第2話:止まった時計と、二人の作業場
翌日、昨日の土砂降りが嘘のように空は穏やかに晴れ渡り、濡れた坂道が初夏の光を受けてキラキラと輝いていた。
潮風が青磁館の窓を優しく揺らす午前十時。
カラン、と真鍮の鈴が鳴った。
「こんにちは、綴さん」
扉の向こうに立っていた桐生詞葉は、昨日とは打って変わって、淡いサックスブルーのシャツに黒のロングスカートという落ち着いた装いだった。濡れていた黒髪は丁寧に整えられ、その華奢な肩には、小さな工具箱と昨日の革包丁と思われる包みが掛けられている。
「いらっしゃい、詞葉さん。体調は大丈夫ですか?」
「はい。昨日は温かい紅茶とバスタオル、本当にありがとうございました。……少し、よく眠れました」
彼女の表情にはまだどこか影が残っていたけれど、昨日のような、風に消えてしまいそうな危うさは薄れている。澄んだ瞳が、まっすぐに僕を見つめていた。
「さっそくですが……二階の作業場を見せていただいてもいいですか?」
「ええ、こちらへどうぞ」
僕は彼女を案内し、青磁館の奥にあるギシギシと鳴る木製階段を上った。
二階の最奥にある部屋。そこはかつて、僕の祖父と父が古い本の修復や製本を行っていた「作業室」だった。
十年前、父が亡くなってからというもの、僕は壊れた鍵を閉ざすようにこの部屋の扉を閉めてきた。定期的に風を通し、ホコリを払う程度で、ここで本格的な作業をするのは僕にとっても十年ぶりだった。
扉を開けると、乾いた木の匂いと、古いインク、そして糊の匂いが混ざり合った独特の空気が鼻をくすぐった。埃をわずかに含んだその空気を、僕は思わず深く吸い込んだ。
部屋の中央には、使い込まれた頑丈なナラの木の作業台。
壁際の棚には、大小さまざまな製本用プレス機、骨ヘラ、竹ヘラ、目打ち、そして多種多様な和紙や皮素材が整然と並んでいた。
詞葉は部屋に踏み込むと、息をのむように周囲を見回した。
「……すごい。これ、全部お父様とご祖父様が?」
「ええ。父は、ここにこもって朝から晩まで本を直していました。当時の僕には、それが理解できなかった。世の中には新しい本がいくらでもあるのに、なぜあんなボロボロの紙切れに何日も費やすんだって……父に反抗していたんです」
作業台の表面についた、いくつもの小さな傷跡を、僕は指先でなぞった。それは父が長年、本と向き合ってきた証だった。
「素敵な作業場です」
詞葉が静かに言った。彼女は愛おしそうに作業台の木目に触れる。
「道具たちも、大切にお手入れされていますね。綴さんがずっと守ってきたのが分かります」
「僕は……ただ、捨てるのが怖くてそのままにしていただけです」
「ううん、それだけでも十分です。本も、道具も、愛されていた場所を覚えていますから」
彼女の優しい声に、胸の奥がじんわりと熱を持った。
「さて……それじゃあ、始めましょうか」
詞葉はそう言って、持参したボストンバッグから、あの革装丁の詩集を取り出した。光の下で見ると、やはりその傷みは深刻だった。
背表紙の革はひび割れ、表紙と本文(ページの束)を繋ぐ「寒冷紗」と呼ばれる布も完全に千切れている。
「まずは『診断』からです」
詞葉は真剣な眼差しで本を作業台の上に置いた。
「この本は1950年代のフランス製です。紙はパルプ紙ではなく、質の良い綿パルプが混ざっていますね。だから七十年経っても紙自体は生きています。問題は、綴じ糸の断線と、表紙の革の乾燥です」
彼女が指先で丁寧にページを検分していく。その手つきは驚くほど滑らかで、洗練されていた。工房でどれほど真摯に本と向き合ってきたかが、一目で分かった。
しかし――。
「……じゃあ、まずは見返しを剥がすために、蒸気で糊を緩めましょう。カッターと……」
詞葉が作業台のピンセットを取ろうとした、その時だった。
カチャリ、と金属が触れ合う小さな音が鳴り、彼女の指先がピクッと跳ねた。
