第1話:濡れたページと、波の音
潮騒が遠く聞こえる坂の上に、その館はある。
木造二階建ての洋館で、外壁は淡い青磁色。雨に何十年も洗われ、角の丸くなった色合いだ。かつて祖父が「本を愛する人のための避難所」として建てた私設図書館『青磁館』だった。
六月の半ば、梅雨の真っ只中。
朝から降りしきる雨が屋根を叩き、窓ガラスの向こうの景色を曖昧ににじませていた。その水の膜の向こうに、女性のシルエットが現れたのは、午後の光がもっとも弱くなる時間だった。
「……すみません。ここ、本を直してくれるって、聞きました」
真鍮のドアノブが回り、カランと鈴が鳴った瞬間に届いた声は、雨音に紛れて消えてしまいそうなほど小さかった。薄手のベージュのトレンチコートは肩から裾までぐっしょりと濡れ、裾からは絶え間なく雫が滴っている。傘は持っていなかった。手には小さな革のボストンバッグと、雨に濡れないよう厳重にビニールで包まれた一冊の箱。彼女はそれを、赤子でも抱くように胸元へ寄せていた。
濡れた前髪の隙間から覗く瞳は、深い海のように暗く沈んでいる。
「どうぞ、まずは温まってください。タオルを」
僕――柚原 綴はカウンターから出て、奥から乾いたバスタオルを持ってくると彼女に差し出した。彼女は「ありがとうございます」と小さく頭を下げ、震える手でそれを受け取る。指先が、タオルの繊維に何度も引っかかっていた。
彼女が大事そうに抱えていたビニール袋の隙間から、見覚えのある背表紙がのぞいた。
革装丁の、金箔が擦り減った古い本。
「それは……」
「壊れてしまったんです。大事な本で……どうしても、元通りにしたくて」
彼女――桐生 詞葉は、温かい紅茶のカップを両手で包み込んだ。湯気が彼女の頬をかすかに湿らせ、こわばっていた肩から少しずつ力が抜けていくのが分かった。そうしてぽつり、ぽつりと、堰を切ったように話し始めた。
東京の文庫修復工房で働いていたこと。
人間関係と過酷な労働で心を病み、逃げるように仕事を辞めたこと。
そして、かつてこの町に住んでいた祖母の遺品の中に、ページが破れ、背表紙が崩れかけた一冊の詩集を見つけたこと。
「自分で直そうとしたんです。でも、手が震えてしまって……針を持とうとすると、息が苦しくなるんです」
詞葉の指先が、カップの縁を強く握りしめる。関節が白くなるほどに。
本を愛しているのに、本に触れることが怖くなってしまった――言葉にされない苦しみが、その白い指先から伝わってきて、僕の胸を刺した。
「見せてもらってもいいですか?」
僕が尋ねると、彼女は慎重な手つきでビニールを解き、本をテーブルに置いた。
1950年代に印刷された、フランスの小さな詩集だった。表紙の革は乾ききってひび割れ、見返しは糸が切れて外れかけている。だが、保存状態は悪くない。ページの端は繰り返しめくられて丸くなり、愛されていた本特有の、柔らかな体温のようなものが残っていた。
僕は手袋をはめ、ページを丁寧にめくった。
――と、あるページで、指が止まった。
余白に、鉛筆で小さく書き込まれた文字があった。
『青い鳥は、逃げたのではなく、最初から海へ還ったのだ』
「あ……」
思わず声が漏れた。喉の奥が、きゅっと締まる。
その癖のある文字、独特の句読点の打ち方。忘れようもない筆跡だった。
「これ……どこで手に入れたんですか?」
「祖母の書斎です。昔、祖母はこの町で小さなカフェをやっていたそうで……」
祖母の名は、桐生 フミ。
胸の奥で、カチリと古い時計の歯車が噛み合う音がした。
(……間違いない。これは、十年前になくなった僕の父が、最後に遺した本だ)
十年前。高校生だった僕は、父と大喧嘩をした。
「本ばかり見て、現実を見ない父親なんて嫌いだ」と吐き捨て、家を飛び出した。その夜、父は倒れ、二度と目を覚まさなかった。
父が最後に何を思い、何を書き残していたのか。それを知るのが怖くて、僕は父の遺品を避けて生きつづけてきた。
目の前にいる女性は、僕の中で止まったままだった時間の、鍵を持ってきたのだ。
「あの……修復、引き受けていただけますか?」
不安そうに僕を見つめる詞葉の瞳が、わずかに揺れている。
僕は深く息を吐き、彼女の目を見つめ返した。
「一人では無理かもしれません」
「え……?」
「僕の技術だけでは、この革の復元は難しい。でも……あなたとなら、直せるかもしれない。僕が道具を扱い、あなたが指示を出す。リハビリだと思って、僕と一緒にこの本を直しませんか」
詞葉は目を見開いた。
雨の音だけが、ふたりを包む静寂の中に響いていた。
「私が……もう一度、本に触れてもいいんでしょうか」
「触れたいと思っているなら、それが答えです」
彼女の目から、ぽろりと一粒の涙がこぼれ落ちた。
それは雨の雫ではなく、止まっていた彼女の時間が、静かに動き出した音だった。
「……よろしくお願いします」
小さく、けれど確かな声で詞葉は言った。
館の外では、相変わらず雨が降り続いていた。
けれど、僕たちの間に漂う空気は、さっきまでとは、少しだけ色を変えていた。
傷ついた本と、傷ついたふたりの人間。
海沿いの古い図書館で、僕たちの静かで、少し切ない物語が、いまページをめくり始めた――。




