第三話 撤退ばかり言います
「必要なときって、いつだ」
先に訊いたのはダインだった。
額に当てていた手を下ろし、今度は体ごとトールのほうへ向き直っている。書記の質問を横取りされた形だが、エナとしては別に構わない。訊きたいことが同じなら、誰が訊いても記録は同じだ。
「前が崩れたとき」
「崩れてないのに、お前が下げるんだろ」
「崩れてからじゃ遅い」
「ほら、それだ」
ダインがエナを見た。
何が、ほら、なのか。
たぶん二人のあいだでは、もう何十回もやってきたやり取りなのだろう。前置きを全部省いたまま先へ先へと進んでいくので、初めて聞くエナだけが入口に取り残されている。夫婦喧嘩を横で聞かされている親戚は、きっとこういう気分になる。
「すみません」
「何だ」
「今のところ、私は何も分かっていません」
二人とも黙った。
ダインが、肺の底から一度息を吐いた。
「こいつはすぐ撤退って言うんだよ。まだ敵が残ってて、こっちが押してても、数が増えたとか、足場が悪いとか、日が落ちるとか、何か見つけちゃ下がれって言う」
「全部一緒に言ったことはない」
「例を並べたんだよ」
「ならいい」
「よくない」
エナは下書きに目を落とした。
一行目には直近一年の討伐数 隊内最下位。二行目は、まだ白い。
「撤退の提案は、記録に残っていますか」
「残ってる。依頼結果の備考欄」
答えたのはトールだった。
ダインが横を向く。
「……あれ、お前が書いてたのか」
「大体は」
エナの目が、一瞬だけ記録箱へ行った。
それから、依頼結果の欄を探して頁をめくる。
依頼結果の下に、指一本ぶんほどの細い備考欄がある。几帳面な字は、ここでも几帳面だった。
西斜面より魔物三体追加。撤退を提案。続行
日没まで一刻。帰路確保のため撤退を提案。続行
北側足場に亀裂。撤退を提案。撤退
何も書かれていない頁を挟みながら、エナは別紙の隅に正の字を足していった。十四件を最後までめくり終えたとき、正の字は一つと二画になっていた。
「七回です」
「多いだろ」
ダインの返事は早かった。
「十四件のうちの七回だ。半分だぞ」
「はい」
エナは下書きの二行目に書いた。
同期間の戦闘十四件中、撤退提案 七回
ダインがそれを確かめるように身を乗り出し、それから腕を組む。
「要は、逃げ腰ってことだ」
エナのペンは動かなかった。
ダインは何か言いかけて、エナの手元を見て、口を閉じた。三度目ともなれば、さすがに覚えるらしい。
「……いい。続けろ」
エナは小さく頷いて、トールのほうへ顔を向けた。
「七回のうち、実際に撤退したのは」
「四回」
「覚えてるのか」
「自分で書いた」
確かめると、そのとおりだった。提案が七回、そのうち続行が三回、撤退が四回。
「残りの三回は、俺が却下した」
ダインが言った。
「で、勝った。全部な」
エナは続行した三件を抜き出した。
どれも依頼は達成で、死者はいない。負傷者の欄は一件が軽傷一。任務継続、残りの二件はなし。
撤退しなくても、勝っている。この三件に限れば、ダインの言うとおりだった。
「続行した三件は、すべて達成ですね」
「だろ」
ダインの声に、少し機嫌が戻った。
エナは残りの四件を机に並べた。こちらは、実際に引き返した記録だ。
北側足場の亀裂。魔物の増加。霧で視界が利かなくなった日。水場から妙な臭いがした日。
四件とも、依頼は未達成になっている。
「その四件は、報酬も出てない」
「一件は半額だった」
トールがすかさず口を挟んだ。
「細かいんだよ」
「半分は出てる」
「そういう話をしてない」
報酬欄を見ると、一件だけ危険兆候報告による調査協力金 五割とあった。
「半額ですね」
「お前まで乗るな」
「記録なので」
ダインが椅子の背に沈みこんだ。
エナは四枚を元の順番に戻そうとして、一枚目の右上で手を止めた。
小さな赤い三角が押してある。
戦闘の日に押されるものではない。討伐隊が引き上げたあと、別の調査隊がその場所で何かを見つけたときに、ギルドが後から押す印だ。エナ自身も、地下書庫で何百回と押してきた。
残りの三枚も確かめると、二枚目と三枚目にも同じ三角があった。四枚目にはない。
「これ、ご存じでしたか」
ダインが覗きこんだ。
「知らん。何だそれ」
トールも首を伸ばした。
「俺が書いたときには、なかった」
本人も知らなかったらしい。
エナは記録番号を控えて、壁際の索引簿を開いた。指で番号を追っていく。
北側足場の亀裂は、六日後に岩盤崩落につき北側区域立入禁止。
魔物の増加は、四日後に繁殖個体群確認。危険区域指定。
霧の日は、八日後に毒性胞子確認。立入制限。
索引簿を開いたまま机に置くと、ダインの手が机の上で止まった。
「……いつの話だ、それ」
「六日後、四日後、八日後です」
「その日に分かってたわけじゃない」
「そうですね」
「あとから崩れたのかもしれない。魔物が増えたのも後だろ。霧だって、あの日に毒だったって証拠はない」
「はい」
エナは否定しなかった。否定するところが見つからない。
引き返した場所が、何日か後に危険な場所になった。確認できるのは、そこまでだ。
トールが崩落を見抜いていたのか、ただの心配性がたまたま当たったのか、紙のどこにも書いていない。
トールは、何も言わなかった。索引簿の三行を、会議が始まってから一番長く見ていた。自分が引き返させた場所がそのあとどうなったのか、本人も今日まで知らなかったらしい。
「結果論だ」
「はい。結果なので」
ダインが、少し嫌そうな顔をした。
何かが気に障ったらしいが、どこが障ったのかはエナには分からなかった。
下書きに戻って、二行目の下にペン先を置く。
危険を予見した、とは書けない。判断が正しかった、とも書けない。
しばらく迷ってから、エナは下書きではなく別紙の端に、三件の記録番号だけを小さく控えた。
「それで?」
ダインが訊いた。
「二件目は」
「残します」
エナはペン先で二行目を軽く叩いた。
隣に置いた申請書の右端では、加入審査時開示の判が、押したときのまま乾いている。
エナはその判から目を外して、顔を上げた。
トールと目が合った。
「何だ」
「いえ」
エナのほうが、先に目を切った。
ダインが小さく鼻を鳴らす。
「次は、細かいことばっかり言う、だ」
「それはどうやって確認しますか」
「苦情が出てる。ギルドに、書面で」
「何件ですか」
「六件」
トールは、今度は何も訂正しなかった。
壁の時計は、十六時三十六分を指していた。




