第3話:濡れた紙と、潮風のベンチ
修復作業が始まってから、四日が過ぎた。
作業台の上の空気は、初日のような張りつめた緊張感が嘘のように柔らかくなっていた。
「綴さん、そこの和紙を取ってもらえますか? 雲竜紙じゃなくて、薄手の極上吉野紙の方です」
「はい、これですね」
「ありがとうございます。……うん、やっぱりこの紙の厚みがぴったりです」
詞葉の指示は的確で、迷いがなかった。
彼女が言葉で工程を組み立て、僕が道具を動かす。時には彼女が僕の手元にそっと自分の手を重ね、角度や力加減を教えてくれることもあった。彼女の指先はまだ時折小さく震えることがあったけれど、その震えはもう怯えの色をしていなかった。職人としての繊細な感覚を、少しずつ取り戻しつつある証のように思えた。
「今日は破れたページの補修です」
詞葉がピンセットで、破れかけた詩集のページを慎重に持ち上げた。
「小麦デンプンから作った『正糊』を薄く塗って、和紙を帯状に切った『アタッチ』を裏から当てます。和紙は洋紙と違って繊維が長いから、こうして補強すると何百年も持つんですよ」
「本を延命させる技術……まるで外科医みたいですね」
「ふふ、修復家は『本のお医者さん』ってよく言われます」
詞葉は嬉しそうに微笑んだ。
本の魅力を語るときの彼女の瞳には、確かな輝きが宿っている。彼女がどれほど本を愛しているのかが、溢れでる言葉の端々から伝わってきた。
「……よし、これで本文ページの補強はすべて完了です。少し乾かしましょう」
作業が一区切りついたところで、僕は壁の時計を見上げた。ちょうど午後二時を回ったところだった。
「詞葉さん、少し休憩にしませんか? コーヒーを淹れて、外で風に当たりましょう」
「わあ、いいですね。お供します」
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僕たちは、温かいコーヒーを注いだ二つのマグカップを手に、青磁館の裏手にある高台へ向かった。
そこには、錆びた鉄製のベンチが一台置かれている。
眼下に広がるのは、初夏の太陽を浴びてキラキラと眩しく輝く太平洋。心地よい潮風が、作業室にこもっていた紙と糊の匂いを優しく吹き散らしてくれた。
「すごい……絶景ですね」
ベンチに腰掛けた詞葉が、目を細めて海を見つめる。
潮風が彼女の黒髪を乱し、サックスブルーのシャツの裾を揺らした。マグカップから立ち上る湯気が、風に乗ってすうっと消えていく。
「父もよく、作業の合間にここで海を見ていました」
僕がそう言うと、詞葉は静かにコーヒーを一口含み、ぽつりと呟いた。
「……私、東京にいた頃、海なんて見る余裕もなかったです」
彼女の視線は、遠くの水平線に向けられている。
「毎日、朝から夜遅くまで工房にこもって、ひたすら修復と製本に追われていました。完璧にやらなきゃ、期待に応えなきゃって……自分で自分を追い詰めて。ある日、お客様からお預かりした大事な洋書の革を、ほんの少し傷つけてしまったんです」
詞葉の声が、微かに揺れる。マグカップを持つ指先に、力がこもった。
「先輩からは『大した傷じゃない、誤魔化せる』って言われました。文字通り、ごまかすこともできたかもしれない。でも、私にはそれが耐えられなかった。本を傷つけたことも、それを誤魔化そうとした自分も許せなくて……その日の夜から、手が震えて道具が持てなくなりました」
不器用なほどに真面目で、本に対してどこまでも誠実だったからこそ、彼女の心は折れてしまったのだ。
「私、逃げたんです。仲間からも、大好きな本からも。……カッコ悪いですよね」
自嘲するように口の端を上げた詞葉に、僕は首を振った。
「逃げたなんて思いません」
「え……?」
「誠実だったから傷ついたんです。本を大切に想っているからこそ、嘘をつけなかった。……そんな人間が直した本なら、きっと本だって幸せですよ」
詞葉がハッとしたように僕を見た。
「それに……逃げていたのは僕も同じです」
僕は海を見つめたまま、ずっと誰にも話せなかった十年前の出来事を口にした。
「十年前、二十歳だった僕は、父と衝突ばかりしていました。父は仕事ばかりで、家族を顧みない人間だと思い込んでいた。……最後の日も『こんなカビ臭い古い本ばかり集めて、何が楽しいんだ!』って怒鳴って、家を飛び出したんです」
胸の奥が、ぎゅっと締め付けられる。
「その夜、父は突然倒れて……そのまま二度と目を覚まさなかった。最後に父にかけた言葉が、あの酷い暴言でした。……僕は父の死から逃げるために、大学を出てからもこの館に閉じこもり、父の遺品に触れるのを避けてきた。十年間、ずっと立ち止まったままだったんです」
波の音だけが、二人の間に響いていた。
自分の惨めさと後悔を打ち明け、僕は自嘲気味に息を吐いた。
その時。
そっと、僕の右手に温かいものが触れた。
見ると、詞葉の手が僕の手の上に重ねられていた。
彼女の手はまだ少し小さく震えていたけれど、そこには確かな温もりと優しさがあった。
「綴さん」
詞葉が、まっすぐな瞳で僕を見つめていた。
「綴さんは、立ち止まってなんか無かったです」
「え……?」
「この図書室を一人でずっと守って、お父様の本や道具をこんなに大切に手入れして……逃げてなんかいないです。ただ、悲しみを抱えて、待っていたんだと思います。お父様の想いと向き合える、その日を」
彼女の言葉が、十年間ずっと凍りついていた僕の心の奥底を、やわらかく溶かしていくようだった。
「……ありがとうございます、詞葉さん」
僕が重ねられた彼女の手を優しく握り返すと、詞葉は少し照れたように耳たぶを赤く染め、ふふっと微笑んだ。
「お互い様ですね。傷だらけのふたりが、本を直しながら自分たちも直しているみたいです」
「そうかもしれませんね」
二人の視線が交ざり合う。
潮風が吹き抜け、彼女の髪から甘い花の香りが漂った。
その時、詞葉が思い出したように、スカートのポケットから何かを取り出した。
「あ、そうだ。綴さん、これ……昨日、おばあちゃんの家の押し入れを整理していたら見つけたんです」
彼女の手のひらに載せられていたのは、使い込まれた真鍮製の小さな古い鍵だった。
「おばあちゃんの遺品箱の底に、この鍵と一緒に小さなメモが入っていて……『青磁館の、開かずの引き出しへ』って書いてあったんです」
「青磁館の引き出し……?」
僕は目を見開いた。
作業室の隅にある、父の古いライティングデスク。その右下の引き出しには、小さな鍵穴があり、十年間一度も開けられたことがなかった。
「まさか……」
「はい。お父様と、私のおばあちゃんの最後の約束が……この鍵の先にあるのかもしれません」
二人の間に、静かな高揚感が広がる。
太陽が少し傾き、海が黄金色に染まり始めていた。
修復されていく古い本と同じように、僕たちの過去の真実もまた、まもなく光の下へと引き出されようとしていた。




