す。
「どうぞ」
「ありがとう」
「間に合いますか」
「隣だからな」
トールが指さした先は、受付広間の端だった。
普段は依頼主との面談に使われる小卓に、旅装の商人らしい男が一人座っている。エナの窓口からでも、顔の皺が見える距離だ。
「近いですね」
「近い」
「では、頑張ってください」
「ああ」
トールは二歩進んで、止まった。
「何を頑張るんだ」
「審査です」
「具体的には」
「知りません」
「そうか」
トールはそのまま小卓へ向かった。
エナは次の書類へ手を伸ばした。伸ばしたが、少し手前で止まった。
近い。本当に近い。聞こうとしなくても、声が届くくらいには。
「トール・グレンさん」
商人が証明書を受け取った。
「はい」
「前は銀狼の牙に?」
「昨日まで」
「上位の討伐隊ですよね」
「そうです」
紙をめくる音がした。
「討伐数、四」
「はい」
間があった。
エナは自分の仕事に戻った。申請書の日付を確かめる。
「……四?」
やっぱり聞き返された。
「四です」
「一年以上いて?」
「泥蛙が一匹入ってます」
「そこは訊いてません」
「そうですか」
エナはペンを置きそうになって、置かなかった。
商人が、さらに頁をめくる。めくる音が、さっきより遅くなった。
「備考に、撤退の提案ってのがやたら出てきますね」
「はい」
「全部、あなたが?」
「はい」
紙の音が、しばらく続いた。一枚ずつ、指で負傷者の欄をなぞっているらしい間の取り方だった。
「……死人は」
「いません」
「一人も?」
「俺が一緒に行った依頼では」
今度の間は、さっきより長かった。
エナは手元の申請書に視線を落としていた。聞いてはいない。聞こえているだけだ。
「うちの仕事は、魔物を倒すことじゃありません。荷物を次の町まで届けることです」
「はい」
「途中で、どうにもならなくなったら」
「荷物を捨てる順番を決めます」
商人の手が止まった。
「逃げるんですか」
「必要なら」
「高い荷でも?」
「死んだら届けられないので」
また、少し間があった。
紙をめくる音が止まって、商人が短く笑った。
「討伐数が四の護衛を雇うのは、初めてですよ」
「でしょうね」
エナは今度こそ、聞くのをやめた。申請書の日付を、もう一度確かめた。さっき確かめたばかりの日付だった。目の前の仕事を二件片づけたころ、小卓のほうで椅子を引く音がした。
トールが戻ってくる。
「終わりましたか」
「ああ」
「どうでした」
「次の町まで」
エナの手が止まった。
「試用ですか」
「ああ。荷の後ろにつく補助で一行程。着いてから、続けるか決めるそうだ」
「そうですか」
「ああ」
「では、次の町までは、おめでとうございます」
「半分くらいしか祝われてない気がする」
「残りは、着いてからです」
トールは少しだけ口の端を動かして、旅嚢を肩に掛け直した。それから外套の内側に手を入れて、小さな紙包みを窓口の端に置いた。
大通りの角の、焼き菓子屋の包み紙だった。口が二度折ってあって、端がきちんと揃っている。上には、値引きの札が貼られたままになっていた。
形を見れば、中身は分かる。胡桃のだ。
「昨日、間に合わなかっただろ」
「……なぜ分かったんですか」
「靴の先」
それだけ言って、トールは出口へ向かった。
北門には、もう商隊の馬車が並んでいる頃だろう。
扉の前で、トールは振り返らなかった。エナも、呼び止めなかった。
包みは引き出しにしまいかけて、やめた。昼まで、窓口の端に置いたままにしておいた。
三日後の夕方、窓口を閉める十分前に、ダイン・ローデルが来た。一人だった。
欠員の募集だろう、とエナは思った。
窓口に置かれたのは、任務結果報告書だった。
北部遺跡調査。
結果、未達成。
重傷者、一。
エナは何も言わずに、上から目を通していった。
隊員の欄には、ダイン、ミルザ、ケイン、セラ。名前はそこで終わっていた。
記録者の欄はケイン・バースで、数字はどれも斜めに傾いている。負傷者の欄には、ミルザ、右下腿骨折。治療院へ搬送。
備考欄は、指一本ぶんの細さのまま、一行だけ埋まっていた。
敵増加を確認。調査地点まで残り一区画につき続行。退路側にも増援。撤退判断が遅れた
そこだけ、字が違った。ケインの字より大きく、右へ流れて、欄からはみ出しかけている。
欄の脇に、隊長追記とだけ小さく添えて、署名があった。ダイン・ローデル。最後の一画が、妙に長く伸びていた。
「ミルザさんは」
「治療院だ。治療師の見立てでは、ひと月で戻る」
「そうですか」
エナは受付印を取って、報告書の隅に押した。
ダインは控えを受け取らなかった。窓口に手をついたまま、押されたばかりの報告書を見ている。
「訊かないのか」
「何をですか」
「……いや」
ダインは、しばらく黙っていた。
広間の向こうで、ほかの窓口が順に板を下ろしていく音がした。
「あいつがいれば怪我人が出なかった、とは言わねえ」
「はい」
「増えたのは見えてた」
ダインの目は、備考欄の一行から動かなかった。
「でも、下がるって言う奴がいないと、俺は一歩遅れるらしい」
エナは返事をしなかった。
記録に書けることは、もう全部書いてある。
ダインが外套の内側から、もう一枚を出した。四つに折った跡が、くっきり残っていた。
「募集を出したい」
「欠員の補充で」
「一人分だ。ミルザは戻る」
エナは募集申請書を広げた。
パーティー名は銀狼の牙。募集人数は一名、役割は後衛補助、希望等級は三級以上、報酬の配分は均等。
役割の欄だけ、紙が少し毛羽立っていた。一度書いた字を削って、上から書き直してある。光に傾けると、下に前衛の二文字がうっすら残っていた。
条件欄は、もっと薄くなっていた。何度か書いては削ったらしく、そこだけ向こうが透けそうになっている。その上に、少し小さな字で一行だけ。
撤退判断ができる方
エナは顔を上げた。
「何だよ」
「いいえ」
「何かあるだろ、その顔」
「ありません」
「間があったぞ」
エナは申請書に視線を戻した。
書き直すところは、どこにもなかった。
判を取る。
「受理します」
ぽん、と押した。
ダインは控えを受け取り、まだ何か言いたそうな顔をしていたが、結局何も言わずに窓口を離れていった。
エナは窓口の板を下ろそうとして、手元に残った募集申請書の写しを、もう一度だけ見た。
撤退判断ができる方
今度も、線は引かなかった。




