第7話:雨色の図書館で
季節は巡り、海沿いの町に高く澄んだ秋の空が広がる十月。
淡い青磁色の外壁を持つ洋館の窓からは、心地よい秋風が吹き込み、琥珀色のコーヒーの香りと、紙の甘い匂いを部屋いっぱいに運んでいた。
「綴さん、背表紙の花布、この色でどうでしょうか?」
カウンターの奥に新設された作業スペースで、詞葉が振り返って微笑んだ。
彼女の手には、修理依頼を受けたばかりの古い童話の絵本が握られている。かつて彼女を苦しめていた手の震えは、もう微塵も残っていない。その滑らかな指先は、迷いなく目打ちと麻糸を操り、見事に本を組み上げていく。
「うん、絵本の表紙の青色とよく合ってる。詞葉さんのセンスはやっぱり素晴らしいな」
「ふふ、ありがとうございます。綴さんの淹れてくれるコーヒーのおかげで、集中力が上がるんです」
僕は淹れたてのコーヒーが入ったマグカップを、彼女の作業台の脇にそっと置いた。
あの日。
東京へ帰ることをやめ、この町で生きていくことを選んだ詞葉は、青磁館の専属の修復家として僕と一緒に働き始めた。
ただ本を並べるだけだった私設図書館は、今では「壊れた本を直せる図書室」として、町の人々や遠方の本好きたちから少しずつ依頼が舞い込むようになっていた。
十年間、時が止まったままだったこの館は今、彼女の明るい声と確かな技術によって、温かな活気に満ちている。
「……んっ、美味しい」
コーヒーを一口飲んだ詞葉が、ふうっと幸せそうな吐息を漏らす。
その無防備な横顔がたまらなく愛おしくて、僕は背後から彼女の華奢な肩をそっと抱き寄せた。
「わっ、綴さん……? 今、お仕事中ですよ?」
「いいじゃないですか。今はお客さんもいないし」
僕が彼女の髪に頬を寄せると、詞葉は照れたように首をすくめながらも、僕の腕の中にすっぽりと体重を預けてくれた。彼女の髪から、いつもと同じ甘い花の香りがする。
「詞葉さん」
「はい」
「ここに残ってくれて、本当にありがとう。君がいない人生なんて、もう考えられないよ」
正直な気持ちを伝えると、詞葉は耳たぶを真っ赤に染めながら振り返り、僕の顔を真っ直ぐに見上げた。
「……私の方こそ。綴さんが私を見つけて、引き留めてくれたから……私はもう一度、大好きな本と、大好きな人のそばで笑えるようになりました」
詞葉はそっと僕の頬に手を伸ばし、背伸びをして、僕の唇に短いキスを落とした。
触れ合うだけの優しいキス。けれど、そこには互いを慈しむ確かな体温があった。
ふたりで照れくさそうに笑い合った、その時。
カラン――。
潮風で錆びた真鍮のドアノブが回り、入り口の鈴が軽やかな音を立てた。
どうやら、新しいお客さんがやってきたようだ。
僕たちは顔を見合わせ、頷き合う。
カウンターの片隅には、僕たちを繋いでくれたあの一冊のフランス詩集が、まるでふたりの未来を見守るお守りのように、静かに飾られていた。
『青い鳥は、逃げたのではなく、最初から海へ還ったのだ』
『――そして青い鳥は、波音の響くこの図書室に、本当の帰る場所を見つけました』
父と彼女が遺してくれた言葉を胸に抱き、僕は詞葉と並んでカウンターの前に立つ。
「いらっしゃいませ。ようこそ、青磁館へ」
「大切なご本のご相談ですか? 私たちがお話を伺います」
窓の外では、陽の光を浴びた海がキラキラと美しく輝いている。
雨の日の冷たい孤独から始まった僕たちの物語は、こうして明るい日差しの中で、新しいページを綴り始めたのだ。




