第4話:開かずの引き出しと、父の手紙
海からの潮風を受けながら、僕たちは二階の作業室へと戻った。
作業室の奥、壁際にひっそりと佇む大きなライティングデスク。
かつて父が日夜向かい合い、何千冊という本を修復してきたナラ材の机だ。その右下にある小さな鍵穴は、十年前のあの日から固く閉ざされたままだった。
「これ……ですよね?」
詞葉が、手のひらに載せた真鍮製の小さな鍵を見つめる。
長年使い込まれたせいで鈍い光を放つその鍵は、確かにデスクの鍵穴と同じ形状をしていた。
「ええ。父が亡くなったあと、書斎を整理したときにいくら探しても見つからなかった鍵です。まさか、詞葉さんのおばあさんの元にあったなんて……」
「……この前、遺品を整理していたときに、古い看護師免許も見つけたんです。おばあちゃん、カフェを開く前はずっと医療のお仕事をしていたみたいで……」
詞葉のその言葉に、僕は少しだけ目を見開いた。
詞葉から鍵を受け取る。手のひらに伝わる金属のひんやりとした感触。
緊張で僕の指先がかすかに強張るのを、詞葉が黙って見守ってくれていた。
僕たちはデスクの前にかがみ込み、鍵穴に鍵を差し込んだ。
カチリ。
静かな部屋に、十年の時を越える金属音が小さく響いた。
引っかかりもなく、吸い込まれるように回った鍵。そのまま引き出しを引くと、重厚な木の擦れる音とともに、ゆっくりと中身が露わになった。
引き出しの中に納められていたのは、一通の羊皮紙の封筒と、古びた一冊の革装丁のノートだった。
封筒の宛名には、父の力強い筆跡でこう書かれていた。
『桐生フミ様へ』
封筒は糊付けされておらず、いつでも開けられるようになっていた。僕は詞葉と顔を見合わせ、頷き合ってから、中の便箋を静かに引き出した。
そこに書かれていたのは、十年前のあの日――僕と父が大喧嘩をした「その夜」の日付だった。
---
『フミさんへ
今夜、綴と激しくやり合ってしまいました。
「こんな古い本ばかり集めて、何になるんだ」と吐き捨てて出て行った息子の背中を見送りながら、私は自分の言葉足らずを深く恥じています。
元看護師であるあなたから指摘された私の病状。残された時間がもう長くないと知り、私は焦っていたのかもしれません。
この青磁館と、本を愛する心、そして職人としての技術を、少しでも早く綴に遺してやりたいと……そればかりを考えて、あいつの本当の気持ちを聞こうとしなかった。
あいつは、外の世界へ出たがっている。若者らしい希望に満ち溢れている。
それを「館を守れ」と縛り付けようとした私が間違っていたのでしょう。
あいつが家を飛び出したあと、例のフランスの詩集の余白に、ひとこと書き残しました。
『青い鳥は、逃げたのではなく、最初から海へ還ったのだ』と。
綴は逃げ出したのではない。あいつは自分の翼で、大海原へ羽ばたこうとしているだけなのだと、自分に言い聞かせるために。
もし私に万一のことがあったら、この手紙と本をどうか預かってください。
いつかあいつが大人になり、己の傷と向き合える日が来たら……この本を渡し、「父はお前を縛りつけるつもりはなかった。お前の選ぶ道を愛している」と伝えてほしい。
勝手なお願いばかりで申し訳ありません。
今夜は少し胸が痛むので、横になります。明日また、あなたの店で美味しい珈琲を飲ませてください。
柚原 篤志』
---
「……父さん……病気、だったんだ……」
便箋を握りしめる手が、激しく震えた。
「僕たち家族にも、誰にも言わずに……一人で病気と戦っていたんだね。フミさんだけが……医療の知識を持つ友人として、その秘密と葛藤を知っていたんだ……」
「お父様……ずっと一人で、抱え込んでいらしたんですね」
詞葉の瞳からも、ポロポロと涙がこぼれ落ちていた。
手紙の最後の一文が、僕の胸を抉るように刺さった。
『今夜は少し胸が痛むので、横になります』
それは、病気による発作の痛みだったのか。それとも、僕との喧嘩で深くえぐられた心の痛みだったのか。
きっと、その両方だったのだろう。
父は、たった一人でどれほどの寂しさと痛みに耐えながら、あの夜、冷たいベッドで目を閉じたのだろうか。
「父さん……っ、ごめんなさい……っ、ありがとう……っ」
便箋の上にポツリポツリと水滴が落ちる。
喉の奥が引きちぎれるような痛みが走り、僕は十年間溜め込んでいた涙を吐き出すように泣いた。
「……綴さん」
肩を震わせて泣きじゃくる僕の身体を、温かい温もりがそっと包み込んだ。
詞葉だった。
彼女は言葉もなく、泣き続ける僕を強く、優しく抱きしめてくれた。
「綴さんのせいじゃなかった……。お父様は、自分の命が消える瞬間まで、綴さんのことを愛していたんですね……」
詞葉の声も涙で震えていた。彼女の涙が、僕の肩を濡らす。
彼女の腕の温もりと、一緒に流してくれるその涙が、十年間ずっと凍りついていた僕の胸の傷を、一筋の温かな光となって溶かしていく。
僕は彼女の背中に手を回し、その温もりに縋るように、子どものように泣き続けた。
どれほどの時間が経っただろう。
夕暮れの朱い光が作業室に差し込み、二人の影を長く引き伸ばしていた。
ようやく涙が収まった僕は、少し気恥ずかしくなって身体を離した。
「……すみません、取り乱してしまって」
「ううん。……やっと、泣けましたね。綴さん」
目元を赤くした詞葉が、優しく微笑んだ。
その穏やかな表情に、僕の心の中にあった重たいしこりが、跡形もなく消えていくのを感じた。
僕は引き出しの中に残されていた、もう一冊のノートを取り出した。
それは父の作業日誌であり、本を修理するための精密なレシピ帳だった。
「詞葉さん。父のノートに、あの詩集の完全な復元方法が残されています」
「……お父様のレシピですか?」
「はい。……僕たちの手で、この本を最後まで直しましょう。父さんが遺してくれた想いを、未来へ繋ぐために」
「はい!」
詞葉が力強く頷いた。
その瞳には、もう迷いも怯えもなかった。
一冊の本をきっかけに出会った僕たちは、過去の真実を知り、固い絆で結ばれた。
けれど、それはまだ恋というにはあまりにも静かで、互いの傷を寄せ合うような不器用な関係だった。
夕焼けに染まる海を見つめながら、僕は思う。
この本が直りきったとき、僕と詞葉の関係はどこへ向かうのだろうか、と――。