途端に、彼女の呼吸が浅くなり、顔から血の気が引いていく。指先が微かに震え始め、ピンセットが台の上を転がった。
「詞葉さん!」
「あ……ごめんなさい……っ、すみません、私……手が、また……」
彼女は自分の右手を左手で強く抱え込み、胸元で小さく丸まった。挫折の記憶、東京の工房で感じたプレッシャーと恐怖が、フラッシュバックしたのだ。
僕は咄嗟に、彼女と作業台の間に立ち塞がった。
「謝らないでください。約束したでしょう?」
僕は彼女の目線に合わせてかがみ、震える彼女の肩に触れないよう、静かに声をかけた。
「手足になるのは僕です。詞葉さんは、言葉で僕に指示を出してください。『カッターをこう使う』『糊をこの角度で塗る』……あなたは僕の先生です」
「でも……私、怖くて……」
「大丈夫。失敗したら僕のせいです。僕が下手だからだ。だから、何も怖がることはありません」
詞葉はハッとしたように目を見開き、僕の目を見つめた。
僕の言葉の中に嘘がないことを確かめるように、じっと。
やがて、彼女は深呼吸をひとつ、ふたつと繰り返し、ゆっくりと震える手を降ろした。
「……綴さんは、ズルいです」
「え?」
「そんな優しい言い方されたら……逃げられなくなっちゃうじゃないですか」
苦笑いを交えた彼女の声から、いつのまにか震えが消えていた。
その瞳に、小さな光が戻っている。
「……わかりました。じゃあ、厳しく指導しますからね、綴さん」
「お手柔らかにお願いします」
ふっと、二人同時に小さく笑いが漏れた。
部屋の中に、穏やかな時間が流れ始める。
詞葉の指示に従い、僕が道具を握った。
「カッターの刃は寝かせて、見返しの隙間に慎重に入れてください。紙を切るんじゃなくて、固まった古い糊を剥がすイメージです」
「こう……ですか?」
「はい、上手です。……あ、そのまま一ミリ右へ。焦らないで、紙の呼吸に合わせて」
「紙の呼吸?」
「本は生き物なんです。無理に引っ張ると破れて泣いちゃいます」
彼女の詩的な表現に、僕はなるほどと頷きながら刃先を動かす。
僕の指先を、詞葉の視線がじっと追っていた。彼女の吐息が届きそうなほど近い距離で、僕たちは一つの本に向き合っていた。
カリ、カリ、と古い糊が削れる音だけが、静かに部屋を満たしていく。
時折、窓から吹き込む潮風が彼女の髪を揺らし、心地よい香りを運んできた。
「……ふう、なんとか見返しの一部が剥がれましたね」
三十分ほどかけて、最初の工程が終わった。
見返しの裏側、昨日は暗がりで見えづらかった部分が露わになる。
そこには、父のあの筆跡――『青い鳥は、逃げたのではなく、最初から海へ還ったのだ』という書き込みの横に、もう一行、薄い鉛筆で書かれた文字があった。
『――フミへ。この詩を、君の淹れる珈琲と共に』
「……フミへ」
僕が呟くと、詞葉もその文字を覗き込み、息を飲んだ。
「やっぱり……私のおばあちゃんです。昔、この坂の下で『海風』という喫茶店をやっていたんです」
十年前、父が僕と大喧嘩をして家を飛び出した夜。
父は、この本を持って彼女のおばあさんのカフェへ向かっていたのだろうか。
「綴さん」
詞葉が静かに僕を見た。
「この本を直したら……お父様と、私のおばあちゃんの間に何があったのか、分かるかもしれませんね」
「……そうですね」
止まっていた僕の十年と、傷ついて立ち止まっていた彼女の現在。
バラバラになった本のページを一枚ずつ繋ぎ合わせるように、僕たちの止まった時間もまた、少しずつ重なり合いながら動き出そうとしていた。
「明日も……来てもいいですか?」
詞葉が、少し照れくさそうに、けれど真っ直ぐに尋ねてきた。
「もちろんです。青磁館はいつでも、あなたを待っていますから」
僕が答えると、詞葉は今日一番の、柔らかな笑顔を咲かせた。
その笑顔は、昨日の雨空を拭い去るように、僕の胸を静かに照らしていた。




