第6話:最後のページを綴るとき
翌朝。青磁館の二階にある作業室には、初夏の眩しい陽光が差し込んでいた。
僕は静かな部屋の中で、一人でプレス機のハンドルを回し、鉄の板をゆっくりと持ち上げた。
そこに鎮座していたのは、見違えるように美しく蘇った一冊のフランス詩集だった。
ひび割れて粉を吹いていた革の表紙は、新しく鞣された仔牛の革によって滑らかに生まれ変わり、経年変化を思わせる深い赤茶色に染まっている。千切れかけていたページは和紙でしっかりと補強され、ふたたび本としての命を取り戻していた。
完璧な仕上がりだった。
僕と詞葉が、この数日間、互いの傷を舐め合うようにして繋ぎ合わせた「時間」の結晶。
コンコン、と一階の入り口で控えめなノックの音が聞こえた。
階段を下りて扉を開けると、そこには詞葉が立っていた。
初めてこの館を訪れた雨の日と同じ、小さな革のボストンバッグを肩から提げている。ただ一つ違うのは、今日は雨に濡れておらず、抜けるような青空の下に立っていることだった。
「おはようございます、綴さん」
詞葉の表情は、どこか吹っ切れたような、けれど無理に作ったような薄い微笑みを浮かべていた。
「おはよう、詞葉さん。……荷物、まとめたんですね」
「はい。今日の午後には、東京へ向かう列車に乗ります。工房の代表が、すぐにでも顔を出してほしいと言ってくれたので」
僕の胸の奥で、ズキリと鈍い痛みが走る。
それでも僕は、父のように彼女の背中を押すのだと自分に言い聞かせ、平静を装って笑った。
「そっか。よかったですね。……本、完成しましたよ。見にきませんか」
僕たちは二人で、二階の作業室へと上がった。
作業台の上に置かれた詩集を見た瞬間、詞葉の瞳がパッと輝いた。
彼女はバッグを置き、愛おしむような手つきで、新しい革の表紙をそっと撫でた。
「すごい……綺麗です。綴さん、私たち、やり遂げたんですね」
「ええ。詞葉さんの指示が的確だったからです。立派な修復家の仕事ですよ」
「綴さんが、私の手になってくれたからです」
詞葉は静かに微笑むと、本を手に取り、ゆっくりとページをめくり始めた。
パラパラと、心地よい紙の擦れる音が部屋に響く。
そして、彼女の手が最後のページ――見返しの部分で止まった。
そこは、父が『青い鳥は、逃げたのではなく、最初から海へ還ったのだ』という言葉を残したページだ。
「綴さん」
詞葉が、ふいに真っ直ぐな瞳で僕を見た。
その目には、いつの間にか涙がいっぱいに溜まっていた。
「私、昨日の夕方……綴さんがよそ見をしている隙に、このページに一つだけ細工をしたんです。修復家としては失格かもしれないけれど……どうしても、残しておきたくて」
「え……?」
僕は驚いて、彼女の手元を覗き込んだ。
父の書き残した力強い鉛筆の文字の下。そこに、詞葉の丸くて可愛らしい字で、一行の言葉が新たに書き加えられていた。
『――そして青い鳥は、波音の響くこの図書室に、本当の帰る場所を見つけました』
息が、止まるかと思った。
「詞葉さん、これ……」
「私、嬉しかったんです」
詞葉はポロポロと涙をこぼしながら、震える声で話し始めた。
「昨日、綴さんが私の背中を押してくれたこと。私の技術を認めて、東京へ送り出そうとしてくれたこと……。お父様と同じように、私の未来を大切に想ってくれたこと、ちゃんと伝わりました」
彼女は両手で胸元をぎゅっと握りしめた。
「でも……私は、お父様じゃありません。綴さんでもない。私は、ただの不器用で、寂しがり屋の女です」
詞葉が一歩、僕に近づく。
甘い花の香りと、新しい革の匂いが混ざり合う。
「私は、綴さんに引き留めてほしかった。東京になんて行くな、ここでずっと一緒に本を直してほしいって、ワガママを言ってほしかったんです……!」
その言葉が、僕の中で張り詰めていた最後の理性を、あっけなく打ち砕いた。
相手の自由を尊重すること。羽ばたく鳥を空へ還すこと。
それが大人の愛し方なのだと、父の真似をして分かった気になっていた。
けれど、違う。
僕が本当に欲しかったのは、高尚な自己犠牲なんかじゃない。
目の前で涙を流す、この不器用で愛おしい女性と、明日も明後日も、一緒にコーヒーを飲みながら本を直す日常だったんだ。
「詞葉さん……っ」
僕はたまらず腕を伸ばし、泣きじゃくる彼女の身体を、強く、強く抱きしめた。
「綴、さん……」
「ごめんなさい。僕が間違ってました。……父さんの真似をして、物分かりのいいフリをしてただけなんだ。本当は、昨日の夜からずっと、胸が張り裂けそうだった」
腕の中の彼女は、とても華奢で、温かかった。
「行かないでほしい」
僕は彼女の耳元で、ようやく自分の本当のワガママを口にした。
「東京になんて行かないでください。この青磁館で、僕と一緒に生きてほしい。あなたがいない図書館なんて、もう考えられないんだ」
僕の告白を聞いて、詞葉は僕の胸に顔を押し当てたまま、声を上げて泣き崩れた。
彼女の手が僕の背中に回り、シャツを強く握りしめる。
「……はいっ……私、ここにいます。綴さんと一緒に、ずっとここにいます……!」
涙声で返してくれたその言葉は、どんな美しい詩集の言葉よりも、僕の心を震わせた。
開け放たれた窓から、初夏の海風が吹き込んでくる。
作業台の上に置かれた一冊の詩集のページが、風に煽られてパラパラと優しくめくれた。
傷ついた過去を背負った一冊の本が、僕と彼女を引き合わせ、止まっていた時計の針を動かしてくれた。
父さん。
あなたが遺してくれた青い鳥は、もうどこへも逃げないよ。
僕は腕の中の詞葉を少しだけ離し、涙で濡れたその美しい頬に、そっと手を添えた。
彼女もまた、照れくさそうに微笑みながら、ゆっくりと目を閉じる。
波の音だけが響く雨色の図書館で、僕たちは、これからの未来を共に綴っていくための、静かで優しい口づけを交わした。




