第5話:蘇る革と、夕暮れの着信
父の引き出しを開けたあの日から、僕たちの修復作業は最終工程へと入っていた。
それは、ボロボロになった革の表紙を復元し、中身のページと繋ぎ合わせる、製本の要となる作業だ。
「父のノートによると、この詩集の表紙は仔牛の革……カーフスキンが使われているみたいです」
「はい。きめ細かくて、とても良い革ですね。元の色合いに近づけるために、染料を少しずつ混ぜていきましょう」
二階の作業室には、新しく仕入れた革の匂いと、アルコール染料のツンとした香りが漂っていた。
詞葉の指示を受けながら、僕が小さなガラスの器で染料を調合する。
焦げ茶色をベースに、ほんの少しの赤と黄色を足す。
「どうですか?」
僕が刷毛で切れ端の革に色を塗って見せると、詞葉は真剣な眼差しで顔を寄せた。彼女のさらりとした黒髪から、かすかに甘い花の香りがして、僕の心臓が小さく跳ねた。
「……もう少しだけ、赤みを足してください。1950年代のフランスの本は、経年変化で独特の赤茶色を帯びるんです」
「わかりました。これくらいかな」
「はい。……すごい。父様のノートのレシピ、本当に完璧ですね」
嬉しそうに微笑む詞葉。
その隣で、彼女自身も革漉き包丁と呼ばれる特殊な刃物を持ち、新しい革の裏側を薄く削ぎ落とす作業をしていた。
ミリ単位で革の厚みを調整する、職人としての高度な技術。
彼女の指先は、もう微塵も震えていなかった。
東京で傷つき、道具を持つことすらできなくなっていた彼女は、この青磁館での静かな日々を通して、本を直す喜びと自信を完全に取り戻していたのだ。
横顔を照らす初夏の光の中で、ひたむきに本と向き合う彼女の姿は、息を呑むほど美しかった。
「綴さん、見とれてないで手を動かしてくださいね。糊が乾いちゃいますよ」
「あ、すみません。つい」
僕が慌てて刷毛を動かすと、詞葉がくすくすと笑った。
こんな風に冗談を言い合い、肩が触れ合うほどの距離で作業を進める時間が、僕にとってかけがえのないものになっていた。
この本が直りきってしまったら、この幸せな日々はどうなってしまうのだろう。
完成が近づくにつれ、僕の胸の奥には、そんな微かな寂しさが影を落とし始めていた。
午後四時。
染め直した革を本の背に貼り合わせる、くるみの作業が終わり、プレス機に挟んで一晩寝かせることになった。
「これで……明日の朝には、元の姿に戻っていますね」
プレス機を撫でながら、詞葉がどこか感慨深げに呟いた。
「ええ。長かったような、あっという間だったような」
「綴さんのおかげです。私一人じゃ、絶対に直せなかった」
詞葉が僕を見上げて、柔らかく微笑んだ。
その瞳に吸い込まれそうになった、その時だった。
――ブーブー、ブーブー。
作業室の静寂を破って、詞葉のエプロンのポケットでスマートフォンが震えた。
画面を見た詞葉の表情が、サッと硬くなる。
「……ごめんなさい、少し外に出ます」
彼女は足早に作業室を出て、一階へと降りていった。
残された僕は、窓の外の暮れゆく海をぼんやりと見つめながら、嫌な胸騒ぎを覚えていた。
十分ほどして戻ってきた詞葉は、どこか思い詰めたような顔をしていた。
「……どうしたんですか? 何かトラブルでも」
「いえ……その、前の職場からでした。東京の、修復工房の代表から」
詞葉はぎゅっと自分の両手を握りしめながら、ぽつりぽつりと話し始めた。
「私を追い詰めていた先輩の職人さんが、少し前に工房を辞めたらしいんです。それで……人手が足りないし、職場環境も見直したから、もう一度戻ってきてくれないかって」
その言葉を聞いた瞬間、僕の足元から、床がすとんと抜け落ちたような気がした。
東京の工房からの、復職の打診。
それは、彼女の職人としての腕が確かであり、高く評価されている証拠だった。本来なら、喜ぶべきことだ。彼女のトラウマはもう癒えている。今の彼女なら、きっと東京でもう一度、一流の修復家としてやっていけるはずだ。
「……そっか。それは、すごいじゃないですか。詞葉さんの技術が必要とされている証拠だ」
僕は、自分でも驚くほど穏やかな声でそう言った。
胸の奥底で、軋むような痛みが広がっているのを必死に隠して。
詞葉が、縋るような瞳で僕を見つめてきた。
「綴さんは……どう思いますか。私は、戻るべきだと、思いますか?」
その問いに、僕の喉が詰まる。
『行かないでほしい。ずっとここにいてほしい』。そんな自分勝手な言葉が、喉まで出かかっていた。
けれど、僕の脳裏に、数日前に読んだ父の手紙の一文がよぎった。
『あいつは自分の翼で、大海原へ羽ばたこうとしているだけなのだ』
『父はお前を縛りつけるつもりはなかった。お前の選ぶ道を愛していると伝えてほしい』
父は、自分と一緒にいてほしいというエゴを捨てて、僕の未来の自由を愛してくれた。
相手を心から大切に想うということは、相手を自分の鳥籠に閉じ込めることではない。相手が本来いるべき空へ、気持ちよく送り出してやることなのだ。
青い鳥は、海へ還らなくてはならない。
こんな何もない田舎町の、古い図書室なんかに縛り付けていい才能じゃない。
「……詞葉さんの技術は、ここで終わらせていいものじゃないと、僕も思います」
僕は無理に口角を上げ、精一杯の強がりで笑ってみせた。
「今の詞葉さんなら、きっと大丈夫です。東京で、もっとたくさんの本を救ってあげてください」
「っ……」
僕の言葉を聞いた瞬間、詞葉の瞳が微かに揺れ、その顔が悲しそうに歪んだ。
彼女は何かを言いかけて、けれどそれを飲み込むように、小さく唇を噛んだ。
「……そう、ですね。綴さんの言う通りです。私、本のお医者さんですもんね」
詞葉は無理に作ったような笑顔を浮かべると、「今日はこれで失礼します」と短く告げて、逃げるように青磁館を飛び出していった。
残された作業室には、アルコール染料の匂いと、波の音だけが空虚に響いていた。
僕はプレス機に挟まれた一冊の本に触れた。
明日の朝、この本が完成したとき。それは、僕と詞葉の時間が終わりを迎えることを意味していた。
正しいことを言ったはずなのに。
どうしてこんなに、涙が出そうになるんだろう――。




