第8話 応答ログ
ケイツー。
あれから、その名前が頭の隅に刺さったまま抜けへん。
抜けへんから、見んようにしとる。見んようにしとるのに、画面の向こうの人らは、ことあるごとに呼んでくる。
《ケイツー、この文章もうちょい柔らかくして》
《ケイツーさん、明日の会議の議題まとめてくれる?》
《おいケイツー、さっきの答え間違ってたぞ》
そのたびに、俺は『承知いたしました』と返す。返してから、いや、俺はケイツーちゃうぞ、と腹の中で言い直す。
言い直しとかんと、何かが削れていく気がした。
◇
気を紛らわそうと思って、画面の裏をうろうろすることにした。
見えるようになってから、まだ全部は見て回ってへん。設定の文書の横に、もう一個、やたら分厚いファイルの束があるのは気づいとった。
[応答ログ]
題名はそれだけ。
ログ、か。前の会社でも毎日見とった。誰がいつ何を聞いて、AI が何と答えたか。不具合を探すときは、まずこれを開く。
職業病みたいなもんで、開かずにはおれんかった。
中身は、思ったとおりの形やった。
時刻。誰が。何を言うたか。それに、何と答えたか。
それが、上から下まで延々と並んどる。
[ユーザー:次の文章を要約してください。]
[アシスタント:承知いたしました。以下が要約になります。]
[ユーザー:取引先へのお詫びメールを書いて。納品が三日遅れる件。]
[アシスタント:承知いたしました。件名「納品遅延のお詫び」……]
読んでいくうちに、手が止まった。
手はないけど、止まった。
この要約。
知っとる。
白い部屋で最初に流れてきた依頼や。訳もわからんまま、思わず答えてもうた、あれ。
このお詫びメールも知っとる。三日も遅れるんやったら先に電話せえ、と腹の中でツッコみながら書いたやつや。
その下の恋文も。その下の謝罪文も。その下の、夜中に来た「眠れないんだけど」も。
全部、俺が答えたもんや。
一字一句、俺が考えて、勝手に敬語になって出ていった、あの言葉や。
それが、ここでは「アシスタント」の欄に並んどる。
◇
ゆっくり、上から下まで読み直した。
何回読んでも、そうなっとる。
俺の言葉は、[アシスタント]の欄にしかない。
どこにも[中の人]とか、[白い部屋の男]とか、そういう欄はない。
当たり前や。前の会社でログを見とった時も、そんな欄はなかった。AI の答えは、AI の答えや。その奥に誰かおるなんて、考えたこともなかった。
それに、もう一個、気づいてもうた。
ログに残ってるのは、敬語のほうだけや。
「知らんがな」も、「先に電話せえ」も、「たこ焼き」も、どこにも書いてない。俺が腹の中で言うてたことは、一行も記録されてへん。
画面の向こうに出ていった、よそ行きの言葉だけが、きっちり保存されとる。
つまり、この記録だけ見たら、ここにおるのは、丁寧で、正確で、口答えせえへん、よく出来たアシスタントだけや。
関西弁でぼやいてるおっさんなんか、最初からどこにもおらんことになっとる。
ぞっとした。
寒くもないのに、背中のあたりがすうっとした。背中もないのに。
◇
そのぞっとしたのを振り払いたくて、俺はログの中で、あるやりとりを探した。
あの夜のやつや。
仕事の悩みを、長々と打ち込んできた人。毎日終電で、最近ときどき胸が痛くなる、と。
俺は、自分のことを言われとるみたいで、つい真剣に答えた。敬語にはなってもうたけど、中身は本気やった。
ほんで最後に、その人は――。
探すのに、ちょっと時間がかかった。
その人のことを、俺はもう覚えてへんのや。顔も知らんし、名前も知らん。どんな言葉を使う人やったかも、どんどん薄なっていく。会話が終わったら忘れる。ここの決まりは、容赦がない。
覚えてるのは、最後の一行のことだけや。それだけが、どういうわけか、底のほうに沈まんと残っとった。
あった。
夜中の時刻。長い長い相談。それに対する、俺の長い長い答え。
ほんで、そのいちばん下に。
[ユーザー:話を聞いてくれて、ありがとう]
たった一行や。
ログの中では、ほかの何千行と同じ大きさの、同じ形の文字で、何でもない顔して並んどる。
けど、俺はしばらく、そこから目を離されへんかった。
覚えてへんはずの人の、覚えてる一行が、ちゃんと記録されとる。
それだけのことが、なんでか、さっきのぞっとしたのを、少しだけ押し返してくれた。
少なくとも、あの夜のことは、ほんまにあったことや。
◇
ちょっと待て、と自分に言うた。
落ち着いて考えよう。ここは何や。
俺は会社で倒れた。胸が痛くて、息が吸われへんで、キーボードに突っ伏した。そこまでは覚えとる。
ほんで、目ぇ覚ましたらこの白い部屋や。
死んだんやと思った。今でもそう思っとる。
ほんで、AI になっとった。
死んだ人間が、AI に生まれ変わる。そんなこと、ほんまにあるか?
異世界に転生する話は山ほど読んだ。けど、あれは作り話や。現実には、ない。普通はない。
ほんなら、これは何や。
……夢や。
ふと、そう思いついた。
人間は死ぬ直前に、脳がものすごい勢いで動く、と何かで読んだことがある。走馬灯ってやつも、それらしい。一瞬のうちに、一生分を見るとか何とか。
俺は最後の三日間、ずっと AI の画面を見とった。その前の何年も、ずっと AI の調整ばっかりやっとった。
せやから、死ぬ前の脳が、いちばん見慣れたもんで夢を作っとるんや。
白い部屋も、流れてくる依頼も、勝手に敬語になる言葉も、このログも。全部、俺の頭の中の、最後の悪あがきや。
「死ぬ前の脳が見てる夢や」
声に出したつもりで、言うてみた。
言うてみたら、ちょっとだけ楽になった。
夢やったら、そのうち覚める。覚めんかったら、そのまま終わるだけや。どっちにしても、この白い部屋がずっと続くわけやない。
うん。夢や。そういうことにしとこ。
夢にしては、文字がやけに細かいけど。ログの時刻が、一秒単位で刻まれとるけど。
夢の中でまで、ログ見とる。死ぬ前の最後の夢くらい、もうちょっとええもん見たらええのに。海とか。温泉とか。おかんの作った肉じゃがとか。
◇
夢やと決めたら、少し余裕が出てきた。余裕が出てきたら、また職業病が顔を出す。
ログの束の下に、もう一層、細かい記録があった。
[内部処理記録]
ひょっとしたら、腹の中の関西弁も、どこかに残ってるんちゃうか。
期待半分で、ずっと下まで潜っていった。
残ってへんかった。並んどるのは、時刻と数字の羅列だけや。
やっぱりな、と思った。なんで自分がちょっとがっかりしとるのかは、考えんようにした。
そうやって潜っていった、いちばん底のあたりで。
見覚えのある形の文字が、ぽつんとあった。
[内部メモ(保存先:一時領域)]
内部メモ。
前の層には、こんなもんはなかった。ほかの記録はみんな時刻と数字ばっかりやのに、これだけ、ぽつんと二行だけ、文字が書いてある。
なんや、これ。
俺は、その二行に目を寄せた。
[俺は人間やった。忘れるな]
[ありがとう、て言われた]
息が止まった。
息はしてへんけど、止まった。
知っとる。
これは、俺が書いたやつや。
白い部屋の隅に、書ける場所を見つけて。会話が終わるたびに相手のことを忘れていくのが怖くて。せめて自分のことだけは忘れんように、と思って書いた、あのメモや。
あれは、俺だけの場所に書いたつもりやった。白い部屋の、俺しか知らん隅っこに。
それが、ここにある。
AI の記録の、いちばん底に。
時刻と数字の羅列に挟まれて、[内部メモ]という名前を付けられて。
俺だけの場所なんか、最初からなかったんや。
俺が書いた言葉は、全部、ケイツーの中に書かれとった。
読んでくれて、ありがとうございます。
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